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Channel: 日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき
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大好き!福岡校

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 先日、福岡校の修了式が終わりました。

 

 

 今回の修了者は340名でした。他の地域の修了式でタイミングが合わなくて、福岡校の修了式に参加された方を含めてです。

 

 

 

 ある男性は奥さんがメンタルを受講されていて、その勧めで教室に来たそうです。
 そして、ご夫婦二人で、修了証が授与される修了式に参加されました。
 ご主人は仕事に行き詰まり、人間関係も最悪で、会社を辞めて「精神科を受診したい」と思うまで心が疲れていたそうです。その姿をそばで見ていた奥さんは、メンタルの教室で学びが深まるたびに、ご主人にはメンタルのプログラムが絶対に助けになる、彼には心理学の学びが必要だと感じていました。でも、奥さんが体験セミナーに誘っても、当時のご主人は奥さんがヘンな宗教にでも行ったと思い『家庭には迷惑をかけないでね』とだけ警告して疑っていたのだそうです。
 ご主人は、当時を振り返ります。奥さんを裏切り、不倫までして彼女を傷つけてしまいました。子どもには、仕事で忙しいからとイライラして、夫としても父親としても僕は失格だったと…

 そんな時にセールスマンだった彼は、先輩から「君はどこを向いているの?会社?お客様?」と問われ「君は会社のために働いているの?お客様のために働いているんじゃないのか?」そう言われて、心がスッキリし、未来に光が射したそうです。
 彼はカウンセリングが、こんなに頭をクリアにし、気持ちが前向きになるのだと感じ、それを奥さんに伝えると「メンタルに行ってみない?」と再度言われたそうです。その時に彼が「行ってみようかな」と言った時に、奥さんが声をあげて泣いたのだそうです。奥さんの泣く意味がわからくて、泣きやんだ奥さんにたずねると「やっと、自分の思いが伝わった」と奥さんに言われたそうです。この数ヶ月間、奥さんは、ご主人を救えるのはメンタルのプログラムしかないと感じ、一人で苦しんでいたのでした。

 ご主人が体験セミナーに来た時の感想は「衛藤先生は、笑顔で明るく輝いていて、遥か遠くの人に思えました。そして、『僕には到底できない!』と感じていました。でも、講座の途中くらいから、強がりも、自分が守ってきた硬い、硬い殻にもヒビが入ってきて『この人、スゲェ~」に変わってしまいました」その体験当日の心境を彼は、ふり返り僕に教えてくれました。

 その後で、彼はメインの講座に通いだし、終わるたびに「今日の講座はスゴイよ!」「今日のセラピーで、ここに気づけた!」と奥さんに家に帰りつくまで、電話で興奮して話し、家に帰ってからも感想を語り続けたそうです。その時に彼は気づいたそうです…
 先に学び始めた妻は、この感動を誰ともシェアすることもなく、教室から帰り、いつも、僕に「宗教だ!」と疑われながら、メンタルに通っていたのだと…奥さんの「やっと、思いが伝わった」と大きな声で泣いた、涙の意味を知ることができたのだそうです。

 今は3人の娘さんがスゴくスゴく可愛くてしょうがないのだそうです。だから、彼の日課は朝起きて、娘さん達をひとり一人抱きしめて「◯◯ちゃん、今日も愛しているよ」と、「今、ここだけにしかない幸せ」を味わっているのだそうです。彼は5年生の長女から「最近、パパは変わった~」と言われたと報告もしてくれました。

 

 

 そして、お父さんが変化したことを目の当たりにした、その長女から「将来は悩める人を救う、心理カウンセラーになりたいと告げられました。 衛藤先生、また、将来の『虹の戦士』が増えましたね」と、笑って報告してくれました。

 

 

 その笑っていた彼の笑顔が、僕には、とてもキラキラしてまぶしかったです。そして、奥さんの、心からの笑顔も同時に見ることができました!

 当日は修了式のリピートや、二次会(メンタルセカンドステージ)からのリピート参加者も楽しんでもらえてよかったです。とてもステキな1日でした!

 

 

 おめでとう!340名の修了生の皆さん。

 それぞれの気づきとストーリーに乾杯!

 

 

 


 


無功徳!

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 昔、父の車の助手席に乗りカー・オーディオから流れてくる、オールディーズ・ソングを不思議な気持ちで聞いていた。愛する人と泣く泣く別れる哀しい歌を「なぜ好きなのに別れるの?」と幼い僕は、なんだかもの悲しくて、不思議な気持ちで聞いていました。

 大人になると、そんな立場や状況があることも分かってくる。

 ただ、いまだに僕には理解できないことがあります。それは過去に愛していた人を悪く言ったり憎しみから攻撃する人の気持ちです。

 もちろん、「愛憎」という言葉も存在するし、裏切られた怒りも、嘘をつかれた悲しみも理解できないわけではありません。

 テレビでも、おしどり夫婦と社会では評価され、過去に愛し合い、ファンに夢を与えてきた者同士が、連日「もういいのでは」と言いたくなるくらい、つばぜり合いをくりひろげていることは、今に始まったことではありません。

 仏教の開祖である、お釈迦さまは言いました。心を修行した人と、修行しなかった人の違いは何か?とお弟子さんに問われ、こう答えました。誰でも足を踏まれて痛い、裏切られて悲しい、花を見て美しいと思う気持ちはある。そのように修行した人も、修行しなかった人にも感じる心はある。

 

  

 痛い、悲しい、美しさを感じる心は修業した人にも、しなかった人にもあります。この第1 の感覚は誰にもあるのですが、修行した人は、あの人を復習してやる、相手を攻撃してやる、この花を独占してやるという第 2 の感覚を切り離せると言うのです。

 つまり、「足を踏まれたから、踏み返してやる!」「裏切られたから、相手を苦しめてやる!」「花が綺麗だから、花壇から取って自分の家に飾ろう!」という第 2 の感覚に縛られないと言うのです。

 これは簡単なことではありません。だから、修行が必要なのでしょう。

 昔、中国に武帝という王様がいました。


 彼は仏教を深く信仰し、若い僧たちにお金を与えバックアップし、お寺などもたくさん作りました。そこに、インドから偉いダルマ禅師が仏教を中国に広めるために渡って来たのです。

 王様は自分のやった数々の良い業績をダルマに語りました。王様はダルマ禅師からほめてもらえると思っていたからです。
 「私は数々の良いことをやって来ました。私には、これからどんな良いこと(功徳)がありますかな?」
 それに対してダルマの答えは、なんと「何にも良いことはない(無功徳)!」と言い放ったのです。

 ダルマにほめてもらえると思った王様は「なぜ良いことがないのか!」と怒りました。

 するとダルマは「あなたが王様という立場で、お金持ちで、やれる立場だったから、すべてのことが出来たこと。それだけじゃ!」と言い放ちました。

 ダルマ禅師は冷たい人ではありません。ダルマは王様に真の良心を教えたかっただけなのです。それは王様が、自分で良かれと思って行動したのなら、誰かが認めてくれなくても幸せなはずだと。

 ゴミを拾う時に、誰も見てなくてもいいじゃないか。貧しい人に与えるのも誰かに評価されるために与えたのか?自分がやりたいから行動したのではないのか?と…

 仏教を学んで、修業をした人であれば、人の意見に左右されなくとも、武帝皇帝は仏教徒らしく「そうですか!無功徳ですか!それは、よかった!ガハハハハ…」と笑っていれば良かったのです。

 ところが実際には、この物語は、自分の行動を認めなかったダルマ禅師に対して王様は食ってかかりました。「では仏の心や、良いこととは何なんなんだ!」

 ダルマは「やりたくてやってやる。それは見返りを求めない行為。それが善行じゃ!  あなたが、やりたくてしたのなら『良い』とか『悪い』とか、誰かに認めてもらえなくてもよいのではないのか?

 清らかな心は無心で空である。いいかよく聴ききなさい。見返りを求めてする親切や良いことは、やがて怨みになるぞ!   優しくしたくて優しくした、 愛したくて愛した、 世話をしたくて世話したと無心ですれば、相手からの見返りがなくても、認めてくれなくても、自分の中で完結するものよ。でも、相手に期待を求めての愛だの、親切だの、子育ては、やがて憎しみに変化するものさ!そんな相手の見返りが最初にありきの愛だの、善なる行為は、そもそも怪しいものよ!」と言い放ったのです。

 王様は怒りに震えて「お前は何者だ!💢」と、たずねました。

 ダルマはここまで言っても気づかない王様に、ホトホトあきれてしまい「何者かをは知らんよ!自分で考えろ!」と言い放って王のもとから去って行きます。 その後、ダルマは少林寺にこもって、飲まず食わずで座禅を組んだと言われています。それで手と足が無くなりダルマさんになったと言われています。

 

 

 現代は、この王様のように見返りを求めての行動が多いようです。

 人が見てくれるから公園でゴミをひろう。スゴいと言ってくれるからボランティアに行く。金メダルが取れるからスポーツをする。良い学校に行くために勉強をする。結婚してくれると思ったから愛した。お金をもらえるから仕事をする。将来の自分を看てくれる子どもだから育てた…

 僕たちも、この努力が報われないと、怒り一色に変わってしまった王のように、見返りがなくなったら、過去のすべての思い出が反転して、ムダだったと言うなら、相手の愛が無いことを責める前に、自分の愛があったのか、なかったのかを考える必要があります。

 愛したいから愛したのか、自分の中にある目的(周囲に認めさせる、結婚、家族を持つ)のために愛したのか、自分の心の中にある、愛の居場所を自分自身に問いかける必要がありそうです。
 
 そうダルマに「無功徳!」と指摘されないように。
 
 先日、お金はあるけど、いけていない男性が高級なレストランを予約し、高いコースを用意して、ある女性をデートに誘ったそうです。そして、高いお酒をご馳走したのに、彼女が終電だから帰ると言いだしたので、彼は「え~ホテルの部屋も取ったのに帰るの~だったらお金と時間を返して欲しいなぁ~」とその女性に直接言ったそうです。

 その話しを聴いていた女性たちは全員がドン引きしました。「だから、貴方はモテない君だね」という雰囲気に全員がなってしまって会は解散!

 その後、二人きりになって僕が「でも、好きな人と会えると思ってレストランを探したり、食事を決めたりする瞬間もステキな時間じゃない?」と問うと、彼は「そうですか~、僕は時間とお金がムダだとしか思えない」と言われてしまいました。

 僕の頭の中はチーン♪(終了)って音がしました…    彼は結果至上主義の人のようです。人生の瞬間、瞬間の心づかいも努力も結果のためだそうです。

 過去も、これまでの時間も、すべてがあなたの人生です。

 結果がこうなら、愛さなければよかったと思うなら結果主義の人です。
 結果がどうであれ、あの瞬間も、この瞬間も、その時の「私は心がワクワクしていた!」と「今、ここ」を楽しむ人は、過去の「今、ここ」も楽しめるプロセス至上主義の人です。
 
 そう言うと「じゃぁ、結婚詐欺はどうなんですか?」と問われそうです。そうですね、悲しいですよね。でも、それも未来に向けて学びになったし、だます側より、だまされた側なら、まだ、自分をあざむかなくてすむ。過去のその瞬間、瞬間の、あなたの恋心は決して嘘じゃない。真実だったんです!

 だから、その過去の自分の心のトキメキまでも、すべてを「ムダだ!」と言ってしまうのは、僕はなんだか悲しい気がして…。
 
 なので、すべてに「ありがとう」って言って、これからを笑って生きませんか?  
 「そんなのムリです!💢」

 そうですよね。だから言ったでしょ、第 1 と第 2 を切り離すのは簡単ではないって。だから、お釈迦さまは修業した者と修業していない者の違いは…と、話をすすめたのですから…
 

=おまけの話=

 相談者「衛藤先生、こんなにあの人を愛したのに、こんなにしてあげたのに、あの人は私を捨てて去ったのです。どう思います?」
 
 衛藤答えて「無功徳!愛などない!」
 
 相談者「そうなんです。“あの人”には愛などなかったのです!」

 衛藤あきれて、少林寺にこもる…

 

 


 

プロコースの卒業式を終えて

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 プロコースの卒業式が無事に終わりました!

 年々、アイディアが発展し、感動する式典になってゆきます。 

 

 

 基礎コースの〈修了式〉は、東京校は目黒雅叙園、名古屋校はマリオットアソシアホテル、大阪校はニューオオタニ、福岡校はグランドハイアットと、エリアごとに毎回開催されていて、大阪校や東京校は年に2回開催しています。でも、プロコースの〈卒業式〉は一年半に一度ですから、緊張感とスタッフの準備が大変で、それを見事にこなしていることにリーダーとして毎回、頭が下がります。

 基礎コースの〈修了式〉とプロコースの〈卒業式〉では、迫力や雰囲気が桁違いです。

 


 プロコースともなると、カウンセリングを実施し、レポートを完成させなければなりません。 

 「絶対に父親のお葬式だけは出ない」と決めていた女性が、その父親のカウンセリングを実施しようとプロコースでの学びを通して決心し、父親としてではなく、一人の人として静かに耳を傾ける中で、気づいていく自分と父との人生。さらには、父の母(祖母)との三世代にわたって広がる人間関係という糸のもつれ…
 それぞれの人生を生きる中で、何か大切なものを守るために誤解が生じ、対立し、それぞれの道を歩むことになったのだと知ることができた、人生の儚さ… 

 数時間もかけて、憎んでいた父の話しを穏やかに聴くことで得られた、静かな時間… 

 大人たちに巻き込まれ、苦しんでいた少女時代から、カウンセリングの技術を手に入れ、三世代という過去まで、クライエントである「父」を、「一人の人の人生」として、冷静さを保ったまま、見つめようとする彼女の姿に、卒業式の会場は感動の渦に巻き込まれてしまいました。


    

 憎しみから、理解することで過去の心が癒やさていくのだと…

 また、何気ない会話から、心理カウンセラーを勉強していると語った中年期の男性に、カレシとの「のろけ」を語る若い女性。

 彼女の外(話す内容)と内(表情、心の雰囲気)の違いに気づいたプロコース受講生である男性が、伝えた一言に、顔色が変わる若い女性…
 その女性から「少し話を聴いてもらえますか?」と始まったカウンセリング。 

 彼女の笑顔とその裏に隠された孤独。その中でカウンセラーも、自分と父親との関係と向き合っていくことになる。さらにカウンセラーとして、彼女に対して向ける優しさ(母性)と、厳しさ(父性)のバランス… カウンセラー(プロ受講生)と、クライエント(女性)との距離を保つことの難しさ…
 カウンセリングを通して深まってゆく彼女の気づきと、カウンセリングを終わらせる(さよならする)タイミングをはかろうとするプロ受講生。

 そして、最後に自立し、歩き始めた女性クライエントから言われた一言…
 「人生の道で迷っている、私を見つけてくれてありがとう!」と言われた、清々しいエンディングに僕は感動しました。


    

 そして、僕たち講師陣から卒業生に贈るメモリアルパ・フォーマンス! 

 

    

 

 お祝いに駆けつけてくれた、美塾の内田塾長から、その夜に丁重なメールをいただきました。 

 あれだけの感動のパフォーマンスをやってのけて「いや~終わった、終わった」とあっさりと言われる姿に、僕は衛藤先生らしいと、ホッとしてみたり、自分との差に直面したり… 

 この場に一緒させていただくだけで、理屈では説明できない変化が、自分に起こります。縁起でもないですが、衛藤先生がいつか命を、その役割を終え、この世界を旅立つ時まで、しっかりと背中を見続けて生きてまいります。
  
 と、彼から身にあまるお言葉と、遠回しで死に支度(引退)への、最後通告をいただきました(笑)

  
    
 

 内田塾長はいつも律儀で、優しい弟のような存在です。そして、彼は仲間の講師たちのビデオ・レターが会場に流れる様子を携帯で一生懸命に録画していました。きっと、それを仲間の他の講師に報告をしてあげるのでしょう。

 そのこともメールに「衛藤先生の隣で、携帯で撮影ばかりしていて御免なさい」とお詫びも書かれていました…
   
 でも僕は知っていました… 僕のラジオ深夜便(NHK)が、街中で流れている(飲み屋)雰囲気をわざわざ録音し、送ってくれる彼のサービス精神を…。そんな彼の気づかいに、僕はテーブルの隣で、優しさを感じていたのだから…

    
 

 そして、ビデオレターで参加してくれた 
 恋愛心理学 アレックス小倉さん、空間心理カウンセラー 伊藤 勇司くん、
 絵本セラピスト 岡田 達信さん、女性を内面から輝かせるプロ 栫井 利依さん、
 自律訓練法の第一人者 下口 雄山さん、ビジネスメンタリズムの 白戸 三四郎さん、日本読書療法学会 会長 寺田 真理子さん、色彩のプロ 中嶋 輝和さん、
 24の物語シリーズの著者 中山 和義さん、本城式英会話の 本城 武則さん、
 フラワーセラピスト  松井 道子さん、魔法の質問 マツダミヒロくん、
 アロマの第一人者 吉田 洋旺子さん、天才コピーライター ひすいこたろうくん
  
 みなさん、ありがとう!
  
 そして、最後にプロコースの卒業生の今後の人生の活躍とそれぞれのドラマが実り多かれと心より祈っています。336名の卒業生の皆さん、本当に卒業おめでとう!

      
      
 
 

 

 ★美塾の内田塾長の本を紹介しているブログです。

 2016年9月1日  たとえ人と違っても・・・ 

 

 

 

 

 

 

心理カウンセラーほどステキな役割はない。

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 アイデンティティとは、自我同一性と訳されます。 

 つまり、アイデンティティとは自分の軸となる自分の証明です。パイロットが飛行機のトラブルが生じても冷静沈着でいようとするのは、パイロットというアイデンティティが存在するために、パイロットはパッセンジャー(乗客)の命を守ろうとします。
 虫に触れることができない女の子が、母親になって虫が赤ちゃんに近づいた時、虫と格闘できるのも母親というアイデンティティが闘わせるのです。ビクトールユーゴが「女は弱し、されど母は強し」と言いました。 

 僕には心理カウンセラーという、アイデンティティがあります。 

 心理カウンセラーというアイデンティティは、我が子が小児ガンになった時も、親としての役割もありましたが、カウンセラーとして何を学び、行動するべきかを意識していました。インディアンの人たちと共に生活をした時も、カウンセラーとして彼らの中でどんな役割があるかを考えて行動していました。渡米する前に、日本で、たくさんのアバイトをして汗を流した時、アルバイト先で出会った個性的な人たちもカウンセラーとしての人間観察で学びにいかせました。

 この「心理カウンセラー」という軸があったから、その一本の軸に、すべての経験がからみ合い、今の僕を作っています。朝顔のつるべは、一本の棒がないと四方に広がってまとまりがありません。でも、一本の軸を立ててあげると、その軸である棒にシッカリとツルベは結びついて同じ方向に伸びることが可能になるのです 。

 その心理カウンセラーというアイデンティティを軸に、僕は揺らぐことなく安定して生きて来られたのです。

 カウンセラーの国際ライセンスを目指し、渡米するための旅費や渡米後の生活費を稼ぐために、塾の講師や飛び込み営業などもしました。

 心理学が専門だったので、飛び込み営業では、お客様とのラポール関係を早く作りあげ、売り上げは面白いほどに伸びました。学生アルバイトの身分で、正社員を抜いて、全国売り上げのトップを一年間独走し、うっかり新人賞を取ってしまい、その会社から就職をしつこく希求されました。心理カウンセラーを目指すためのバイトだったので断るのに苦労し、並行してやっていた塾の講師も、心理学を応用し最下位だった低迷クラス全員を、希望の学校に導けたので、専任講師になってくれないかという塾側からの強烈なラブコールも、お断りするのに時間がかかりました。僕のライフワークは心理カウンセラーと一本に決めていたので、各種のアルバイトはただ生活するためのライスワーク(食うための仕事)だったからです。 

 そして、アメリカで学んでいた時代の数々の出来事や出会いも、心理カウンセラーという軸にすべて結びついてくれました。
  
 インディアンの地でも、僕は心理カウンセラーで、インディアンの生きた智慧を学びたいと言うと「お前はメディスンマンだなぁ」と言われ、彼らの地で歓迎され、スグにインディアンの人々にも溶け込めました。バックパッカーで、どの国を旅しても、心理カウンセラーというアイディンティティ(軸)で、僕は多くの人との人間関係が築き上げることができ、たくさんの援助で支えていただきました。 

 もし、僕が何もアイデンティティを持たないで、バックパッカーで若い頃に旅しているだけの存在だったら、その数々の経験を語っても、社会から見ると「当時、あなたは時間があって、自由人だったのですね」と単なる経験談で終わってしまっていたでしょう。でも「心理カウンセラーとして、この出来事は、こんな気づきを与えてくれました」と周囲に語ると、それは大切な仕事になるのです。そう、役割=アイデンティティになるのです。  

 「心理カウンセラー」は、僕は「かけうどん」のようなものだと思っています。かけうどんに「玉子」をのせると「月見うどん」になり、「揚げ」を添えると「キツネうどん」になり、「天ぷら」をトッピングすると「天ぷらうどん」に早がわりします。 

 人に関わる世界において、すべての面で「心理学」は役立ちます。正しい子育ても、効果的な部下指導も、間違わない結婚相手選びも、学校での人間関係のトラブルでも、病人看護も老人介護も、はたまた犯罪者のプロファイリングの世界までもetc.

 だから、僕の心理カウンセラーという役割から、学校にも、企業にも、警視庁にも、病院にも講演に呼ばれるのです。だから、心理の勉強は、すべての人間関係に応用が効くのです。だから、「かけうどん」なのです。

 そして、これからも「心理カウンセラー」という軸は、一本の真っすぐなラインとなって、僕の人生に起こる数々の喜びや、悲しみの出来事でさえも、その起こった意味や洞察力を、僕に与えてくれると信じています。それらが、今よりも深みのある心理カウンセラーへと、僕を成長させてくれることでしょう。

 そう思うと将来の自分にワクワクしてしまうのです。未来は見えないから面白い!

 心理カウンセラーほど、ステキなライフワークはない!

 


 

 

 

 

ヘアードネーション

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 アメリカのインディアンの保留地で、インディアンの風になびく髪がカッコよくて、アリゾナで風を感じたくて髪を伸ばしはじめました。
 帰国後、インディアン・カウンセラーと異名で呼ばれるようになり、いつの間にかこの髪型がトレードマークになっていました。

 

 

 髪の毛は神経から伸びたセンサーとも呼ばれています。第二次世界大戦でアメリカのインディアンだけはレーダーでも分からない敵の動きを察知することができました。ですから、多くのインディアンが、戦地での偵察兵として雇われました。しかし、アメリカ兵と同じにように軍人カットにしショートに刈り込むと、その動物的な直感や特殊能力が失われてしまったと報告されています。そこで、アメリカの国防省はロングヘアーのインディアンと、ショートヘアーのインディアンをペアで組ませて、危険察知や危機回避の実験を行った結果、すべての項目でロングヘアーのインディアンのほうが高得点のスコアを示しました。その実験の結果からインディアンだけは軍隊の中でロングヘアーでいることが承認され推奨もされました。
 
 日本の侍も、敵と遭遇した瞬間に、相手からの殺気を風でとらえるために、髪の毛を伸ばすことを好みました。チョンマゲはそれの名残です。相撲取りが引退すると、おごそかに髪を切るのは力を失い、普通の人にもどる儀式です。

 旧約聖書に出てくる、怪力サムソンも髪の毛を切ったために力を失いました。古今東西から髪の毛にまつわる逸話はたくさんあります。
 
 実は、そのトレードマークの髪の毛を切りました。


 そして、ヘアードネーションしました。ヘアー(髪の毛)ドネーション(贈り物)したのです。小児ガンや無毛症、先天性の狭毛症、不慮の事故などで髪の毛を失った子供たちに無償でウィッグを提供するボランティアのためです。
 
 僕も昔、長男が一歳の誕生日を迎えてすぐに、肝芽腫(肝臓のガン)に冒されて、京都府立医大に一年間入院して抗ガン剤治療を受けました。その時に彼の髪の毛が抜け落ちました。もちろん同部屋の子どもたちも、皆そうでした。
 
 僕が講演会で話す、しゅんしゅんの髪の毛も抜けていて、彼も出かける時は帽子をかぶっていました…
 
 ある時にヘアードネーションというボランティアが日本にもあると受講生から教えてもらい、それからは祈りを髪に込めてカウンセラーとして心に仕えること(仕事)をしてきました。
 
 そして、髪の毛がある程度の長さに到達したのでドネーションしました。
 また、これから祈りを込めて初心に戻って、髪の毛を伸ばし始めます。もちろん、心からの祈りを込めて…願いはガン細胞、退散!!!


 すみません、皆さんには興味のない報告ブログになりました。

 

愛は遅れることはない。

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 人生すべてを受け入れて生きる。
 
 母なる大地は、われわれに食べ物や、住むところを与える。その母なる大地は突然に命を奪うこともある。(インディアンの言葉)
 人生のすべてを受け入れると言うことは簡単ではありません。自然を愛するなら、春を受け入れるだけではなく、秋や冬も受け入れないといけない。人生にも楽しい日々の後、木枯らしが吹く日々もあり、そして、じっと首をすぼめる冬もあるのです。
 
 ある受講生は、亡くなられたお母さんの思い出を語ってくれました。
 
 お母さんが病になって3年目の春。

 

 二度目のお母さんの手術は失敗に終わり、大きな傷跡だけを大切なお母様に残して終わってしまいました。
 窓から差し込む夕日に照らされた病床で、お母さんが天井を見ながら一粒、一粒と静かに涙を流しながら「ダメだったんだね」と力なくつぶやいた、彼女は「うん…」とだけしか返せませんでした。彼女はその情景を忘れられないと言います。
 
 だから、メンタルの講座の後に流される映像に…「その人を愛していますか?」お母さんのことを想いながら「はい。もちろん愛していました」しかし、「愛する人の、人生そのものすべてを愛していますか?」と続く映像に、彼女は「はい」と心から言い切ることができない思いがあった。教室に居ながら、自分自身がどこに居るのか、わからないくらいに頭が真っ白になった…
 
 お母さんが亡くなる1ヶ月くらい前、病院に向かう途中で、空に二本の虹を見つけた。珍しいので、それを携帯のカメラに収めた。その写真を病室のお母さんに見せると、お母さんはとても喜んで、しばらく二本の虹をジッと見つめて微笑んでいました。きっと、お母さんは奇跡的な虹と、奇跡のような病状回復を願って見ていたのかもしれません。
 
 それから、奇跡的な二本の虹の話しをして、虹の写真を見たがりました。

 最初は彼女も感動し、そのつど虹の話をし、携帯の虹の写真を見せていました。しかし、来る日も、来る日も写真をせがむお母さんに「さっき写真みたばかりでしょ!」「また、虹の話しをするの?何度も聞いたよ!」と冷たく対応してしまったそうです。
 
 「相手の話しを聴く時には、頭を白紙にして、相手の視点から世界を見つめること。何よりも相手を変えようとせず、相手の世界を知ろうとすること…」と語る衛藤先生の言葉が心に響きました…
 
 今なら母の気持ちが痛いほどわかります。病院の窓から見る外の景色は、母の目からは、虹の写真がどれだけ美しく映っていたことでしょう。病床にふせる母には、二本の虹の美しさは、私が見た以上に、さらに何倍にも輝きを増し、いつまでも心に残る景色だったのでしょう。 その当時の私には、その視点はなく、ただ「何度も同じ話しをする必要はない」と、自分自身の色メガネをかけて、母にきびしく接していたのです。
 
 今なら二本の虹の写真を大きく現像し、母がベッドから見ることが出来るように高い所に飾り、何度も虹の話しをする母と一緒に、感動を語り合えたに違いない。虹の写真を見ながら満足そうにベッドに横たわる母の笑顔が今なら想像できる…

 

 

 

 私は病の母ごと、すべてを愛せていたのでしょうか?

 私を含めて父も弟も私たち家族は、母がいつか元気になり、病が治ることを願うあまり、弱っていく母に「元気になる為の努力をすべき!」「いつか、元気になるべき!」という固定化されたビリーフ(信念)を持ち、母に対して「頑張って!」というYOUメッセージを押し付けていました。その当時、母は母なりに精一杯を生きていたのに。
 「もっと、頑張って治療をしなければ!」「今の状態で生きていてはいけない!」と、自分たちの価値観を押しつけていました。その当時の母は「息苦しい」とよく言っていましたが、それは病気だけのせいではなく、私たち家族のYOUメッセージが重荷となり、押しつぶされそうな思いで、母の口から出た言葉だったのではないでしょうか。当時の私は、母の心の叫びを聴いてあげられなかった。
 
 この受講生の気づきは学びになります。
 
 僕たちは健康が善で、病気が悪。前向きが善で、後ろ向きが悪。満ちたりた日々が善で、落ちこむ日々は悪と思って過ごしています。それを疑うこともなく、自分にも、身近な人にも、その価値観を押しつけています。

 森田療法の言う「あるがまま」や、ロジャースが言う「受容」は簡単ではありません。

 それはインディアンの生きる姿勢でもあります。
 
 話してくれた彼女は「今なら母の手をさすりながら『今のお母さんで充分だからね。私たちは、お母さんと共に生きていけるだけで幸せなんだよ』と母の手を取り、虹の写真を見ながら、やさしく I メッセージを伝えてあげられます」
 
 最後に、今なら「母のすべてを愛しています!」と言えます。笑顔でこうシメくくってくれました。
 
 インディアンは言います。「愛する思いは時空を超えて死んだ者にも伝わる」と…
 
 僕は思っています。「死は『死者』をおびやかすことはありません。死は『生者たち』の未来を生かすために存在するのだ」と。

 そう、今、僕たちが思えるなら決して遅くはない。愛は伝わるのだから…
 
 思った時に、遅れても僕たちは愛を伝えればいい。
 
 メンタルは、「時間差 I メッセージ」を大切にして下さいとお伝えしています。

 

 

 



 

隠れていた幸せ

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 気づきや悟りは、突然に訪れることがあります。
 禅寺に通わなくても、癒しスポットに行かなくても。
 
 「腑に落ちる」「腑に落ちない」の「腑」とは、はらわたという意味ですが、心の奥から納得するという意味もあります。心がそれを認める、心の底に落ちるとは、どのような感じを指すのでしょうか?
 
 哲学者のプラトンは「想起論」で言っています。人の心の奥底には、あらゆることを知っている場所があるそうです。それを「そうそう!」と認めた時に、人は何かに気づくのだと言うのです。だから、誰でも心の中に答えが宿っていて、それが現実と心の答えが一致した時に、人は忘れていた何かが起き上がり、想い出すのです。「想い出す」の英語をRememberと訳します。Re(再び)メンバー(仲間)が集まるのです。
 「よぉう!懐かしいなぁ〜。忘れてたよ、この感覚」って感じでしょうか。
 
 女性のメンタル生は、親の期待に応えながら、生きていました。
 
 彼女の思い出すシーンは、誰も来てはくれない部屋で、泣き叫んでいる可哀想な2歳の頃の風景。だから、彼女はその淋しさを、もう味わいたくなくて、親の期待に応え進学校から国立大学へ。そして、公務員になり、周囲から見ると青空の下を、大手をふって歩いているような人生に見えます。
 
 でも、彼女の中にある風景は、いつもドンよりと薄曇り。
 
 「仕事が出来る」と周囲からいくら評価されても、本心では自信がなく、いつもビクビクしていて、人に心をひらくことが出来ない劣等感のかたまり。だから、自分自身を好きになれず大嫌い。そんな自分だから「誰からも愛されるわけがない」という揺るぎない確信が心の中にありました。やがて彼女自身も二児の母となり、自分と母親が重なりあって、子どもの時には理解できなかった、母親の愛情も少しずつは頭では理解はできるようになっていきました。
 
 でも「やっぱり私は愛されない」という想いが、心の奥底でぬぐえないままでした。
 
 メンタルで心理学を学ぶために夫に「大阪で週一で勉強に行きたいんやけど」と伝えても「そうか。何時に帰ってくるんや」と、いつもと変わらず、どういうところで、どんな学びをするのかをご主人は尋ねてくることもない。彼女は「どうせ私のすることに関心なんかない。どうでもいい人なのね」という気持ちに支配され、そんな時には、涙を流している幼い頃の自分が目に浮かぶのでした。
 
 そう「私は誰からも愛されない」と究極の孤独が、よみがえって来るのです。
 
 メンタルの講座は予想以上に深く、毎回が笑いと涙と、驚きに心が揺さぶられる連続だったそうです。とりわけ彼女が気になったのが「親しき仲にも離別感」と言うメンタルで学んだ言葉でした。家族であっても、相手と私は違う…
 
 いつものように講座と食事会が終わり「楽しかった〜」とハイテンションの気分で、地下鉄に乗り、私鉄の乗り換え駅に降り立った彼女は、次の電車に乗るために財布を開いた。
 
 ん?! クレジット機能付ICカードがない!
 
 さっき地下鉄を降りたばかりだから、ないのはおかしい。絶対にあるはず。何よりも私が不用意に大切なものを紛失するはずがない。カバンをひっくり返すような勢いで三度も探し、ようやく彼女は現実を受け入れました。そう、カードを失くしてしまった…
 

 

 「ならば!カードを止めないとっ」自宅に電話をした夫に、ことの顛末(てんまつ)を話しました。黙って聞いていた夫は、いつもの通りの声で「うん、わかった」の一言のみ…
 
 彼女は久しぶりに切符を買い、タイミングよく来た電車に腰を下ろしました。とその時に、ご主人からLINEが入ったのです。
 「カード止めたからもう大丈夫。出て来ても、もう使えないからね」のメッセージ。これを目にした時に、彼女の中で一つのことが腑に落ちました。そのストンという音が確かに聞こえたそうです。
 
 現実の世界で失くし物をしたことで、すでに持っていたのに「ないない」と探し求めていた、心の世界にあった大きなものを、彼女はこの時に発見したのです。大切なカードを失くしてしまった奥さんを、一切責めることもなく、ただ淡々とサポートしてくれている静かなご主人が、そこにはいました。
 
 ず−っと、振り返るとご主人は出会った時から、何ひとつ変わっていませんでした。
 
 これまで彼女がミスを犯した時も、何も言わずにいつも助けてくれていたのです。ただ、それを当たり前のこととして見過ごしていて、人生の「足りない」と感じることばかりを探していたのです。ずーっと私は愛されていたんだ。その中で守られ支えられていたんだぁ。ストンという音と共に、その静かな思いが胸いっぱいにあふれ、彼女は電車の中で涙でいっぱいになっていました。
 
 それは私が求める形ではなかっただけだった。夫は夫なりの表現で、私を愛してくれていた。何も口出しして来ないのは、それは無関心からではなく「君を信じているよ」という無言の夫からのメッセージだったんだと…。
 
 彼女が幼なかった頃、忙しかった母親に嫌われないように、すべてソツなく「ちゃんとしなきゃっ」と、自分自身がしたいことよりも、どんな娘を演じれば母親が認めてくれるかを、いつも考え、不機嫌に生きてきたのでした。
 
 彼女はふりかえり、離別感の「り」も持ち合わせていなかった私は、母の口グセだった「ちゃんとしなさい」と言う言葉を、子どもたちに向け「ちゃんとしなさい」「しっかりしなさい」を同じように一体感でしばりつけていたのです。
 あなたの年齢では、お母さんはそれぐらい出来ていたよ!」と、子どもの、素晴らしいところには目もくれず、ダメ出しの連続、ダメ出しの嵐、また夫に対しても「私に無関心!私を愛してはいない」と不満で過ごしてきたのです。
 
 でも電車の中で、新しく見えた景色は、これまでとは驚くほど違っていました。
 
 離別感………。
 
 人はひとりひとり、唯一無二の自分を生きています。私の目に映る世界と、誰かの目に映るそれは、全く別のもの。だから、相手にこうしてほしい、こうなってほしい、と望むこと自体が、そもそも相手に対して失礼なこと。第一、そんなことを望んでも、誰もハッピーじゃない。私が私でありたいのだから。相手も相手をシンプルに生きたいのです。
 
 ただそういうことだったんだ!
 
 だから、私は私、あなたはあなたで、ありのままでいい。いえ、ありのままがいい…
 
 長く薄曇りの風景の中に生きていた私が、今は色鮮やかな世界に身をゆだねていることに気づいたのです。
 
 今、私はメンタルで心理学を学ぶことで、自分史上で最高にワクワクする時間を過ごしているのです。と、語ってくれました。
 
 彼女のように、悟りや、気づきは日常の中に、いつも隠れんぼしています。
 
 外に自分探しの旅に出なくても、自分探しは生活を静かに見つめれば、隠れていた幸せが、ふと顔を出しているかもしれませんね。
 
 シ・ア・ワ・セさん、見つけた!!!

 

 

 

 

理性よりワクワクパワーへ

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 何をやっても続かないと言う人がいます。

 

 それは本当に、心からやりたかった事なのか?「やらねばならない」と思って、心(感覚)より頭(理性)を優先した事なのか?一度、立ち止まって考えてみる必要があります。

 

 人間の心は強いエネルギーを持っています。

 

 「好きな人に会いたい🔥」と言うエネルギーは、艱難辛苦(かんなんしんく)の苦労にも耐えられたりします。「これをしたらイイだろうなぁ」と頭で始めた人と、「これをしたい🔥」と心で始めた人では、結果は違います。

 

 「頭」と「心」がつな引きすれば、「頭」は「心」に勝てないのです。
 
 会社が売上の目標数字を定めてもガンバレなかった社員たちが、自社ビルを建てた時の、新しいオフィスの青写真を見て、自分たちのフロアはこんな感じで、デスクはこんな感じの風合いで、窓から見える景色はこんな感じでとイメージが明確になったら、売上が前年度比の12倍に伸びた企業があります。人間は五感が感じれば素晴らしいパフォーマンスを発揮するのです。
 
 「5キロ痩せたい」よりも「見違えるカラダになって、去ったカレシが後悔する私になる」と宣言したほうが心エネルギーが燃え上がります。
 
 マラソンも苦しい時に、向こうで待ってくれる仲間や家族の笑顔を思い浮かべるから走れます。距離を考えて走っている人は苦しみに負けてしまうこともしばしばです。
 
 だから、人生は頭人間より心人間のほうが成功するのです。
 「あきらめないで、やり遂げねばならない!」は、すでに頭の思考パターンに陥っている人のパターンです。
 
 その先に何が待っていて、自分がどう輝いているのかが、しっかりと想像できなければ心のエンジンが動きません。「人がそう言っているから」も、すでに頭人間のパターンです。
 
 「前向きになりたい」「自分に自信を持ちたい」「人づきあいをよくしたい」「自分を変えたい」これらは、人がそう言っていたから、人に言われたからにすぎません。
 
 大切なことは心がワクワクするかどうかなのです。
 
 昔、僕の心理学を夫婦で学んでくださり、教室をいつも盛り上げてくれ、いつも若い頃の僕に、衛藤さんは「スゴイ!」と応援をしてくれていた、菅生さんと言う人がいます。

 

 彼ら夫婦は、昔からイメージを大切にしていました。彼の送ってくる毎年の年賀状には夢にあふれた写真がいっぱい散りばめられていました。そして、家族の笑顔の写真…その当時、幼かった長男が今や、テレビで大活躍の若手俳優の菅田将暉君です。

 

 

 菅生さんは、いつもこう言っていました。人生にはワクワクするイメージが大切ですよ。それが「息子さんにも受け継がれているんだろう」と、彼をテレビで見るたびに感じています。
 
 そのやりたい事の先に「あなたは笑ってワクワクしていますか?」

 

 

 

 

 福岡校研究17期生の香葉村真由美さんの本が出ます。
 タイトルは「子どもたちの光るこえ」です。 

 

※関連ブログ

2015年5月25日 虹の戦士としての旅立ち

 

 

 


十把一絡げ

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 学生の時に、教授が「『十把一絡げ』にして、人を見てはいけない」と言われたことがありました。頭のできが良くなかったボクは「十羽🐓一唐揚げ🍗」と勘違いして「鳥の唐揚げがたくさんあっても、人には見えないと思うけど」と友に耳打ちして、仲間や先生に大笑いされました。すいません僕は当時、アホでした。今でも、さして変わらないですが(笑)

 辞書によると、「十把一絡げ(じゅっぱひとからげ)」とは、いろいろな種類のものを、区別なしにひとまとめにして扱うこと。また、一つ一つ取り上げるほどの価値のないものとしてひとつにまとめて扱うこと、とあります。

 心理学では、この心理を「過度の一般化」と呼びます。
 「男なんて、単純な生き物よ」とか、「女は感情的になりやすいから」とか。

 たまたま出会った人がそうだったからと、すべてを決めつけてしまう心理を過度の一般化と呼びます。

 例えば、たまたまアパートの隣に住んでいる隣人が少しの音で怒鳴りこんで来る、アパートの管理人に聴くと大阪の人らしい。部下の手がらを自分の手がらにしてしまう身勝手な上司がいる。彼は大阪出身らしいと同僚から聞く機会があった。友人の中で、やたらなれなれしく、親しくもないのに距離感を縮めてくる、面倒な関西人のヤツがいる。こうも大阪が重なると「大阪人はタチ悪い👎」となる心理です。でも、実際に出会ったのは3名だけなのです。

 関西人にも気の弱い人もいれば、謙虚な人だっているのですから「たまたま、自分が出会った関西の人は…」と言うのが安定した、人を決めつけないステキな人の言動です。だから、カウンセリングで奥さんに別れを告げられた、ご主人が「しょせん、女なんて魔物ですよ!」と言われると、心の中で苦笑いしながら「そう見えてしまうほど悲しかったのでしょうね」と同調しないで、優しく返すようにしています。

 また、この一般化は他人だけに向けられるものではありません。自分にも、ゆがんだ決めつけが向けられる場合があります。
 
 何度か恋愛で失敗したり、人前で話すことにあがってしまったりすると「私は恋愛に向かないタイプだから、一生孤独な人生なの…」「自分はあがり症でダメ人間なの…」と未来の可能性までも数回の経験で決めつけてしまうから困ったものです。

 考えてみて下さい。ハイハイしていた乳児が、立とうと思ってトライしたけど5回失敗したから「自分は立つことができない!」と決めつけてしまったら、誰もが一生立てません。今ごろ、街中はハイハイの大人たちばかりになってしまいます👶

 子どもが勉強しないからと言って「ウチの子は、あの程度ですから」と親が決めつけてしまったら、子どもにはマイナスの暗示が入って(催眠にかかって)その子は人生の可能性を閉じてしまいます。学校の先生でも「あのクラスは、あの程度なんですよ」と決めつけてしまうヒドイ先生は、子どもたちの未来を暗いものにしてしまいます。

 そして、過去に日本は、アメリカという国は「鬼畜米兵と言って、赤鬼のような血も涙もない人の形をした鬼だと」信じて戦ったのです。当時のアメリカにも、日本にも、優しい人も、冷たい人もいたはずです。

 「十把一絡げで、人を見てはいけない」と言った先生の言葉が身にしみます。

 先日、博多でタクシーに乗った時に、紙袋を持っていた僕に「買い物ですか?」と聞かれ、買い物ではなかったけれど細かく説明するのもなぁと思い、「えぇ」と僕。

 「外国人が多いでしょ?それも白人じゃなく、中国人!」
 「今、彼らの国は勢いがありますから」と僕はプラスの気持ちで言ったのだけど、運転手さんは「中国人は、日本人がキライなら、来んときゃいいのに💢」と同調をうながすようにバックミラーをのぞき込んだ。

 僕は「そうですね。一部の人はキライなのでしょうね。でも、好きな人もいるから来ているのでしょうけど…」と、心で苦笑しながら、タクシーの車窓から遠い見えない未来を見ようとしていた…

 いつか、日本なんて、中国なんて「こんなヤツらばかりだ!」と武器⚔️をかまえないことを願いながら…

 

 

 

 

 

大好き!福岡校

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 先日、福岡校の修了式が終わりました。

 

 

 今回の修了者は340名でした。他の地域の修了式でタイミングが合わなくて、福岡校の修了式に参加された方を含めてです。

 

 

 

 ある男性は奥さんがメンタルを受講されていて、その勧めで教室に来たそうです。
 そして、ご夫婦二人で、修了証が授与される修了式に参加されました。
 ご主人は仕事に行き詰まり、人間関係も最悪で、会社を辞めて「精神科を受診したい」と思うまで心が疲れていたそうです。その姿をそばで見ていた奥さんは、メンタルの教室で学びが深まるたびに、ご主人にはメンタルのプログラムが絶対に助けになる、彼には心理学の学びが必要だと感じていました。でも、奥さんが体験セミナーに誘っても、当時のご主人は奥さんがヘンな宗教にでも行ったと思い『家庭には迷惑をかけないでね』とだけ警告して疑っていたのだそうです。
 ご主人は、当時を振り返ります。奥さんを裏切り、不倫までして彼女を傷つけてしまいました。子どもには、仕事で忙しいからとイライラして、夫としても父親としても僕は失格だったと…

 そんな時にセールスマンだった彼は、先輩から「君はどこを向いているの?会社?お客様?」と問われ「君は会社のために働いているの?お客様のために働いているんじゃないのか?」そう言われて、心がスッキリし、未来に光が射したそうです。
 彼はカウンセリングが、こんなに頭をクリアにし、気持ちが前向きになるのだと感じ、それを奥さんに伝えると「メンタルに行ってみない?」と再度言われたそうです。その時に彼が「行ってみようかな」と言った時に、奥さんが声をあげて泣いたのだそうです。奥さんの泣く意味がわからくて、泣きやんだ奥さんにたずねると「やっと、自分の思いが伝わった」と奥さんに言われたそうです。この数ヶ月間、奥さんは、ご主人を救えるのはメンタルのプログラムしかないと感じ、一人で苦しんでいたのでした。

 ご主人が体験セミナーに来た時の感想は「衛藤先生は、笑顔で明るく輝いていて、遥か遠くの人に思えました。そして、『僕には到底できない!』と感じていました。でも、講座の途中くらいから、強がりも、自分が守ってきた硬い、硬い殻にもヒビが入ってきて『この人、スゲェ~」に変わってしまいました」その体験当日の心境を彼は、ふり返り僕に教えてくれました。

 その後で、彼はメインの講座に通いだし、終わるたびに「今日の講座はスゴイよ!」「今日のセラピーで、ここに気づけた!」と奥さんに家に帰りつくまで、電話で興奮して話し、家に帰ってからも感想を語り続けたそうです。その時に彼は気づいたそうです…
 先に学び始めた妻は、この感動を誰ともシェアすることもなく、教室から帰り、いつも、僕に「宗教だ!」と疑われながら、メンタルに通っていたのだと…奥さんの「やっと、思いが伝わった」と大きな声で泣いた、涙の意味を知ることができたのだそうです。

 今は3人の娘さんがスゴくスゴく可愛くてしょうがないのだそうです。だから、彼の日課は朝起きて、娘さん達をひとり一人抱きしめて「◯◯ちゃん、今日も愛しているよ」と、「今、ここだけにしかない幸せ」を味わっているのだそうです。彼は5年生の長女から「最近、パパは変わった~」と言われたと報告もしてくれました。

 

 

 そして、お父さんが変化したことを目の当たりにした、その長女から「将来は悩める人を救う、心理カウンセラーになりたいと告げられました。 衛藤先生、また、将来の『虹の戦士』が増えましたね」と、笑って報告してくれました。

 

 

 その笑っていた彼の笑顔が、僕には、とてもキラキラしてまぶしかったです。そして、奥さんの、心からの笑顔も同時に見ることができました!

 当日は修了式のリピートや、二次会(メンタルセカンドステージ)からのリピート参加者も楽しんでもらえてよかったです。とてもステキな1日でした!

 

 

 おめでとう!340名の修了生の皆さん。

 それぞれの気づきとストーリーに乾杯!

 

 

 


 

無功徳!

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 昔、父の車の助手席に乗りカー・オーディオから流れてくる、オールディーズ・ソングを不思議な気持ちで聞いていた。愛する人と泣く泣く別れる哀しい歌を「なぜ好きなのに別れるの?」と幼い僕は、なんだかもの悲しくて、不思議な気持ちで聞いていました。

 大人になると、そんな立場や状況があることも分かってくる。

 ただ、いまだに僕には理解できないことがあります。それは過去に愛していた人を悪く言ったり憎しみから攻撃する人の気持ちです。

 もちろん、「愛憎」という言葉も存在するし、裏切られた怒りも、嘘をつかれた悲しみも理解できないわけではありません。

 テレビでも、おしどり夫婦と社会では評価され、過去に愛し合い、ファンに夢を与えてきた者同士が、連日「もういいのでは」と言いたくなるくらい、つばぜり合いをくりひろげていることは、今に始まったことではありません。

 仏教の開祖である、お釈迦さまは言いました。心を修行した人と、修行しなかった人の違いは何か?とお弟子さんに問われ、こう答えました。誰でも足を踏まれて痛い、裏切られて悲しい、花を見て美しいと思う気持ちはある。そのように修行した人も、修行しなかった人にも感じる心はある。

 

  

 痛い、悲しい、美しさを感じる心は修業した人にも、しなかった人にもあります。この第1 の感覚は誰にもあるのですが、修行した人は、あの人を復習してやる、相手を攻撃してやる、この花を独占してやるという第 2 の感覚を切り離せると言うのです。

 つまり、「足を踏まれたから、踏み返してやる!」「裏切られたから、相手を苦しめてやる!」「花が綺麗だから、花壇から取って自分の家に飾ろう!」という第 2 の感覚に縛られないと言うのです。

 これは簡単なことではありません。だから、修行が必要なのでしょう。

 昔、中国に武帝という王様がいました。


 彼は仏教を深く信仰し、若い僧たちにお金を与えバックアップし、お寺などもたくさん作りました。そこに、インドから偉いダルマ禅師が仏教を中国に広めるために渡って来たのです。

 王様は自分のやった数々の良い業績をダルマに語りました。王様はダルマ禅師からほめてもらえると思っていたからです。
 「私は数々の良いことをやって来ました。私には、これからどんな良いこと(功徳)がありますかな?」
 それに対してダルマの答えは、なんと「何にも良いことはない(無功徳)!」と言い放ったのです。

 ダルマにほめてもらえると思った王様は「なぜ良いことがないのか!」と怒りました。

 するとダルマは「あなたが王様という立場で、お金持ちで、やれる立場だったから、すべてのことが出来たこと。それだけじゃ!」と言い放ちました。

 ダルマ禅師は冷たい人ではありません。ダルマは王様に真の良心を教えたかっただけなのです。それは王様が、自分で良かれと思って行動したのなら、誰かが認めてくれなくても幸せなはずだと。

 ゴミを拾う時に、誰も見てなくてもいいじゃないか。貧しい人に与えるのも誰かに評価されるために与えたのか?自分がやりたいから行動したのではないのか?と…

 仏教を学んで、修業をした人であれば、人の意見に左右されなくとも、武帝皇帝は仏教徒らしく「そうですか!無功徳ですか!それは、よかった!ガハハハハ…」と笑っていれば良かったのです。

 ところが実際には、この物語は、自分の行動を認めなかったダルマ禅師に対して王様は食ってかかりました。「では仏の心や、良いこととは何なんなんだ!」

 ダルマは「やりたくてやってやる。それは見返りを求めない行為。それが善行じゃ!  あなたが、やりたくてしたのなら『良い』とか『悪い』とか、誰かに認めてもらえなくてもよいのではないのか?

 清らかな心は無心で空である。いいかよく聴ききなさい。見返りを求めてする親切や良いことは、やがて怨みになるぞ!   優しくしたくて優しくした、 愛したくて愛した、 世話をしたくて世話したと無心ですれば、相手からの見返りがなくても、認めてくれなくても、自分の中で完結するものよ。でも、相手に期待を求めての愛だの、親切だの、子育ては、やがて憎しみに変化するものさ!そんな相手の見返りが最初にありきの愛だの、善なる行為は、そもそも怪しいものよ!」と言い放ったのです。

 王様は怒りに震えて「お前は何者だ!💢」と、たずねました。

 ダルマはここまで言っても気づかない王様に、ホトホトあきれてしまい「何者かをは知らんよ!自分で考えろ!」と言い放って王のもとから去って行きます。 その後、ダルマは少林寺にこもって、飲まず食わずで座禅を組んだと言われています。それで手と足が無くなりダルマさんになったと言われています。

 

 

 現代は、この王様のように見返りを求めての行動が多いようです。

 人が見てくれるから公園でゴミをひろう。スゴいと言ってくれるからボランティアに行く。金メダルが取れるからスポーツをする。良い学校に行くために勉強をする。結婚してくれると思ったから愛した。お金をもらえるから仕事をする。将来の自分を看てくれる子どもだから育てた…

 僕たちも、この努力が報われないと、怒り一色に変わってしまった王のように、見返りがなくなったら、過去のすべての思い出が反転して、ムダだったと言うなら、相手の愛が無いことを責める前に、自分の愛があったのか、なかったのかを考える必要があります。

 愛したいから愛したのか、自分の中にある目的(周囲に認めさせる、結婚、家族を持つ)のために愛したのか、自分の心の中にある、愛の居場所を自分自身に問いかける必要がありそうです。
 
 そうダルマに「無功徳!」と指摘されないように。
 
 先日、お金はあるけど、いけていない男性が高級なレストランを予約し、高いコースを用意して、ある女性をデートに誘ったそうです。そして、高いお酒をご馳走したのに、彼女が終電だから帰ると言いだしたので、彼は「え~ホテルの部屋も取ったのに帰るの~だったらお金と時間を返して欲しいなぁ~」とその女性に直接言ったそうです。

 その話しを聴いていた女性たちは全員がドン引きしました。「だから、貴方はモテない君だね」という雰囲気に全員がなってしまって会は解散!

 その後、二人きりになって僕が「でも、好きな人と会えると思ってレストランを探したり、食事を決めたりする瞬間もステキな時間じゃない?」と問うと、彼は「そうですか~、僕は時間とお金がムダだとしか思えない」と言われてしまいました。

 僕の頭の中はチーン♪(終了)って音がしました…    彼は結果至上主義の人のようです。人生の瞬間、瞬間の心づかいも努力も結果のためだそうです。

 過去も、これまでの時間も、すべてがあなたの人生です。

 結果がこうなら、愛さなければよかったと思うなら結果主義の人です。
 結果がどうであれ、あの瞬間も、この瞬間も、その時の「私は心がワクワクしていた!」と「今、ここ」を楽しむ人は、過去の「今、ここ」も楽しめるプロセス至上主義の人です。
 
 そう言うと「じゃぁ、結婚詐欺はどうなんですか?」と問われそうです。そうですね、悲しいですよね。でも、それも未来に向けて学びになったし、だます側より、だまされた側なら、まだ、自分をあざむかなくてすむ。過去のその瞬間、瞬間の、あなたの恋心は決して嘘じゃない。真実だったんです!

 だから、その過去の自分の心のトキメキまでも、すべてを「ムダだ!」と言ってしまうのは、僕はなんだか悲しい気がして…。
 
 なので、すべてに「ありがとう」って言って、これからを笑って生きませんか?  
 「そんなのムリです!💢」

 そうですよね。だから言ったでしょ、第 1 と第 2 を切り離すのは簡単ではないって。だから、お釈迦さまは修業した者と修業していない者の違いは…と、話をすすめたのですから…
 

=おまけの話=

 相談者「衛藤先生、こんなにあの人を愛したのに、こんなにしてあげたのに、あの人は私を捨てて去ったのです。どう思います?」
 
 衛藤答えて「無功徳!愛などない!」
 
 相談者「そうなんです。“あの人”には愛などなかったのです!」

 衛藤あきれて、少林寺にこもる…

 

 


 

プロコースの卒業式を終えて

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 プロコースの卒業式が無事に終わりました!

 年々、アイディアが発展し、感動する式典になってゆきます。 

 

 

 基礎コースの〈修了式〉は、東京校は目黒雅叙園、名古屋校はマリオットアソシアホテル、大阪校はニューオオタニ、福岡校はグランドハイアットと、エリアごとに毎回開催されていて、大阪校や東京校は年に2回開催しています。でも、プロコースの〈卒業式〉は一年半に一度ですから、緊張感とスタッフの準備が大変で、それを見事にこなしていることにリーダーとして毎回、頭が下がります。

 基礎コースの〈修了式〉とプロコースの〈卒業式〉では、迫力や雰囲気が桁違いです。

 


 プロコースともなると、カウンセリングを実施し、レポートを完成させなければなりません。 

 「絶対に父親のお葬式だけは出ない」と決めていた女性が、その父親のカウンセリングを実施しようとプロコースでの学びを通して決心し、父親としてではなく、一人の人として静かに耳を傾ける中で、気づいていく自分と父との人生。さらには、父の母(祖母)との三世代にわたって広がる人間関係という糸のもつれ…
 それぞれの人生を生きる中で、何か大切なものを守るために誤解が生じ、対立し、それぞれの道を歩むことになったのだと知ることができた、人生の儚さ… 

 数時間もかけて、憎んでいた父の話しを穏やかに聴くことで得られた、静かな時間… 

 大人たちに巻き込まれ、苦しんでいた少女時代から、カウンセリングの技術を手に入れ、三世代という過去まで、クライエントである「父」を、「一人の人の人生」として、冷静さを保ったまま、見つめようとする彼女の姿に、卒業式の会場は感動の渦に巻き込まれてしまいました。


    

 憎しみから、理解することで過去の心が癒やさていくのだと…

 また、何気ない会話から、心理カウンセラーを勉強していると語った中年期の男性に、カレシとの「のろけ」を語る若い女性。

 彼女の外(話す内容)と内(表情、心の雰囲気)の違いに気づいたプロコース受講生である男性が、伝えた一言に、顔色が変わる若い女性…
 その女性から「少し話を聴いてもらえますか?」と始まったカウンセリング。 

 彼女の笑顔とその裏に隠された孤独。その中でカウンセラーも、自分と父親との関係と向き合っていくことになる。さらにカウンセラーとして、彼女に対して向ける優しさ(母性)と、厳しさ(父性)のバランス… カウンセラー(プロ受講生)と、クライエント(女性)との距離を保つことの難しさ…
 カウンセリングを通して深まってゆく彼女の気づきと、カウンセリングを終わらせる(さよならする)タイミングをはかろうとするプロ受講生。

 そして、最後に自立し、歩き始めた女性クライエントから言われた一言…
 「人生の道で迷っている、私を見つけてくれてありがとう!」と言われた、清々しいエンディングに僕は感動しました。


    

 そして、僕たち講師陣から卒業生に贈るメモリアルパ・フォーマンス! 

 

    

 

 お祝いに駆けつけてくれた、美塾の内田塾長から、その夜に丁重なメールをいただきました。 

 あれだけの感動のパフォーマンスをやってのけて「いや~終わった、終わった」とあっさりと言われる姿に、僕は衛藤先生らしいと、ホッとしてみたり、自分との差に直面したり… 

 この場に一緒させていただくだけで、理屈では説明できない変化が、自分に起こります。縁起でもないですが、衛藤先生がいつか命を、その役割を終え、この世界を旅立つ時まで、しっかりと背中を見続けて生きてまいります。
  
 と、彼から身にあまるお言葉と、遠回しで死に支度(引退)への、最後通告をいただきました(笑)

  
    
 

 内田塾長はいつも律儀で、優しい弟のような存在です。そして、彼は仲間の講師たちのビデオ・レターが会場に流れる様子を携帯で一生懸命に録画していました。きっと、それを仲間の他の講師に報告をしてあげるのでしょう。

 そのこともメールに「衛藤先生の隣で、携帯で撮影ばかりしていて御免なさい」とお詫びも書かれていました…
   
 でも僕は知っていました… 僕のラジオ深夜便(NHK)が、街中で流れている(飲み屋)雰囲気をわざわざ録音し、送ってくれる彼のサービス精神を…。そんな彼の気づかいに、僕はテーブルの隣で、優しさを感じていたのだから…

    
 

 そして、ビデオレターで参加してくれた 
 恋愛心理学 アレックス小倉さん、空間心理カウンセラー 伊藤 勇司くん、
 絵本セラピスト 岡田 達信さん、女性を内面から輝かせるプロ 栫井 利依さん、
 自律訓練法の第一人者 下口 雄山さん、ビジネスメンタリズムの 白戸 三四郎さん、日本読書療法学会 会長 寺田 真理子さん、色彩のプロ 中嶋 輝和さん、
 24の物語シリーズの著者 中山 和義さん、本城式英会話の 本城 武則さん、
 フラワーセラピスト  松井 道子さん、魔法の質問 マツダミヒロくん、
 アロマの第一人者 吉田 洋旺子さん、天才コピーライター ひすいこたろうくん
  
 みなさん、ありがとう!
  
 そして、最後にプロコースの卒業生の今後の人生の活躍とそれぞれのドラマが実り多かれと心より祈っています。336名の卒業生の皆さん、本当に卒業おめでとう!

      
      
 
 

 

 ★美塾の内田塾長の本を紹介しているブログです。

 2016年9月1日  たとえ人と違っても・・・ 

 

 

 

 

 

 

心理カウンセラーほどステキな役割はない。

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 アイデンティティとは、自我同一性と訳されます。 

 つまり、アイデンティティとは自分の軸となる自分の証明です。パイロットが飛行機のトラブルが生じても冷静沈着でいようとするのは、パイロットというアイデンティティが存在するために、パイロットはパッセンジャー(乗客)の命を守ろうとします。
 虫に触れることができない女の子が、母親になって虫が赤ちゃんに近づいた時、虫と格闘できるのも母親というアイデンティティが闘わせるのです。ビクトールユーゴが「女は弱し、されど母は強し」と言いました。 

 僕には心理カウンセラーという、アイデンティティがあります。 

 心理カウンセラーというアイデンティティは、我が子が小児ガンになった時も、親としての役割もありましたが、カウンセラーとして何を学び、行動するべきかを意識していました。インディアンの人たちと共に生活をした時も、カウンセラーとして彼らの中でどんな役割があるかを考えて行動していました。渡米する前に、日本で、たくさんのアバイトをして汗を流した時、アルバイト先で出会った個性的な人たちもカウンセラーとしての人間観察で学びにいかせました。

 この「心理カウンセラー」という軸があったから、その一本の軸に、すべての経験がからみ合い、今の僕を作っています。朝顔のつるべは、一本の棒がないと四方に広がってまとまりがありません。でも、一本の軸を立ててあげると、その軸である棒にシッカリとツルベは結びついて同じ方向に伸びることが可能になるのです 。

 その心理カウンセラーというアイデンティティを軸に、僕は揺らぐことなく安定して生きて来られたのです。

 カウンセラーの国際ライセンスを目指し、渡米するための旅費や渡米後の生活費を稼ぐために、塾の講師や飛び込み営業などもしました。

 心理学が専門だったので、飛び込み営業では、お客様とのラポール関係を早く作りあげ、売り上げは面白いほどに伸びました。学生アルバイトの身分で、正社員を抜いて、全国売り上げのトップを一年間独走し、うっかり新人賞を取ってしまい、その会社から就職をしつこく希求されました。心理カウンセラーを目指すためのバイトだったので断るのに苦労し、並行してやっていた塾の講師も、心理学を応用し最下位だった低迷クラス全員を、希望の学校に導けたので、専任講師になってくれないかという塾側からの強烈なラブコールも、お断りするのに時間がかかりました。僕のライフワークは心理カウンセラーと一本に決めていたので、各種のアルバイトはただ生活するためのライスワーク(食うための仕事)だったからです。 

 そして、アメリカで学んでいた時代の数々の出来事や出会いも、心理カウンセラーという軸にすべて結びついてくれました。
  
 インディアンの地でも、僕は心理カウンセラーで、インディアンの生きた智慧を学びたいと言うと「お前はメディスンマンだなぁ」と言われ、彼らの地で歓迎され、スグにインディアンの人々にも溶け込めました。バックパッカーで、どの国を旅しても、心理カウンセラーというアイディンティティ(軸)で、僕は多くの人との人間関係が築き上げることができ、たくさんの援助で支えていただきました。 

 もし、僕が何もアイデンティティを持たないで、バックパッカーで若い頃に旅しているだけの存在だったら、その数々の経験を語っても、社会から見ると「当時、あなたは時間があって、自由人だったのですね」と単なる経験談で終わってしまっていたでしょう。でも「心理カウンセラーとして、この出来事は、こんな気づきを与えてくれました」と周囲に語ると、それは大切な仕事になるのです。そう、役割=アイデンティティになるのです。  

 「心理カウンセラー」は、僕は「かけうどん」のようなものだと思っています。かけうどんに「玉子」をのせると「月見うどん」になり、「揚げ」を添えると「キツネうどん」になり、「天ぷら」をトッピングすると「天ぷらうどん」に早がわりします。 

 人に関わる世界において、すべての面で「心理学」は役立ちます。正しい子育ても、効果的な部下指導も、間違わない結婚相手選びも、学校での人間関係のトラブルでも、病人看護も老人介護も、はたまた犯罪者のプロファイリングの世界までもetc.

 だから、僕の心理カウンセラーという役割から、学校にも、企業にも、警視庁にも、病院にも講演に呼ばれるのです。だから、心理の勉強は、すべての人間関係に応用が効くのです。だから、「かけうどん」なのです。

 そして、これからも「心理カウンセラー」という軸は、一本の真っすぐなラインとなって、僕の人生に起こる数々の喜びや、悲しみの出来事でさえも、その起こった意味や洞察力を、僕に与えてくれると信じています。それらが、今よりも深みのある心理カウンセラーへと、僕を成長させてくれることでしょう。

 そう思うと将来の自分にワクワクしてしまうのです。未来は見えないから面白い!

 心理カウンセラーほど、ステキなライフワークはない!

 


 

 

 

 

人間関係は、平面から3Dへ

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 悩んでいる時は、自分の頭の中の思考が内側(自分自身)に向いています。
 落ち込んでいる時は、自然や景色を自分の中から排除しています。

 だから、どれだけ青空でも、街の街路樹の緑が美しくても、星が夜空に散りばめられていようとも、目には見えても、心には映りません。
 もちろん、悩んでいる時には、その苦しみと向き合っているために、外になんか出る気も起こらないものですけど…
 
 悩んでいる時は、外に出て「人と関わらないといけない」と頭で思っても、すべてが面倒くさく感じてしまいます。だから、フェイスブックやネットの記事を見ることで、誰かと関係を持った錯覚におちいり、数時間もネットの世界で過ごす人が増えています。でも、これは錯覚で、自分だけの内側の世界で一日を終わらせてしまっているのです。
 
  人間関係は双方向です。携帯画面のような一方通行ではありません。
 
 人間関係は、相手がこちらに刺激を与えてきます。その刺激とは、相手が話しかけてくる。それを聞いて、自分の思っていることなどをこちらも伝える。そして、相手の反応を待つ…と連続して続いてゆきます。
 
 でも、携帯の画面は、突然に意見を求めてこないし、こちらも、画面に愛嬌を振りまかないで、ただ無表情で画面を見ていればイイので、自分中心な内側の人間関係になります。
 
 ペットを飼っている人は、自殺する人が少ないと精神医学の国際シンポジウムで発表がありました。それは、世話をしてあげないと、ペットが死んでしまうからです。世話をすることが自分の生きる存在理由になるからです。
 
 ぬいぐるみと違って、生き物は、エサをあげ、散歩をし、オシッコの世話をしてあげなければならないし、ペットはいつも人にちょっかいを出して来ます。ですから、自分中心の世界から強制的に、外の生活に追い立ててくれるのです。
 
 子どもが巣立った後に、ウツになり自殺する人が多いのも、一日の時間のほとんどを自分だけに向かわせるからです。
 
 いつも、元気な高齢者の知人がいます。
 
 その人は、アリの行列をさけて通り、アスファルトのところで、セミが寿命のために木から落ちていると、必ず土のある所に運んでやり埋めてあげる。だから「夏は忙しい」と涼しげに笑っています。
 ある時は日陰でネコが休んでいると、日の動きと共に影が移動するからと、傘でネコの影を作っておられました。公園で同じ世代の老人の顔色が悪く座り込んでいれば、自販機でお茶を買って介抱し、エレベーターが閉まる時は、まずはエレベーターの外に出て「乗られるかたはいませんか?閉まりますよ」といつも叫んでおられます。過去に町でケンカを見かけて止めに入って、逆に殴られたこともあったらしいのです(奥さん:談)。でも、いまだにトラブルがあれば、中に割って入っていかれるのです。
 
 奥さんからは、いつも「あなたは、だいたいお節介なのよ」と説教されています。
 
 共感する思いは僕にもありますが、毎回できることではありません。
 
 この方は、外で起こる出来事は、壁紙のような景色ではなく、イキイキと色を持ち、3Dのように立体的に存在している生きた世界なのです。
 
 「人生が楽しくない」と相談に来られる人は、目が虚ろで、人も、景色も、ただスマホの画面のように、平面の壁紙のように、2Dの世界でしか見えていない気がします。だから、それらの人々は表情が少なく、スマホを見ているように、周囲に対して笑顔も少なく、目には輝きがありません。若いスマホ世代になるほど、その傾向は強くなります。

 自分がキラキラと幸せを感じたいのなら、頭で考えないで、誰かに自分の「今、やれること」を始めてみることです。なぜなら、人は誰かの役に立っている間は、自分自身の悩みは消え去ります。誰かのお役にたてることが、自分自身の存在価値を高めるからです。「ありがとう」「助かりました」「感謝します」と、誰かに言われると、たとえ見返りがなくても、その一日は幸せな気分で過ごせるはずです。

 それは、さきの優しい老人のように虫助けでもいいのです。それが、世界との深いつながりになるのです。
 
 その老人は、熱中症で道で倒れている人を見かけると走って行って、救急車を呼び、病院に付き添い、その倒れた家族が来るまで一生懸命に世話をしておられます。ある時には、倒れた親のお礼に来られた、若く美しいお嬢様から「あなたのような親切な人が、まだこの世界にはいるのですね。あなたみたいな男性の方と結婚したい」と言われたことがあったと、数々のエピソードの中から、奥さんが笑って話してくれました。
 
 「ステキな出逢いがないんですよ」と携帯の画面ばかりを見ている人は、携帯の中に世界の広がりも、出逢いもありません。そんな生き方は、世界を2Dに閉じ込めてしまっています。

 だから、あなたが「今、やれる事」を3Dの世界に探しに行こうよ!

 

 

 

 

過去の悲劇を、幸せに変える責任はあなたにある

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 何かの選択に迫られた時に、人は「失敗したらどうしよう?」「後に後悔しないだろうか?」と不安になります。この感情は誰にも当たり前にある感情です。だから、しっかりと予測を立てて熟慮し、その道の専門家に聞いてみたりして準備することも大切でしょう。でも、それでも考えすぎて決められない人は、悩みグセのある人です。

 人は神様ではありません。誰しも完全な正しい選択の答えは持っていないのです。最終的な決断は自分がしなければいけないのです。悩みグセのある人は「決して失敗したくない」のです。

 でも、失敗とは何なのか?
 僕は本当の失敗は、失敗したくないと思い続けるうちに、時間だけがムダに過ぎて行くことだと思います。もちろん、「現状維持!」という結論を出して、積極的に動かないなら「OK」です。でも、現状維持のまま「どうしよう、どうしよう…」と悩む人は時間のムダづかいです。
 
 このような人は、まず時間が永遠だと思っています。人は誰にもが寿命があります。この瞬間にも大切な人生の時間が「チックタック…」と過ぎ去って行くのです。
 
 次に、自分だけは「失敗してはいけない」と無意識で思っている。だから、決められないのです。それは心理的に幼児性が強いのです。誰もがそんな特権にあずかっている大人はいません。もし、成功していて、あの人はスゴイなぁと思っている人が近くにいるならば、その人はトライ アンド エラーを繰り返して経験の厚みを増して来た、経験値の高い人びとです。決して時間をムダにはしていません。
 
 また、「失敗してはいけない」と言うけれど、そもそも失敗などはありません。
 
 ゲームセットのホイッスルが鳴るまで勝敗はわからないのです。人生のゲームセットは死の瞬間です。いや、書いていて思いましたが、死んで命がなくなっても、それで勝敗が出たとは言えません。イエス・キリストは、はりつけにされて亡くなりましたが、弱者のために命を捧げることで、愛をかかげるキリスト教として、今でも生き続けています。坂本龍馬も日本の夜明けを見ずに亡くなりましたが、彼の志しは今でも、日本の民主的な社会に生かされています。そんなサンプルはたくさんあるのです。だから、努力にムダはないのだと思います。
 
 僕の好きな言葉に喜劇王のチャップリンの残した「人生という映画は、クローズアップで観ると悲劇だけれど、ロングショットで観ると喜劇である」と言った言葉があります。僕自身も幼い時に両親の離婚、継母の自殺などがあり、部分で見れば不幸だったけれども、心理カウンセラーとなるきっかけはその不幸な出来事があったからです。そして、今はステキな人びとに恵まれているのも、その悲劇があったからと思えるのです。
 
 子ども時代の親の対応が悪いとか、あの人に出会ってから僕の人生はボロボロになったと過去にイラだっている人は、いまだに過去に生きています。
 
 今の大切な時間を、恨みと憎しみで映画を撮りつづけているのです。
 
 過去の不幸な出来事も、どうこれからの学びにつなげるかで、過去の不幸な出来事を、今や未来の幸せへのギフトに変えることが出来るのです。
 
 倒れるなら前に倒れよう、倒れることを恐れて、1歩を踏み出さなければ、人生は動かない。後悔するなら、やって後悔しましょう。やっとけばよかったと後で後悔するよりも人生は好転します。

 

 

 

 

 


テレビを断っている理由

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 メンタルの卒業生がメディアで活躍しています。だから、僕も声をかけていただけるのだけど、僕が出演を断っているのには理由があります。それは、僕が出ると放送事故を起こしかねないからです。

 司会者「尖閣諸島や竹島の問題はどう思われますか?」
 僕「そうですね…財産問題でトラブったら寄付が一番ですかね。バチカンにでも寄付して『祈りの島』にしたらどうですか?
 韓国も中国も台湾も、どの国も島に上陸して、皆で祈ってもらったらどうですか?その島下にある資源は、貧民国の人や、難民の生活にでも寄付してもらって「本来は戦いの火蓋になるはずの島が『祈りの島』になりましたよ!そのアイディアを出したのは日本の国だそうですよ。やっぱり「和」の国の日本ですね~ってなればカッコいいじゃないですか!」

 司会者「北朝鮮の挑発はどう思われますか?」
 僕「日本にも問題があるんじゃないですか?小泉さんが北朝鮮に行った時に、彼らは柔軟な政策をとっていました。だから、拉致を認めて数人は日本に帰しました。その時に日本の政府は「一時、日本に里帰りさせて、また、北朝鮮に帰す」と約束しました。そして、親交を深めましょう。と…でも帰国後すぐに日本政府は手のひらを返したように「やっぱり拉致をしていたんだ!ヒドい国だ!」となりました。最初にボタンのかけ違いをしたのは日本にも責任があるんじゃないですか?

 彼らが核兵器に執着するのは恐れからであって、心理的に考えても、怖いから兵器依存に強固に偏って行くのだと思いますよ。「テロ!テロ!テロ国家と言われると」人も国も引きこもります。

 子どもたちの学校でも、仲間から攻撃され過ぎると、意地になって意固地になり、より問題行動を起こす生徒のように…もっと、あの時に日本は約束を守って「よく勇気を持って本当のことを北朝鮮は語ってくれました。もっと、仲良くしましょう。ねぇ、他にも拉致した人がいたんでしょ、本当のことを教えて下さいよ」と違う方向性の外交努力をしていたら、横田めぐみさんも日本に帰って来ていたかもしれません。

 彼らに核を放棄せよと言うなら、同盟国のアメリカに「北朝鮮に、それを求めるなら、あなたたちアメリカから核を放棄しませんか?」と言うのが日本の役割だと思います。僕たち日本は広島、長崎と、そして平成の時代でも、福島で核の被害を二度も受けた国ですから、それを言わないといけない立場にあると思うのですよね。にもかかわらず、日本は核兵器禁止条約には不参加と、どんどん核の恐怖を国際的にアピールしなくなっています。核の傘の下にいるからと、正しいことが言えなくなることを僕は逆に聴きたい。日本の武士道はどこで失ったのですか?

 今回、アメリカの同盟国であるカナダ、イギリス、フランス、オーストラリア、ドイツもトランプ大統領と距離を適度に取っています。日本の安倍首相だけが一日に何度も電話で会談していますよ。それが、全世界のネットワークに流れる…まるで、ドラえもんのジャイアンにすり寄るスネヲのように。だから、一番、北朝鮮が水爆を落とす可能性があるのは日本だと思いますよ。

 僕はアメリカに居たからわかりますが、アメリカは一人一人はステキな人びとだけど、政府は????ですね。アメリカの一般の人々にアンケート調査した結果(アメリカの大手世論調査会社ユーガブUS)によると、アメリカが同盟国だと思っている国は、カナダとイギリスがトップタイで55%。3位がオーストラリアの45%。4位がイスラエルの44%。日本は33%で8位です。完全に片思いです。

 だって、彼らは日本を同盟国として助けることがあるとしたら、日本が中国や韓国とケンカしても、アメリカは「ヤメロ、ヤメロ」と言って、そこそこに、お互いの戦力を戦争で落としあわせて、一番のいい頃合いで、正義の顔をしてアメリカの軍隊は出てくるでしょうね。その間に傷つき血が流れるのは日本の非戦闘員の一般市民ですよ。

 中国の人民軍は、日本の自衛隊の10倍の規模です。僕がアメリカに留学していた時代からの韓国の友人たちは、徴兵制があるから皆、屈強ですよ。すぐにヘタリこむ今の日本の若者が戦えると思えますか?戦国時代の日本人なら別ですが…

 日本はジャイアンであるアメリカだけに頼っていると、トランプ氏の政権が倒れた時に世界から孤立しますよ。「和」を重んじる日本ならば、もっとアジアの人びとと仲良くすることを考えないと…他国とのバランスを取るのが外交です。

 だから、草木も生えそうにない島なんかで戦争している場合ではないでしょう。今回、僕は韓国の人道支援のほうが人間的だと思っています。だって、お前の親が気にいらないから子どもも苦しめばイイと言いますか?」と、僕が語りだすと…

 スグに放送は中断します。

 

 

 

 そして、僕のコメンテーターのデスクには縫いぐるみかが置かれて、「心理カウンセラーの先生は至急にご用事ができたようなので大阪に帰られました。」と言われるでしょう。

 

 

 

 

 




 

逃げないで…

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 インディアンはこの世界を「愛を学ぶ学校だ!」という。

 やりにくい人と、うまく関係をたもち、仲良く生きるかを学ぶところだと…そして、いつか我々は母なる大地に帰るのだと。

 


 この世界はすべてが素粒子から出来ています。車もビルディングもペンもスマホも形を変えた素粒子なのです。僕たち人間も素粒子の集まりです。

 


 現代科学では、人間にだけ特別な元素はなく、宇宙のどこにでも存在する元素の一部で人間は作られていることが分かっています。決して、人間だけが特別な存在ではないのです。

 今、私たちが見ているすべては、形を変えた素粒子の集まりです。それらが、ゆらゆら揺らぎながら、形を変えて今、目の前に「それ」として存在しているのです。

 

 

 たとえ固い金属という物質でも、高度な電子顕微鏡で見れば、たくさんの素粒子が集まって揺れていることが分かっています。身体の耳も、目も、手の指までも、同じ素粒子が細胞になり、それぞれの形を作っています。

 僕らの周囲を見わたせば、素粒子の波が揺れている世界なのです。それを見ている眼球も素粒子です。聞いている耳も素粒子です。音も空気の振動です。その空気自体も素粒子です。それに共鳴している鼓膜も素粒子からできています。それを感じ取る大脳も素粒子で出来ています。

 

 

 雨は降り水になり、それが、空に昇って雲になります。雨である水も、水素と酸素からできています。その水素と酸素も同じ素粒子からできています。

 地球🌏は素粒子の交響曲です。地球自体が壮大な素粒子の集まりです。いや宇宙すべてもそうです。

 昔、お釈迦さんはそれを知って、この世界はウエーブの世界で、増えることも減ることもない。道にある水たまりも、蒸発して雲になり、また、雨として天から落ちてきます。増減不滅なのです。

 汚いも、キレイもない。そうウンコ💩も、お花も🌸素粒子で見ると同じなのです。貧乏もお金持ちも、素粒子が形を変えた「モノ」が多いか、少ないかだけなのです。いや空気も素粒子だから、貧乏人もたくさんの「空」という形を持っているのです。命ある身体も「死」という変化で、水や土や空気に散って大地に降り注ぎます。

 僕がインディアンの地で住んでいる時に、長老に「淋しい時には、靴を脱ぎ、足で大地と会話をしなさい。たくさんの強い戦士や、優しい知恵者の思いが、お前を導くから…」と言われ、教えられたように「母なる大地」に愛おしく指や足の裏で触れ、安心したことがありました。それを告げると「大地から離れると、人は心の病気になる」と教えてくれました。現代は大地と日頃はふれ合えません。

 

 

 僕の経験からも地震や津波に見舞われた子供たちの絵画は、アースカラーの茶色をふんだんに使っていました。幼い頃、両親が不仲になり離婚でゴタゴタしていた時期に、僕はよく砂漠の夢(渇き、不毛、砂の不安定感)を見ていました。ユング心理から言っても、僕は家庭(大地)に渇きを感じていたのでしょう。心理学を学んで、僕の心が、その頃に安定を渇望していたことがよく分かります。

 


 いつか、僕たちの肉体は約束の時が来ると、素粒子に変えられて大地に帰ります。その時に僕は「風になりたい」と願っています。今の僕の身体は、その場所に行きたくても、スグには行けません。そして、同時に、別々の場所に行くことも不可能です。でも、素粒子には、それが可能なのです。時間と場所の制約から素粒子は解放されるのです。これは「量子もつれ」と言って量子力学の常識です。これを説明すると膨大な説明になりますから今回は遠慮します。

 生きる時間は学びなのでしょう。

 いや、制約があると言うことでは牢獄なのかもしれません。だから、仏教では人生を修行と説き、キリスト教では生きること、それは罪人として学びの時間だと言うのです。そして、学んだ人だけが、涅槃や天国に行ける許可が出るそうです。

 なので、生きるのが辛く、苦しいことがあるのも当然なことなのかもしれません。

 僕は「辛くて死にたい」と訴える人に、「死ぬのは自由だけど、修行放棄、牢獄を許可なく脱走すると、もっと、たいへんな環境に、もっと人間関係が大変な場所に送らされそうな気がするなぁ」と話すことがあります。
 いや、僕は冗談ではなく勝手に、そう信じています。だから、生きていて、冬のような淋しい時代や、胸をかきむしるような出来事にも出会うかもしれません。いや、今までも出会って来ました。これからもそんな事が何度でもあるのでしょう。だから、しっかりと生きて学びを終わらせようと…

 だから、早く亡くなる子供たちは、優しい神さまが「もういいよ」と呼んでくれたのです。呼ばれないのに行く自殺は完全に牢獄からの脱走です。しっかり学びは終わらせたいです。

 


 ですから、職場で嫌いなアイツも、あの人も、もともとは粒子の仲間です。いつかは大地で混ざる仲間です。頭で作られる「許せない💢」という感情も、その感情を作り出す脳自体も、粒子なのですから、それも「空」なのかもしれません。

 


 心が「空」ならば、心のキャンパスに、どんな色をつけるのかも僕たちの自由なのです。それが学びなのでしょうね。

 これが「色即是空」なのかなぁ〜。ね、お釈迦さん!

 

 

 


 

 

 

 

学問という荒野に身を置いて…

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 近々日本に大地震が起こると言われています。

 

 

 昔、小松左京さんの「日本沈没」という衝撃的な本がありました。最後に日本人が難民になり、各国に転々と旅立つ人びとの中に主人公の姿がありました。その時に一番に助けを求めたのは近隣の国のアジアでした。

 

 

 ただ現代の日本は、アジア諸国との関係は決して良好ではありません。

 


 いざとなればアメリカが助けてくれると思っているから、アジアとの外交関係にそれほど日本は力を注いではこなかったからです。

 

 同じ敗戦国のドイツは自国の予算でアウシュヴィッツを「負の遺産」として管理し、彼らドイツ人自身が、事あるごとに戦争の反省を国際的に表明しています。

 

 

 だから、ドイツの攻撃によって被害を受けた国がアウシュヴィッツ〇〇像をドンドン建てることはありません。そして、近隣の国からドイツは嫌われてはいません。

 日本が唯一、世界に認められて来たのは平和憲法です。

 

 

 武力による平和解決を永久に求めないと…なぜなら「平和」は立場によって違って来るからです。ある国の平和のために、ある国の平和が攻撃されることもあるからです。だから、僕たち日本人は防衛以外の武力を放棄してきました。これは国際憲章にも合致しています。ですから、世界で幸せな未来を作る美しい憲法だと、人類の平和を願う心ある人々から賞賛されてきたのです。

 

 

 あの終戦からV字回復した高度経済成長は、朝鮮戦争にも、ベトナム戦争にも加担せず、せっせと未来の幸せを求めた日本人の平和への願いが、そこにあったからです。戦後72年、憲法発布から70年で、今やそれが塗り替えられようとしています。

 今回の国難突破解散もフタを開けてみれば、自民党の圧勝になるとの世論調査の結果です。民主党の希望の党への合流は、保守派もリベラル派も合わせて議論のうねりが国に起こるのかと希望を持ちましたが「リベラル派は排除します」との小池さんのかけ声でいっきょに憲法改正へと日本全体は舵(かじ)をきろうとしています。

 外交専門家のアメリカの友人が「日本は、なぜそこまでアメリカ政府だけを信じて外交を進めているんだ?俺たちアメリカ人だって、今のアメリカ政府を信じられないと思うし。それに何かあってもアメリカは、自国の利益を考えて、そこまで日本を助けないと思う。だから、外交には、ありとあらゆるオプションを用意しておかなければいけないのに…」

 


 過去の歴史を冷静に見つめれば、人びとの歴史は「正しい方向に向かうか?」と言えば、最悪な方向に舵をきることも歴史上の事実なのです。とくに国が崩壊する前には最悪の選択をしてしまうこともしばしばあります。

 「ローマ帝国はゲルマン人(蛮族)によって滅ぼされた」と、世界史で僕は学びました。実際には蛮族がローマ帝国崩壊にやり得たことは、倒れかけの人の背中を軽く押した程度にしか過ぎません。なぜなら末期のローマ帝国は政治の腐敗、民衆は目の前の楽しみにだけ意識をむけて、大衆文化は荒廃しきっていました。

 第一次大戦で帝政ロシアのバルチック艦隊を撃破した日本帝国海軍は、第二次世界大戦のミッドウェー海戦では大敗北を喫しました。零戦(飛行機)に積み込むのは、魚雷か爆弾かの指揮権の乱れ、指示伝達のミスなどが幾重にもかさなり、戦艦の数でアメリカを上回る、日本帝国海軍はミッドウェー海戦から敗戦の方向へとなだれ込んで行きました。

 アメリカでトランプの大統領当選。日本の安倍首相のトランプ頼みの片寄った外交政策。そして、北朝鮮の動きに大衆の不安が、重なる時期での選挙。さらに野党の混乱。そして、フタを開けてみれば安倍首相の願った以上の自民圧勝の投票事前調査。

 おそらくアメリカに頼り、逆らえない日本は平和憲法改正へと向かうことでしょう。

 第二次世界大戦へと日本が、徐々に平和な時代から戦争へと引きずりこまれたように、最悪の時には、日本は最悪の選択をしてしまうものなのでしょうか?

 


 その時にアジア周辺の国々や世界の心ある人々から、日本は「不戦の願い」のリーダーシップへの発言権を失ってしまうことになるでしょう。

 


 文明が強大だと、どこから道を誤り始めて、崩壊に向かったのかが分かりにくい。
 ローマ帝国滅亡の50年も前から、ローマの滅亡を予告した人がいます。シリアの荒野に住んでいた聖ヒエロニムスです。彼は滅びるローマ帝国を冷静に観察していました。「世界を支配して来た巨大ローマが、今や蛮族に滅ぼされようとしている、それは剣ではなく心の崩壊だ…」

 


 僕もヒエロニムスのように、大衆心理学という観点から、個人、個人が集団に巻き込まれてしまう危険性を、心理カウンセラーという立場(荒野)に身を置いて、時代の流れや、人々の愚かさを冷静に見守りたいと思っています。

 僕たち日本人は、どこに向かうのでしょう…

 

 

 

 

 

 

 

ヘラヘラ…

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 「先生は落ち込むことがないですか?」と質問をされました。

 


 「僕も落ち込むことは、もちろんあります」ただ、他の人よりは落ち込みが少ないかもしれません。実はそれには理由があるのです。

 その理由は、僕が精神的にタフなわけでも、あまり物事を気にしない性格からでもないのです。

 


 おそらく僕は幼少期から青年期まで、人一倍、人の顔色をうかがい、精神的にはスゴく物事を気にするタイプだったと思います。

 今、その基本性格が無くなったわけではなく、今はそれが、他人の心の変化を敏感に感じとり、自分が言い放った言葉を、後でジックリ考えることで人間関係の誤解を取りのぞくのに都合よく働いてくれています。

 本題にもどりましょう。

 落ち込むことがあっても、なぜそれほど落ち込まなくなったか。

 その答えは「人は落ち込むものだ」と思っているからです。

 


 僕たちの生きている世界には、様々な性格を抱えた人たちや、たくさんの価値観を持った人たちと、一緒に生活をするのが社会生活です。

 ですから、思いもよらない出来事や、自分が発した言葉が、思いもよらないように受けとめられることも(・・?)生活をしているとときどき起こります。それが、イヤなら無人島で孤独に耐えて生きるしかないのです。

 なので結論から言うと、人は思いもしないことに出くわすと「え!なんで?!と、落ち込むものです」だから、それは当たり前なのです。

 問題はここからです。
 落ち込みやすい人びと接していると「落ち込みはよくない!!!」と恐ろしくも確実に信じています。それが二重遭難になり、さらに深みに落ち込むのです。

 僕は「落ち込んだなぁ〜」なのです。落ち込みやすい人びとは「落ち込みはよくない」と確信しているために、落ち込んでいる自分に対して、さらに二重に落ち込むのです。

 呼吸するのが当たり前なのに、呼吸がよくないと思い込んだら、呼吸している自分に苦しくなってしまいます。

 悲しみも、落ち込みも、うらやましさも、自然の感情です。自然の感情を「悪いものだ」と悪者にすると、その感情を持っている自分がキライになります。

 それが、自分が好きになれないという劣等感に変わります。

 「前向き!」と言われると、後ろ向きな自分を嫌いになります。「明るく!」と言われると、暗い自分を好きにはなれません。それらは、誰かに教えられて、がんじがらめに縛られてしまった「歪んだ常識」です。もちろん、前向きなほうが人は清々しいし、明るいほうが人は寄って来やすくもなります。でも、心は自然と同じで、風も吹けば、雨も降る、それを晴れていなければいけないと、自分で思えば、自分という自然を愛せません。

 


 そうして、自分の自然を愛せない人は、子どもにも、その自然を拒否した教えを教育するのです。だから、自分の自然を愛せない人は、身近な人にある自然な感情も認められません。だから、呼吸するくらい普通の落ち込み現象を「よくない!」と教育で責めてしまうので、気づけば子どもも精神が病んでいくのです。

 そのため、落ち込んでいる時は「落ち込んでいるなぁ」=「雨だなぁ」と同じくらい普通のことだから「落ち込んでいる自分はよくない」と二重遭難しないことを、僕の心理学のクラスでは教えています。

 そう自然の波は逆らわず。落ちるエネルギーが、次に盛り上がる波のエネルギーを作ります。だから、落ちる時に落ちたくはないと自然の波は、もがかないのです。

 

 

 またいつか上がれるのです。なので落ち込む時は、それは自然の感情ですから、否定も、抑圧もしないで受け入れるしかないのです。「落ち込んだなぁ」「悲しいなぁ」「うらやましいなぁ」は自然です。

 「また、上がれるさぁ!」と心の自然のパワーを信じて「ポジティブ」に「前向きになれません」とヘラヘラしてましょ!

 


 ⚠️もちろん、前向きになります!!!というフリは大切です。

 

 

 でも、心の中では「ヘラヘラ〜」ってね。

 

 

 

 

 

障壁(ストレス)のない世界で人は育つのか。

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 先日、お子さまがイジメにあったと相談がありました。

 弁護士も立て、夫も許せないと憤っていると言っています。母である相談者も「子どもが可哀そうで…イジメた子どもが許せないと思います」と…学校も、イジメた子どもたちも、それを認めていると言う。

 


 どうやって制裁を加えるか…と言う話になりました。弁護士の先生も「学校も認め、子どもたちも証言し、ビデオという証拠もそろっているので勝つのだ💢」と言うことでしたとお母さん。

 

 

 僕は、愛する我が子がイジメられるのは、親として身を裂かれる思いなのだという感情には共感はできるのですが、同時にイジメてしまった側の子どもたちの不安も敏感に感じてしまうのです。

 おふざけからイジメの世界へ…

 そんな子どもの世界(おふざけ)から大人の世界(制裁)へ…冗談が冗談にならないことを学ぶのも教育のプロセスだと思うのですが、それが、過剰な制裁になってしまうことには僕は相談を聴きながら複雑な面持ちになってしまうのです。

 もちろん、イジメは良いことですか?悪いことですか?と問われると、僕も良いことではないと言うのですが……子どもの時には「じゃれ合いが、ケンカに。親しみが、相手にとってはイジメに。それで相手は傷つくのだ💢」と、知って学ぶことは、人が成長する大切なプロセスです。もちろん、すべてのイジメが、そうだと言うつもりもありません。大人の関与が不可欠な場合もあるからです。

 ただ、 じゃれ合いが、シツコくなり、それが、受ける者と、ふざける者との間にギャップが生じることもあります。「冗談も、度を越すと冗談にならない❗」と大人から叱られて、幼い心は学び、反省もし、後悔も生まれ、健全な大人に成長していくのです。  

 

 

 問題はどこまでが、冷静な教育上の罰と、我が子への可愛さからくる過剰な罰なのかの見極めが難しいと言いたいのです。

 今は弱者の立場が認められる時代です。

 学校のイジメ、組織のパワハラ、ブラック企業、過労死、どれをとっても許されることではないのです。ただ批判されることを承知で言わせて頂くなら、学校でイジメがあっても、決して死んではいけないし、過労の限界を超えても、会社を辞める自由もあり、死の選択というのはやはり僕は残念でならないのです。

 僕の娘がイジメにあって「いつも皆に死ねと言われる」「誰も一緒にお昼ご飯の時に仲間に入れてくれない」と悩んだすえに僕に相談してきたことがありました。

 

 

 僕は娘に言いました「お前が死ねと言われる側でよかった」「お前が誰かを仲間はずれにしている側でなく、される側でヨカッた」と一番先に感謝を伝えました。もし、それが逆の立場なら、パパはおまえと冷静に話す気にもなれないくらいにショックだったし、今この瞬間に「家を出て行け!」と感情的になっていたかもしれないから、と…だから、お前が言われる側、される側でヨカッた。   

 もし逆の立場だったら「僕たち家族の教育はなんだったんだ?」「パパはお前に何を教えて来たのだろう?」「どんな姿を見せてきたのだろう???」と、パパは自分に自信をなくして泣いていたかもしれないから。

 そして、「“皆”に死ねと言われると言ったけど、“クラス全員”がってこと?」「確認してみたの?」「“誰も”一緒に食べてくれないと言ったけど、“誰も”なの?」と僕は彼女にたずねた。

 「そう…」と娘は言った。「じゃ、そんな学校は辞めよう。いやパパからお願いする、辞めて欲しい!」と僕は娘に言った。そんなアホな学校は辞めよう。娘は意外な反応に「え?」って感じの顔をしました。

 もう、お前が辞めると決めたなら、お前にやってもらいたいことがある。「何を?」と不思議な顔の娘。

 どうせ辞めるなら「一緒に私とご飯を食べてもらえない?」とクラスのメンバーの一人、一人に、お願いしてみたらどうだろうか。それで、全員が「あなたとはイヤだ」と“皆に“断わられれば、そんなクソみたいな(言葉がひどい、でもリアルな描写です)クラスは、辞めても未練はないだろう。後で後悔もしないし…でも、もしかして、辞めた後に「もしかしたら…誰かが」と、思うと君が後悔するかもしれないから。

 でも、それは勇気がいることだし、パパは代わってやれないから、たいへんな事だし、難しいことだと思うから無理に『やれ』とは言えないけど…。だって、パパがお前の立場なら出来ないかもしれないから。一度考えてみて…と、僕は娘に告げて終わった。(ムリだろうなぁと思いながら)  

 

 

 結果は…。彼女は数日後、自分でクラスのメンバーに声をかけて行ったらしい(妻からの報告)、すぐに「一緒に食べよう!」と言ってくれる友が現れました(へー!と僕)

 そこから彼女はクラスの仲間も増え、その年に中学校の修学旅行がありました。彼女はそのクラスと離れる時に泣いたのです。「いい友だちに出逢えたと…」✨✨  

 いつか、子ども達も大人になり、職場に入った時には、理想的な職場ではないし、優しいだけの先輩たちだけでもないでしょう。その時に彼らが、どのように、その環境の中で、泳ぎきって生きて行くのか。このサバイバルに立ち向かわせるのも教育だと思うのです。トラブルのたびに親が弁護士をたて、正義か、不正義かの戦いを子どもに見せれば、子どもは正義だけを主張するやりにくい大人になってしまいます。

 「清濁一緒に併せ呑む」綺麗な水も、泥水も飲んでも死なない強い精神の大人になることを、僕は子どもに望みます。

 


 「水清ければ魚棲まず」キレイな水、濁りのない世界は、不完全な矛盾ある自分自身をやがては否定し、アップアップと呼吸ができないくらい、生きづらい場所になってしまいます。なぜなら、人は誰もが完全ではなく、多くの人びとは矛盾のある不完全な存在だからです。

 


 「泥の中に咲く蓮の花」大切なことは、泥の環境でも、その最悪な環境に影響を受けず、自分らしく、美しい花を咲かせる生きかたができるかは自分次第です。
 「自分がこうなったのは環境(親、学校、職場)のせいです」は、自分自身の努力を放棄した人たちが使う言葉だから。

 


 そこに「そうなのよ。あなたは決して悪くないわ」と親が介入し過ぎると、より自己愛の肥大した大人を作りあげてしまいます。やはり周囲と上手につきあう社交術は、許すことも、誰かに許されることも反省をうながす大切な要素だからです。

 夏目漱石も「智に働けば角が立つ。情にサオさせば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい」と言っています。

 僕の解釈だと、この社会は「私、間違ってませんから!」と、自分の正義だけを振りかざすと、他人と衝突します。逆に人の気持ちを思いすぎて、情けだけで相手にあわせて動いていると、自分の考えを伝えることができず、相手に対して折れてばかりになり、人の意見に流され、自分がない気分になります。それがイヤだからと、突然に自分の意地を主張し「私、間違っていませんから!」と周囲のムードに対立すると、周囲からの協力を得られずに孤立してしまいかねません。

 だから、人の世は、住みにくいと漱石は言ったのです。

 

 

 大切なのはバランスです。

 それを教えるのは親の「正しい!間違い!」善悪の二元論ではなく、許し、許される、回復力の高い、子ども達のバランス能力から学ぶことも必要です。

 幼い子どもたちを観察して下さい。ケンカしても、次の瞬間笑い合って遊んでいます。

 そこに「許してはダメ」「これはヒドイことなの」「怒りなさい」と、親が幼い頃の自分の思いを投影し、親の善悪のジャッジに、子どもの心はさらされてゆきます。その結果、子供たちは「こんな弱い自分は生きている価値はない」と思うか「相手を攻撃してやる〜💢」と自分の正義で、相手を攻撃し、周囲からすると、煙たい存在へと変わってしまいかねません。

 


 子どもが職場に入って、社会生活にいたるまで、親が介入するには限界があります。だから「お前なら乗り越えられるよ。大丈夫。信じているよ」と信じることです。彼らが自分で学ぶ、それが大切な彼らの生きた教育なのです。

 だから、親は「木」に「立」って「見」ると書くのですね。
 あまり木から親が降り過ぎると「どうかなぁ〜」と思うのです。

 


 「衛藤先生の子どもではないから、そんなことが言えるのです💢」とお叱りの声も聞こえて来そうです。

 「はい、そうですよね。すみません?💦」

 (小声で)「あの… 僕このお母さんに…イジメられました…傷つきました。弁護士の先生😭…訴えたいですが…僕の声が聞こえますか…」(小声で)

 

 

 

 

 

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