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Channel: 日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき
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父の日考。

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 父の日でした。
 とても怖い父でした。男のクールさと、優しさが同居した人。

 子どもたちを連れて、大分の田舎に帰った時に、父が孫である息子にレーシング・カーを買ってくれたことがあった。ところが、自宅に車で帰ったらモーターが箱の中には入ってなかった。

 「明日、街に出た時に、おもちゃ屋にかならず寄るからなぁ。我慢しような」との、僕の説得に、息子はスグに納得してくれました。

 でも、気がつけば父と車がなかった。1時間くらいしたら、父が「オモチャのモーターが玄関に落ちとったぞ…」と孫に手渡していた。

 僕が「街に行ったの?」と尋ねても「街になんか、行くわけがないだろ!」とぶっきらぼうに答えるだけ。そう、親父はそんな人だった。

 包装紙を破って、この僕が開けたのだから、玄関に落ちているわけがない。でも、それを問いただし「行ってくれたんだろ?」とたずねても同じような返事が、親父からは突き返されるだけ。 それが、分かっているので「そう⁈」とだけ言って、僕もそれ以上にはたずねない。

 それが、僕たちの関係。

 長年つちかってきた親子の間合いかもしれない。「感謝」や「愛情」の有無を、確認し合うことが、何よりも苦手な人なのが親父だった。

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 まさに後ろ姿の人。そう、アピールはないけど、行動で本音がわかる。

 僕が盲腸で苦しんでいる時に、親父は車で、病院を探してくれた。インターホン越しに病院が冷たく応じたことに腹をたてた親父は、シャッター越しに怒鳴っていた。

 運よく病院側の人は、中から出てこなかったから良かったものの、あの勢いでは、病院の関係者を殴っていたかもしれない。そうなったら、僕の痛みどころではない。

 親父は喧嘩早く、血の気の多い人。

 次の病院を探すために車に乗り込み「あんな病院はヤブ医者や!」と怒りながら運転していた横顔は、いつもの迷惑な人よりも、父親の愛情を感じていた。

 やっと、病院が見つかり、痛みの原因が盲腸だとわかり、痛み止めの点滴をしながら、ベッドで僕が落ち着いた時「大丈夫や、これくらいで死ねへん!」と言いながら、優しく布団の上から、親父の手がトントンと叩いてくれた。そう「これくらいで死んでたまるか」と、親父は自分の不安を振り切るように、自分に言い聞かせていた。

 僕は、病院にいる不安より、短気で飽き性の父親が、布団の上から優しくトントンしながら横にいることが、とても安らいで、それが終わらないうちに「眠らなきゃいけない」と必死だった。それが、とても長い時間に思えた…気がついたら僕は眠っていた、ありがたいことに…トントンを感じながら。

 その当時「お姉さん」と呼んでいた、同居していた父の恋人が、病院に洗濯物を取りに来た時の話題すら憶えている。

 「この間ね、お父さんがね、夕方、電気を点けることも忘れて、台所の暗い中で、お鍋やら、やかんのネジを一生懸命に締めていたの。それを見たら本当に、お父さん可愛いと思っちゃった」と、小学生の僕にノロケられたこともあった。

 大人になった今なら、お姉さんの気持ちはわかるような気がする。

 ぶっきらぼうな親父が、夢中になって電気も点けないで、そのお姉さんが料理をしている、調理器具を一生懸命に修理しているのですから、親父の少年のような単純さが、可愛く見えたのでしょう。

 ただ少年のような父のその単純さが、裏目に出ると、母に暴力をふるったり、車の運転をしていても、喧嘩早く、短気な父は、家族そっちのけで路上で喧嘩を始める。

 愛人ができると家には帰らず、愛人と過ごすことが多くなり、外車などに乗って羽振りはいいのに、お金を家に入れない人。

 いや僕の想像だと「お金を入れなくても家族は何とかなるさぁ」と夢の中に住んでいた人、少年のように愛に夢中になっていたのかもしれません。

 そんな少年のような親父が好きで、生活を始めた女性たちの何人かは、自分以外に女性がいることを知ってしまうと、自暴自棄になり、家事などを放棄する人もあった。

 その女性の一人に「これが家にある最後のお金だから」と、お札をにぎらされ、僕や妹、その女性(ママ母)の朝食のために、寒い季節に、パンを買いに行かされる。そのたびに、友人たちの朝食のやさしい風景を想像し「なんで親父は、ああなのだろう」と、何度も親父を恨めしく思ったこともあった。

 でも、心底、父親のことをキライにはなれなかった。

 それは、病院に向かって怒鳴っているシーンだったり、一度、キャッチボールをやってくれたシーンだったり。

 その頃の僕は、小学校の低学年で、初めてグローブをつけた日。僕の投げ方が上手くないために、ボールがそれる。そのたびに、親父が後ろや、前に取りに行くのが、子どもなりに気が引けて、申し訳ない思いで、僕から「もう、いいよ。楽しかった」と言って終わらせた。そのせいで大人になってもキャッチボールだけは僕は得意だ(笑)

 そう、もう二度と親父に、迷惑かけないようにと練習したからだと思う。

 そうやって、ツラいシーンよりも、そんな数少ない親父の優しい思い出が、最終的に、親父をキライにならなかった理由なのかもしれない。

 人によって違うのだろうけど、やはり思い出は美しいものだと思います。

 カウンセリングをしていると「子どもに関わりたいと思っていても、仕事から帰ったら子ども達は眠っていますから…」と、ふれあえない理由だけを述べられる親たちに出会います。

 帰宅したとき、たとえ子どもたちは眠っていても、子供部屋に入って、子どもに布団をかけるでもいいし、トントンしてあげるだけでもいいのです。それだけで、不思議と愛情は伝わるものだと僕は信じています。

 話は変わりますが、未だに父は、我が家に電話をしてくる時に、妻が電話に出ると「坊主は元気でやっとるか?」「坊主は今いるのか?」とたずねます。妻も、それが可笑しいようで「坊主さん」と、僕に受話器を手渡します。

 僕は、そんな昭和の親父が大好きで、僕も自分の子供たちが、どんなに大きくなって、手の届かない場所に行っても「おい!坊主、元気か?」娘には「おチビさんは、生きてるのか?」と言ってやろうと思っているのです。「もう、私はおチビではないから」と言ったら「何言っているんだ。お前は、俺からしたら永遠におチビなんだよ」って、言ってやろうと…昭和の僕の親父を受けついで…

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 父の日でもない日常に、僕は父に電話をする。
 突然の僕からの電話に、父は当初は戸惑っていた。

 「元気ですか?父さん」「元気だ!なんや!」「いや、これと言った用はなくて、もう、父さんしかいないから。血のつながっている年上は。長生きしてもらわないと困るから…」「お前が心配せんでも、生きとる!で、お前はどうなんだ」「あ、おかげさまで、父さんの子だから身体はタフで」「そうか。お前、こんなことで電話するな。アホか!」「その元気そうな声を聴けたから安心したよ。身体に気をつけて、じゃぁ」

 でも、今はいい感じの電話のやり取りが多い。

 「一分間の親孝行」です。そして、電話を切ったあとに、僕も癒されている。

 そう、それは、いつか親父がこの世を去った時に、自分自身がやれる範囲で親父と関わった、あれ以上でも、あれ以下でもなかった。たとえ「相手との過去がどうであれ、自分は自分らしく関わった」という自己証明が僕は欲しいのだと思っています。

 それが自分の生きざまだから。

 誰かの死には、完全な満足はありません。かならず「もっと、こうしてやれば良かった」と後悔はつきものです。でも、最低限、自分の「今、ここ」で、ムリをし過ぎない程度には、やれることは、今やれた。その瞬間のベストの選択は、きっと、自分の人生を支える、背骨になるのだと思っています。

 情けは人の為ならず 。

 あなたが今、親にしている態度は、あなたの後ろ姿を見ている誰かにとって、未来、あなた自身に、どう接するかを学んでいます。

 あの頃は、おびえていたが、今は自分が強くなったから、その誰かに偉そうにするのか、真に強くなったからこそ、誰かを敬って接するのか? を…そこに、人間の真なる強さが問われるのです。

 人生を導いてくれた、恩人にその後、どう接するかで、その人の本当の真なる姿が見え隠れします。

 だから、僕は昔と違って、父には敬語を使っています。
 
 「お父さん、お元気ですか?」そして、万感の思いを込めて「お元気で…」と電話を切ります。
 
 真なる男の強さを、子どもたちにも教えたくて…後ろ姿で…

 僕も昭和の親父を受け継ぎたいから。






日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき










より愛ある行動を、子どもは受け取る。

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 ある講演会で質問があった。優しそうな奥さんからの…

 彼女には夢があった、結婚したら、悲しみは半分に、喜びは倍になると、そんなステキなイメージがあった。

 ところが、現実の結婚生活は、そのような理想のイメージどおりにいかなかった。

 奥さんが、朝起きて「いい天気ね」と言うと、ご主人は「それが何だよ、暑いだけだよ」と言い、一生懸命に料理を作っても、ほめる言葉はなく「味がない」「色どりが悪い」「マズイ」とマイナスなことの連射攻撃。

 テレビで笑ったり、感動して泣くと「お前は単純だなぁ」「何も分かっちゃいない。裏があるんだよ。こんなのは…」と、冷水を頭からかけられるような、マイナスな言葉が返ってくる。

 ただ、自分だけのことなら彼女は耐えられた。

 子どもが誕生してからは、彼女の悩みは深刻化してゆく…

 結婚相手である、ご主人の冷ややかさが子供に影響するのではないかと…

 彼女が何よりもツラいのは、子どもが素直な心で感じたことを、ご主人が頭ごなしに否定し、あざ笑う。

 彼女は大人だからご主人にマイナスを言われてもかまわない。でも、子どもの素直な心はゆがめられ、間違った価値観を受け取るのではないかと…

 このような相談に対して、奥さんの話を聴いて「それは、ひどいご主人だね」と、彼女の言葉を受けとって、カウンセラーが、ご主人を攻撃しない方がいい。なぜなら、悲しそうな表情で、相談している奥さんには、そのご主人と離婚する気はなく、まだ、彼を愛している。

 その証拠に、相談をしている奥さんの表情は、ご主人を憎んでいる表情ではなく、悲しそうな顔をしていた。

 僕は、奥さんが「主人の性格なのか?」と、不安がっているのを感じて「ご主人が家族にマイナス言動を言うのは、家族が憎いのではなく『ただ、かまって欲しい』のかもしれない」と、別の見方を提示した。

 すると彼女は、ホッとした笑みを見せた。やはり、この人は、ご主人を憎んでいるのではない。

 僕は「ご主人が家族に、マイナスなことを言うのは、フラストレーション攻撃説と呼ばれるケースもある」と説明した…

 学校の成績が、親の望むようなレベルに到達しない場合、生徒は親から認められないことがあります。そこで愛情飢餓感から、生徒は問題行動(非行・暴走行為etc.)を起こしたり、病弱(心身症)になって、親に心配させるという方法で、親の関心を引くことがあります。

 職場でも、なかなか思うように周囲の評価が得られない時に、皆で決めたことも「俺は聞いていないからむかっ」と、うそぶく社員もそうです。

 また、どうせ俺は問題社員だから、なら「それを演じてやろう!」とマイナスの行動で周囲の注目を集めようとする場合もあります。

 だから、ご主人の問題行動も「言葉通りではない場合があります」と告げると、さらに彼女は安心したのか、少し安堵の色を表情に浮かべた。

 ご主人も、どうすれば、家族にステキな関係が築けるのか、分からないだけかもしれないし、それが「正しいコミュニケーションだ!」と間違って、身につけているだけかもしれないからです。

 そのゆがんだ、ご主人のコミュニケーションを修正していく方法は、心理セラピストのお得意とするところです。

 だから、あとは心理学で、間違ったコミュニケーションを修正する「夫」操縦テクニックを学べばいいのです。

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 さらに、彼女のように、環境が子どもに影響することを悩んでいる人は多いようです。

 僕自身は子どもたちは、それほど愚かではないし、か弱くはないと思っています。

 どれほど相談者のご主人がマイナスな考えを持っていても、ご主人を否定しないように、奥さんは奥さんの価値観や考えを、シッカリと子どもに伝えればいいのです。

 子どもの目を見て「あれはお父さんの考えね。お母さんは、こう思うのよ…」と、自分の思いを語ればいい。

 「世の中には、いろんなことを感じる人がいて、それをあなたが選ぶのよ。あなたは、あなたの考えを持てばいいの…お母さんの意見はね…」と。

 子どもへの最高の強みは、子どもを愛し、心を砕いている優しいお母さんがそばにいること。それこそが、僕が相談者の彼女に感じた力です。それが、やがて子どもには、最強の防御壁になります。
 
 アメリカの教室で、こんな議論がありました。

 アメリカ人のご主人と、フランス人の奥さんのカップルがいた。

 「どちらの国の価値観を伝えればよいのか?」と言う議論でした。

 その中で自分たちが出した結論は、国際結婚であっても、国内結婚であっても、自分たちが大切だと思っていることを日々語り伝え、それぞれが胸を張って生きればよいと…その中で子どもは「ステキだなぁ」と感じた生きかたを受け入れる。これを心理学では「好意のモデリング」と呼びます。

 人は言うように育たなくても、真似たくなる生きかたを受け取って育ちます。

 幼い時には子どもは親のマネをします。親に憧れ、親が大好きだからです。でも、思春期になって「どうも親は楽しそうでない」となると、その時期に憧れている先輩や、好きな芸能人の生き方のほうを真似し始めます。それを親たちは、子どもの反抗と感じるのです。これが反抗期です。

 でも、長い歳月をかけて、親がステキに年齢を重ねていると、やがて子どもは、成人し、親の生き方に戻ってきます。ただし、それは先にも書きましたが、親が年々ステキな生き方をしていること、という但し書きはつきますが…。

 僕は最近、このように思っています。

 世界を旅すると、世界には貧しくて、幼い時から働いている子どもたちがたくさんいます。「稼ぎが悪い!」と、納屋に閉じこめられ、ぶたれたりする不幸な子どもたちが世界には数多く暮らしています。

 そんな、悲惨な子ども時代を過ごせば、精神医学的に見ると神経症や心身症、または、鬱などの精神トラブルが生じてもおかしくは無いはずなのです。にもかかわらず、うつ病や引きこもり、ニートなどのストレスからくる精神トラブルの報告が少ないのです。

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 逆に、日本のように飽食の時代に生まれ、なに不自由ない家庭の子どもたちのほうが、引きこもりや、ニート、パニック障害などを引き起こし、その数は年々増え続けているのです。20代、30代の死亡率のトップは日本では自殺です。これは先進7カ国でも日本だけです。

 これが現代の、日本の「心理パラドックス」です。

 親子関係がマスコミに語られれば語られるほど、自分と親との関係を人と比較して落ち込む人が増えています。子どもの問題が浮き彫りにされるほど、子どもは「自分は愛されていなかったから…」と、自分の責任を放棄して、働かない若者が増えてゆくのです。

 僕のカウンセリングルームに来室される相談者にも「私は親に愛されなかった」と、親への恨みを語りながら、親の家に住み、親に対して、ある一部分でも多いに頼りながら「自分の都合のよいところは干渉しないで!」と、いまだに幼子のように親を攻撃する、甘えの心理から抜け出せない相談者がたくさん来られます。

 人間は、誰かに依存しないと生きられない存在です。でも、夫婦でも、親子でも、職場でも、誰かに依存するほど、その相手に対するイラダチは増え続けます。

 それが人の心理なのです。

 怒っている人に会うたびに、僕はその人が、腹を立てている誰かに「心の中を、いつも支配されているなぁ」と考えるのです。

 「親が、親が」と叫ぶほど、その人は、その親が重大に思えてくる。ならば、親を無視した世界で、カラッと明るく生きればいい。

 その憎き親に、しがみついているのは自分だということには、気づこうともしない。

 長年、カウンセリングをしていて思うことは「その人が、日々とり続ける行動が、その心の問題をより深刻化する」と、僕は確信しています。

 トラウマだ、インナーチャイルドだと深刻になればなるほど、それが重大な問題だと思えるから不思議です。

 トラウマがあっても飯は食えるし、インナーチャイルドが癒されなくても、死を選ばないかぎり、人は死にはしない。その強さが、自立した健全な大人なのですメラメラ

 話は脱線しましたが、あまり子どもの心がどうのと心配しないで、親は明るく胸を張って生きることが一番だと思っています。

 僕は子どもたちの先回りをして、ストレスのない環境を整えるのは、子どものタメではなく、親である自分の不安を取り除きたいタメだと思えるのです。それが、度をこすとモンスターペアレントのように「子どもが病気になっているから学校側が送り迎えせよ」「子どもが朝起きないから先生が起こしに来てください」となる。

 だから、お母さん「子どもは大丈夫!」と信じることです。きっと、この子なら親を乗り越えると!

 僕は、日本の子どもたちも信じています。君たちはきっと、乗り越えて行けるさ!と…

日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき-image

 【追記】2010年11月13日タイトル:どちらが正しい?にも、似たような記事がありました。コアなファンから教えて頂きました。感謝です!







日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき







一瞬の中の永遠。

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 今日は七夕です。

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 年に一回逢えるなんて、どれだけ待ち遠しかったでしょう。

 僕が大好きだった伯母に「なぜ結婚しなかったの?」と、学生の時にたずねたことがあった。(若さとはいえスゴい質問です)

 僕の質問には明確に答えず、伯母は女学生の頃の話をしてくれた…

 彼女が学生だった頃、お兄さんとその親友の会話が好きだったと、宇宙の話、旅の話、動物の中で人類とはどんな存在なのか?そんな話を静かに、二人のかたわらで聴いているのが楽しかったと…

 「のぶゆき、男の人の会話って、女性にはない話題が多かったの。友達がどうしたとか、あの人はどう思ってくれているのだろう…という、女学生との会話と違って、世界が広がってゆくのが好きでね。だから、その人が遊びに来るのが楽しみで。お前も、そんな話が好きだから、のぶゆきの話を聞いていると、男の子だねと思うのよ」と…

 「その人のこと好きだったの?」

 「さぁ、どうだったんだろう。でも、その人は若くして雪山で死んじゃったの。だから、好きだったのかも分からないまま」

 「そう、でもその人のことを思い出すのは、伯母さん好きだったんじゃないのかなぁ…」

 「死は、若い時のままで思い出に残るから、美しくもあるし、残酷でもあるわよね。だから、その男性のイメージは、雪の白さみたいでね。沈黙の白い雪。雪が静かに降るみたいな、静けさだけが残ったの」

 すべての沈黙のベールでおおうように、伯母は話を締めくくった。

 僕は、話を聞きながら、女学生だった伯母に出会っていた。

 今の時代の、さわがしい恋人同士のやり取りよりも、その秘めたる思いが、今もこの伯母の中に、静かに白く燃えているのだと、僕はその時思った。

 この会話も、はるか昔になったけど、今でも「若い人の死は、白い沈黙のよう…」だけが、なぜだか僕の印象に残った。

 そう、真っ白なまま、途中で書かれなくなったノートみたいに。

 だからこそ、その人が生きていれば、どんな歴史が「そのノートに書かれたのか」と、生きている者だけが取り残される…

 老人ホームに慰問に行った時、自分の夫のことを忘れていても、戦地に旅立って行った、初恋の人のことを今でも、昨日のように話してくれる老いた女性に出会った。

 神社の先にある鎮守の杜に呼び出されて、白い軍服の彼と最後の別れ。

 「明日、戦場に旅立ちます。なにとぞ、お元気で…最後に、お願いしてもいいですか?」

 「はい⁈」

 「あの…あなたの手を握らせて下さい」そう言って戦地に向かう若者は、白い手袋をはずした。

 そして、愛する人の手にそっと触れた。この感触、この瞬間を、自分の手の細胞一つ一つに凝縮し、記憶するように…

 その青年は「一瞬の永遠」から、我に返ったように、愛する人に敬礼し、「この手の思い出だけで、僕は心残りなく戦地に出向けます。なにとぞ、あなたは、お幸せに!」とだけ言い残して、青年士官は走り去った。

 最初で最後のデート。

 そんな思い出を、昨日のことのように語る年老いた、過去の娘がいる。

 思う時に逢えない恋の辛さと、毎日のように会っても、感動を薄めてゆく恋人たちの孤独もある…

 生きることでも、恋愛でも、その一瞬一瞬の「今、ここ」を、どう味わって生きるかなのだと思う。

 別れがあるから、出逢えた時の感動も、ひときわなのかもしれません。

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 年に一度の、逢瀬に乾杯!

 二人とも、その瞬間を味わって!


<追記>またもや、コアなファンから、関連記事を教えて頂きました。
2012/04/13時の神さま
2011/07/07七夕伝説!






日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき











泣けない、あなたへ

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 ある女性が、どんな感動的な話を聞いても、自分は涙も出ないと言う。みんなが感動していることでも、自分は何も感動もしないし涙も出ないと語った。

 ただ、唯一、自分が飼っていた愛犬が死んだ時には、泣けたのだと…

 何かの出来事が、人を感動させるのではない。その出来事に自分がどう関わったかに、人は感動するのだと僕は思う。

 ある幅跳びの選手が、日本初の新記録を樹立した瞬間に、スポーツ記者に「今どんな気持ちですか?」と問われ「今、死んでもいいです!」と泣いた。

 そんな彼も、以前は自殺を考えるほど落ち込んだ時があった。

 数センチの記録が縮まらないことに苦しみ悩んだ末のことだ。

 そんな苦しみの日々の中で「こんな数センチ、バッタだって飛べるんだ…そんな数センチくらいのことで、自分は何をクヨクヨと悩んでんだ。オリンピックや、記録のために飛んでいるのではない! そう、楽しくて幅跳びを始めたはずだ。自分は世界を背負っている気持ちになっているが、数センチ縮めても世界は変わりはしない。命が終わるわけではない。自分が楽しもう、そう、それでいい」と、心が楽になったと語る。
 
 「たかだか、バッタの数センチ!」バッタは飛ぶことに苦しんでなんかいない。飛ぶこと、それがバッタの喜びだ!そう思うと、急に心が解放されるように彼には感じた。

 「そうだ、バッタのように楽しもう!」そして、彼は練習を再開した。

 ところが、彼は次の公式試合で、当時の日本記録を書き替える結果になる。戦前以来の快挙、日本初の8メートル・ジャンパーになる。それは、当時では世界記録でもあった。

 「バッタだって飛べるさ」と言って笑った彼が、バッタだって飛べる距離を縮めた瞬間に、グランドで記者に囲まれて、感動のために彼は「今、死んでもいい」と大泣きした。

 現代の私たちは、一生懸命に練習し、苦しんだ末に言うべき彼の言葉を、何も努力もしないで言ってしまう。そう「バッタだって飛べる。バカみたい~」と。

 何かに一生懸命、夢中になっている人に「バカじゃない!そんなこと」と冷めて言ってしまう。

 練習し努力して、もう汗なのか涙なのか、分からなくなった後に、苦しみの中で言うべき言葉を、何も努力しない人々が、日常で言ってしまう「バッタだって飛べるさ」「あんなことにムキになってバカじゃない」「あんなジャンプに、何があるの?考えられない」「四年も練習してるなんて、ありえない」と…

 そう冷めた言動が、この世界を平凡で、退屈な世界に変えてしまう。これが生きる気力を失っている人に多い傾向です。

 人はバカみたいに、ムキになったことで、見えてくる世界があります。

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 追いつかないボールにぶざまに飛びついて初めて、見えてくる世界があるのです。グローブの先に飛んで行くボールを追いながら、自分の練習不足と、ライバルの放ったボールのスピードに、相手の努力の日々を知ることになる。そして、ベンチ裏の仲間は「ヤツは、試合を捨てていない!俺たちもあきらめるな ‼」と。

 でも、飛びつく前から「取れねぇし」と言ってしまえば、世界は、ただ面白くもない退屈な、平面な現実が広がるだけになるのです。

 だから、すべてを「くだらない」と言わないで、なんでもバカにしないで飛び込むことで、世界の深さを立体的に、そしてリアルに感じられるのです。それが、感動への近道です。

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 話は変わりますが、僕は今日も飛行機に乗りました。今日は博多泊です。

 博多、大阪、名古屋、東京の教室や顧問先の企業を一週間で回らないといけないと、必ず、週の内に一回、二回は飛行機に搭乗することになります。

 ライト兄弟が初めて空に舞い上がった時間は59秒、260メートルです。

 僕は、ライト兄弟の初飛行の距離の数万倍を、いつも飛んでいることになります。

 でも、ライト兄弟が、涙を流して泣いたほどの感動が、機上の僕や乗客にはありません。そこにライト兄弟と乗客との間に「活動に対する思い入れ」の違いがあるのです。

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 42.195キロのフルマラソンの距離を、車で走っても、そこに感動がないのと同じで、大切なことは、どれだけ、その出来事に思いを入れたかなのだと思います。

 涙を流さない、感動できない彼女が、ペットの犬の死で泣けたのは、それだけ、その犬と過ごした時間への思い入れの深さがあったからです。

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 何も感動しないと言った彼女は、コンビニで、レジを打っていた外国人にも「イラだってしまう」と語った。「言葉も片言しか、分からないからイライラする。何でこんな人を雇ったの」と…

 僕は海外でアルバイトしたことがあるから、同じシチュエーションを見かけても、そんなにはイライラしません。それは、外国人が、異国で働くことの大変さを知っているから。

 ですから、海外の人がたとえコンビニのレジで要領が悪くても、僕は心の中で「ガンバレ~」ってエールを送っています。当然、言葉でも「ありがとう‼」と伝える。

 よく子どもが生まれると、子どもが泣いているシーンを見ても、イライラしなくなったと言います。自分が親になって、泣いた子どもの両親の大変さを共有できるからです。

 学生が街頭でチラシを配るバイトをしたら、街でテッシュを笑顔で受け取るようになったと笑って話していました。共有体験ができたからです。

 人が泣くほどに感動できないのは、それに似た共有体験がないからなのだと思います。たとえ、同じ経験がなくても、人は人としてイメージで共有できるのです。

 僕はいい話を聞くと、やっぱり目頭が熱くなる。まったく同じ体験がなくても、その人の心情、それを取りまく人びとの感動が、人生経験の中で共感できるからです。

 現代の学校の知的教育は、世界のすべてを頭(知識)で理解させようとする。

 「それ意味があるんですか?」「儲かるんですか?」「ボールを今から、追いかけても間に合わないですよ」「ぶざまですよ」「そんなコトで泣けますか?」と、冷ややかな目で平面的に、上っ面で、とらえてしまう。

 そんな人は、いろいろな経験に、出来事に参加して飛び込んで見ることだと思う。

 取れない球をあきらめないで追っかけてみる。断られるはずの商談に、もう一歩喰いついてみる。勇気を出して、気になる人に話しかけてみる。この世界の深さや奥行きを味わってみることです。考えていたことと、体験することは違うから。

 なぜなら、いつかはこの世界を、誰もが卒業して行くのです。人から「バカみたい」って言われても、バカになれるほど夢中になる何かにも出会わないで、冷めたまま人生が終わる人よりはましだから…

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 経験をすることで、この世界は、3Dいや4Dにまで高められる。

 ニーチェは言った「世界は深い!」と。

 そこで冷め切って「そうかなぁ?」って言っちゃう、あなた。

 人生は祭りなんだよ。そう、いつかは終わる祭り。踊るのもアホなら、冷めて生きるのもアホです。

 同じアホなら、一度の人生、踊る側にいようよ。

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 僕は、いつも人生は感動する側にいたいです。冷めた批評家にはなりたくない。

 感動がないと言うなら、飛び込めばいい、リアルな世界に!

 メンタルに参加してごらんよ!

 「でも」とか「だって」とか言ってアレコレと理屈をこねていないで。
 それが、いつものクセでしょ。

 いつまで、そこにいるの?

 なぜなら、人生は「あっ!」という間に終わるのだから。








日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき










なぜ、吉本風、心理学なのか…

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 メンタルの体験講座が終わった後に、深刻そうな顔をした女性が近づいて来た。

 僕は「質問かなぁ」と思って「楽しめた?」と挨拶がわりに言ってしまった。

 いつも、僕の挨拶は「楽しんでる?」と言う傾向があります。もちろん、苦しい時にも、その苦しみも含めて人生を「楽しんでる?」と言う気持ちで挨拶するのです。

 すると彼女は、深刻な表情を、より曇らせて「もっと、カウンセラーとして、深刻な問題をどうするか?を聞きたかったのに、何もかも楽しく話して…それでカウンセラーになれるのかと思って…」
 「あ、ゴメンねσ^_^;期待していた話でなかったんだね」と僕。

 「じゃぁ、メンタルは合わないのかもね」
 「もっと、深層心理の深い話が聞きたくて…」と彼女。
 「そうか、いろいろ勉強の方法があるからね。大学のオープンセミナーとか、いろいろ君に会いそうな心理学の勉強会に行って見るといいね」と、彼女にアドバイスして見送った。

 「そうだよなぁ。深刻な話を聴きたい人もいるからなぁ」と深く反省してみるものの、すぐに、僕は「これで良い」と確信している自分がいる。

 僕はトラウマとか、傷ついたインナーチャイルドなどと深刻ぶった話を、笑い飛ばす傾向にある。もちろん、カウンセリング中にはないですが…

 また「パワースポットに行くより、何としても自分が、いつも歩くパワースポット(パワーパーソン)になれ!」と叱咤した講座をしてしまう。そして、深刻になりそうな深層心理や究極は、孤独な人生を「がはははは…」と笑って、蹴飛ばしたい傾向もある。

 どうも、これが僕、風なのだとも思う。

 時より神経質そうな、暗い表情のカウンセラー志願者が「僕は臨床心理士の資格も○○年に取得して、なになに大学の○○教授にもご指導をいただいているのですが、どうすれば、先生のような、いろんな企業の顧問ができるのかなぁと思って…」と質問される。

 「そうだなぁ、君が資格をいくら身につけても、君と一緒にいたいと思ってもらえなければいけないし、この人なら助けてもらえそうだなぁ、という雰囲気を身につけることかなぁ。ところで、君はステキな友人が多いかなぁ…」と僕が逆に質問をしたくなる。

 僕は思う。「どの国に行っても、どの職場に行っても『お前といると楽しくなる』と思われることが、どんな知識より資格よりも、国籍よりも人を惹きつける優先課題」だと。

 パワースポットでエネルギーを充電して、ステキな出会いを待つよりも、人を惹きつけられる魅力ある人間になることがステキな出会いへの最短距離だとも。

 もちろん本人には言わないけれど、僕は心の中で叫んでいる。いいかね、表情のない若者よ、君に伝えるべき言葉は「君は笑顔を作れ!」なのだ!

 禅の有名なダルマ大師に、弟子が深刻な顔をして「いまだに、心を悟れません。どうぞ、師よ救って下さい」と泣きついた。師のダルマは、笑顔で「そのいまだに悟れない心を、ここに出して見なさい、今すぐ汝の心を救って見せるから」と大笑いした。

 その言葉で、その弟子は悟った!

 「悟らねばならない~ッ(>_<) その深刻な心が煩悩であり、苦しみなのだと…」
 だから、その悟れない心とは、どこにあるのか、あると思うから苦しくなる。そんな人に「人生を明るく生きよ!」と言われても、誰も救えまいと…
 それは、お前が深刻そうなのだから…

 話は変わりますが、心理では「人間の行動は、その背景にある原因を強化する」と言われている。

 これは簡単に言うと、恋人と別れて悲しいからと、誰かとムリしてデートすると、恋人のことを忘れたいという原因で、始めた行動(違う人とのデート)は、その原因を強化する。そう、より別れた恋人のことが恋しくなると言うことです。

 眠れないからと、アロマたいたり、枕を変えたり、ホットミルクを飲んだり、リラクゼーションの瞑想をしたり、羊を数えたりしても眠れないと、そうまでしても(数々の行動)自分は眠れないのだ(原因)と、自分の眠れない現実をより深刻化して落ち込む。

 誰かと口喧嘩して、悔しいからと家に帰って、家のこともしないで、明日のやらなければならない支度もしないで、次の日に、それを別の人から注意され、指摘されると「あの人のせいだ」と口喧嘩した人のことが、より腹が立ち、怒りが増していきます。

 できれば、こんな時は、その口喧嘩した相手に囚われないで、日常の普通の生活をしっかり生きればいいのです。それが、二重被害にあわない方法です。

 だから、トラウマを忘れたいから、インナーチャイルドが癒されていないからと、いろんな深刻なセミナーに行って高額な費用を支払い、時間を使えば、そのトラウマ(原因)は、やった努力に比例して(行動)囚われることになり、より深刻化してしまう。

 だから、メンタルの体験講座では、僕は過去と他人を忘れたいからと深刻にあくせくすると「よりその過去と他人に囚われるよ」と話をすることになる。

 そう深刻な人々にショック療法で、笑い飛ばしながら話すのです。

 そう、彼女の言っている深刻な心理学なら他で、誰かが話している。僕はやっぱり卒業生の活躍と顧問企業数は、深刻な心理学ではなく、笑顔の心理学にひかれて寄ってくるのだと思っています。

 そんな「笑いで、いいですか?」「はい、いいです!」(*^_^*)

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日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき




真面目すぎてハンパな人へ

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 マイナスな感情を持たない。

 つねに前向きに生きる。

 夢を持つこと。

 過去に囚われないで、今を楽しむ。

 こんなことを言われると、落ちこむ人がいます。

 そう、それが思うようにできないからです。このように言われると一生懸命になり過ぎる人です。

 「真面目なんだね」

 でもそれが、落ちこむ原因なのです。

 僕は究極のポジティブは「できない自分」を楽しむことだと言っています。

 そう、落ちこむ自分を楽しむ。

 前むきになれない日々を楽しむ。

 過去に思いをはせてタメ息をついている自分を可愛いと思う。

 夢なく生きている今日にも、感謝して、ただただ生きる。

 それが「究極の前向きな生き方」なのです。

 何事も「The best.(完璧)」ではなくて「My best.(自分のやれる範囲で)」なのです。

 だから、すぐに真面目に落ちこむ人にこそ心理学で、何度もくり返し自分を見つめる時間と学びが必要なのに、深刻になり過ぎてしまって、学びが中途半端になるのです。

 窓から舞い込んだ虫を逃がそうとして、窓を開けているのに、同じ窓ガラスにブツかるだけで逃げられない。もう少しズレればいいのに…そんなジレンマに似ています。

 そう、一部を見て、全体像を見ないから…いつも、人生は中途半端になってしまう。習いごとも中途半端、仕事も中途半端、恋愛も中途半端、治療も中途半端etc.

 何事も、すぐに結果を求めて続かない、焦ってしまいコロコロとやり遂げないで終わってしまう。そして、最後のところで手を引っ込めてしまうから、真の宝物にギリギリのところで届かない。

 いつも、変化したいと思いながら、望んでいる「輝いた自分」に永遠に出会えないで終わってしまう人。

 周囲からは、移り気な、多趣味な「ハンパな人」と評価されてしまう。で、また、新たに変化を求めて、何かを始めようとして「ハンパな人生」を続けてしまう。ゲシュタルト心理学、F・パールスの言う「未完の行為」です。

 「部分は、全体の縮図である」と言ったのは、スタンフォード大学のC・プリブラムです。そう、日本語では「一事が万事」とでも言うのでしょうか。

 その人が生きる、小さな習慣が、長い人生を物語るのです。

 いつも、こんなかたちの辞めかた。いつも、同じような別れと破局。似たような後悔が人生の中で続いて行きます。

 そのようなくり返しの人生を心理学者E・バーンは「人生脚本」と呼びました。それは一度、書いた台本のように、人は同じパターンを人生でくり返すようになるのです。

 ですから、落ち込みグセのある人は「前向きに」と、教えられると前向きになれない自分を責めて後ろ向きになります。
 「過去に囚われない」と言うと、過去に囚われている「自分に囚われて」またもや苦しくなる。

 そう、すべてにおいて「真面目な人」なのです。でも、その真面目さが間違っている、というのを最後まで学ばないで、中途半端で終わってしまうのです。

 僕はカウンセリングや、心理学を教えていて残念でならないのは、こんなループなの人たちです。

 そこにたどり着く前に、あきらめてしまうことが特徴です。本題に入る前に、結論を出して離脱する。

 「縁なき衆生は、度し難し」と言いますが、助けようと手を差し出しても、手を引っ込める人(縁なき人)は、誰も(度す)助けらないと、人には言ってはいます。…そう自分にも「お前が完璧主義になるなよ」と言いきかせています。

 すべては相手が決めること…

 最後にアドバイスとして「ハンパな人生」から抜け出す一つのヒントは、僕は、ある時期からどんな小さなコトでも「すべてを完結させる」ことを心がけるようになりました。「最後までは結論は出さない」それだけを心がけました。

 すると、いつの間にか「あきらめない人」「やりとげる人」「最後には結果を出す人」と周囲から評されるようになっていました。

 自分自身でも「ヘーっ、そうだっけ俺は⁈ 」と驚かされます。少しの変化が、人生を変えて行くのです。

 いまなら、プリブラム博士の「部分は、全体の縮図である」という言葉の意味の深さが身にしみて分かります。

 あ、そうそう。でもね「やりとげなければならない!」はやめようねあせるやりとげられなかった自分も楽しむ、それがメンタルだから。

 途中でメンタルに来れなくなった人にエールを送ります!クラッカー

 暑い時は、ひと休み、ひと休み、一休さ~ん! ??? ん?





日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき





夏を活きる!

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 お盆になっても、暑さはうなぎ上りです。


 暦のうえでは、立秋は過ぎたから「残暑お見舞い申し上げます」と書かないといけないのだけれど…残暑どころではなく、猛暑の続く日本です。


日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき-夏を活きる!

 ついに高知の四万十川では、40度の大台を超えて、記録更新です。異常気象は世界中で報告されています。


 インディアンは「七世代先を考えて、今の生活を生きている」と何度か、このブログでも書きました。


 僕たち日本人も、子供たちのステキな未来を願います。それは豊かで、なにも不自由のない生活を夢みています。でも、彼らインディアンは「今日」と同じような、思うようにならない普通の一日が、七世代先の子供たちにあることを願うのです。


 そう彼らは、悲しみと喜びはセットなのです。不便と知恵もセットです。


 不便だからこそ、人間には知恵が生まれるのです。


 日本は暑いから、風鈴、打ち水、金魚の涼しげな泳ぎに魅せられるのです。それこそが、日本の夏の暑さから生まれた知恵です。


日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき

 夏があるから秋にホッとするのです。冬があるから春に開放感を覚えます。貧しさを知らなければ、恵まれた喜びも感じません。悲しみを越えてこそ、幸せを感じるのです。


日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき-夏を活きる!

 彼らは言います。自然を愛することは、晴れの日も、雨の日も、嵐の日も愛することだと。子どもを愛するのも、勉強ができる子どもも、できない子どもも、静かな子ども、やんちゃで手のかかる子どもも、同等に愛することが「子ども、その者を愛している」と言えるのだと…


日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき

 「晴れの日しか愛せない」「勉強できる子どもしか愛せない」のは、自然を愛することも、子どもを愛することも、できない人々だと。


 それは自分の都合のよい自然や、思い通りになる子どもを、愛しているだけなのです。その人たちは「自分自身の欲望を愛している」のだと彼らは言います。


 話はそれましたが、この暑い夏も愛さないといけません。

 「暑い~」「セミがうるさい~」とか、文句を言わないで、この毎年来る夏の暑さも、時雨のようなセミの声も、楽しまなければなりません。


 夏休みに、子どもの頃から、聞いていた、にぎやかなセミの声を…


 環境問題の名著レイチェル・カーソンの著書の「沈黙の春」のように、春になっても新芽がでない。小鳥が鳴かない。ハチが蜜を集める羽音さえ聞こえない。


 春が来ても自然は黙りこんでしまうのは、大地が静かに死を告げ始めたことを指すのです。


 悲しみの沈黙世界は、人間がみずから犯した環境破壊によって生み出された死の世界だとレイチェルは警告します。


日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき

 有名なインディアンの族長シアトル酋長は言いました。


 水面を駆け抜ける 風の音や
 雨が洗い清めた 空の匂い
 ヨタカの さびしげな鳴き声や
 夜の池のほとりのカエルのおしゃべりを 聞くことができなかったら
 人生にはいったい どんな意味があるというのだろう。
 獣たちが いなかったら 深い魂のさみしさから 人間も死んでしまうだろう。


 大地がわたしたちに属しているのではない。私たちが 大地に属しているのだ。あらゆるものがつながっている。


 わたしたちが この命の織り物を織ったのではない。

 わたしたち人間も
 その中の 一本の糸に過ぎないのだ…


 生まれたばかりの赤ちゃんが母親の胸の鼓動を したうように
 わたしたちは この大地をしたっている。

 もし わたしたちがどうしても ここを立ち去らなければ ならないのだとしたら
 どうか、白い人たちよ わたしたちが 大切にしたように

 この大地を 大切にしてほしい。


 美しい大地の思い出を
 受け取ったままの姿で 心に 刻みつけておいてほしい。
 そして あなたの子どもの
 そのまた 子どもたちのために
 この大地を守りつづけ
 わたしたちが愛したように

 愛してほしい。
 いつまでも どうか いつまでも…


「父は空 母は大地」インディアンからの手紙より抜粋


 

 このガヤガヤした日常のサウンドも、汗をカキカキ過ごす今日も、やっぱり夏に生きていることを楽しまなくてはなりません。



 蝉の覚悟ほどは・・・・      都環 咲耶子


  千の蝉が 千の鈴を鳴らしていた
  燃え盛る 夏の緑の炎にあぶれながら
  眩暈するほど うちひしがれたんだ
  命のうねりは 耳底までも染みてゆくから
  夏に捨てられるまで
  季節の端に しがみついたおまえ
  なんて潔い執着!


  蝉の一生ほど わたしは生きられない
  蝉の一生ほど わたしは覚悟出来ていない


  夏の底深く 焦げた羽をふるわせて
  千の蝉が 千の壁に突き当たった
  理想でもない 夢でもない
  このアスファルトの隅なんだ


  森に捨てられるまで
  都会ほどには高く飛べないんだよ
  これほど 潔い抵抗!


  蝉の一生ほど わたしは生きられない
  蝉の一生ほど わたしは覚悟出来ていない


  セミは白い腹を 天にさらして
  たった今に満足し たった今を終えていった
  ああ ちっぽけで偉大な蝉たち!


  蝉の覚悟ほどは 蝉の一生ほどは
  まっすぐに 鳴くことも出来やしないが


日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき

 僕たちは「今日で最後」と思って、人と自然と出逢っているのでしょうか? セミの覚悟よりもシッカリと…

 

 せみ     ありま たかし

 

  じぶん じぶん じぶん
  じぶん じぶん じぶん
  じぶん じぶん じぶん
  じぶん じぶん じぶん

  じかーん じかーん じかーん
  じかーん じかーん じかーん
  じかーん じかーん じかーん
  じかーん じかーん じかーん

  じゆう じゆう じゆう
  じゆう じゆう じゆう
  じゆう じゆう じゆう
  じゆう じゆう じゆう


 

 確かに、君たちセミは「今ここ」を謳歌しているね。ゲシュタルト療法の達人。それがセミ ‼


 生きている意味も、時間の価値も、自由の素晴らしさも、僕ら以上に知っているかも知れないね。


 彼らの応援歌に耳を傾ける盆休み…


 永遠に変わらないで、七世代先の子どもたちにも、今日のように応援のエールを送って下さい。


日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき-夏を活きる!

 けっしん    工藤直子


  あけがた せみが しずしず あらわれ
  「おまちどおさま」と殻を脱ぎはじめた
  眠さもわすれ 見つめると
「この殻はなあ 生まれ変わるための『じかん』の家さ」
  よいしょっと羽を抜き出し せみ 
  私をみて
  「あんたも生まれ変わりたいのかい?」
  ・・・どきっ・・・
  殻をかぶっているのを見破られたか
  しかし どうやったら?
  「決心するんだよ いっしょうけんめい」
  ひとりで行かなくちゃならない道があるんだ
  いま歌わなきゃ いつ歌う?
  歌いきったら死にます と 飛び立ったせみを
  空は しっかり抱きよせ
  見えないところで涙をながした


 

 やっぱり、僕は「沈黙の夏」より、にぎやかな夏が、僕は好いかなぁ。


 そう、七世代先の彼らにもガヤガヤした人生を!


日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき






日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき




ブラボー、三日坊主!

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 ランニングをしても続かない。ダウン

 ダイエットをしても続かない。ダウン
 英会話を勉強しても続かない。ダウン

 続かない時に、人は「自分は三日坊主だ」と、落ち込みます。

 でも、落ち込んでいるという事は、僕はスゴイことだと思います。だって、やろうと何かを始めないと、落ち込みすら生まれないのだから。

 だって、何もしない日々を過ごしている人にとっては、それは画期的な一歩です。

 「私、三日間は走ったのだけど、四日目、五日目サボってしまって、六日目は走ろうと思ってシューズを履いたのですけど、走る距離を考えたら、今日はムリと思って、走らなかったのです」

 カウンセラーの思考だとこうなる。「えー、スゴイ、三日間も走ったのですか ⁈ そして、四日目、五日目は、ご自身で走れないことを悩んでられた、なんと、六日目は玄関まで行かれて、靴を履かれたですって ‼ スゴイ、すごい変化じゃないですか!だって、今までは『走ろう』なんて考えもしない日常を過ごしていたのに。素晴らしい、ブラボー ‼ 」となる。

 まさに、コップに半分しか無いと思うか、半分もあると、思うのかの違いです。

 それに、三日坊主のもう一つの側面として、いろいろなことに好奇心がいっぱいという側面もあります。

 その好奇心が、新しい発見につながります。

 一心不乱に何かを研究して、まい進し過ぎる人は大発見する可能性が少ないのです。

 話は変わりますが、アメリカのエール大学の図書館の蔵書は、最初は一千冊でした。これが、十六年ごとに倍増していて、これが今後同じ割合で増えていくと、2040年には、蔵書は2億冊を数え、書棚の総延長は6千マイル、そのカード目録は8エーカーの広さになり、毎年新規に入ってくる1200万冊のカード作りのために、6千人の司書が必要になるそうです。

 1750年代は、科学論文の雑誌は10種類しかなかったものが、50年ごとに10倍になり、1830年には約300種類となり、その頃にすでに誰一人すべての論文に目を通した人はいなくなったのです。目

 その科学論文を集めたレジュメの抜粋誌が登場しましたが、これも50年ごとに10倍で増え続け2000年には、3千種類を越えています。すでにそれすらも人の一生の読書可能範囲を越えてしまっています。

 ですから、大学では知識の細分化が起こったのです。それは一人の人間の能力では、専門分野を細分化しないと、その専門分野の進歩についていけないからです。

 その専門分野の数も全米科学技術者登録名簿によると1945年には54の専門分野しかなかったものが、現代は1200の専門分野があるのですから驚きです。叫び

 なので、誰一人世界の科学知識を、すべて知りえる人はいないのです。

 この情報の洪水でアップ、アップしている現代に必要なのは、三日坊主なタイプです。ひらめき電球

 そうです、その飽き性がイロイロとカジリながら、渡り歩いているうちに、それぞれを偶然に知識を連結し、大発見につながるかもしれません。もちろん「かも」ですよ。

 夏に忙しいミツバチコスモスだって、美味しい蜜のありかを知らせるのに、巣から飛んだ距離と方角を、仲間に8の字を書いて知らせます。

 その道筋は、巣から飛びたって、迷って、迷って、寄り道した距離もふくめて仲間に知らせるので、回り道の距離なのです。でも、真面目な働きバチ達は、その迷って、迷って、たどり着いた距離を、せっせと同じ道筋を飛んで蜜の場所にたどり着くのですから、やはり遠回りに違いはありません。ハチ

 でも、ミツバチの中にも、飽き性の、好奇心旺盛なハチがいて教えられた通りには飛ばないで、好き勝手飛ぶ三日坊主が現れます。それが、その蜜の場所を偶然に飛んでいるうちに最短で発見するのです。「えーッ!こっちのほうが近いじゃんひらめき電球」となる。

 それに、三日坊主も、一生続ければ、かなりの経験になるし、「三日坊主を一生続けました。ハイ!」は、すでに三日坊主とは言わない。

 それを一生続けたのですから、立派な一生坊主です。ギネスに認定されることも夢ではありません。

 カウンセラーの立場で言わせてもらうなら、人はそれぞれは誰でも三日坊主だと、僕は思っています。その好奇心旺盛のランダムな動きの中から、一生をかけても悔いがない何かクラッカーに出会えるものなのです。

 最初から「自分の命をかけても良いと思える何か???」を目指そうとするから結果、考え過ぎてしまって何もしないのです。

 だから、三日坊主万歳です。

 三日坊主も百回やれば、それだけで300日です。休みだの何だの入れると一年中、何かをアクションしていたのだから立派、立派!

 そう、問題なのは三日坊主を恐れて、いつもの日常に逃げ込むことです。それこそが安全パイを狙って、人生に何も無かった人なのです。

 「人生を生きるのは、日常の何気ない時間を、経験に置き換えることである」 =カレブ・カテージョ=



日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき



自分とのアポイント

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 やっと、9月に入りました。

 この月は、心も身体もホッとすると、緊張がゆるんで夏バテをしてしまいます。

 先日、新聞にフロリダ海峡を53時間かけて泳いだ、63歳の女性のことが載っていました。35年前から4回トライして、5回目にして夢がかなったダイアナ・ナイアドさん。彼女は浜にあがった時、疲れきった腕を大きくあげて「私たちは決してあきらめてはいけない。夢を追い続けるのに年齢は関係ありません」と笑顔で語った。

 年齢や、境遇、過去に囚われている人がいます。でも、ナイアドさんのように、それらを言い訳にしない人もいます。

 昨年は腰を痛めて、僕はほとんど運動が出来なかったので、今年は今月開催するアイランドツアー(メンタルのキャンプ)に向けて体をしぼりこんでいます。

 200人近くのメンバーを引率するのは体力勝負です。

日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき

 そうトレーニングは、自分の身体を叱咤激励して、自分を追い込む。
日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき
 身体は『心』の乗り物です。

 肌の色、瞳の色、身長の高い低い、年齢は努力で乗り越えられない。でも、カラダのデザインは、自分の努力で何とでもなります。

 自分を好きになり、自分が自分でいることを楽しくするためには、自分の好きなファッションを身につけていることが大切です。でも、服のように瞬時に着替えられないのがボディです。

 ユーミンの昔の歌で、別れたカレシを見返すために、いつ再会しても大丈夫なように、キレイに着飾っていたのに、元カレにバッタリ再会したら『どうしてなの、今日に限って安いサンダルを履いてた・・・』ってことがあります。

 この歌詞のように、自分が何だか好きになれない時には、人は前向きになれません。服装や髪型一つでも、何か自分に自信がないと、街に出るのも、めんどうで気が進まなくなります。

 いつ、いかなる時にも、心にも身体にも「凛」とした気分で生きたいものです。

 お金があれば服や車、住むところは手に入ります。でも、お金で簡単に買えないもの…それは、日々の努力で得るもの。

 それは、年相応の魅力であったり、知識であったり、肉体の鍛錬だったりします。だから、僕にとって、笑顔や、立ち居振る舞い、健康なボディづくりが、自分という器の中に存在することは、僕自身が楽しく過ごすためには必要なことなのです。

 なぜなら、ずーっと付き合ってゆくのは自分自身だから…

 最高のパートナーは配偶者でも、恋人でもありません。一緒に永遠の眠りにつくパートナーは、自分自身なのです。それまで、自分と付き合ってゆくのですから。

 だから、自分を好きになることが優先課題です。

 自分を好きになるには、お金だけ、社会的成功だけ、知識だけではなく、身体も含めて、トータル的なバランスが大切なのです。もちろん、家族や友人も大切にしなくてはなりません。

 何かに片寄った人はたくさんいます。何かに集中し過ぎてバランスを壊してしまって、一部だけ成功している人に、僕は魅力を感じません。

 また、人へのアポイントが多くて、自分とのアポイントを持たないことも心の病気になります。自分と向き合う時間は、心には大切な栄養なのです。

 僕にとって身体のトレーニングも大切な時間になります。

 逆に、他人との関係を怖れて、自分の世界に閉じこもっているのも、また別の問題になります。

 東西南北の中央にしっかり座ること。インディアンの人たちは『それがバランスなのだ』と言います。片寄ってはいけないと……。

 禅の中庸(ニュートラル)も、そのことを言うのでしょう。
 
 最近の日本は桜島の爆発や、竜巻の被害、突然の豪雨による街の浸水など荒れ狂っているようです。

 でも、数日前の朝、ステキな虹が僕の部屋の外に広がっていました。

日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき

 自然はいろんな顔を持っています。

日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき

 これもバランスなのかもしれません。

 あがらない雨はないのだから…




日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき


人間サファリランド!

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 僕たちの世界は、たくさんの人々が住んでいます。

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 どうしても、日々の生活の中で「何でこの人はこうなの ⁈ 」と言いたくなる人もいます。「子どものように、わがままな上司がいます」とか「親がいつもグチグチうるさくて」「夫が後ろ向きな意見が多くて」と僕の周りでもグチとも、相談とも取れるこのような身近な「困った人たち」の話が飛び交います。

 僕はこう思う。

 その「困ったと思う人たち」には、それが普通の日常の行動だし、その人たちは自分自身が「困った人???」とは思っていない。

 子どものような上司でも「自分の上司もこうだったから」とか、グチグチ言う親も「子どもを心配してとか、家賃も払わないで子どもは住んでいるのだから当たり前‼」とかの理由がある。もちろん、夫も奥さんに言われなければ「後ろ向き ⁈ 」とは思ってはいないのです。

 問題は、イライラしている私たちが「周囲が自分の理想のようにあって欲しい」「理想の親や上司は、友人は、こうあるべき」と願っているに過ぎない。

 残念なことに、この世界は自分の理想どおりには作られていません。いくら「こうなって欲しい、欲しい!べき、べき!」と叫んでも、世界は自分の望んだようには作られてはいないのです。何より、べき、べき主義や欲しい!欲しいと、声高に叫んでも、周囲の人びとは思うようには動いてはくれません。ましてやイライラしている人のために、他人は行動を変えてやろうとは思わないものです。

 「自分は人のために動いているのに、人は動いてくれない」と思っている人は、自分や他人が分かってはいないのです。

 なぜなら、人はすべての人の欲求に応えられないし、動けない。

 なぜ動けないのか、あなたの周囲の人たちも、あなたと同じように、それぞれに「~あるべき」「~して欲しい」は、人それぞれに違うからです。たとえ一人の人であっても、時間と共に心はコロコロと変化しまうのです。例えば、かまって欲しいと思う日もあれば、一人にして欲しい日もあるのです。

 その多種多様の人たちの期待に応えるのは、不可能だし、それに応えようと思えば、あなた自身がパニックになり、やがては「人なんて勝手なんだから…」と、期待に応えていた「笑顔ちゃん」がニヒリズムの「無表情仮面」の世捨て人になることは日常茶飯事です。

 ですから、いつも私は誰かの期待に応えていると言うのは自己認識が悪く、自分は応えていると思っている人は、自分に甘いのです。「きっと、自分は、自分も知らないところで誰かの期待をはずしているのかもなぁ~」と思える人が、自己認識の高い人です。

 それが分かれば、自分は周囲の期待に応えてないのに、周囲の人間にいつも、私の期待に応える「べき、べき!」という感情は「わがままなのだ」という事がわかってくるはずです。「自分も周囲の期待に応えることは不可能なのだから、相手も、私の期待に応えることが出来ないわね」と…これが冷静な大人の考えです。

 「自分は誰かの欲求に応えてはいないけど、周囲は私に応じるべきよ」は子どもなのです。「ボクは親のためにしなくてもいいけど、親はボクのためにしてくれて当たり前」は、子どもの心理です。

 そして、誰かの言動で一喜一憂して、有頂天になったり、スゴく落ち込んだりするのは、その相手が人生で重要人物なのです。それだけ自分の生活に、その相手が多大な心のテリトリーを占めているのです。言い方を変えれば、それだけその人に依存している(相手に頼っている)のです。

 その上司に仕事をもらっているとか、自分が相手からいい人と思って欲しいとか、実家を離れると独りで家賃が払えないとか、離婚して自立する自信がないとか…

 相手に依存しながら、その相手に、文句やグチばかりを言っているのは、厳しい言い方かもしれませんが、自分に「甘えている」のです。それが、子どもの心理です。

 子どもは、自分では生活できないから親に依存する、でも、親は自分の思ったようにはならないから子どもは面白くない。

 心から大人になるには、周囲にグチや不平不満だけを言うことに時間を費やさないで、その不満である状態に「意味」を見つけ成長することです。

 このストレスは「自分の成長のため」とか「自分も親に甘えないで、早く家を出て行かなきゃ」とか「イヤな上司のパターンを(反面教師)を、この変わった上司は見せてくれているのだなぁ」と思うのも前向きな意味づけです。

 そんな話しを始めると「頭では分かってはいるんですけど…なかなか思えなくて」と言う人がいます。そうなんです、努力する前に、行動する前に、あれこれ実行不可能な理由を考えて、行動を起こさない。「難しい不可能な理由」「不平」を言っていれば、誰かが、何とかしてくれると心の中で思っている。神さまが何とかしてくれると思っている。努力もしないで境遇をなげいているのは、心がやはり「子ども」なのです。

 その証拠に「夏休みの宿題が終わらない、終わらない」となげいているだけで、宿題を終わらせない子どもがそうです。そう、なげいていると、親や神さまが何とかしてくれると「幼児的な願望」を持っているのです。

 どうしても周囲の「困ったさん」に変わって欲しいのなら、不平や、出来ないことを数え上げないで「アイ・メッセージ」を使って、まずは伝えてみるとか…

 その困った人たちは、自分の考え、意見を述べているだけなのだから、自分の「心」を水をはじくスワンの羽毛のようにして(イメージ)、相手の冷たい言葉で冷や水を浴びせかけられて、ずぶ濡れにならないで、水をはじくように、笑顔で、頭の後ろのほうに受け流す。時に神妙に、時には笑顔で…そう、TPOに合わせて。

 これを僕は「羽毛の術」と呼んでいます。なんだか、キレイでしょ!

 そして「この人は自分の意見を語っているだけ、自分は、それを、ただただ神妙に聞いているだけ。以上!!」と、心の中で心理的な境界線を作る。

 「ここは真剣に相手の話しを聞かないと、相手が興奮して話が長くなりそうだから、相手の意見を神妙な面もちで聞いただけ…以上!!」

 さらに「自分がいつも相手に応えなければならないと死ぬわけでも、犯罪者になるわけでも、また世界中から自分がダメなヤツと笑われるわけではない」
 「相手に応じたフリをすることも、イヤだから「イヤだなぁ」と顔に出すような、自分は子どもではない」と、腹をくくればいいのです。それが大人の条件だから…

 そうやって、相手の叱責を「ザバーッダウン」と、かぶらないように、自分の後ろに速やかに流せばいいのです。「そうですね」って。そして「自分は自分、相手は相手」と、心の中で仕切って、こちらの心を揺さぶられないようにすることも時には大切です。

 そう「私は相手に応えなくても死ぬわけではない。ただ、応じたふりするのも大人の社交術!」と、自分の心の中の「ビリーフ修正」をすればいいのです。

 そう、この世界は、色んな人が生きているサファリランドなのです。

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 ライオンや、キリンさんがいます。それらにどうして「あなたはそうなの?」と言っても、ライオンはライオンだし、キリンに「どうしてそんなに首が長いの⁈」 って言っても事態は変わらないのです。

 また、尋ねられても、キリンは「ん??」ってなってしまいます。そう「私は私だからと…」

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 ならば自分が、この人間サファリで生きるように、相手を変えないで、楽しむしかないのです。人間観察を…

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日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき









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年に一回のお祭り!

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 始まりがあれば、終わりがある。

 僕が20代の頃から始まった、年に一度の島のキャンプ。

 気の合う仲間と船で島に渡った。それが、日本メンタルヘルス協会主催の年に一度のワークショップ・アイランドツアーに変化したという歴史があります。最初の頃は、みんなで火をおこして食事を作ったりしての単なるキャンプだった。

 でも、僕がアリゾナのインディアンの地から帰って来てからは、自然の中で大地と調和し、自分を探るワークショップへと確実に変化していった。

 いつの間にか、ただのキャンプではなくなり、島での滞在時間をワークに目一杯使いたくて、食事の準備は、島にある施設にお願いするようになり、すべてが自分を見つめるワークショップへと進化をとげたのです。

 ここ数年、アイランドツアーの申し込み者数はロッジの定員を上回る三百人を越え、抽選方式になり、メンタルのスタッフには、いつの間にか疑問が生じていた。

 それは「メンタルらしさに欠けているのでは?」行きたい人が行けないなんて…

 落ちる人々の落胆をスタッフは見ている。そして、そんな悲しみを知らない申し込み者の中には、参加メンバーが確定してからキャンセルする人も存在した。中には「運だめしで、申し込んでいたからと…当たるとは思わなかった」と言ってキャンセルする人まで…。もちろん「一人くらいキャンセルしても、落選した人が復活するだろう」という気持ちもあったのだろうけど。この瞬間から、その人の生き方が反映される。それも自分を知るワークショップなのです。

 でも、落ちた人を参加者に入れることは、申し込み時間が厳密に確定できない協会側からすると、厳正な審査の信頼性が揺らいでしまうのではないかというストレス。

 また、200名以上の参加者を感動させるための、スタッフの下準備は多大な気苦労がともなっていた。

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 そんなスタッフのストレスを考えて、僕は最後のスタッフ・ミーティングで「今年でアイランドは最後にしよう!」と決めた。ミーティングの中で、スタッフからは異議申し立てがなかったのも、やはり彼らの心労は確かに存在したことを物語っていた。

 初日に僕自身が参加者に「最後のアイランドだから皆で楽しもう!」と告げて始まったファイナルのアイランド。参加者からは「今年が最後」の言葉に驚きの声が上がる。でも、最後の年に参加できた喜びも同時にあったと思う。

 このアイランドでは、同室のメンバーとは、毎年「心の友」になる。参加者の中からは「これもシンクロニシティ(意味ある偶然)なのでしょうか。出会えるべきして出会った仲間だったです」とたくさんの声を聞く。「最初から、わかっていたのですか?部屋割りする時点で気が合うと」僕はこう答える「カウンセラーが部屋割りするのですから」(笑)

 でも、それは違う。講座の中でも行うライフラインを夜を徹して、ロングバージョンで語り合う。ある種の一体感と深い自己開示が人と人とを短時間で親しくさせるのです。

 また、ワークの中には、自分と組んだパートナーを目隠しで、200名以上の中から組んだパートナーを探すワーク。
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 「この手がパートナーだ‼︎」と思えたら、その場で座ればいい。手を握りあったパートナーも一緒に座ってくれれば、目隠しを取ってお互いに確認し、その相手がパートナーであればゲームは終了。いたって簡単…

 でも、手を握ったパートナーが「そうでない」と思えば、どんなに相手に促されても座らなくてもいい。残念だけど、座った人は一人で目隠し集団の輪から出ることになります。このゲームの間は、目隠しの輪の集団の中にいる時は、無言でなくてはならない。

 自分だけ座ってパートナーが座ってくれない人。目隠しを外してパートナーを確認。「間違いなく、パートナーだ⁉︎」でも、なぜ、自分と座ってくれなかったの…置いてきぼりにされた気持ちになるメンバーもいる。

 手を握った、相手に促されて座ってみたが、相手がパートナーでないと知って声を出せないまま、ゲームの輪から出される人。真のパートナーは、これから輪の中から、いなくなった自分を探すことになる、それをパートナーに告げられないまま…

 最初はゲームだと思っていても、自分のパートナーが目隠しをしながら一生懸命に、輪の集団には居ない自分を探している姿に後悔の思いが時間と共に強くなる。

 なぜ相手に誘われて、自分は確信もなく座ったのかと。そして、他人に流されやすい自分の現実の人生をふり返る参加者もいる。

 輪の中で探している人は「もしかしてパートナーは間違って、誰かと座ったかもしれない」と見つからない不安抱えたまま探し続ける。「そうだとするなら、自分は輪に居ない人を探していることになる」この目隠しという孤独の中で…

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 「もしかして、自分はゲームと同じように夢や愛する人を探せることは永遠に出来ないのでは?」そんな自分の人生の不安と関連させて、目隠しの中で涙がにじむメンバー…私の探しているものは、この世界にあるの????
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 パートナーが見つかって、楽しく輪から出て笑っているメンバーにも、僕はマイクで誰とはなしに語りかける。

 「この世界では誰かが一生懸命に何かを探している時に、自分は成功したから、自分は探し物が見つかったからと、苦しんでいる人に対して無関心な人がいます。たかだかゲームだけれど、輪の中にいるのは、あなたの分身かもしれません。いや、人生の中で、あなた自身もリアルに何かを探しているのでは…そのあなた自身に『ゲームだから』と、あなたは無関心でいいのですか?」輪から出て外で雑談しているメンバーも、他人に無関心な日々の自分を思ってワーク中、広場は静まりかえる。

 中には、最初はゲームだし、目隠しなんか不安だから、早く面倒なゲームから出ようとして、何も考えずに誰かの手を引っ張って座ったメンバーもいる。

 その結果、誰かを道連れにし、その相手のパートナーを輪の中で、永遠に見つけ出せない状況にしてしまった自分の単純さに、気づいて落ち込むメンバーもいる。自分の現実の人生でも、安易に行動し過ぎて、誰かを傷つけた過去を思い出し、人生を振り返る。

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 中には「もう、パートナーがいなくてもいい。自分が最後までゲームを楽しむ」と決めたことで、不安がなくなった人もいる。現実の人生も、そうして楽しめばいいのだと!

 そして、夜のインディアン・ワークに向かって、自己発見はつづく!

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 仮装は、いつもの自分を手放せないメンバーに力を与える。ペルソナ(社会的な仮面)をはずすために、逆に仮面をつける。そうすると、いつもの自分と違う自分になれるから…これもインディアンの人が使う手法。

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 ただ、インディアン(ネイティブ・アメリカ)とは、ほど遠いものになって行ったけど。(笑)

 でも、これも「その人らしさ」が現れるから、さらに自己発見につながる。

 星と大地のワーク。

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 人間社会にある悩みは、星々の散らばる空と、大地の中で行われている小さなイベント。

 たとえ、誰も守ってくれなくて、誰かを探せなくても、大地はいつも幼い時から自分を足下で支えてくれていた…愛する人が、自分を包み込んでくれなくても、大地は、いつも僕たちを支えてくれていた。僕たちはそれを忘れて、ちっぽけな大地にしがみ付いて生きているコケみたいな存在(笑)これまたコケが、誰かのことを気にして生きている(笑)。この大地に寝そべって、空と大地の視点から自分を眺めていると、すべてがちっぽけなことに思えてくるから不思議。

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 大地が、自分を抱きしめてくれる体験。

 やがて、僕たちは誰もが母なる大地に帰ってゆく。

 会いたかった人々が眠っている大地に…今まで自分を支えてくれたであろう大地へと…

 アイランド、語りたいことは尽きないけど、今までも、これからも僕はプライベートで君に会いに行くだろう。また、いつか会いに行くからね…

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どんな時代になっても…

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 これからの日本経済は、僕の育った高度経済成長の右肩上がりの時代と違って、右肩下がりになる可能性が高くなっています。多くの経済学者の見解では、今以上にこれからの子どもたちの時代は、日本経済は落ち込む、厳しい時代へと突入すると言われています。

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 右肩上がりの時代は、もっと豊かに、もっと高い地位を目指す、それが多くの人たちの目標でした。
 「もっと高い学歴、もっといい家に住んで、もっと裕福な生活を目指す」それが、誰も疑わない夢でした。

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 でも、現代はどうかというと、会社の役職は満席、年功序列はくずれ、会社に頼っていれば将来は、安心だと思っていた時代と違い、リストラ、倒産と先の見えない時代です。

 今の世代よりも、子どもたちが経済的だけを取るなら、豊かになることは難しい時代に入って行くでしょう。 そのような時代に、右肩上がりの「もっと出世、もっと豊かに!」と子どもを追い詰めれば、そうなれない時代の子どもたちは、自分自身に落ち込み、自信を失い、うつ病やノイローゼに追いやられる人たちが現代よりも増えるでしょう。

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 本来の教育は、どんな状況でも、楽しみを探し出し、楽しめる人間を作るのが究極の教育です。お金があれば楽しめるけど、お金がなければ楽しめないのは、お金の奴隷です。

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 内側にパワーがある人間は、リッチなフランス料理も楽しめるけど、質素な家庭の料理にも同じくらいに感動できる。それが本当の成功(幸)者です。いつも、刺激のある人生でなくても、普通の日常にも感動できる人が、自己実現した人なのです。

 ですから、こんな仕事につきなさい、こんな地位になりなさい。こんな人と結婚しなさいと「そこにしか幸せがない!」と親の「枠」を教え込むことは、間違った幸せ教育になる危険性を秘めています。

 教え込まれた子どもは、人生のすべてを選り好みするようになります。

 僕は、いつも若者に語っています。

 有能な経営者は下足番しても「どうしたら、お客様が喜んでくれるか」を考えられる人だと。
 豊臣秀吉は、最高の信長の下足番でした。彼は冬の寒い日に、ふところで草履を温めていたのです。

 また、ダンボール箱いっぱいに入った玉ねぎを「皮を向け!」と先輩に言われ、心を込めて一生懸命に、玉ねぎの皮をむける人は、一流ホテルの総料理長にもなれます。

 それを「そんな低レベルの仕事はやりたくない」「このために一流大学を出たのではない」と言って、働けないニートの青年や、プライドだけを大学で身につけた新入社員が、会社に行けなくなるケースが多く見られます。これも親が「どんな仕事にも汗をかくことは価値がある」「お金を稼ぐというのは、誰かに喜んでもらうことだ」と教えなかったからです。

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 ですから、どんなことにも生きがいを見つけ、それを楽しめる人は、どんな時代になっても幸せになれる人です。景気が上でも、たとえ下に下降しても「人生を楽しめる人間」を育てることが、最高の教育なのです。

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 そう、雨にも負けず、風にも負けず、そんな人間を目指せです!

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PR: 心に刻もう!使い慣れた農機具に潜む危険-政府ITV

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農業を営む方やご家族に知ってほしい!農作業に潜む予想外の事故の危険性をご紹介!

性懲りも無く…

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時は早く過ぎる 光る星は消える。
人は、なんのために生まれて、何をして生きるのか?
君は、なにが幸せ?
君は、なにをしている時に心がワクワクする?
それが、答えられないままに、人生を生きてていいの?
それが、わからないで終わる人生で満足かい?
それは、絶対にイヤだ!
たとえ、生きることに胸に痛みがともなっても。
夢を守るため、誰もが涙を流さないように。どんなに苦しみが多くても、君なら戦える。
そう、微笑みを絶やさないで、愛と勇気を持って、今を生きよう、今を生きている喜びを忘れないでいよう!
ヒーローは君さ。それを忘れないかぎり…

(アンパンマンのマーチ&アンパンマンたいそう)より抜粋・編集

 生きることの大切さを歌った、やなせたかし さんが亡くなった。ギリギリまで、自分の天命(仕事)を全うしたそうだ。

 顔がアンパンで作られているから、アンパンマンは、お腹が空いている人に、自分の体を切り取って与える。それが、残酷だからと批判があったそうだ。

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 でも、やなせさんは「人を助けるには、自らも痛みが伴う、自己犠牲が必要だ!」と語ったという。たしかに満たされ、安定した日々の中でなら、誰かに親切にすることは多くの人にもできます。

 でも、自分が飢えて死にそうな時に、食べ物をゆずることは簡単ではないし、そこまで深刻でなくても、自分が苦しい時に、誰かに優しくできる人こそ、ヒーローなのかもしれません。

 そして、誰の中にも、その勇気と愛はあるのだと、やなせたかしさんは、歌の中で訴える。

 だから誰もがヒーローになれるのだ!そして、助けてもらうことを待つよりも、ヒーローは君さ!君にもなれるのだ!彼はくりかえし歌の中で応援している。

 善か悪か、と分けて、悪を倒すよりも、悪があるから人は何かに気づいてゆく。また、その悪に憤りを感じるから、皆が助け合おうとする。

 アンパンマンを見ていると、勧善懲悪ではないような気がする。だから、敵役の、ばいきんまんとドキンちゃんが、なぜだか、僕は心底憎めない。

 まさに性懲りも無く毎回、同じような悪戯をして、アンパンマンにパンチをもらって、心の奥底にある空の彼方に飛ばされてゆく、そして、また性懲りも無く現れる。なぜか憎めない…

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 自分の弱さ、愚かさを見るようで。そう、心の中でいつも性懲りも無く、それが、繰り返される。

 また、やなせたかしさんは、くじけそうになったら、いいことだけ、いいことだけ、思い出せ、大事なものを忘れて、べそかきになったら、好きな人と、好きな人と手をつなげ、その好きな人が見つからない時には、自分と手をつなげ、自分を責めちゃいけない。ヒーローは君さ!君の中にある。信じることさ!君は優しいヒーローさ!

 (アンパンマンたいそうより抜粋・編集)


 そう、今日も繰り返そう、性懲りも無く、自分の中にあるドタバタ劇を…

 でも、それが生きるってことだよって、君は飛べるよ、どこまでも…

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騒がしい愛と穏やかな愛

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 どうすれば、ベストパトーナーに出会えますか?

 

 自分に合った人を見つけるにはどうすればいいですか?


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 僕はいつも言っています。まずは、そんな上手な出逢いのためのノウハウ本は捨てるのにかぎる。またそんな婚活に執着しないほうがよいと。逆にあなた自身が色あせるからと…


 前にも書きましたが「人間の行動は、その背景にある原因を強化する」のです。

 それは多くの実験から明らかにされています。恋人に振られたからと、あまり愛情を感じない人と付き合ったり、「楽しい場所に行かないと!」と思ってムリして行動すれば、楽しめていない自分に焦点が当たってしまい、より悲しい惨めな気分に支配されます。そうです、その背景にある原因を余計に意識してしまうのです。

 だから、ストーカーは追いかければ、追いかけるほど、相手のことを忘れられない存在と思い込んでしまうのです。執着し時間をかければ、かけるほど、相手が自分の人生の中で重要な存在として固定されてしまうからです。


 トラウマ(過去の心的外傷体験)ばかり気にして、インナーチャイルドを癒そうとか、傷ついた心を探す旅に出て、それを探せば探すほど、そのトラウマが重大な問題になってしまうものなのです。だから、そんな、セミナーショッピングをくり返す人ほど、より顔色も悪くなります。


 話はそれましたが、だから、パートナーを探して本を読みあさり、自分にあった人を探して婚活パーティに出れば、それが人生の重大事に思えてくるから不思議です。そのうちに自分の中にある輝きを失ってしまいます。


  「お一人様で生きる本」を書こうとか!とか、「自分を楽しむ人生の方法」を探すわよ!と思った時に、ステキなパートナーに遭遇して結婚したとはよく聴く話です。


 なぜなら、花を探して飛び回る哀れなハチよりも、凛と大地に立っている花のほうがステキだからです。今の自分を否定し、何かにならなきゃと思って生きるよりも、その場で自分らしく咲いている人のほうが美しいものです。


 ノートルダム清心学園の渡辺和子さんも「置かれた場所で咲きなさい」と言っています。

 自分の今やれる事をしっかりやる。何に対しても、気持ちをこめて仕事をする。


 日本舞踊の所作の美しさは、手や指のつかいにまで、とても心がこもっているからです。それが、「艶」なのです。


 京都の住民は、水やりひとつとっても、植木鉢ひとつひとつの土が、水があふれ出ないように、水をかけていきます。お茶をいれる時でも同じです。静かにゆっくりと、お茶をいれます。これは謙虚さのなせる業でしょうか?それとも物を大切にする気持ちからでしょうか?

 

 京都だけではなく、お茶をいれる、残ったお茶で急須を磨く、急須をすすいだら逆さにし、フタを上にのせて乾かす。日本では当たり前の動きですが、西洋人の私から見るとこれが実に無駄がありません。

 ドミニク・ローホー


 彼女は同じように、丁重な手つきだった。この部屋にある何を扱う時でも、オーブンのつまみを回す時でも、カレンダーをめくる時でも、彼女の手つきは、とても丁重だった。それは、安らかな丁重だった。
小川洋子「完璧な病室」中公文庫収録

「冷めない紅茶」より


日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき


 自分のパートナーを見つけるよりも、自分の魅力を再発見する。


 自分の今やっている仕事や家事でも、通勤の行き帰りでも、しっかり歩く、しっかり目を見て話す。瞳の奥から笑う。手先にまで意識を向けて所作を高めるなど。広くではなく、深く自分を掘り下げるのです。ですから、他人なんかと比較しないで、より深く自分を磨く。他人とのアポイントに振り回され消耗しないで、静かな自分とのアポイントを大切にすることなどetc.


 「愛するには、愛される人になりなさい」と、ローマの詩人 オウィディウスの言葉はとても意味深いものがありますね。


 そう、「ベストパートナーを探すよりも、自分自身とベストパートナーになりましょう」by 衛藤先生

 

 心理学的な調査によると、ステキな結婚を望んで相手を探している人のほうが、日々の生活の中で出会った結婚よりも離婚率が2・5倍もあったそうです。なぜなら、多くの人のいう愛とは、心がワクワクする、燃えるような恋はホルモン中心(アドレナリン)の愛だからです。


 心理学者のR・スタンバーグは「恋とは、一時的な精神疾患」とショッキングなことを言いました。


 「不幸な結婚を作り出しているのは、愛の不在ではなく、友情の不在だ」と言ったのはドイツの哲学者ニーチェです。


 やはりワクワク、ドキドキを結婚に期待している人の離婚率の高さは、ホルモン中心の愛だったのかもしれません。もちろん、ホルモン中心の愛が悪いわけではありません。でも、ホルモンに支配された愛だけを求めると、やがて愛は破綻します。


 心理学の世界では「刺激鈍麻の法則」と呼ばれるものがあります。


 私たちの感覚は、一度快感を体験すると、それをくり返すうちに、満足や興奮が少なくなります。そう、物足りない感覚におちいります。


 さらに、何をやっても、これで満足ということがなく、他の人と比較してしまいます。誰かと「幸せ度を比較してしまう」また、いつもその先に本当の幸せがあるように思えます。これを心理学では、また「順応水準の原理」と呼ばれたりします。


 そして、いつも不満になります。


 さらに追い討ちをかけるように、恋愛指南の本やテレビでは、パートナーとのドキドキの高め方こそ正しく、絶対愛のように唱えます。そうホルモン愛だけを賛美するのです。お互いにワクワク高揚する愛が続くように。


 カラーテレビからハイビジョンになり、サラウンド、プラズマテレビから、3Dと、「満足の半減期」は年々短くなります。それと、同じようにホルモン愛の半減期もさらに短くなります。


 ですから、ドキドキ興奮するだけの、子どもの愛だけを賛美する本だけに縛られないで、穏やかな愛も大切にしましょう。ニーチェの言い放った、友情のような関係も大切なのです。


 そのためには、人である自分を信頼し、穏やかな自分との時間を味わえる心を作ることが大切だと、メンタルのセミナーでは勧めています。見慣れた相手の中にも、新しい発見をし、それを、ゆるやかな時間の中で味わい噛みしめられる自分を育てる技術を知ることが、幸せの関係を維持する近道です。


 大切なことは、誰と出逢っても、相手をベストパートナーにしてしまう能力です。他人と過去は変化させられない、変えられるのは、自分自身と未来だけ!!


 でも、今回のブログも恋愛ノウハウの一つですよね??


 かも f^_^;)(笑)

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孤独の「行間」を楽しむ。

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 行間を読む。

 文章の中に作者の思いや、その背景にある色や香りを感じ取る能力。

 この行間を読み解く能力を伸ばすには、本やブログからの学びだけでは、その能力を鍛えることは難しいのです。

 今の時代はモバイル中心の社会です。ここ数年で、人の生活が大きくオンライン社会へと変わりました。まず、朝起きた瞬間から、ベッドの枕元にあるモバイルに手をやる人々が増えています。まるで、ポケットに入るモバイルに支配されている人を街でよく見かけます。

 ホームで電車を待っている時でも、信号待ちでも、誰かがテーブルから席を立った、少しの時間も、沈黙や独りの孤独という不安に耐えかねて、バックやポケットの中にある、小さなモバイルに手をのばす。

 ある種のモバイル中毒依存です。

 そして、会議や仲間との集まりでも、自分に興味があることには集中するけど、自分に興味がないことには、集中できなくなり、モバイルに手をやる人びとが増えています。

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 これを「ふれあい中毒症候群」と呼びます。

 より自分に関係することだけに興味を感じ、自分に関係がないと判断したら、すぐに退屈を感じてしまう若者が増えています。

 テレビの早回し機能から、CMスキップ機能なども、その一つです。YouTubeも、自分の観たい刺激だけを抜き出します。ネット通販も、購入した品物に関連する情報をくり返し送り続けます。

 まさに、美味しいとこを、欲しいものだけ、味わいたいだけ、味わおうとする感覚がネット世界に蔓延しています。それ以外はすべて無関心、やはりこれも現代病の一つです。

 僕がカウンセリングしてきた深刻な相談者は、意味もなく孤独で、淋しいと訴える人が後をたちません。

 相談者の多くは、孤独で淋しい、だから自分に関連する情報がないかと、小さなモバイルにしがみつく…孤独が良くないと思っているから、同じような仲間をネット環境で探してつながりたいと願う。でも、複数に送られた情報は、自分だけに送られたものではない。さらに孤独とつながり飢えを感じる。

 孤独だから、Facebook のページ、 Twitterフィードに夢中になる。そして「いいね」があると「自分に関係を持ってくれた」と一時的に安心します。でも、それは海水と同じで、さらにノドの渇きを増すことにつながります。孤独だから、ネットでの関係にしがみつく。それは、さらに孤独を深める悪循環につながります。

 なぜ孤独を深めるのか?

 Eメールでも、メッセージでも、ツイートの文章でも、編集ができるから、すこし本当の自分からはズラすことが出来る。そう、スマートな自分を作り込める。間違った文章を送ったり、感情的になることもない。多くの人たちは、それを便利なことだと言います。僕もそれには同感です。

 でも、真実の人間関係は、言い間違えたり、言葉につまったり、 ためらったり、 本音がポロリと出たりするところに、 本当のその人が表れるのです。

 一瞬の言いごもり、その瞬間、不安から「えっ?」と思わず顔に出たり、共感から深くうなづいたり、吐息にいたる。そんなコミュニケーションの「行間」までを削除し、修正すれば、その人は、その人と少しだけ違った人物になってしまいます。

 つまり、モバイルでは、よそ行きの自分を装い、より自分を洗練し、自分をデザインした姿で、たくさんの仲間と日々出会っています。

 だから、真実の自分が「いいね」されたのではなく、微妙に削り、痩身した自分のイメージが、誰かにツイートされたのです。だからこそ、いくら多くの人とつながっても、本当の自分とは、誰ともつながっていないように感じ「より孤独で淋しくなる」という悪循環に陥って行くのです。

 本物の人との真実の出会いは、味覚の相乗効果に見られる感覚と同じなのです。その旬の季節に、電車や車で、その名産地まで足をのばし、歴史ある店のテーブルに座り、職人がこだわった、微妙なさじ加減、器の温度、最高のタイミングで、名物の味をいただくから、老舗の味に、深い感動が得られるのだと、僕は思っています。そう「出かける」という、プロセスに人生も味わいがあるのです。

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 今は冷凍の宅急便で、その老舗の味は、かんたんに食すことはできます。

 でも、見慣れたキッチンで、いつも別の料理を出している食器で、食べてみても、老舗の味とは、なぜだか少しズレが生じる。奥深い味わいは得られないのです。

 たくさんの泥土の中から、見い出された宝石だから人は感動するのです。簡単に宝石やゴールドが手に入るなら、人は価値を感じないのです。

 YouTubeは便利だけど、昔のように偶然につけたテレビの中に、憧れの芸能人が映っていた、という偶然が、出会いの感動をサラに高めるのです。 見たいものを、カンタンに見たいだけ見ると、感動も鈍化して、その芸能人・映画への感動が、色あせる周期も早いのです。

 レコード店で買ったレコードをすり切れるまで聴いていた時代と違って、ダウンロードで手に入れた曲に、飽きてしまう気分の半減期は早いのです。人の感覚はそれほど、不思議なものなのです。

 仕事と愛する人との運命的な出会いにも同じことが言えます。

 ユング博士は、偶然の出会いには、意図をこえた、意味が隠れているとシンクロニシティ論で説明しています。

 たくさんの情報にアクセスしながら、真実の出逢いが少ない時代。たくさんの人とつながれば、つながるほど、本当の自分とつながっていない、淋しさが増してゆく時代。

 だから、このブログの内容や、本で勉強したとしても、何かが足りない。多くのメンタルの参加者が言っているYouTubeの画像には、ライブ感⁇ 何か?が抜けていると…。

 それは、先ほどふれた味覚の効果と同じで、一週間に一回、メンタルの教室に足を運び、そこにある臨場感を味わい、その心地よい緊張と、その場の雰囲気と、知らないメンバーとの出逢いが、多くの参加者を変化させる「スイッチ」になる。

 ステキな出会いも、自分の一生の仕事も、ワクワクする未来も、日々過ごしている小さな世界では出会わない。勇気を出して新しい世界に一歩前にふみ出し、歩き始めた先に、大切な出逢いがある。さらに、近い人より、遠い世界の人に、人生を成功に導くカギがあります。

 カウンセリングをしていて、一番結婚に失敗するパターンの人は「みんなが結婚し始めて、椅子取りゲームみたいにあわてて、身近にいた人の椅子に座ったの。それが間違いの始まり…」と後悔するケースが多い。そう、自分の視野を広げるための、努力をおしんで、身近な人の手を引っぱったケースです。

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 未来が見えないのは、自分の視野が狭まっているからです。いつもの生活のパターンから一歩出て、なるべく色んな考え方の人と出会う。そこで、心から愛する人と出逢ったり、一般公募していないカウンセラーの仕事にありつけたりもします。

 そして、未来のことは誰も分からないけど、自分の「心のスイッチ」を知ることが、ワクワクする未来を作るキッカケになることだけは確かです。

 一歩踏み出した受講生は、教室で多くの仲間と出会い、爆発的に変わってゆく…

 孤独で、淋しいなら、いつものネット中心の生活のパターンを変えること。

 人と人との「行間」を身につけるコツは、すなわち空気を読むには、修正も削除もできない、めんどうな人間関係にも身を置いてこそ、本当の、孤独、淋しさから脱出できるバランス感覚がある人間に変身できるのです。

 若いうちは仲のよい友だちと過ごすことが多くなります。それは、意見が一致して、楽しいからです。同じ意見や、同じような話し言葉だと、安心感もあります。でも、研究データでは「仕事」や「結婚」で成功するグループは、若い時代に、たくさんの考えの違う仲間と出会い、時には深く語り合い、好き嫌いしないで遠い遠い人間関係までも人脈を広げたグループに多かったと、心理学の統計調査では言われています。

 ですから、どんなにオンラインの世界の中で人脈が広がり、自分の姿を編集し、洗練させ、家の中にいてネット上でスマートに演じても「こいつのために一肌脱ごう、応援しよう ‼︎」と思ってくれる人はモバイル内には現れません。

 チャンスは、あなたが興味のない会議の時間の中に存在しています。あなたの興味のない話に対して、あなたが微笑えんで一生懸命に聴いてくれるあなたの姿を見て、多くの人は、あなたの応援団になるのです。

 はげしい夏と、きびしい冬の「行間」にある秋の季節に、やさしい陽の光や、静かに流れる音に耳を傾ける孤独を楽しみましょう。

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 カフェ・テラスで、目の前にいた人が「ちょっと…」と席を外し、独りポツン…と、その場に、取り残されても、孤独から逃れるためにモバイルに、手を伸ばすクセを、時には止めてみませんか。孤独という「行間」の中で、誰かの温かさを大切に思う。だから、モバイル内のコミュニケーションよりも、目の前の人との時間を大切に扱おうとする。これは意味のある孤独という「行間」なのです。

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 独りの沈黙という時の「行間」の中に、すこし席を立って、しばらくすれば戻ってくるであろう誰かの、先ほど話していた会話の意味や、視線のゆくえ、吐息、口ごもって言えなかった心のありかを、理解しようとする姿勢の中に、空気が読める人、「行間」を読める人へと、成長するトレーニングが隠くされています。

 少なくても、目の前にいる人の、心の説明文は、手のひらのモバイルの中には隠されていないのだから。




日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき










魔法は自分にかけよう!

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 私たちは、他人のことはよく見えます。でも、自分のことは意外と見えないものです。

 人が成長するにあたり、第三の目が養われると言われます。この第三の悟りの目は、自分の周囲を見つめる視線ではなく、自分自身のことを冷静に見つめなおす視点のことです。

 僕の周りは、ここのところベビーラッシュが続いています。たくさん未来の可能性が、誕生しています。

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 彼らはスゴイことに、22世紀を見る可能性があるのです。心から健やかなれと願っています。

 赤ちゃんの視線は、静かなる子宮の世界に別れを告げ、このにぎやかな世界に視線が注がれます。まぶしい光や、にぎやかな音、たくさんの人に迎えられ、外気にふれ、この世界に慣れ親しんでいくのです。

 さらに、赤ちゃんは、自分から行動を始めると、驚くほど脳細胞が連結し、発達をとげます。

 アクションを起こしながら、子供は気づくのです。物を投げると、物が飛ぶこと。何かオモチャを持って叩くと、いろんな音がすることなど。さらに、泣いたり、むずがったりすると、親が飛んできて、なだめてくれることを…自分の思いどおりに、周囲を動かすテクニックを学んでいくのです。

 やがて、自分の望むように大人を動かす、この不可思議な魔法を身につけ、彼らは幼稚園や学校へと進むことになります。

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 ここで、彼らにショックなことが起こります。この幼い魔法は、家でしか通用しないこと、さらに仲間の誰もが、この魔法を使って、誰かを思い通りに、動かそうとしていることを同時に知るのです。

 そこで、幼い魔法使いたちは、幼い魔法から離れないといけなくなります。これが、幼児期・学童期前期の特徴です。

 集団の中で魔法の修正を学びます。愛を獲得するために、お母さんを見習って、自分のお母さんのように振舞って、相手にお姉さん的になる子供もいます。お父さんのように怖い顔で、お友だちに命令しょうとする子どももいるでしょう。お互いにワガママな魔法をかけ合って、お互いが泣き合う子どもたち…

 そうやって、多かれ少なかれ、私たちは、他人をコントロールすることを学びます。

 そして、真なる大人になる究極の魔法は、お釈迦さまが言った、周囲をコントロールすることではなく、自分自身を制御し、自分を変える魔法です。それが、悟りへの道だと言いました。

 相談に来られる悩んでいる人は、誰かをコントロールすることに、すべてのエネルギーを注いでいます。

 でも、人間関係とは、自転車のペダルの回転と後輪の回転のように、目に見えないチェーンでつながっています。こちら側の回転数が変わると、向こうの回転数も変わるのです。自分自身の行動を変えると、相手の行動も変わるのです。

 ですから、義理の母とウマが合わないのですと、相談に来られた相談者は「お姑さんが、もう少し変わってくれたら…」と、言いながら、姑がリビングにいる間は、自分はキッチンに立つ。姑が二階に上がると、お嫁さんは一階に降りてくる。これではウマが合うはずがありません。

 そこで、僕たちカウンセラーは「5分間、義理のお母さんと一緒に過ごす練習をして下さい」と依頼する。「お母さんが、テレビを観ていたら、一緒に観てください!」「お母さんが洗い物をしていたら、一緒に皿をふいてください!」5分間なら一緒に過ごせるでしょう。それが、10分になり、20分になり…

 次に、何かを質問してみましょう。「お母さん、今日は夕飯何にしましょうか?何か食べたいものがありますか?」「お母さん、今日は新聞に何か気になった記事ありました?」「今日の相撲の結果はどうだったですか?」一日一回なら質問出来るでしょうと依頼すると「え~、一日一回なら」と応じる。

 そして、こちらが質問した内容について、自分の情報も流してください。「お母さん、今日のチラシに、お刺身が特価だって載っていましたよ」「今日はテレビで、お母さんの好きな、力士さんが出るんですって」と、もちろん、お母さんが興味がある情報をアイ・メッセージで流して下さい。

 その質問と自己開示を一日、少しずつ増やして下さい。

 嫌な上司にも同じことです。「イヤだなぁ」と思って、上司に接すると、こちらの気持ちは以心伝心で、その上司に心が伝わるものです。それが、気まずい関係性をよけいに変えられないものにしていきます。なるべくイヤな上司の、そばに近づき様子を見ていると、チャンスはあります。離れると心の距離感も広がります。これを「単純接触の法則と心理学では言います。上司がペンを探していると「もし、よければ使って下さい!書くメモ用紙はコレを!」と小さな恩を売って、心理的に優位に立つのです。

 嫌味でミスを指摘されても、笑顔で「ご指導ありがとうございます!」そして、後日「この間の、ご指導どおりやってみたら、お客様に喜んでいただきました」と感謝のアイ・メッセージを伝えます。

 お姑さんのことで悩んでいた相談者は報告が変わってきます。お姑さんが変わって来ました。これは、お姑さんが変わったと言うよりも、こちらが変わったのです。

 ただ急激な変化は、変えようとする側も、それに影響を受ける側にも、抵抗感を感じます。ですから、それを徐々に行います。これをアメリカのコーエン博士は、Step by Step 療法と呼んでいます。

 こんなことを書くと、人生を勝つか負けるかで、考えがちな人は「相手に媚びているみたいでイヤだなぁ~」という人がいます。でも「いつも負けてたまるかの精神」は、子どもの精神と同じです。そして、相手が変わらないと、自分としては納得できないのも、幼い精神の現れです。大人は、臨機応変、柔軟に対応ができるものです。

 弱い犬ほどよく吠えると言いますが「自分に自信がない人」ほど、自分が相手におれたり、ゆずったりするコトに抵抗を感じてしまうものです。子どものように、小さなプライドにこだわっているからです。

 「自分は間違っていない」「自分は正しい!」しか見えなくなり、相手と楽しく生きることが人生の充実だ、という大切なことを見失うってしまっているのです。

 あなたが簡単には「変わりたくない」と思っているように、相手も簡単には「変えられないぞ!」と思っています。そんな相手のことを心の中で「こうあるべき!普通は、そうすべき!」とあなたの価値観を「べき、べき」と叫んでも、あなたの周囲の人たちは、普通の常識や正しさだけで、動いてくれる人だけではないのです。

 子どもと違って、大人が身につける大人の魔法は、自分自身を変える魔法なのです。







日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき


外ではなく、内を掘れ!

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 「外を掘らないで、内を掘れ」これは土木関係のキャッチコピーではありません。

 外とは、外的環境の金銭や地位を追い求めていくのか?
 内とは、自分の中のマインドを鍛えていくのか?

 どちら側に、人生の大切な時間を費やせばいいのでしょうか?

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 今までの日本は、右肩上がりで、つねにMore & Moreを求めて来ました。より拡大し、より利益を蓄えることを疑わないで進んできました。子どもたちにも、さらに勝ち組になることを目指せと…

 ただ、カウンセラーとして、日々感じることは、どんな立場に上りつめても、その場で幸せを味わえる能力がないと、人は幸せを感じることはできないということです。

 ある会社の経営者は、いつ、どこに行っても特別な接待を受けないとイライラします。ホテルに行っても、レストランに行っても、あるいは、小さな喫茶店であっても「社長様!」と特別扱いを受けないとコーヒー一杯を楽しめない。

 ある老紳士は、いつでも、どこでも穏やかな笑顔で過ごしています。飛行機でビジネスシートに座っても、キャビンアテンダントが荷物を上の棚に上げようとしても「大丈夫です」と笑って、ヒョイと荷物をあげる。そして、キャビンアテンダントに「いつも、ご苦労さまですね」と声をかける。

 先のイライラした社長さんは、目くばせで「お前が、あげろ!」とばかりに女性のキャビンアテンダントにあげさせようとする。自分は特別なんだと言わんばかりに。彼は、誰もが自分の立場や地位に「ひれ伏すべきだ!」と思っている。だから、その地位と名誉にしがみつく。

 でも、どこに行っても笑顔をたやさない老紳士には、その人そのものに魅力があるのです。だから、何も持たなくても彼は幸せなのです。小さなお店で、普通の接客を受けても、ニコニコ微笑みながら、店の目立たない片隅で、コーヒーをすすっています。

 内に輝きを感じます。

 多くの本やセミナーで、いかに一攫千金で儲けるか、いかに楽をして利益を得るかなど、努力せずに出世する方法が語られます。お金や地位が人生を楽しませる絶対的な条件であるかのように…また、そこに参加する人もそれを疑っていません。

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 アメリカの広告の欄で、こんなのを見たことがあります。

 79歳の男性です。私に電話をして下さい。話し相手がいません。電話して下さった方には⚪️⚪️ドル差し上げます。

 62歳の女性です。私と教会に行って下さい。友達がいません。教会に行って下さった人には⚪️⚪️ドル差し上げます。

 このような求人の欄が続きます…もちろん、それぞれの諸事情はあるのでしょう。

 でも、多くの広告主のメッセージに目を通して、僕自身が感じた印象は、この人たちは、支払える財力はあるけれど、電話してくれる友がいない、教会に誘ってくれる仲間がいない。財産があっても、財人、財縁がないのです。

 多くの成功者を調べたアブラハム・マスローが、真の成功者の共通点は、戦時下でも、平和時にも、どんな条件下でも、幸せを感じる能力を持ち合わせていると言っています。さらに、豊かな生活でも、質素な生活環境においても、彼らは同等の満足を感じている自己実現の能力をあげています。

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 特別な待遇、特別な経済状態でないと楽しめない人は、環境の奴隷、金銭の奴隷なのです。

 僕はどんな条件下であっても楽しめる、自分自身の奴隷でありたい。

 「成功!成功!」と、目を充血させ鵜の目鷹の目で、目に見えない成功だけを求めて生きている人は、今の中に落ちている、空の色、風の香り、周囲の人びとの笑顔、ゆっくりと流れる時間の中にあるコーヒーの香りを味わえない人です。

 外側ではなく、自分の内部を輝かす努力を惜しみなくしていきたい。




日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき









心の中にあるアルバム

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 「胡蝶の夢」という故事があります。中国の荘周という人が、キレイな蝶になった夢を見て、あまりにもリアルだったので、もしかして今、人として生きている自分こそが、蝶が見ている夢なのかもしれないと、夢と現実の区別ができなくなった例えです。


 信長が「人間の一生は、夢幻のごとくなり」と歌いました。現実と夢は、過ぎてしまえば夢のまた夢なのかもしれません。夢で見たことも振り返ると思い出と同じならば、作り変えられるのかもしれません。


 母の死の病床で、僕が会話に窮して「お父さんと別れてしまったことは、僕は恨んでいないよ。よかったんだよ。あのお父さんだったら、お母さんも大変だっただろうから」と僕が言うと、母は「それは違う。お互いに若かったのよ。今ならあの人の気持ちもわかる。もっと、うまくやれるよ。若い時はお互いに自分の思いが強くてね…」


 「それにね。お父さんはお前を愛していたのよ。のぶゆきが赤ちゃんの時に、あなたのオシメを変える時に、お父さんの顔にオシッコがかかったの。そしたら、あの人は『坊主にオシッコかけられた!』って笑ったのよ」僕はにわかに信じられなかった。

 「そんな写真があったはずよ」とポツリと語った。


 僕はその頃の写真を、実家に帰ったおりに探した…でも、父が僕のオシメを替えている写真も、当然、オシッコかけられ、笑った父の写真も存在しなかった。


 母親の周囲の人に聞いても、そんなことは聞いたことも無いと言われた…旅立つ前に父子の関係を深めるための母の優しいウソ ?!


 でも、それ以来、僕の心のアルバムには、父が僕にオシッコかけられて、笑っている写真が飾られている。それが僕の原風景となった。



 事実がどうであったかではなく、自分自身がどう信じたいかなのだと思う。


 そう、あなたは誰かに確実に愛された!










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