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Channel: 日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき
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筋トレ再開‼

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 昨年、夏の終わりから腰を痛めて好きな運動が出来ませんでした。でも、やっと、腰の状態も良くなり、筋トレ、スタートです。

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 目指せ、一年前の自分に戻せです。
 運動のコツは「やれる範囲でやる。」これぞ森田療法の真髄です。

 洗い物がたまっている時に、たまれば、たまるほど、完璧なキレイな流し台を目指すから気分が滅入るのです。

 完璧な流し台(完璧な目標)を思えば、思うほど、心のエネルギーは下がってしまいます。

 それは、完璧なキレイな流し台への過程を考えて、途方にくれて動けなくなるからです。その目標の道のりの遠さを考えて心がひるむからです。

 だから、少しだけ洗う、少しだけ今日、笑顔を増やす。少しだけ優しくしてみる。こちらのほうが動かないよりも、少し成功に近づきます。

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 それを「やれる範囲で…」やる。
 千里の道も一歩から。 今までと違う、輝いた自分へも一歩からです。

 筋トレもそうなのです。すこしだけ腹筋のトレーニングをする。すこしだけ腕立てをする。すると、気づけば、思ったよりもエクササイズが進んでステキな汗をかきます。

 人は身体の疲労よりも、心の疲労が、日常も、スポーツにも、ブレーキをかけます。

 だから、最初に途方もないメニューを作ってトレーニングを頑張り過ぎる人ほど続かない。

 だから、あまり高く目標を立てたり、深刻に考えすぎないで、鼻歌交じりにやりましょう。

 先日、友達・恋人が欲しいけど「誘えない」と言う青年が来ました。

 人を誘って迷惑をかけては、いけないから…と彼は語りました。僕は思います、内容がなくても「元気?」だけでもいい。「楽しんでいる?」だけでもいいのです。「元気ならば、僕も幸せです」で電話を切ればいいのです。

 でも、自信のない人は、相手を気にしているようだけど「自分がどう思われるか?」ばかりに気を取られ過ぎて、小さなアクションをスタートできない。そう、嫌われても死ぬわけではないし、今回嫌われたからと言っても、これからも誰からも、永遠に嫌われるわけではないのです。

 売れる営業マンは、売れるところまでお客に会う人です。成功する人は、成功するまで小さな行動した人です。

 カウンセラーとして「自分が何をしたいかわからない」と言う人に多く出会います。そんな人は、受け身の人が多いようです。人生を三角座りで待っています。はるか遠くを、遠い目で眺めているだけで、自分の目の前の「今」やれることをしません。そして、最後は目の前のことを「くだら無い」などと言ってバカにしてしまう。

 自分の存在が、さぞ崇高であるかのように、錯覚の中に自分を逃げ込みませてしまいす。

 さらに、自分に自信がない人ほど、一生懸命の人を、劣等感から「あんなのくだら無い」と引き下げて言ってしまう。

 くだらないコトに夢中になれるほどに、人生の中で夢中になれるものに出会ってもいない、わが身を見ようとせず、シラけた自分を奮い立たすこともせずに、人を見ては「引き下げの心理」で自分の劣等感をかばう。

 あ、筋トレのことで、話がそれました。また、僕も今日からスタートです。

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 「え⁈ また、調子が悪くなったらどうするって?」その時は、また休めばよいのですよ。

 あのね、僕は、休むのも、頑張るのも、一生懸命なのだから!

 そして、その時は、やれることをするだけさ‼


日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき



面倒な人との関わりが、人を伸ばす。

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 去る者は日々に疎し(うとし)、離れて過ごすと、親しさも失われるものです。

 大切な人の死などの悲しい出来事は、日に日に、記憶が薄らいでいくことで、人は救われる時もありますが…

 でも、人間関係が日々、疎遠になる人は、「人生の出会い」という大切な蓄財を失っています。

 会社を起こしてもすぐにつぶす人、友達関係や恋愛でも、瞬発力だけで、あまり長続きしない人は、日々の人間関係を維持させる努力を嫌います。

 「面倒だ」と思ってしまうクセがあります。

 「面倒だから」と、自分のストレスばかりを気にするから、人間関係のメンテナンス(維持)の努力をおこたってしまうのです。

 セールスでも、コンサルタントと名乗る人の中にも、会っていると、たしかに楽しいのだけれども、自分からは小まめに連絡を取ろうとする努力をしないから、その人の薄情さを、相手に感じさせてしまう人がいます。

 人間関係の広い人、つながりを大切にする人、ビジネスで成功する人などは、一時的な人間関係ではなく、持続的に人間関係を大切にしていると人びとだと、僕は確信しています。

 「断られてからが営業だ!」と営業される方は言われます。

 一度くらい断られても、トップセールスに輝く人は、そのお客様に、嫌われない程度に、小まめに連絡をとり、日々、お客様との関係が、疎遠になることを防いでいます。

 商品ではなく、自分自身が最終的に「売り者」だと言われるトップセールスの人は、無視をされることへのストレスへの耐性が強いのです。

 笑福亭鶴瓶さんの師匠である笑福亭松鶴 師匠は、成功する落語家は、弟子入りを断られても、断られても、あきらめ無かった人間だと語っていました。そう「人間関係は、面倒くさがってばかりではダメです」と…

 我が日本メンタルヘルス協会にも「スタッフになりたい!」と、言ってくれる有り難い仲間がおられます。

 ただ、僕は一度は、かならず断ることにしています。それは、前回のブログでふれた、その人の「ストレスに耐える能力」を知りたいからです。

 一度断られると、ピタリと顔を出さなくなる人がいます。
 それで、おおよそ、その人の生来の人柄が分かります。

 その人がオール or ナッシングな性格な人だと。

 雇うなら関わる、雇ってくれないなら一切関わらない。このような人は、瞬発力の人で、持続力の人ではないのです。

 ビジネスはうまくいく時と、いかない時があります。仕事が、うまくいく時は問題はないのです。でも、うまくいかなくなると、そのような人は逃げ出してしまうような人間関係でしかありません。

 仕事で成功するのは、容姿でも、言葉の巧みさでもありません。 究極は、その人の腹(その人の真なる姿)です。

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 今まで心理カウンセラーとして、たくさんのカウンセラーを育てさせていただいて、有能な講師陣も誕生するようになって、そのように強く確信するようになりました。

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 上司に一度注意されたり、叱られたからといって、その上司から日々、足が遠のいて敬遠するようになる人がいます。まさに「日々に疎し」です。すると上司も、その部下を「可愛げないやつ」と評価します。また、上司との関係をよくするチャンスも、タイミングも失ってしまいます。

 逆に、上司から叱られ、注意されても、上司から離れず、次の日にはニコニコ笑顔で、指導を受けようとする部下はストレスに耐性があり、最終的には可愛がられて、一番伸びる部下なのです。

 もちろん、すべての人に好かれる必要はありません。ある程度の年齢になると、面倒な人間関係をムリをして持つ必要もなくなってきます。

 だからと言って「面倒だから」と人間関係を切り捨てていると人間的な成長の機会も失います。

 人はある年齢を過ぎ、自信が出来てくると、自分にとって楽な人と付き合うようになります。そして、自分にとって心地の好いことを言う人とだけ、付き合うようになったりします。それが、人間的な成長を止めてしまうのです。

 なぜなら、人間が一番成長している時は、面倒な人間関係も、そこそこは付き合い、外からの忠告にも耳を傾けている時期なのです。

 ですから、苦しい時期は、師からきびしい指導を受けている頃であり、人が究極に不幸になるのは、指導をしてくれる師を失うことにあります。

 なので、誰からも愛され、成功する人は、人間関係が消去型ではなく、「親しくご指導いただきました」「日々、可愛がっていただいています」と胸を張って言える人、つまり人間関係が貯蓄型の人です。

 貯蓄型の人は、一生を通して、仲間に恵まれ、いろんな人生の場面で、たくさんの応援団に、支えてもらえる蓄(人)財をしてきた人なのです。

 一時的な成功をおさめても、やがて落ちてゆく人を、たくさん見てきましたが、それらの人びとは消去型の人間関係の人でした。

 「人間関係が殺伐として、イヤな時代です」と、人に語りながら、自分の消去型の人間関係のパターンに目を向けない人は、一度、自分のこれまでの人間関係のパターンを見直してみることが必要ですね。

 孔子が「巧言令色鮮し仁」(こうげんれいしょくすくなしじん)と語りました。

 人間関係を消去し、言葉で、その時々を巧みに飾り、顔つきを和らげて上手く、その場、その場で、とり繕っても、その人の行動を見ていると、 人間関係への真心に欠けている人が多いと…

 ですから、百の言葉よりも、一つの行動なのです。ズルい大人になると、言葉ばかりが達者になって、誠意あるアクションが失われてしまうようです。

 あなたが一番、面倒だと思う人間関係が、一番あなたを伸ばしてくれる人かもしれませんよ!

 それは、あなたにとって誰なのですか…






日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき





ステキな出会い!

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 明日は、日本メンタルヘルス協会の研究コースの修了式です。

 大阪のホテル・ニュー・オータニで開かれる、東京、名古屋、大阪、博多の研究コース生400名の合同の卒業式です。

 このためにメンタルのスタッフは、ここ一ヶ月は式の準備で大忙しでした。本当に、本当に、ご苦労様です。

 僕自身は、今日、東京から来てくれた雑誌ananの取材(モデルとしてではなく、カウンセラーとして^_^;)が、天王寺の写真スタジオであり、その後、夜の講座のために名古屋に向かいました。

 その時に、明日の修了式を最後に、日本メンタルヘルス協会を退職する仲間のためのプレゼントを思案していたのです。その時、閃光のように思い出したのが一枚のハガキ。

 そう、オフィスに届いた一枚のハガキのことを思い出しました。
 僕の好きな内田新哉さんの作品展です。

 2月21日(木)~3月17日(日)名古屋のトヨタホームのショールームだと思い出し、取材後に、名古屋に向かうので「もしかして、ショールームには、一週間前なら内田さんの作品が届いているかも!」と思いたち。

 メンタルのスタッフの鈴木のほうから「絵はそちらに、すでに在庫しているか」の主旨の問い合わせの電話をしてもらいました。

 名古屋駅に着いた時、鈴木から電話があり「ショールームには在庫はないのですが、丁度、作家の内田さんが打ち合わせで、トヨタホームのショールームに来ていて、電話で話すことが出来ました!」「え~!」と僕。

 で、「衛藤先生が、一年前に銀座の松坂屋で開かれたサイン会に来てくれたことを憶えておられて『インディアン・カウンセラーの衛藤先生ですよね。憶えていますよ。もしよければ、僕の絵を扱っている画廊に、僕の車で一緒に行きましょうか?』と親切に言ってくれました」と。

 「え~っ!本当に!」と僕。

 一度しか、会ったことがないのに、僕を憶えていてくれていたことに感動し、さらに画廊へ、自家用車で一緒に行ってくれるとは…なんと気さくな!

 いつも、街を歩いていると、よく声をかけられる自分の印象の強さに、時々は、嫌気がさすことのある僕も、今日ほど「印象に残りやすくてヨカッた!」と思ったことはありません。

 そして、一緒に連れて行ってくれた場所は、名古屋から高速道路で30分も飛ばして行くところ。

 そこは事前に、スタッフの鈴木に「内田さんの絵を一番扱っている画廊」と調べてもらっていて、電車で行くと乗り換え、乗り換えで、初めて行くには、とても、とても、分かりにくい場所でした。

 でも、大切なスタッフの旅立ちですから、タクシーを飛ばしてでも「行こう!」と決心していた場所でもありま
した。

 そこに、作者、自から車で送ってくれるとは…なんてステキな申し入れ!

 内田新哉さんと再会し、車の中で高速代は、僕が出そうとすると「僕の作品を見に行ってくれるのですから」と断わられ。

 画廊に着く直前には「気に入った作品がなければ、気をつかって買わないでくださいね(笑)」と念を押されました。

 そして、画廊の場所も、ログハウスでいい感じなのです。ログハウスの販売や、木のぬくもりの作品を多数置いている雰囲気のある場所でした。《夢木香ギャラリー :内田新哉さんの作品がたくさん置いてあります》

 そして、オーナーもインディアンが大好きで、アメリカにいろんなインディアン作品を買い付けに行くとか…何という偶然。

 これぞシンクロニシティ!!!!

 そして、旅立ってゆく、メンタルのスタッフのために、見事に内田新哉さんのメッセージとサインをゲット!

日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき



日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき

 なんと、帰りは名古屋のメンタルの教室まで送ってくれました。

 その車中で、絵に対する内田さんの想いや「もっと、安く売りたいけど、有名デパートなどで扱われると、自分の望んでいない金額になること」「絵ハガキを一枚でも、大切にしてくれる購買者を大切に思っていること…」と語る彼の姿勢…

 そして、僕にも絵を描くことを勧めてくれました。

 彼いわく「海外などの旅行で、露店で買い物をした時に、とても可愛い容れ物に、店の人が果物を入れてくれたりすると、そのお店の人や、容器や、果物の色を、すこし記憶に残すために、スケッチする感覚でいいのですよ。誰かに見せる絵ではなく、自分の思い出に…誰かに見せようと思うと、描くことが嫌になる。そう、自分のためと、大切な分かち合いたい人のために…」

 そして、絵のかんたんな描き方「空は絵の具が、乾く前にすこしティッシュでふき取るだけで、白いところが表れ、雲や空らしくなることや、果物の赤は、最初に黄色の色を塗ってから、赤を足すことで美味しい果物になること…etc」たくさん、車の中でレクチャーしてくれました。

 「衛藤さん、そういう絵のコツがわかると、次回から旅行が楽しくなるでしょ。『今度は、この方法で描こう、これも試してみよう』と、それでいいのですよ。誰に認められなくても…それが最初の第一歩ですから」と運転しながら笑う横顔に、より僕は彼のファンになり、なぜ、彼の絵に惹かれるのかも感じられたような気がしました。

 本当に、出会いは、最高!

 偶然に万歳!







日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき







虹の戦士・旅立ち

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アメンバー限定公開記事です。

年齢という枠組みを越えて…

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 先週の2月22日は誕生日でした。

 たくさんの笑顔や、心こもった思いをいただきました。ありがとう恋の矢

 一年に一度巡ってくる誕生日は、新しく心を引き締めるキッカケになりますが、ある時期から年齢を重ねても、基本的には自分自身は、何も変わらないような気がして…

 そこそこ生きてくると、生き慣れから、その年齢に合わせた、立ち居振る舞いが出来るようになります。

 でも、基本的な性格や考えかたは、大人になった頃からは、自分自身では、何も変わっていないような気がして…

 そして、僕は、最近は年齢に対する違和感が、さらに強く感じるようになっています。

 「すごく若く見える~」の言葉も、まずは年齢ありきであり、その年齢というカテゴリーに、自分自身が強引に押し込められ「自分の知っている自分」は無視され、年齢というモノサシの基準で測られ押しつけられようでイヤなのです。

 「俺は俺で、年齢という基準が、先にあるわけではないだろう!」と…心の中で、かすかな抵抗感を感じながら、外では笑っています。…これも年齢らしく振る舞う哀しいサガなのです。

 知人の年輩のご夫婦が「日本のスキー場はイヤだ!」と言われ、スキー場にあるホテルを、早々とキャンセルされ帰って来られたことがありました。

 彼らは長年アメリカに住んでおられ、アメリカでは、年輩のご夫婦が、思い思いに楽しくスキーを楽しんでいる光景を見て感激し、自分たちもマネをしたいと思って、遅れ咲きながらスキーを始めたそうです。

 アメリカやヨーロッパで、スキーを楽しんでいて、年齢をたずねられることはない。ところが、日本のゲレンデでは、レストランで休憩していると「お幾つですか?」と、必ずたずねられるという。

 それは、日本のゲレンデに似つかわしくない、スキーヤーに対する違和感であり、自分たちの「枠」には存在しないスキーヤーに、注がれる好奇の目なのだと彼らは語った。だから、年齢を質問をされるたびに、スキー場で、気後れを感じたのだと言う。

 僕自身、年齢を重ねることは、とてもステキなことだと思っている。

 でも、先の年輩のご夫婦が言われたように、日本特有のカテゴライズされてしまう、無意識の枠組みには、いささか抵抗を感じています。

 年齢の「こうあるべき姿」「普通はこうだろう」という尺度が先にあって、それぞれ、色とりどりにある個性は「普通」に押し込められてゆく。

 それは本人自身にも、マイナスの暗示として働き、無意識に蓄積され、そのワクに閉じ込められ、本当にそれらしく「老いてゆく」あせる

 でも、今までの人生をふり返ってみると、いつの時代でも、僕は年齢に反逆していたようです。

 ですから、若い頃から、年上の知人や仲間が多かった。

 若い頃から早熟だった僕は「若いのに凄いね」「その若さで」と、プラスに言われることもありましたが、逆に、年配者と討論して、相手が言葉に窮すると「若いからだよ!」と、全然、論理的でない結論で、一方的に抑えられ、討論が終わったこともありました。

 その頃から、「年齢が、なんなんだ!むかっ」と思っていました。

 僕の好きなネイティブ系の部族の話。

 白人は不思議な病気にかかっている。「一日」を柔らかいヤシの実を切り刻むように、一日を細かく切り刻む。刻まれた時間には、名前が付いている。秒、分、時と、秒は分よりも短く、分は時より短い。すべてが集まって時間になる。分が六十と、それよりたくさんの秒が集まって一時間になる。

 やさしい、今そこにある時を見ることをせずに、白人は、丸い機械を皮で手首に付けて、大人から子どもまで、そこに時間が住んでいると思っている。

 そして、街のあちこちにある、もっと大きな丸い機械が、大きなうなり声でいっせいに街じゅうに叫び声をあげると、白人は「ああ、なんということだ、もう一時間が過ぎてしまった!」そして、たいていは大きな悩みでも抱えた人のような、悲しそうな顔をする。

 でも、その白人の横には、たっぷりの時間が横たわっていて、また、新しい一時間が始まっているのに…

 さらに、不幸なのは、今の時間の中で、白人は、ゆっくりと横たわることも、お昼寝することもせずに「時間がない!」「時間がない!」と、いつも、叫んでいる。

 友と語らう時も、誰かと愛し合っている時にも、日向で子どもと遊んでいる時にも、手首にとめた丸い機械を見て、白人は「ああ、しまった! 俺には時間がない。こんなヒマなどないのだ汗」と顔色を青白くする。だから、彼らの顔はいつも白色なのだ。

 白人の彼らに「なぜ、そんなに急いでいるのか?」とたずねると「働いて、将来ゆっくりする時間を作るためだ」と彼らは答えた。

 これは一種の病気だと私は思う。

 時間は逃げも、隠れもせずに「今、ここに」ゆっくりと横たわっているのに。未来に、横たわる時間を得るために「今の時間に、横たわってなどいられない」と白人は言う。

 どの白人も時間の恐怖に、とり憑かれている。

 彼らは自分が、最初に日の光を見た日から、どれだけ、昼と夜が過ぎ去ったかを、極めて正確に知っている。

 そう、そのことは白人たちには、とても大切なことなのだ。だから、その一定の昼と夜が過ぎ去るごとに、ご馳走を食べて、花を贈ってお祝いをする。その一定の日を誕生日と呼ぶクラッカー

 白人の世界でよく私は「何歳か?」と、たずねられた。そのたびに、私は笑って「知りません」と答えた。そんな私を、白人は恥ずべきものだと考える。彼らの心は、よくわかった。「自分の年くらいは、知っていなくちゃいけない」と彼らはよく言っていた。

 私は黙り、そして考えた……知らないほうが、ずっといい。

 何歳かと言うことは、つまり、幾たび夜と昼に出会ったかということである。だが、この計算という病には、大変な害がある。なぜなら、たいていの人間の一生は、幾たびの昼と夜に出会えるかがわかっている。

 だからそうなると、誰もがきちんと計算を合わせてみて、もしも、たくさんの昼と夜に出会ったとすると、その人は言う「じゃあ、私は間もなく、死ななければならない。死ぬに違いない…」

 すると、もう、どんな喜びも、若さも、愛する力も消えうせ、心はしおれ、輝かなくなり、彼は間もなく本当に死んでしまうだろう。

 おお、愛する部族の兄弟たちよ。私たちは幸せだ。まだ、一度も時間に不平を言ったことはなく「時」が運んでくれるままに、時を愛してきた。時間を折りたたもうとも、分解してバラバラにしようとしたこともない。

 また、白人のように、時間が苦しみになったことも、悩みになったこともない。

 私たちの部族の中に時間がないという者がいたら、前に出るがよい。私たちは誰でもが、たくさんの時間を持っている。誰にも誰かを愛する時間があり、カヌーで川を下り、水と語り合う時間や、日向ぼっこしながら昼寝する時間を…今、我々は、じゅうぶん持っている。

 私たちは知っている。私たちが一生の終わりの時がくるまでには、まだ、まだ、じゅうぶんに時間があることを。そしてそのとき、私たちは日が昇った数と、月が昇った数を、たとえ知らなくてもよい。大いなる心は、その意思のままに、私たちを呼び寄せてくださるからだ。だから、「今」と、しっかり楽しめば良いのだ。

 部族の諸君、私たちは、哀れな白人を、狂気の病から救ってやらねばならない。時間を取り戻してやらねばならない。私たちは、白人の小さな丸い時間の機械を打ちこわし、彼らに教えてやらねばならない。

 日の出から日の入りまで、ひとりの人間には使いきれないほどたくさんの時間があることを。

  ~「パパラギ」より抜粋 ~


 だから、僕も人生のタイムテーブルは自分で決めよう。「あるべき姿」を無視して、「枠」を飛び越えて、永遠に心の炎を燃やし続けよう!

 自分で年齢は決める!

 自分は自分のオリジナルな人生を生きる ‼




 

日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき





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ストーリーテラーに必要なこと…

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 ある女子高校生からブログにメッセージをいただきました。

 不登校のために、みんなとは卒業式には出れなかったけど、自分だけの卒業式でのエピソードが書かれていました。一人の卒業式に、他の先生たちも、集まってくれましたと…

 そして、片付けられた紅白幕を、先生たちが壁代わりに持ち、来賓役、渡す役、呼び名をする役になり、さらに、花瓶に、お花まで用意してくれて祝ってもらったと…そして、渡された卒業アルバムの裏には、たくさんのクラスメイトや他のクラスからも、寄せ書きがあったそうです。

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 朝出かける前は、卒業証書も、卒業アルバムも帰ってきたらゴミ箱にでも、捨ててやろうと思って出かけた、ツラかった学校で、彼女は「こんなに人は暖かくて、優しかったのだ」と、学校が一変し、感動して涙が止まらなくなったそうです。

 彼女は「今日ほど人を好きになったことはありません」と書いていました。その感動を自宅に帰ってお父さんに話したら「最初から学校に行けていたら」と、残念そうだったそうですが、彼女は「遠回りだったけど、人の優しさを知れたからと…」これで良かったのだと書いてくれていました。

 そして、人なんて信じられないと思っていた彼女は、一年浪人して大学に入り、臨床心理士を目指すそうです。お花屋さんでバイトをしながら。お花は、誰かの大切な日に節目になったり、誰かの心を癒してくれる気がするからだそうです。そして、大学に入ったらメンタルにも通いたいとの希望を持って!

 いろいろなドラマがあります。

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 不登校で、卒業式に、隣の校舎から体育館を見ながら、自分がそこにいないことへの淋しさ、一緒に来たお母さんへの思いも「本当なら胸を張って、あの体育館にお母さんは座れていたのに…」という申し訳なさから、急に感情が押し寄せて、涙を流した女の子も知っています。

 「卒業式なんてくだらねぇ」と、ツッパって参加せず、大人になってから、後悔している人もいます。

 震災のために、失われた卒業式を、ガレキの残る校舎後で式を挙行して、涙している子供たちもテレビで放映されていました。

 それぞれの人生のストーリーです。

 人間は何を食べたかではなく、何を吸収するかが大切だと言われます。人生も同じで、どんな出来事だったかではなく、その出来事から、何を学び、吸収したかが人生だと思うのです。

 僕自身、両親の離婚、義理の母の自殺、子どもの小児がんなどを通して、学んできたことが人生を語るうえで、多くのオリジナルな気づき(ストーリー)をくれました。

 人生は一度きり、ありきたりの人生よりも、いろいろ感じる人生のほうが過ぎ去った時に、誰かに何かを感じさせるストーリーになります。

 ネイティブ・アメリカンの長老たちは、村で尊敬されています。

 それは、彼らが、その年齢に到達するまで経験するであろう、数々の多くのストーリーを持っているからです。

 それは、誰かに自慢できる、輝かしい栄光のストーリーだけではないのです。

 熊に襲われそうになった怖い話、荒野で砂嵐にあって死にかけたお話し、失くした大切な恋の話、その数々のストーリーが、彼らストーリーテラー(語りべ)の表情に、美しいシワとなって刻まれていくからです。

 僕たち日本では、何もない安全な平たんな道を好みます。でも、ネイティブ・アメリカンの長老は言います。

 平たんな人生の道は、歩くのに飽きてしまうだろ。でも、人生の道は、いろいろあったほうが、頭も心もシッカリ使うから、心が研ぎ澄まされてゆくのさ…

 まぁ、俺はゴメンさ、そんな平たんな人生など、アクビをするようなストーリーだと、誰の心にも届かないし、聴き手の瞳を、キラキラ輝かせることなどできないからさ…。

 だから「この人生の中で、たくさんのストーリーから君は学びなさい!」と…





日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき



弱さの中に隠れた強さ…

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 授業後の食事会で「私は心の中は、冷たいのに、人から優しいと言われる時がある」と彼女は言う。

 それは勘違いで、それが納得がいかないとでも言いたげに…

 僕はその彼女に言った。
 「でも、冷たいと言われるよりも、優しいと言われるほうが、心地よくないかい?」彼女は「でも、内心は冷たいもの!」

 彼女は優しいと、人から言われると「その期待に応えねばならない」と心の中で不安なのだろうと思う。そう「ずーっと、いい人は続けられない。その期待を裏切ったらどうしよう」と…心が落ち着かないのだと思う。

 そこには彼女の優しさの証拠がある。

 僕は「自分は冷たいから」と、自分を突き離し、冷静に自分を見つめている人に安心感を感じる。

 逆に「自分は絶対に人を裏切らないし、人を傷つけない」と言い切る人のほうが、僕は信用ができない。そんなことを簡単に言ってのける人は、僕は「今まで、そこまで追いつめられた経験が少ないからではないかなぁ」と考えたりする。

 痴呆症の、年老いた母親を抱える娘さんが「ふと母が、早く死んだらいいのにと思う時があります。もう、イヤ…こんな生活…」と語った後に、顔をゆがめて泣いた。「自分はヒドいでしょ…」と自分の冷たさを責めて。

 僕は、何も思わない冷たい女性は泣くわけもなく、と思う。

 僕は、人はそれほど強くないのではないかと思っている。人は誰にでも、恐ろしく、冷たく自分勝手なところもあるし、とても忍耐強く、慈悲深くて、優しい愛情もあるのです。でも、そんな相反する自分自身を、抱えながら生きているから、人はやはり強くもある。

 母のことで泣いた奥さんは、突然、夜中に徘徊(自覚なく歩き回る)する母を追って、町に飛び出さなくてはならないから、服を着たまま日々眠りにつく。だから、彼女は年中睡眠不足になる。
 ご近所では、その母が「娘は何も食べさせてくれない」と混乱して話す。ある時には、自分で出した排泄物を、家の壁に塗りつけたりするのだと語った。

 ほとほと、そんな日々に、疲れはてたすえの極限状態で「早く死んで」と人は願うのかもしれない。それらの日々の苦労を、何も知らない人が、一般論や道徳心という、うわべの優しさで、本当に優しい人を裁いてしまう。

 このような疲労困ぱいの、つぶやきに対して「一瞬でも、母の死を願うなんてありえない」などと、僕には裁けない。

 なぜなら、そんな弱さは誰にでもあるのだと思っているから。

 戦時下、街は空襲のため、上がった炎が火柱になり、それらが重なりあって炎の竜巻が生まれたのだそうです。それが街中を、生き物のようになめ回し、逃げまどう人々の、服や皮膚をジリジリとイヤな音をたてて燃やした。

 人びとは追いつめられた末、校舎の中にあるプールに飛び込んだ。そのプールは思ったより水深が深かった。でも、人びとは髪の毛や皮膚を焦がす熱風から逃がれるため、水深のあるプールに、誰もが飛び込んだ。

 プールの下を見たら、最初に飛び込んだ集団を踏みつけているのが見えたそうです。だから、下では呼吸ができない人々の顔がゆがむ。でも、上から襲ってくる皮膚をも焦がす、炎の竜巻から逃れるために、人々は、発作的に下の集団を足台に使って本能的に誰もが助かろうとしたと…

 その生き証人は語る。

 「誰もが突然に現れた極限状態には、本能的に狂気に走ってしまう」と…良心的で善良な一市民が、極限状態に追い込まれた時には、冷静な判断など完全に失った狂気の集団に変ぼうすると…

 だから「絶対にない!」と軽々しく言い切ってしまう人のほうが、自分の闇(シャドー)に気づいていないので、極限状態などに追いつめられると、逆に自分の弱さに簡単に流されてしまう。

 会話の軽々しいのと同じで、行動も軽々しく流されてしまう。

 でも、自分では冷たい人間だと思い、自分自身をクールに突き放して内観し、自分の内面にある影(シャドー)の部分をも、チェックしている人ほど、僕は安心感を感じて信用できる。「転ばぬ先の杖」の準備ができているので、いざとなると踏ん張れる。

 逆に、いろんな経験もせず、幸せと安心感の中で、生きてきた人のほうが、自分や人間の弱さを知らないから、いざという時に、いともたやすく方向転換して、自分の過去に語った熱き言葉など、かえりみずにスタコラサッサと、逃げ出してしまう。だから、「絶対ない!」などと軽々しく言ってしまう人ほど僕は信用ができない。

 自分の正義の目標は、おおいに自分で持てばいい。でも、その正義の刃で誰かを裁く時には、慎重になって欲しいのです。

 自分のシャドーを見つめながら、そんな弱さを抱きしめて人は生きるのです。

 だから、やはり人は強いのだと思う。


《おまけ告知》

 メンタル研究コースの卒業生で、モデルの押切もえちゃんが、大絶賛した「24の物語シリーズ」の中山和義さんが、新しい本を出しました。

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 今回もメンタルのエピソードが多数語られています。オススメです。

 そして、今週の雑誌アンアンに掲載されました。雑誌の取材は多いから、取材を受けた日の教室では「アンアンと言っても、表紙にモデルとして、僕が出ているわけじゃないから」と冗談で言っていたら、表紙に出てました。そう名前が! 新聞広告にも出ていたそうです。

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 次回はモデルで登場したい! ムリか!


日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき



Which one do you choose?

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 フランクルは「人生を問うなかれ、人生そのものが、あなたに問いかけている。今、この瞬間の、あなたの選択を問うている、そして、その選択の集大成が、あなたの人生なのだ」と、これは何を言いたいのか…

 あなたが、子どもの時に、親に傷つけられたとします。その傷つけられた事実を、あなたは笑うのか、泣くのか、怒るのか、忘却をするのかの選択は数々あるでしょう。その人のそれぞれの選び方で人生が決まるのです。

 親に傷つけられて、そんなことで、笑えるか ‼

と、傷つけられた経験がある読者は、不愉快に思われるかもしれません。でも、メンタルのカウンセラーの中には、親からDV(ドメスティック・バイオレンス)やネグレスト(育児放棄)に近い無関心や、逆に恐ろしいほどの過干渉にさらされて、育てられた人も少なくはないのです。でも「そのようなことがあったから、私はカウンセラーを目指した」というメンバーもたくさんいます。

 そして、反面教師として、哀しく、淋しかったから、自分は親になった時には、こうしようと思いましたと笑って子育てしている人もいます。

 これが悲しみを笑って生きる、生き方です。

 親からの愛情が少なかったから、私は他人を信じられません。自分が嫌いなのは、親との関係で、あるがままの自分自身を愛されなかったからです。この欠けているなにかを修復しないかぎり、哀しみはぬぐえません。だから、自分自身をどうしても愛せないし、傷つけてしまうのです。

 これが泣きながら生きる、生き方です。

 親が愛してくれなかったから、自分も年老いた親を見捨ててやる。絶対に結婚式には呼ばないし、親が困った時にジワジワと意地悪してやる。

 なかには、無意識に自分は愛されなかったから「子どもなんかよりも、自分が大切なの」と、親への愛してもらえなかった憎しみや怒りを、泣いてむずがる、わが子に「泣くな!うるさい」と感情的に怒り、育児放棄をする人もいます。

 これが怒りながら生きる、生き方です。

 傷つけられたことを忘却して、自分は親から愛されたのだ、だから、親は、自分の向かう学歴や、地位、名誉を、今でも心配してくれているのだ。自分は親の望んだ人生を歩かなければならないし。

 だから、恋人や結婚相手も、親の期待に合った人を選ぶべきなのだ。だから、親たちが妻を気に入らないなら、妻を追い出そう! 親の期待にこたえられない自分自身は価値がないし、生きている値打ちもない。

 これは忘却ではなく、自分で子どもの時の、わがままな自分、自由なあるがままの自分をムリやり抑圧したために、今は、気づけていないだけなので、やがて何かのキッカケに、心理的な病気になったり、ある時期にすべてに対して、無気力や無関心になったり、最悪では自殺したりすることにもつながります。

 このように、人生の中で、自分がなにを優先にし、どのような人生の選択をするかは自分自身なのです。そう、だからもう親のせいではないのです。

 にもかかわらず、親を攻め続ける人生もあります。または、親を受け入れる人生もあります。親も、こころの勉強をすることなく、初めて親になったのだから「親も一生懸命だったのだろうなぁ」と、傷つけられたこともある親を、そのまま受け入れること、それも自由に選択できることなのです。

 たとえ、自分自身が幼い頃に、そのまま受け入れてもらえなかったとしても、その親を許し、自分の未来のために学びとすることも、自分自身が選べるのです。その人生の中での選択が、あなたの人生、あなたの生き方、あなたの性格と、最後は呼ばれるようになります。

 たとえば、恋人にふられた時、相手の幸せを祈ることも選択だし、もう人なんか絶対に信じないと冷めた生き方をするのも選択、相手を攻撃しストーカーになるのも選択は自由です。でも、これは不毛の選択ですが…

 でも、人は人生の時間を、どのように過ごすかは自由なのです。ただし、その選択が、ふり返った時に「あなたの人生はこうだった」という結論になるのです。

 それが、最初に書いたフランクルの言葉につながります。

 さて、あなたはイヤな上司に対して、この人とうまくいけば、これから、たくさん出会う人の中にも、やりにくい人、苦手な人に、出会うかもしれない。この上司は、それらのこれから出会う、苦手な人とうまく人間関係を保つ練習試合として、自分の前に現れてくれたのだ。だから、楽しもう!

 とするか、いつも、四六時中、この会社の配属にイライラし、イヤな上司を憎みながら、人生を過ごすかも選択になります。

 今日も笑顔で過ごすのか、楽しくもないのに笑ってなどいられない、と冷めて生きるのも人生の選択です。

 エレベーターに乗る時、向こうから人が来るのを知って、閉めるのボタンを押し続けるのも、開けるのボタンを押して誰かを待つのも人生の選択です。

 パワースポットに行って、木にしがみついてエネルギーをもらおうとするのか、自分がパワーパーソンとなって、誰かの目には見えないところで、ゴミを拾う、笑顔でいる、人がハッピーになるお話を、たくさん誰かに伝え、元気にするのも選択なのです。

 子どもの失敗をネチネチと叱りつづけるのか、でも、お前には失敗したこととは別に良いところが一杯あるのよと笑って抱きしめるのも、人生の選択です。

 あなたは、giveしますか? takeしますか?

 いつも、あなたが何を選び、選択するかが、あなたの人生に反映されます。

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 はい、はい、カウンセラー衛藤さんは、そう言うけど、そんなに簡単じゃないよ。人生は甘くないよ、という選択! それが、今の「あなた」なのです。

 「そうか、今日だけでも、いつもと違う選択をやっていくか!」と、前向きに考えて、優しく、笑顔で親切にしませんか。

 それが、今日の「あなた」になるのですから。






日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき






自信がない⁈ じゃ、ヨカッた!

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 「どうしたら、先生たちのように、人前で上手く話せるようになりますか?」よく聞かれる質問です。

 僕は「君が話すのに、自信がないなら好都合だ!うまくなるよ!」と応えています。

 言われた相手は「???…」となりますが(笑)

 メンタルの講師陣たちも含めて、人前で話をしている人は、自信などないのです。だから、日夜どうすれば、むずかしい心の世界を、分かりやすく話せるかを、いつも考えて努力を続けています。

 「上手く」話せることくらいなら、僕は、誰でも練習すればなんとかなると思っています。メンタルから独立し、現在、活躍している上村先生も、林先生も、最初は人前で話すたびに震えていました。そして、話すことに慣れると、誰もが話すことに「上手に」なります。

 ただ「上手く」と「巧く」とは違います。

 「巧く」話すには日々の努力と研究が必要なのです。これは僕も続けています。

 ここで、僕がいう「努力」や「研究」は、本を読みあさることや、新しい勉強会に行くことではありません。

 「研究」とは、話せるようになると、その話す流れを崩し、もう一度、原点にもどったりします。自分の中にある「自信を、逆に疑ってみる」その「努力」を続けます。

 よく「自信をもて!」と人は言います。でも、僕は、自信がないほうが、人生は長い目で見ると、成功すると思っています。

 美容室でも、自分は「すごいんだ、自信がある!」と思って、お店を飛び出し独立すると、そこから落ちぶれて行くケースが多いと、有名美容室のオーナーから聞いたことがあります。

 なぜなら、他の仲間との切磋琢磨が生まれず、技術が進化しないからです。

 講師にも、同じことが言えます。

 自分独りだと、比べる相手がいないので、一度成功した講義のパターンに安心してしまい、それをくり返すからです。

 だから、なんでもライバルが必要なのです。

 もともと人は、自信がないから研究し、足らなさを知っているから、それを埋めるための努力をし続けるのです。

 間違ってはいけないのは、人は自信があるから、努力するのではなく、自信がないから、不安になり、日々努力を続けられるのです。

 そして、努力を続けた結果、なにかの仕事や活動を、やりとげた人を、周囲が見て「あの人は自信のある人だ!」と評価するのです。外が評価するのが「自信」であって、自分は「自信に満ちている」と思った瞬間から、その人はダメになります。

 自信喪失をする人も、自信があるから喪失するので、もともと、自信がなければ喪失にはなりません。もともと、自信など最初からないのですから…(笑)

 ボクサーもプロレスラーも、もともとは病弱だったり、イジメにあった子ども時代の経験を持つ、アスリートが多いのです。怖いからこそ、自分を追い込んで、負けたくないから身体を鍛え続けるのです。

 英国の歴史学者のC・ノースコート・ パーキンソンが語った「パーキンソンの法則」というものがあります。

 リアル・ハートンは、その法則を戦史に適用して、このような事を言っています。

 「どの国の陸海空軍でも、庁舎が立派な建物になり、軍人が社会のエリートになると、その後の戦争で、勝利することはできなくなる」と言った内容です。

 七つの海を支配した英国海軍は世界のエリート海軍と呼ばれました。

 でも実際は、初期のキャプテン・ドレイク時代には、英国海軍は、海賊となんら変わりはなかったのです。

 英国海軍が一番強かった時代は、エリートの精鋭海軍ではなく、荒くれで、海の上でしか生きられない猛者たちの集合メンバーだったのです。

 それが、世界の大航海時代を作り、英国海軍の輝かしい勝利の歴史を作りました。

 英国海軍は有名になり、世界の中で最高の軍事施設と海軍庁舎を作りました。その後19世紀頃には、英国海軍の勝利は一度もなくなりました。

 最後には、ドイツ軍の砲撃の正確さの前に、戦わないで軍人施設に逃げ込む始末でした。

 彼らはドイツ軍の砲撃に負けたのではなく、自惚れに敗退したのです。

 明治の日本海軍も、小国島国の、ただただ船乗りの寄せ集め。だからこそ、清やロシアなどの大国と戦争で、日本海軍は死にものぐるいで戦いました。

 当時、日本中が恐怖におびえていました。その不安は日本海軍にもありました。

 政治家も、不安だから良いかたちで早く戦争を終わらせたかったのです。

 ですから、早期に交渉し、勝利というかたちで終戦をむかえたのです。

 当時、日本中の人びとが精一杯に、手をうてることを皆でやりました。

 不安と自信のなさから、祖国の存亡をかけて誰もが不安と戦ったのです。その結果として日清戦争も日露戦争も、日本は勝利したのです。

 戦史の中では、戦力や装備に劣っている弱小集団が、大軍のエリート集団を打ち負かした事例は数々あります。

 それは、自信がなかったから、素人集団は傲慢にならず、すべてに一生懸命で、何事にも手を抜かず、相手を研究して、全員で真剣に戦ったからです。

 逆に、第二次世界大戦では、自信を持ったエリート意識の軍人たちが、ミッドウェー海戦では、ありとあらゆる判断ミスをくり返し、大きな敗北を日本海軍は喫しました。

 また、日本全体が自信を持ち過ぎて「日本が負けるわけがない」と信じて疑わなかったのです。ですから、大本営発表の「皇軍、行くところ敵なし」「またもや勝利がつづく!」の根も葉もない嘘の報道を完全に大衆は信じこんだのです。そして、日本は、その結末として原爆投下まで敗戦への道を、ひた走るという悲劇につながります。

 英雄と言われる坂本龍馬も、黒船を見た時に、オシッコをチビるくらいに怖かったそうです。
「こんなのを作る国と、戦こうたら日本は負けるぜよ~」その恐怖が、龍馬を明治政府が成立するギリギリまで、ガムシャラに走らせました。

 日本のテレビ局も、近代化の進んだビルに移った後のテレビ番組は、急激に視聴率が取れなくなりました。韓国のテレビ局は低予算で、テレビを制作しています。でも、韓流ドラマの人気は衰えません。

 こんな過信にまつわるエピソードは、現代の日本社会では、数々あげることができます。もう、すでに日本人の集合無意識では、間違った方向に舵を取りつつあります。

 今の時代は、子ども達に自信を持たそうとします。「自信がないことは良くないことだ」と教えています。

 だから、カウンセリングに来られる多くの人が「自信がない」となげくのです。

 でも、人は自信がないから、あれこれ試行錯誤をくり返し、自分の足らなさに不安を感じ、弱点を克服するために、また、研究を続けるのです。

 そうやって、努力した学者や成功者たちを、他者が見て「彼は、彼女は自信がある人生だった!」と、その人の偉大さを讃え評価するのです。

 ですから「自信は大敵」です。

 経営者も自信を持ち、テレビに出演する頃になると、業績は確実に悪化します。

 成功してる時期というのは、自社に対するサービスや商品に自信がなく、つねにサービスに対して改革を行って、商品レベルをより高いものに目指している期間を言うのです。

 だから、経営者が自信を持った時、組織の動きは止まります。

 使えない社員は、自分に自信があり過ぎて、自分を認めてくれない上司や同僚につねに怒りを感じている社員です。

 さらに、怒りの時間を一日の大半に費やしている社員は、会社にとっては、お荷物の社員と呼ばれます。

 それとは反対に、伸びる社員は、自分は、この不景気の中で仕事があることに感謝し、自分自身の会社に対する貢献の少なさに、いつも自信がなく、なにか、もっと会社に貢献できることはないかと研究と努力を続ける人です。

 そのようなスタッフがたくさんいる会社は、業績が伸び続けている会社です。

 このような視点を持つと、どの時代でも、出世する人と言うのは、おかしな自信がなく、だから努力をして、いつも時代のトレンドを知りたいと願って、決して過去の成功に対して、傲慢にならず、つねに創意工夫をし、前進していく人という特徴を持っています。

 そのような社員数に比例して、組織は成長し、より強くなるのです。

 これは組織だけではなく、国も同じことが言えるのです。

 僕たち日本は、今、政府もマスメディアも、人びとに「国家の自信」を持たそうと努力しているようです。

 でも、一度しっかりと、日本は多くのアジア勢に「もうすでに、遅れをとっているのだ」と現実を認識して、ある種の不安と恐怖を味方につけてからでないと、本当の国の蘇生はできないと僕は考えています。

 ややもすると、自信のなさが反動形成になって、日本人は過大な過信に突き動かされ、国家や人びとも、間違った舵取りをしてしまいそうな気配を感じて、僕は心配なのです。

 ですから、僕の答えは「自信がない⁈ じゃ、ヨカッた!」となるのです。







日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき







どうせ叱られるならカッコよく叱られよう!!

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 「どんなに完璧に書類をそろえても、必ず文句をつけるリーダーがいます。
 そして、フロアー全体に聞こえるようにマイナスの部分を指摘されるので、さすがに落ち込みます…」

 そんな人は、皆の前でマイナスを指摘することで、自分が仕事ができるとアピールしたい人なのでしょうね。
 「ええ、上司本人も自分は、それがクセだと言っていました」

 そうか、自覚はあるんだ。
 こんな上司は、どこの職場にもいます。叱って、矯正して、やらせる。

 それが仕事だと思っている上司が…。こんな人の信条は、ほめたら負け、部下を調子に乗らせてはダメだと信じてやまない人。

 この上司が突然に変わることは、奇跡を待つしかありません。

 となると「上司が変わらないと、自分のストレスはなくならない」と思っていると、相手は変わらないわけですから、その願いから、さらなるストレスをこちらは感じて落ち込みが激しくなります。

 なぜ、その上司に腹が立つのでしょうか。

 それは「上司は自分の話を、傾聴すべきである」とか「人はほめて伸ばすべきである」「足らないところよりも、出来たところを評価すべきである」「注意するなら目立たい所で、伝えるべきである」と、ダメな上司に、理想の「かくあるべき姿」を求めるからです。でも「べき!べき!」と心の中で何度叫んでも、現実には上司が、その「べきどおり」に動くことは、やはり奇跡に近いのです。

 だったら、相手はそのままで、こちら側が変わるしかないのです。

 一つは、予言ゴッコをする。

 「今日も上司はダメなところを指摘するんだろうな」「今日もお姑さんは、私が『おはようございます!』と、言っても私を無視して息子である主人にだけ話しかけるのだろうなぁ」という具合に、いつもの最悪を予言する。

 言うならば「べき」を期待しない。

 そして、予言通りになったら「すごい!なんてこの人は単純なの。面白い!」と最初から「べき」を期待しないで予測性を持って愉しむ。

 なんだか、陰湿な対処の仕方と思うかもしれませんが、でも、ストレスで、ずーっとイライラするぐらいなら、よっぽど前むきな対処の仕方だと思いませんか。自分のストレス・マネジメントのためにも「相手が変わらない~よ~」と嘆きウジウジするよりも、根アカな対処方法です。

 次に、よく言われることですが、イヤな人を反面教師にする「人の振り見て 我が振り直せ」のやり方です。

 あんなに人のマイナスなことばかり指摘すると、部下はやる気を無くすし、この人は心から部下より信頼されないのだろうなぁ、と自分が上司になった時の悪い標本になってもらう。

 こんな態度をとっていると、カワイイおばあちゃんには、ならないから、最後は、面倒見たくなくなるわよね。哀しい人生だなぁ…私も息子の嫁には気をつけよう!と、自分のマイナスなモデルにするのです。

 そして、最初の相談者のような場合には、怒りやすい上司は、周囲の仲間も「あんなにマイナスな部分ばかり指摘しなくていいのに」と、誰もが思っています。

 だったら、変わらない上司にイラ立つよりも、笑顔で「今日も大きな声でマイナスの指摘をいただいて来ますか!あの人が、誰かをほめたら体調でも悪いのかなぁ?と、心配になるから」と、どこ吹く風とでも言うように、明るくカッコ良く叱られたほうがいいと思います。

 怒られるたびに、落ち込んだり、暗い顔をしたり、上司の悪口ばかりを本人のいないところで言っていると、その叱られた側の人間の小ささだけが印象に残ります。

 「いつものように、お叱りをいただいたよ!今日も健康そうでヨカッた!」と笑顔でペロッと舌でも出せば、叱られながら人間の大らかさが光ります。

 だから、叱られる前の予測性を持ち、そして、叱られてからの余裕が貴方の株を急上昇させます。

 僕の事例で気が引けますが…

 大阪で両親が離婚したあと、祖母の家に預けられました。その場所は大分の田舎だったのです。転校した古い学校では、先輩が後輩を呼び出す、悪しき風習がありました。

 転校生で、かつ何かと目立った僕は、呼び出される側の常連でした。同級生が教室から勢いよく飛び出して行くと、今度は深妙な顔つきで引き返してくる。そして、こうくる。「のぶさん、また、先輩たちが呼びよるわ」僕は「そうか、まぁ、今日も気持ちよく殴らせてあげますか!可哀想な先輩たちに!」とニヤリと笑う。

 それが、結果は、僕自身の株を知らないところで上げていたようです…「奴はスゴい」と(笑)

 だから、感情的に叱責する可哀想な上司諸氏、先輩諸君には、こちらから「カッコよく叱られましょう!」

 どうせ叱られるなら、相手の目を見て叱られましょう。なぜなら、目を見てくる人間は怒りにくいから。

 下を向いている人間は怒りやすい。ましてや、言い訳ばかりする人は…

 でも、目を見て、できれば相手に「これこれ、こういう点の修正が必要なのですね。ご指導、ありがとうございます」と復唱しながら、相手に近寄って行くと、相手はそれ以上叱る必要がなくなります。というよりも、心理的に叱りにくくなる!

 だから、叱られる時間が短くて終わります。5分なら1分には短縮できますから(笑)

 僕が一番哀しいのは、叱られていた人間が、上司になったり、お姑になると、自分も同じことを、誰かに繰り返してしまいます。

 それは、叱られた時に、相手に腹が立つだけで終わって、反面教師として彼らから学ばなかったからです。

 だから、僕も田舎の学校で、最上級生になった時には、トイレに呼び出されている後輩を「俺が話しつけとくから帰れ、帰れ!」と帰宅させていました。

 ただ、呼び出したメンバーと自分自身がそれでもめて、トイレでケンカをしているのですから、何のことやらですが…f^_^;)(笑)







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愛を学ぶことは…

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 娘さんが黒人の男性と結婚することに反対している奥様がいました。

 その奥さんには、お孫さんをベビーカーに乗せて近所を散歩するという夢がありました。だから、その散歩中にベビーカーの中の赤ちゃんが肌の色が違うと「そのたびに説明をしている自分がイヤなの」と、自分の理想とするイメージから離れる未来が受け入れられないと…

 自分の理想とかけ離れた未来に、幸せはないと思っていたのです。

 でも、奥さんの反対を押し退けて、娘さんは愛する違う国の男性と結婚したのです。

 それから十数年の歳月が流れました。

 そして、今は結婚に反対していたことを後悔しているようです。なぜなら、その肌の色の違う、お孫さんが一番カワイイと語ってくれました。どの孫よりも、その奥さまに優しく「お婆ちゃん、大丈夫?荷物持つよ」といつも心配してくれるのだそうです。

 その肌の色の違うお孫さんは、運動会ではDNAのなせる技か、何の競技に対しても優秀な成績で、奥さんは我を忘れて叫んでいるそうです。「ガンバレー!」と、私は孫が自慢なのだと…

 そう!自分の理想とかけ離れた日々の中に、幸せはいっぱい隠れていたのです。

 愛を学ぶことは、今まで、自分が愛していなかったことを知ることかもしれません。

 人は自分の価値観にそうような誰かを愛します。

 自分の望む理想の人生を歩いている子ども。そう、自分にとって良い子を求めます。

 自分の思い通りになる恋人を求めます。だから、思うようにならない相手を責めるのです。

 でも、人は誰かの思うようにならない存在です。

 相手には相手の思いがあり、それぞれに自分の世界で生きています。

 自分の思うようになれば愛する。ならないなら愛さないというのは、自分の理想や、自分の価値観を愛しているのかもしれません。

 あなたは、その人そのものを愛していますか?
 その変われない、そのままの相手を愛していますか?
 その人が、そう生きねばならなかった人生を愛していますか?
 その人の細胞のすべてを愛していますか?

「変わることを変わる勇気を
変われないことを、受け入れる心の平穏を
そして、この世の中には、変われることと、変われないことを、見分ける叡智を与えたまえ」

   <神学者ニーバ>



 世界の人が、変われることと、変われないことを、受け入れて、文化の違いを乗り越えて、愛しあうことができれば、僕たちの地球は、愛の星として生まれ変われることができるのです。


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笑顔の住む場所

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アメンバー限定公開記事です。

ケンカするほど愛してる⁈

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 「ケンカするほど仲がいい」と言います。

 「うちの夫婦で、ケンカなんて起こりません!」という人がいますが、カウンセリングをしていると、どちらかが、相手の存在に、あきらめてしまって「あの人に今さら言ってもしょうがない…」と二人の関係修復を放棄していることも多々、見受けられます。

 別れを決心した奥様は、冷めた口調で「あの人が、そんな風に先生に言っていましたか?相変わらずバカですね。何も知らないで…まぁ、いいですけどね。今さら、あの人にどう思われても」と感情的にならないくらいに夫の会話に関心がない。いや、今まで期待しすぎたことを反省し、もう、夫のためには涙も一滴も流したくはないし、感情的にもなりたくない…という、深い過去の悲しみをうかがい知ることができます。

 まだ「あの人~そんな風に先生に言っていたんですか?悔しい~っ。会った時に言わなきゃ!」と相手にそう思われているのが許せないむかっと感じているなら、奥さんには、まだ、相手に対して関心も未練もあります。

 もう、本当に冷めてしまうと、相手にどう思われようとも関心がない。いや、興味もないようです。「あ、そうですか」と相手への関心がないのです。

 話は変わりますが、子どもが反抗期に、親に刃向かうのは「自分は愛されている」という安心感が根底にはあるからです。

 僕は、小学生の時、両親の離婚によって、離ればなれになってしまった母親と大人になって再会しました。

 でも、再会してからも母が亡くなる日まで、ケンカができませんでした。

 その時に、気づきました。ケンカできるのは、長年の歴史と関係性があって、絶対に二人の親子は切れないという、安心感があるからだと…。その証拠に、再会後、母が作った手料理に「お母さん、僕は、これが好きだったじゃない⁈」と僕。母は「そうだよ。のぶゆき、お前は、それが好きでね」と、まるでホームドラマの1コマです。

 でも、僕が一番、母に言えなくて尋ねなかったこと、それは「どうして、僕たち子どもたちを置いて家を出て行ったの?」「どうして、僕たち子どもを連れて出る方法はなかったの?」でも、これらの質問は、母の心中を思って、最後まで僕は尋ねることはなかったのです。

 だから、カウンセリングルームで、ツッパっていても、お母さんが迎えに来ると信じて、お母さんに反抗している少年をみると「君は愛されていいなぁ…」と羨ましいなぁ、と思う時があります。

 だから、自分の子どもに反抗されていると、なげいている親たちに僕は語っています。

 「子供たちは親を信じているから、逆らっているんでしょうね。これだけ自分が逆らっても、決して親たちは自分を見捨てない!」という、根底には安心感があるからなのだと…。

 僕が気になる子ども達は、親の期待に応え「よい子」を演じ続けている子供たちです。

 親に逆らうと、親から見捨てられ、親から愛してもらえない、との恐怖から「理想的な子ども」の演技を続け過ぎて、逆らうことも、自己主張もない子どもたちです。自分の良いところも、悪いところも、丸ごと愛してもらっていないので、親が期待するであろう、理想の人生を生き、親たちから愛されようとする。

 その分、その子は「自分をありのまま」愛されていないので、自分を好きになれない。なにか、自分の中にある、不完全感をぬぐいきれないまま「不安な大人」「自己否定型人間」になってしまいます。

 だから、ケンカしたり、自己主張したりできるのは、絶対的に信頼関係があるからです。

 そして、お母さんも我慢しないで、しっかり自分の思いを伝えればいいのです。

 「何を大切に自分は生きてきたのか、そして、子どもには何を大切に生きて欲しいのか」を、押し付けることなく、アイ・メッセージで語り、時には、子どもとシッカリとケンカ(意見の交換)して下さい。今すぐには、子どもたちは変わらなくても、子どもには必ず想いは宿りますから。

 教育とは、いつ破裂するか分からない時限爆弾です。タイマーが作動するのは親がいなくなってからかもしれません。でも、子どもの心の中に仕掛けられた、時限爆弾はいつかは、きっと、爆発(気づき)します。

 そして、ケンカしたら、最後は笑って仲直りしましょう。

 そして、親も子も、いつかは、こんなケンカすら互いに出来なくなる日が来ます。

 その未来の日には、懐かしく言い合ったことを思い出すのでしょう。お互いに…

 だから、逆らう子どもとも、シッカリとケンカして「今、ここ」にある、帰らないステキな時間を味わって下さい。

 恋人のケンカも、夫婦のケンカも、相手が存在していてこその悩みです。

 シッカリと「二度とは帰らない、この時間」を意識して、味わいながらケンカをしましょう。

 そう、♫ 仲良くケンカしな ♫


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誰がために君は動くのか。

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 心理学的に言って「どうすれば儲かりますか?」と質問されることがあります。
 僕は、こう質問する人は、その姿勢を変えないかぎり、今後もあまり儲からないだろうし、成功することはないのでは、と思えるのです。

 儲けるためには、相手に「心地よさ」を提供できるか? この一点にあると言えます。

ですから正しくは「どうすれば人に喜んでもらえますか?」と質問することが「儲かる?」いや、「誰かから必要とされる」かの答えになると思えるのです。

 就活は、何かをやりとげ、目的をかなえてくれるようなイキイキした学生を会社は雇うのです。

 また、婚活も恋人に不快感を与える人は選ばれないでしょう。例えば、何を思っているのか分からない無口な人や、逆に、話はしたとしても相手に関心を示さないで、自分の自慢しか言わない人など、恋人候補にもならないでしょう。

 顧客に不満足を感じさせてしまう、高級リゾートには誰もが二度と足を運びません。それは、どれだけ設備が最高であってもです。

 成功しない人の共通点は、人に心地よさや、快適な時間を与えない人です。

 「快適さ(Amenity)」の語源は、ラテン語でamoenitāsと呼ばれます。それは心の「美しい人が集まる場所」との意味があるのです。そのベースはギリシャ語でアネシス(ανεσιζ)「ホッとする心」の意味が隠れています。アメニティ空間とは、商業施設の充実ではなく、快適な時間をどれだけ提供できるかがカギとなります。

 人をリラックスさせるパーソナリティや、おもてなしの精神のある場所には、人は集まります。それが、ビジネスの基本中の基本なのです。

 梅田にグランフロント大阪が開業して、一週間で223万人が来たそうです。その経済効果1000億から1500億と言われています。

$日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき


 2020年の五輪誘致合戦で躍起になっている東京都の元・石原都知事も現・猪瀬都知事も五輪開催地域には3兆円の経済効果が見込めるからです。

$日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき


 でも、そこに人への「思いやりの精神」がなければ、一時的に人が集っても、長続きはしなくなるのです。

 では、その「思いやり」「おもてなし」の心とは何か?

 それは、目の前にいる人に、快適に過ごしてもらいたいという願いなのです。

 メンタルの心理学の教室は、どのエリアでも、体験講座があります。僕は100名以上の初参加者が教室に入って来られる時に「ワクワクして来るのか?」「不安で来るのか?」「何となく暇つぶしで来たのか?」「家族の中に、心の落ち込んでいる人がいて、その人を救える心理セラピーを知りたくて来たのか?」「自分のコミュニケーションに、かげりを感じたので学びに来たのか?」を想像します。そんな思いの違う人に対して、どんな「はじめまして!」の挨拶するのかで、出会いは決まります。

 どんな、仲の良い親友も、人生を変えてくれた先輩でも、結婚相手であっても、最初からの親しい関係ではありません。最初は誰もが「はじめまして!」があり、誰なの?この人?どんな人なの?があるのです。

 そして、この世界に、僕たちが誕生する時にも、最初は誰でも「はじめまして!」がスタートでした。

 未知の者や世界に対しては、誰もが「不安」とか、未知な者への「ワクワク」な感覚を宿しています。

 出逢いには、その両方の感情が隠れています。だから、僕が「はじめまして!」と、挨拶した時に、その人の笑顔やちょっとした目のそらし方で、その人の不安や期待感が垣間見えることがあります。ですから、出会いを僕は大切にしています。なぜなら、どんな人とも最初の出会いは印象に残りやすく、憶えていて後に、話題に必ずなったりしますから。

 教室のエレベーターが開いた時に「資料を持って来られました?」と、必要事項をたずねる仕事モードのスタッフと「こんにちは、はじめまして」から始まって「道に迷われたのではないですか?」「走られたのではないですか?汗をかかれているから…」「来て、早々に申し訳ないですが、最初に確認させてもらっていいですか?」と、前置きして「まずは持参いただいた資料の確認なのですが」と相手のペースを待って声をかけるスタッフでは、体験に来られた第一印象が違ってしまいます。

 「受付の列に並んで下さい!」と言っただけのスタッフと「すぐに受け付けいたしますから、ご安心下さい。こちらが受付のラインになっていますから」と参加者を誘導しながら「何か、分からないことないですか?」と笑顔で会話ができるスタッフでは、全然、メンタルの教室に対する印象が違ってきます。

 そう、おもてなしの心とは、相手の立場に立って、ものを考えることのできるイマジネーションが必要だということです。

これは会話にも出てきます。
「この一言」を言うことが、相手がどんな思いになるのだろうか?

 自信のない人に「あなた自信を持たなきゃ!」と責めてしまう人と「私ね、自信がなかったのね昔だけど…でね、こう考えたら、少しづつ自信が持て始めたことがあってね…」と、上手に自信のない人を導ける人もいます。

 また、離婚した人に、結婚した人が「結婚は最高だよ!」キラキラして言われると妬んではいけないと思っても、妬んでしまうこともあるのかもしれません。

 子どもを亡くした両親に、子育ての楽しさを語る人はいません。

 これらも、相手への配慮の表れです。つねに相手の居心地のよさに気が向く人は、誰にも嫌われません。

 東京の銀座のオフィスは180名ほどの人数が入ります。採光率がよく、光がよく入るように片側の壁一面にずらーっと窓があります。夏・冬は窓側と、通路側では室温の温度差が出ます。その時に「窓側と通路側では寒暖の差が激しくてしょうがなくてあせる」と言うスタッフと「空調をコントロールして差を少なくしてみます!」とある中で努力しようとするスタッフ。

 もっとも、仕事のできる人は「室温コントロールやカーテンでは、どうしても寒暖の差が出てしまいます。予算はかかりますが、空調管理と冷暖房の省エネの観点から、教室の日の当たる窓をペアガラス(二重ガラス)にしたら室温がコントロールできるかもしれません。それには費用がどれだけ発生して、費用対効果がどれだけあるのか調べてみます!」とアイディアを出してくるスタッフと「窓が大きいから、しょうがないですね」とスグにあきらめてしまうスタッフでは、受講生への思いやりが違います。

 「教室が広いので、後ろの受講生は講師が見えなくて残念そうだね」と講師が言うと「遅れて来る受講生が悪いのです」と現状をあきらめてしまうスタッフと「どうでしょうかひらめき電球、後ろの会場のフロアーを上げて、オペラ座のテラス席のように、遅れた人も、特別感とワクワク感を感じてもらったらどうでしょう」と革新的なアイディアを出してくるメンバーでは、仕事の楽しさが全然違います。

 それは、一にも二にも「参加者に喜んでいただきたい」との思いがイマジネーション(想像力)とイノベーション(革新力)の原動力なのです。

 それには、先にあげた快適なエリア(場所)ではなく、マインド(おもてなしの心)が集約できなければ成功しません。

 僕がそんな話をすると「それは、サービス精神ですか?」と言うスタッフがいます。それはサービスではありません。

 「サービス」の語源はServus(奴隷)英語でやはり奴隷を表すSlave(奴隷)です。さらにそこから発展した英語でServitiude(苦役)の言葉にもなっています。スタッフは顧客に服従し、給仕をし、下役に甘んじた上下関係です。それでは、奉仕するスタッフをしていても楽しくはなく、やりがいのある仕事( work ) とは言えません。なぜなら、それは苦役がともなう労働 ( Labor )だからです。

 2年前の東日本大震災の時に、舞浜でも液状化で被害がすごかったようです。ディズニーのキャスト(スタッフ)は、みずから考えて非難誘導をスムーズにしたことで、またもや新聞で話題になりました。そのディズニーリゾートでは、スタッフ達が、それぞれに現場で自分で考え、ゲスト(顧客)が、満足できるアおもてなしの行動をスピーディにしています。そこには、マニュアル通りにする苦役は存在しません。

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 与えられたサービスをするのではなく、目の前にいる人に、喜んでもらいたいとの思いが、おもてなしの精神です。

 そこには、心地よさを提供する側も、提供された側も、互いに満足を感じる関係があります。それがサービスではなくて「ホスピタリティ(Hospitality)」の精神なのです。

 その語源はHospes ( 人を守る )です。旅人や巡礼者を手厚くもてなすことから生まれた言葉です。そこからHospital (病院) Hotel(ホテル)Hostess(ホステス)Host(ホスト)Hospice (ホスピス)も生まれています。

 ハンバーガーショップに例えられる、マニュアルとして与えられた「おまたせしました」「かしこまりました」「ありがとうございました」と、固まったサービスではなく、その一瞬に、それぞれが最大限に、顧客の気持ちの側に立って「どうすれば、来たお客さまが快適に、ストレスなく楽しめるのか?」を考え、ストレスのないように配慮し、日夜考えているスタッフ集団や快適な空間に人は集うものです。

 ホスピタリティとは、人が喜んでいる姿を見て、自分自身も心が豊かになり、それは上下関係、服従関係の苦役がともなう労働ではなく、自分自身が開放された仕事への喜びであり、自分という存在が、誰かの幸せのために、一瞬だけでも貢献できたというやりがいのある感覚なのです。

 「情けは人の為ならず」と言いますが、人のために努力した行動は、他人の感謝と誰かの笑顔という、お金では得ることができない報酬となって自分に帰ってくるのです。

 まさに、サービスを与える側とサービスをもらう側の境界線が失くなるトランス・パーソナル(個人の快感を超越する)帯域の経験の積み重ねが、人は「充実した人生を生きた!」と胸を張って宣言できる成幸者なのです。自分だけが幸せで、誰かが不幸な状態の成功は、長続きはしないし、本人も満足ある人生だったとは言えません。

 ですから、ホンモノの成功者になりたければ、人の喜びを作る“製”幸者になりなさい。

そう、「何が儲かるか?」ではなく「どうすれば、人に喜こんでもらえる人間に成れますか?」が真に大切なのですよ。






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ツバメを守る!

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 僕が幼かった頃、野生の王国というドキュメント番組がありました。
 もともとは、アメリカの番組でNBC制作「Wild Kingdom」の日本語版だそうです。

 その番組は、弱肉強食などもテーマになっていたようです。

 草食動物のインパラやシマウマの家族の生活、その愛くるしさを映した後、レイヨウやライオンの肉食動物にその家族が襲われ、子どものインパラなどが、犠牲になるシーンを見るたびに「なんでテレビの人は、撮影をしていないで助けないの?」と僕は幼い胸を痛めていた。

 大人になると、自分の個人的な感傷で、自然の摂理をゆがめてはいけないことも学びました。そう、ヒョウやライオンの肉食動物にも生活があり、家族があるからです。

 実は、ここ数週間で、僕の家のガレージにツバメが帰って来ました。

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 5年前に初めて来た時は、巣を作るための泥をくわえて来るので、洗車したばかりの車が汚され「なんで?」って感じでした。

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 でも、カップルの二羽が連れ立って電線で楽しく歌っている姿を見ていると可愛くなり、

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 車にカバーをつけたりと自衛し、彼らの巣づくりを、いつしか容認していました。

 卵が産まれて、お母さんツバメが卵を温めている姿をみると、なんとも自然界の愛を感じて、僕の家族も癒されます。

 そして、ツバメのヒナが孵り、子ども達は親にエサをねだり、親はせっせと休む間もなくピストン飛行でエサを持ち帰ります。そして、成長した子どもたちは、飛ぶ練習を開始し、すべてが巣から巣立ち、空になった巣を見上げると、幸せを分けてもらえたような気持ちになります。

 その次の年にもツバメたちはカップルになって戻って来て、ガレージに巣を作りました。

 でも、その年は卵を産んで間もなく、カラスに奇襲され、卵がいくつか無惨にも巣の下に落ちていました。

 悲しいことに全滅です。ショックでした。

 次の年はツバメは来ませんでした。

 昨年にツバメはやって来ましたが、二羽で巣を作っている段階で、カラスに襲われたようで、巣の残骸だけが下に無残にも落ちていました。

 カラスは頭がよく、一度、味をしめたエサ場は1000箇所も記憶しているそうです。そして、ちょうどよいタイミングで、卵を産んだ頃を見計らって襲ってくるそうです。

 何という記憶力!

 僕は好きな食べ物屋さんを1000店も憶えていないのですから、食に対する貪欲さでは、僕はカラスに完敗です。

 そんなことが毎年続き、ツバメが巣を作ってもカラスに襲われると、やはり家族は悲しくなるので、僕たち家族は、ガレージのシャッターを必ず閉めるようになりました。

 なぜなら、我が家のガレージはカラスの記憶にはエサ場ですから。

 でも、今年は人がいても、少しガレージを開けていた間に、ツバメが勢いよく入っては、出てゆくのです。様子をうかがって見ていると巣をせっせと作り出しました。

 そうなるとガレージのシャッターは閉じれなくなります。それならば「今年は何とかヒナを孵してやりたいなぁ」と思っていたやさきに、今年もカラスの奇襲にあい、巣をカラスに落とされていました。

 ならば、それが自然の摂理だからと納得して、ガレージのシャッターを閉めていても、今年のツバメは、どうしても巣を、僕の自宅のガレージに作りたいらしく、再度、巣づくりを始めました。あきらめないのです!

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 「よっしゃァ、ならば君たちは、僕が守る!」と、ツバメ保護に立ちあがりました。

 たとえ、弱肉強食といえ、自然の摂理とはいえ、愛着のわいた君たちを見捨てるわけにはいかない! 車からボディガード改めボディバード(厳密にはバードガード)になると決心をしました。

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 遊びで飾っていたエアーガンを取り出して車の中からカラスを威嚇してやる!

 でも、これは以前に日本の子供たちの心を痛めさせた矢ガモ(矢が刺さったカモ)ではないか⁈

 たとえ、殺傷能力のないエアーガンだって、自分が守りたいツバメだからと、カラスを傷つけてはならないし、それに、カラスがいつ襲来するか分からないのに、車の中で昼夜監視することは出来ないと…f^_^;
浅知恵は却下です(笑)

 そこで、考えたのが先制攻撃などと危険な政治家と同じにようにならず「やっぱり防衛でしょう!」

 そうだ、予防の一オンスは、治療の一ポンドに勝るのです。「カラスからツバメを自衛しよう!」と思いたち、カラスの生態をネットで調べました。

 「カラスはホバーリングと呼ばれる、羽ばたきながら空中で停止するハチドリに代表されるような飛び方が出来ません。また体が重いため、つばめのように引っ掛かりの少ない壁面にとまる事も出来ません。
 そこでつばめの巣を襲うときは一旦巣の下の地面などに降りてから、羽ばたきながらジャンプし、クチバシで巣を壊し、ヒナやタマゴを地面に落としてこれを奪います。
 鳥は翼が傷つけられたり翼に異物が当たるのを嫌います。そこでカラスがつばめの巣に近寄れないようにするには、カラスの攻撃ルート上に、『つばめは通れるがカラスが羽ばたいて通れない間隔』で障害物を設置するのが有効です」(ツバメを守るブログより)

 なるほど…

 で、ホームセンターで必要な物を買い足し、障害物作りに励みました。

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 で、完成したのがこれです。

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 ただ、これを作っている時にも、僕の周りでツバメが心配そうに行ったり、来たりと、飛び交っていたし、このカバーネットに警戒してツバメが近づきません。

 「卵を産んでメスが座り始めてから設置するようにしましょう」とネットで書いていたので、基礎をそのままにして、ネットだけは垂らしました。まだ抱卵が始まらないときに設置して、ツバメが警戒して巣を放棄して逃げてしまっては、僕自身がツバメの天敵です。

 さらに、カラスが、もう一つ嫌がると、ブログで調べたモノを、たらしたままの防御ネットにかけました。

 黒いシャツをハンガーにかけて、アルミホイルを円形にくり抜いて、前と後ろに貼る。そして、シャツの下を輪ゴムでとめる。 すると、カラスは仲間が、殺されて吊るされていると思って近づかない????のだとか??

 そして、キラキラ光るものがカラスはイヤだと言うので、銀色の脚立を、立てたままで放置しました。

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 その状態で観察をしていると、ツバメは気にせず巣づくりを再開したので、これで一安心です。

 あとは、この吊るした黒シャツのエセ烏と銀色のキラキラの脚立で、メスが卵を温め始めて巣に座るまで、敏感で臆病なカラスが警戒して近づかないことを、ただただ祈るだけです。

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 できれば、カラスさん、君も家族を守るために大変でしょうが、情が移った、僕のツバメだけは見逃してくれ~っ!






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悲しきかな不幸予報士!

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 先生は、そう言うけど、「どうせ上手くはいかない」「どうせ叶いっこない」「どうせ元に戻る。そして、いつもと同じ」このような言葉を何度となく、くり返す人に出会うことがあります。

 これらの人を僕は「不幸予報士」と呼んでいます。この不幸予測を語る人の人生は、なぜか、よく当たる。

 おそらくは天気予報よりも、よく当たるのではないかなぁ。そう「ビンゴ!」って感じで(笑)

 人間の心は恐ろしいほど、パワーがあって、平均台から落ちると思うと落ちる方向に向かって身体はバランスを崩します。自転車を練習した幼き頃は、親が荷台を持っていると信じていると乗れて、実は親が持っていないと気づくと、それまで乗れていても「 ああせる転ける‼」と思ったら最後、スグに転けてしまいます。スキー、スノーボードでも「転ける!」と思った瞬間に、向かった方向に身体は面白いように転びます。

 ところが、自転車でもスノーボードでも日常の習慣のように乗れるようになると、その人は「転ぶかも⁈」 などと疑ってもみません。人前で話す人は、今日は「アガルかもあせる」などと思っていません。

 人は、心で思ったような世界に生きます。
 それほどに人の心は、潜在的な力を持っています。

 この世界を見わたすと、車も飛行機も、ビルも高速道路も、誰かが、どこかで考えた世界なのです。僕たちの生きている文明の構造物は、誰かが、どこかで、考えたイマジネーションひらめき電球が形になったモノなのです。

 そう、自然以外の目につく文明は「心の産物」と言っても過言ではありません。ですから、僕たちの心や思いは「世界」を作ってしまいます。
 この世界を作ってしまうほどのパワーがあるのですから、不幸予測をする人の人生を不幸に変えることなど、いとも容易なことです。

 やはり人生を楽しく生きている人は、自転車に乗れる人のように、楽しく人生は進むはずと思っています。もちろん、成功予測の人も、失敗して、頭を打つことはありますが、成功予測の人の考えは、それも「成功するための準備段階」と思っていたり「この経験がきっと生かされる」と信じています。

 これは身体内部にも影響します。

 失敗予測の人は、副腎皮質ホルモンからストレスホルモンがたくさん出ます。これは身体を疲れさせ、老化を早めます。

 当然、失敗予測の人は、幸せホルモンと言われるセロトニンは減少しますから、うつ病や摂食障害、パニック障害になりやすくなります。それらのトラブルを鎮静させるパワーのあるエンドルフィンやドーパミンと言った脳内モルヒネが減少するので、不幸のダブルパンチパンチ!パンチ!です。

 その証拠に、アメリカのデーターでは、うつ状態の人と、そうでない人は、同じように作った傷に対して、うつ状態の人は、免疫力が低下しているので、傷の治りが正常の人より二日も遅いと報告されています。

 となると、不幸予測の人は落ち込みやすいから、心のキズも治りが悪く、だから、不幸予測が始まるのか…。だから、さらに、心のキズを深めてしまうのか?

 幸福予測の気象予報士は、幸せだから、立ち直りも早く、楽しんでいるから、人もその人に集まり、だから、楽しいことが続くのか?

 まるでタマゴが先か?ニワトリが先か?の取りとめのない観念論のようで恐縮ですが(笑)

 どうせ人生は一度です。
 雨のち雨の予測は止めて、晴れのち、さらに大晴れ!と予測しましょう。

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 「きっと、これから上手くいく!」「思いは叶う!思った以上にスゴくなる!」「今はそう思えなくとも、明日は思えるだろう」「失敗したって死ぬわけではない」「たとえ、死んでも、帰って来た人がいないのだから、きっと、あの世はステキな場所でしょキラキラ」と…

 ある宇宙飛行士が言いました。
 「魚が水の中から、陸に憧れて進化したように、子供たちが宇宙を見る瞳の輝きを見たまえ、それはもう宇宙に、僕たちが飛び出すことは約束されている証拠ではないか …」

 それでも、あなたは狭い世界から抜け出せないと信じていますか。
 不幸予測の「井の中の蛙ちゃん‼」





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好きだな「禅」の精神!

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 空の世界…何ごとにも “とらわれない” 境地とは、どんなものなのだろう。

 釈尊が悟りをひらいた瞬間に感じた「心の解放」や「気づき」とは… 不安や苦しみ、悲しみ、嫉妬、恐怖、勝つも、負けるもない心の世界。

 そう、自分の正しさで、相手を言葉で裁いて、攻撃し、正しくない側に立つこともある。

 恋人同士、永遠の愛だと信じて、愛しあった二人が、やがて一番憎しみ合うことはよくある事例。

 親から「愛されなかった」からと、愛を語りながらも「親を恨んでいる!」と言い切って、愛のない言動をくり返す人になることも、よくある事実…もちろん、こう書いていることも「傷ついた!」と言っている、誰かを僕が、傷つけているのも現実なのでしょう…

 愛を伝えてきた数多くの宗教ですら、歴史の中で、どれだけの多くの血を流してきたのだろう。

 だから、多くの悟りをひらいた人びとは、その言葉にできない「悟りの境地」を言葉や書物でない方法で伝えることを求めた。

 それが「禅」にあると言われています。

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 釈尊の教えは、八万四千も、あると言われています。その中でなるべく言葉や文字を使わずに、この「ハッ!」と気づいた目に見えない心を伝える方法はないか⁇
と、考えた末に生まれたのが禅なのです。

 禅というと、足の痛みを我慢して座禅を組んで、少しでも動いたりすると「カーッ!」と平たい棒で肩あたりを叩かれるイメージがありますよね。

 でも、僕の好きな禅は、そんな修業ではなく、何かに気づいた瞬間の「そうか!そうだったのか!!」と思った時の、何とも言われぬ開放感が好きなのです。

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 自分から去った恋人を恨んでいる女性がいた。自分を捨てた彼のことを許せなくて、毎月、彼女は自分を捨てた彼にイタズラ電話を繰り返していた。

 カウンセラーから「あなたは、憎しみというデートを毎月、その彼としている訳だね」と指摘され、人生の大切な時間を、その許せない彼に、いまだに奪われているのか、と、悟った瞬間、 そんなハッと我に返る気づきが好きなのです。

 そして、続けて「それも、あなたはマイナスの片思いを、大嫌いな彼と今後も続けていくんだ…」とカウンセラーに言われて、未来を明るく歩き出そうと決める瞬間が好きなのです。

 ですから、禅寺に行かなくても、座禅を組まなくても、ブログとか本の中に、日常の一コマにも、禅のような「一瞬のハッ!」とする、悟りの境地はあるのです。

 ただ、その気づきも一瞬だけで終わってしまって、また、同じような事に、心は “とらわれ” てしまい、また、悩み多き人生にとらわれるのが、僕のような一般人なのですが… σ^_^;

 笑い話ではないが「悟るためには、何事にも『とらわれてはいけない』のよ、そう、何ごとも正解や、間違いと言ったことに、とらわれてはいけないのよ!そう、絶対に…そう、なのよ」と、とらわれてはいけない! と、人に語っていながら、気づかぬうちに、“とらわれては、いけない” ことに、“とらわれ” てしまっている人がいる。

 「 あなたね、説教をしたからといって良いってわけではないのよ! 人の話をよく聴いて、相手の思いや、相手の状況をしっかりと把握しなくてはいけないでしょう……で、何よりも受容すること、次に……共感なのよ」と、相手に説教をして、相手の話をじっくり聴かない人もいる。

 そうです、僕たちは気づいた瞬間から、今度は、気づいた者と、気づかない者とに分けて、そして、気づいた人たちの中でも、自分のほうが、より多く気づいている。ヤツは、まだ、気づきが未熟だ。と、お釈迦さまが戒めた、差別や慢心で人を見るのです。

 悟りを目指す人たちでも、そうなのですから、本当の気づきは、やはり永遠に自分の中に「疑う」気持ちを、持たなければいけないようです。

 「自分は本当に正しいのだろうか?」
 「この戦争は、自分たちは間違っていないのか?」
 「子どものために『よりレベルの高い学校』と、言うけれど、親である自分の世間体のためではないのか?」
 「未来の幸せのために、ガムシャラに働いているけれども、自分は、今の子供たちの笑顔や、今の幸せを味わってはいないのではないか?」

 悟りをひらくと、額(ひたい)の第三の目が開くと言うけれど、この第三の目は、自分をクールに見つめる目のようです。

 僕たちは、人のことはよく見えるけど、自分のことは見えないらしい。

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 だから、自分は悟ったと思った瞬間に、僕たちは「自分は間違わない! 」と、思い始めます。その時が、一番、自分が見えなくなる瞬間なのでしょう。

 ですから、何かの気づきを経典や本に残すと、必ず「これで解った!」と経典を読んだ者の中から、思い上がった人が出てきます。

 だから、キリストも釈尊も本を残さなかったのです。

 「え⁉ 聖書は!」と思われたかもしれません。でも、あのイエスのことをつづった新約聖書も、イエスの著作ではありません。ヨハネやパウロなどの、お弟子さんが書いたものです。

 先に書いた仏教の八万四千の経典も「私はこのようにブッダさまから教わりました(如是我聞)」で始まるのです。

 哲学者ソクラテスも、著作は残さなかった、書いたのは、すべて弟子だったプラトンです。

 だから、わかった気になった時が、人は間違いが始まる時かもしれません。

 ですから、禅では「悟った!」と弟子が言うと、師匠は「カーッ!バカ者」と叱るのです。

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 怪しい宗教家は、自分は「悟っている!」と言いますよね。あれが、慢心なのです。だから、僕はそんな人には近づきたくはないのです。

 へへへへぇ、それを僕は気づいているのです。スゴイでしょ、へェへへへへぇ

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 「カーッ! ノブユキ、慢心にとらわれよって!」(ー ー;)

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反省…






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究極の約束。

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 今日は休みで、テレビを見ていて感じたこと。

 中国と韓国と「どちらと仲良くするべきか?」二者択一の問いにコメンテーターが答える。若い女性のタレントだけが「ご近所だから、どちらとも仲良くしたいですね」と答えたが、番組の趣旨と合わなかったのか、年配のコメンテーター達から、軽くあしらわれ一笑に付された。

 コメンテーターの一人は「韓国は、サムスンしかないし、東京都のGDPより韓国のGDPは低いし、どうでもいい国だから無視!」「ただ中国って国は麻薬なので、つき合った国は破綻して、つきあわない国は栄える」と言い放った。

 ほとんど多くのコメンテーターは、どちらの国とも、イヤな国だから、付き合わなくてもよいとの意見が大半をしめていました。

 これだけ多くの出演しているコメンテーターが語るのですから、今の多くの日本人は、韓国や中国に対して「このような感想を持っているのかなぁ」と不安に感じた。なぜなら、日本でもこうなのですから、韓国や中国でも同じような番組をやっているのかもしれないと…。

 犯罪心理の勉強をしている時に、ある若い暴力常習者と接見した心理学者の書いた手記を読んだことがあります。

 その暴力常習者の青年は1年で3度も暴力沙汰で警察に連行されている。些細なことがキッカケで、相手の肋骨や顔の骨を折っている。

 青年に言わせると、ケンカになる直前までは興奮しているのだけれど、いざ、相手を殴り始めると、気持ちがよくなって、相手に致命的なパンチを浴びせている自分に対して、英雄のような気分になると言う。

 まるで、自分は正義の戦士で、相手は悪の親玉で、絶対に生かしておいてはいけない悪魔が、目の前にいると、そして、ボクサーのように冷静に、殴るのだと言う。自分は、すべての人を守るために戦っていて、自分は偉大とさえ感じるという。そして、相手が意識を失って血を流して倒れていると…。

 普通の人は、誰かに殴りかかる時に、これほど徹底的に、自分が善玉になり、相手を悪玉視することはありません。痛みにゆがんだ相手の顔を見ると、少しの後悔と怖さが生じるものだからです。

 でも、彼は、相手が肩に触れただけでも、相手は無神経なヤツで、横暴な悪の親玉のように思いこんでしまう。そして、こんな人物は生かしておいてはいけない、という強い感情に支配されるのです。

 この手記で心理学者は「人間の恐ろしい側面は、この二分割してしまう心理なのです」と書いていました。

 サリン事件を起こしたオウム真理教も、戦時中の国家も、そこにいた人びとは、自分たちの信じる正義で行動し、犯罪集団に変ぼうしたり、戦争になだれ込んだりしたのです。

 犯罪心理を勉強してからは、自分にも、誰にも、その怖ろしさはあると知って「みなが、そう言っているから」という言葉に対して、ちょっと立ち止まって考えるようになりました。

 まずは、自分で考えてみようと…

 前回の禅でも話ましたが、自分の正しさや、気づきでさえも…

 ある部分からながめての、自分の正しさや気づきは、ある人から見ると愚かであったり、勘違いであったりします。ですから、決めつけで人を見ないように努力をするようになりました。

 ある瞬間から人は、自分が正義だと信じると、相手は完全な悪玉だと思い込んでしまう。誰かへの攻撃や、イジメもすべて正義のためだ!と、正義のヒーローになってしまう。だから、攻撃される相手は、制裁を受けて当然だという感情に支配されて限界を越えて暴力をふるってしまいます。

 ヒットラーもまた、ユダヤ人を本気で悪魔だと思い込み「自分は神の使命を帯びている」と、思い込んでいたと、僕の好きな現代史家は語っています。

 このように100パーセントの善玉の味方と、100パーセントの悪玉の敵を対立させることによって、戦意も高まり、攻撃性の導火線に火がついて、戦争はスタートするのです。

 ピュリッツァー賞を受賞している、僕が尊敬している現代史家は語ります。

 「人間には100パーセントの悪玉も、100パーセントの善玉もいない。
にも関わらず、人々はその人物が一つ犯罪を犯したり、悪事を行ったり、過ちを犯したりすると、その人物のすべてが悪玉であったかのようなイメージを抱く。

 しかし、これは科学的な事実の認識に反することです。たとえば、90パーセントその人物に犯罪的な事実があっても、もしかしたら、10パーセントは良いことをしているかもしれない。

 100パーセント悪玉視することによって、10パーセントの善行を否認してしまえば、現実認識の誤りを引き起こすことになる。自分はこのような歴史認識の誤りをもって使命としたい」と…

 彼が指摘した部分は、心理学では「過度の一般化(over-generalization)」と言われる認知の歪みです。

 たとえば、僕の両親が九州出身で、大阪に住んでいた両親たちが、離婚してからは、僕も九州の祖母の家で育ちました。

 だから「僕の田舎は九州です!」と言うと、とっさに「あ、それでヒゲ!男くさいよね!」とか「なら、お酒飲めるでしょう!」と言われます(笑)

 九州の男性の、すべてがヒゲを生やしてはいないし、僕は、それほどお酒を飲みませんσ(^_^;)

 今、大阪に居をかまえ、全国に移動して講演していると「僕は関西から来ました」と言うと、ある人が「それで笑いが多くて、おもしろいんだ!」と、言われることもあります。

 僕が、面白いか、どうかは別にしても、笑いもなく、無口な関西人も、たくさん大阪に住んでいますよね。

 たまたま知っている人の集団がそうだと「その集団はこういう人の集まりだ!」これが過度の一般化です。

 上の事例では、別に問題にはなりません。でも、気をつけないといけない過度の一般化があります。

 一度か、二度の失敗で「どうせ私は…」とネガティブに自信を失ったり、過去の相手の言動から推測して「どうせ、あの人は分かってくれないから」と、今の現在や、未来まで決めつけてしまって「どうせ思考」に落ち込んでしまったら、以前のブログで書いた「不幸予報士」になってしまいます。

 話はそれましたが、自分を疑わない人が、自分は正しいと思い込んで、相手を変えようとしたり、攻撃すると、対立は、不仲になり、やがてはケンカになるでしょう。

 国であれば、国際的に孤立するか、最悪は戦争に突入します。

 僕が今日見た番組をネットで調べていたら、こんな「意見」に出会いました。

 この意見を書いた人の背景を僕は知らないのですが、その番組の片寄った意見を投稿したことで「在日!」とバッシングを受けたようです。

 以下はその文章です…

 以前の内容で「在日死ね!」というコメントがあったので追記します。

 おそらく差別番組だと書いたからだと思いますが、最近は韓国批判をしない人間は在日認定される風潮が強くなってきました。

 みなさん、よく考えてください。

 国際問題というのは、国の政治家同士がやっている喧嘩です。

 それに何故振り回されなければならないのですか?

 政治家に同調して、我々も韓国の人を全員敵視しなければいけないのですか?

 アナタは直接、韓国人や中国人に攻撃されたのですか?

 ニュースやネットで「そういう話」を聞いただけなのではないですか?

 特定の人物をさして「◯◯が許せない!」ならわかりますが、「韓国人」という名前の人がいるのですか?

 5000万人いる韓国人を一緒くたにして区別するなんて、私にしてみれば血液型性格判断と同じようなものです。馬鹿げてる。

 ナショナリズムは国内世論の形成に必要なのかもしれないけど、私は政治家同士がやっている人種間争いに振り回されたくはありません。

 「韓国人・中国人ゆるすまじ!」と怒っている人は、いま一度、自分の本当の意思がそこにあるのかを考えてください。

 つまらない政治的意思に利用されているだけなのではないですか?

 ネットのまとめサイトなどでは韓国ネタ・中国ネタを見出しにすればアクセスが膨大に稼げるから、極端に隔たったネタをばらまいています。

 当然、韓国や中国でも同じように日本人ネタが人気です。

 そしてお互いが目に見えない、実在しない「日本人さん」や「韓国人さん」と戦っているのです。

 馬鹿らしいとは思いませんか? もっと、自分で考えましょうよ。」

日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき

 僕はこの追記を書いた、彼女の見方は、間違っていないと思っています。

 先に書いた、現代史家のジョン・トーランドは続けて語ります。

 「ヒットラーもまた一人の人間であり、身近な人々にとっては、人望のある、人間味のある人物という側面を持っていました。

 もし、そうでなく、ただの狂気の人であれば、あれだけの人望を得て指導者になることはできなかったはずだ。

 しかし、身近な人々にとって人間味のある人物が、ひとたび自己肥大感と誇大妄想にとりつかれ、キリストの処刑を下したユダヤ人は、人類の敵であるという錯覚を信じ込むと、あのようなホロコースト(大量虐殺)も平気で行なってしまう。

 そこに人間的な恐ろしさがある。

 同じように、トルーマン大統領は家庭的には非常にやさしい父親であった。

 しかし、そのトルーマンがひとたび大統領としての使命感と、戦争を早期に終結という考えに支配されると、容赦なく原爆投下の命令を下してしまう。

 狂気の人物が狂気を行うことは当然である。むしろ正常な、しかも身近な人間関係の中で、人望のあるような人物が、ひとたび特定の理念や、特定の国家意識にかり立てられると、あのような恐ろしいことができるところに、人間の真なる恐ろしさがある。

 これからの世界平和にとって、この見方がとても大切だと信じています」

とも、述べています。

 多くのテロリストも「攻撃は、神の意思だ!」と、信じ込んでいます。

 犯罪者が出てしまった家の塀に「悪魔の住む家」「バカヤロー!」「早くここから出てゆけ!」「この街の恥!」と落書きをするのも、善良と言われている一般市民です。

 そう、そこには親が犯罪を犯してしまい、恐怖におびえる子どもたちが、冷たい視線に、身を縮こまらせて、今も落書きされた、塀の中に住んでいることも考えないで…

 子供たちは平等だと、一方で語りながら、マスコミの放射能汚染におびえて、福島の子ども達が、転校してくることに不安を示した親たち。すべては、自分の子供たちの健康への正しさから始まります。

 ですから、アメリカのカウンセラーの先生は言いました。

 「鉄格子の中で叫んでいる統合失調症の人は、世界を狂気に引っ張ってはいかない。僕たちのような『先生!』と呼ばれる人々が、一番恐ろしいのだよ。だから、自分が間違わないと思い込んだら、自分自身が危険な水域内に入ったと言うことだからね。その時は『先生』と言う立場から撤退しなさい。それが君たちとの究極の約束だよ」と…僕は今も、この究極の約束を大切にしています。

 最近のスポーツでの、アウェイやホームと言い方が、僕は好きではなくて、自国でも、対戦国でも、一生懸命に戦っているのだから、どちらもフェアーな勝負なら心から応援したい。

 もちろん、愛国心はあるから日本が勝てば僕は嬉しいのも事実。でも、相手の国にもエールを送りたい。

 それが、僕は武士道だと信じています。

 対戦相手に勝っても、負けても、一礼する。それを日本人は失ってはいけないような気がします。

 だから、あんな国はいらないとか、あの国は病気だとか、過度の一般化の危険な水域に、すでに、僕たちも、マスコミも、政治家も来ているようで、なんとも言えない不安を感じています。






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