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Channel: 日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき
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反省…

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 ブログを更新しなかったので、その言い訳と二回講座を空けたことの自分への悔しさから、結果、皆さんに、ご心配かけるブログを前回は書いてしまいました。

 たくさんのお見舞いメッセージありがとうございました。あまりに優しい言葉に、僕は心が癒されました。

 感謝です‼

 僕は大丈夫です。グッド!

 人は生きて行く中で、誰もが身体の痛み、心の痛みを持ちながら生きているものだとの思いから、前回のメールを書きましたから。

 そして、その痛みにフォーカスして生きて行くのか、それを抱えながらも、人に対して、できる笑顔、穏やかな言葉や行動で「今」やれることにフォーカスを向けて生きて行くのかで、人生は違ってくるようです。

 知り合いがくるたびに「痛い、痛い」と訴える人もいます。

 でも、痛みを抱えながら、自分よりもさらに老いた高齢者への援助をしている老人もおられるのですから、頭が下がります。

 人はどの部分にフォーカスを向けるかで人生は変わってきます。

 ゲシュタルト心理学では、すべての怒りは「一人称に変えろ」と言われます。

 あの人が「私を怒らせた」ではなく、私があの人の言動で「勝手に怒っている」に変えろと言うのです。

 相手のせいにすると、相手が変わってくれないかぎり、自分の人生は楽しめなくなります。でも、自分の見方次第だ!(一人称)ひらめき電球と思えば、自分が気にしなければ良いのです。

 そう、相手の言動にこだわり続ける人と、石(不快な出来事)にぶつかった時の水の流れのように、流れを変え、方向を変えて「じゃ、さよなら」と気にしないで過ぎて行く人もいます。

 でも、石の前でブツクサ言い続ける人がいます。

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 水や風のように生きたいですね‼

 そうなのです。同じ職場生活でも楽しんで過ごしている人もいれば、いつも、職場の何かに怒っている人がいます。

 もし、職場に問題があれば、職場全員がノイローゼにならなければなりません。でも、ノイローゼになる人と、ノイローゼにならない人がいます。なぜなら、職場にはステキな人もいれば、変わった人叫びもいます。

 それが現実原則です。

 その集団の中で何にこだわり、何に対決するのかで、人生は変わってきます。だからこそ、職場全員がノイローゼにはならないのです。

 同じ親に「早く帰って来なさい」と言われ「むかっうるさい!」と受け取る人もいれば「音譜親が自分を心配してくれているのね」と受け取る人もいます。

 同じ言葉であっても受け取りかたは、人によって、これほど違うのです。

 どこにフォーカスを当てるのかは、人それぞれなのです。

 今回、お見舞や、ご心配してくれるメッセージの中で、お一人の人が「女性の生理と、男性の腰痛を一緒にしないでください。…男性には、女性に優しくなることはできません。
現に、衛藤信之先生も、女性の痛みがわかりもしないのにブログに「女性と男性」を比較して痛みという共通点のみを理由に「女性には注意」なんて書いている。安易に女性を馬鹿にしないでください!」と、お叱りのメールをいただきました。

 まったくその通りです。

 女性の生理と腰痛は違うものですよね。ガーン

 チョットした雑談のつもりで言ったことでも、受け取り方やフォーカスによっては、身内で笑える雑談でも、読者によっては怒りに変わってしまうものです。

 ブログを書く者にとって大切にしないといけない教訓をいただきました。

 ありがとうございます。

 多分、メンタルの受講生ではない方からの、お叱りのメールだったのかもしれません。

 受講生なら、僕が女性を小馬鹿にしたことなどないことを知っているはずだし。

 さらに僕をよく知っている人なら、「痛い」と僕らしくないことを口にしてしまったのを、僕が後悔してフォローのつもりで、心配する丸山先生に「こんなふざけた、会話ができるなら大丈夫だ、衛藤先生は音譜」と思ってもらうために、ふざけて話した身内での内容を、ブログにも同じ心理で「挿入したのだなぁ」と、カウンセリングを勉強している受講生なら洞察できると確信しているからです。

 でも、このブログは複数の3万人に近い人が見ているのです。気をつけなければなりません。汗

 でも、しかし、このような事を書いてしまったら、中には「フランクな先生たちの会話も、楽しみにブログを、私たちは見ているのだから、そんなことを気にしないで書いてください」と、言われる受講生や読者が多いことも、僕は知っています。

 ご安心ください。

 もちろん、自由に書くつもりです。

 なぜなら、前回のブログを書きながらも、実は「こう受け取る人もいるかもしれないなぁ」とも思って書いていましたから…(確信犯か)ツッコミ

 でも、どこかで僕のアカンところですが、僕は前半に書いたように、その人のフォーカスの問題、人は千差万別だと思っています。

 「体調が心配」に焦点が当たるのか、「間違った文章」に焦点が当たるのかは、その人のフォーカス、心のパターンが影響します。

 もしかして「権威者に対して牙を向けなければ」の心のクセがあるのかもしれません。その人は、過去に権威者に対して苦労してこられた人なのかもしれません。

 そこを知ってもらいたいのです。たくさんのブログを読んで全体像から判断することをしないで、何か人は心の中に怒り(フラストレーション)があって、何かの文章をキッカケに攻撃性が勢い出てしまう。

 また「私は正義だわ!」の思いは勢い人を攻撃的にしてしまう。そのことは最近、数度にわたって戦争を題材に僕は書きました。

 このように、誰かとぶつかってしまう関わりのパターンを交流分析では「さぁ、つかまえたぞ、この野郎ゲーム」と呼びます。これが人生脚本になると、なぜか誰かとぶつかって会社に行けなくなったり、孤立してしまいます……

 …いかん、いかんあせる
 これもカウンセラーの職業病ですね。

 わかっているのです…謝れば流れることなのにあせる…あ、あ、川のようになりたい(心から)…からんでいるのは僕ですね…反省。

 でも「心の仕組みを、知ってもらいたいメラメラ誰かに何かを伝えたいメラメラ」と講師でありカウンセラーでもある、もう一人の僕がいるから、プラスとして講座が熱くなるのも事実ですが…

 「もういいやん」と思う僕と「誰かに何かを学んでほしい」と思う僕が戦います。だから、腰が痛むのでしょうね…坂本龍馬も、腰痛ヘルニアになったとか「世界を背負うと大変じゃきね」それ今、関係ない話ですけどガーン

 ただ、正直に告白すると、どこで何を言われても「我ゆく道は、我のみぞ知る」と思っているヤンチャな僕のほうが、やっぱり強いのですね…あせる

 それで「おまえは反省しているのか⁈」(天の声)

 「はい、少しは」にひひ

 さらに反省…


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日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき







先祖にも、子孫にも、負けない一日!

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 21日はオリオン座流星群がピークだったそうです。

 昨日の21日は、東京から相模原に移動して講演会があり、夜に大阪へ帰ってきました。
 東京はキレイな快晴で、大阪も夜空にネオンに負けじと星たちが存在をアピールしていました。

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 だから、21日は東の空のオリオン座付近を見ていた人々も多いのではないでしょうか。

 自宅のテラスから東の空を見ると、オリオン座の中心の三つ星が、生駒山の上にハッキリと顔を出していました。

 そして、虫たちがBGMを奏でる。

 夏の奏者の虫たちから、秋の奏者クツワムシへ、そして気がつけば、コオロギへと主役の座は代わっていました。やがて霜が降りる頃には、コオロギもいなくなります。

 ひっそり静まり返った夜気の中で、短い寿命である虫が奏でる演奏を聞きながら星を見ていると、なぜだか物悲しくなるのは、僕だけではないはず。

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 人恋しくなったり、なぜだか、気ぜわしくなったりと…

 もう出会うべき人に出会えたのか?
 夢は叶えたのか?
 夢の方向は間違いはなかったのか?
 あとどれくらい時間が残されているのか? そして、その中で何ができるのか?

 それは人生には、限りがあることを彼らが、短い命の中で懸命に歌っているから…

 そして、彼ら虫たちも、短命な寿命の中で精一杯に生きて、あるものは別の命の肥やしとなり、あるものは次の子孫へと命をつないで行く。

 それぞれのドラマをつむぎながら、死して土に帰る。そして、土の中では、彼らの命の遺伝子が、こうして脈々と何千年、何万年と受けつがれて、また、優しい音色を未来につなげて行く。

 その音色は、未来の子孫も聞くだろう。

 その子孫の中に、僕によく似た、もう一人の僕が、こうして虫の声をBGMに聞きながら星を眺めているのだろうか?

 今夜の僕と同じように…

 いや、過去にも、もう一人の僕のような先祖も、悠久の歴史のあるシーンで、この虫の音色を聞きながら、星を眺めていたに違いない。

 その彼は、どんな人生を生きたのだろう? 少なくとも彼は、命のバトンを未来につなげた。
 だから、僕は今、ここに生きている。

 夜空を見ていると、途方もない時間スケールまで心は広がる。

 そして、僕は思った。

 負けられない、先祖の僕にも、未来の子孫である僕にも…

 戦うべきは相手は、他人ではない。
 比べるものは、財産ではない。

 今日の自分が、自分の与えられた「今日」という日をシッカリと自分らしく「生き抜いた!」と胸を張って言えるかどうか。

 一分一秒、の「今」を噛みしめたのか?

 それが、戦い。
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 先祖にも、子孫にも、負けたくない。

 星々は、過去生きた、もう一人の僕も知っている、そして、未来に生きる、DNAを受けついだ、もう一人の僕にも出会うことだろう。

 だから、子孫の自分にも、先祖の自分にも負けないように、今の自分を味わいながら「明日も生きる」と、僕は星に誓っていた…

 負けるな今の自分!

 先祖にも、子孫にも、負けない一日を‼






日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき






ツナグ

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 僕が話す話には、亡くなった人々が登場します。
 このブログにも、過去にいく度となく亡くなった人からのエピソードを書いた記憶があります。

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 ご主人が亡くなってから「うるさかったイビキが懐かしい」という奥さん。

 妻が亡くなって、自分が妻の代わりに子どものお弁当を作ったり、家事をするようになって、いかに妻の仕事が偉大であったかと語るご主人。

 僕の愛した二番目の母の自殺。それが、キッカケで僕がカウンセラーを目指したこと…

 そして、両親が離婚して生活を一緒にすることはなかった産みの母親が、僕の息子と同じ肝臓にガンを発症し「孫のガンを持って行けるから嬉しいんだよ。だからね、後悔はないの…」と語った産みの母。その母が、待っていたように、僕の誕生日に亡くなったこと…

 そして、小児がん病棟での、僕の小さな、お友達たちの話…

 小さな俊くんは最後は、抗がん剤が効かなくなって、愛くるしかったシュンシュンの顔の形は変わっていました。

 親たちは、病室内の壁に掛かった鏡をあわてて取り外しました。 シュンシュンが自分の顔を鏡で見て「お友達と、学校に行く」という希望を失わないように。

 でも、ある日、そんなことを知らなかった若い看護師の胸にキティちゃんの手鏡があった。

 それを、見つけたシュンシュンは「その鏡を見せて」と看護師から鏡を受け取った。変わりはてた自分の顔…

 シュンシュンの顔の奥にあったガンが肥大し、彼の目は斜視になり、自分の顔を鏡で正面から見ることはできなくなっていました。

 シュンシュンは、その現実を見つめた後に、看護師にこう語りました。
 「もうすぐママが売店から僕のジュースを買って帰ってくるの。ママが帰って来たらね、僕が鏡を見たのはママにナイショね」と借りた鏡を看護師に手渡した。

 「どうして?」と問いかける看護師に「ママが悲しむから」と告げた…

 シュンシュンの幼い心は、病気により、研ぎ澄まされ、清く、すべてを達観した老賢人のように、鏡を大人たちが外したワケも、母が夕方に、早々と病室のカーテンを閉じ、窓ガラスが鏡の代わりになることを嫌った理由も、一瞬に理解したのでしょう。

 そう、すべては「シュンシュンが自分の顔を見ないようにするための行動だ」と…彼は悟ったに違いありません。

 自分の顔が変わりはててしまった絶望と恐怖よりも、その大人たちの優しい秘密を、彼は守ろうとしたのです。

 それがシュンシュンが「ママに僕が鏡を見たのはナイショね」と言った言葉に、すべて込められていました。

 そのシュンシュンは、お母さんの腕の中で、一人で旅立ちました。

 彼は「僕ね、大人になりたいの。パパみたいに」と言う願いだけを頼りに治療を受けていた、苦しい吐息の中で…

 彼の望みは、僕たちが何気なく生きている日常の「今日」を、ただ生きたかっただけ…

 彼の話は、僕たち大人たちに突きつけられる。

 彼の生きたかった「今日」という夢の一日を、僕たち大人たちはシッカリ味わって生きているのか?

 講演では、俊くんのストーリーで、多くの聴衆が涙を流し、自分の生活に思いをはせる…

 大きくなってくれた我が子が「ただ生きていることだけで幸せなのだ」と感謝する人。

 今日、叱った子供の泣き顔を思い出して、怒り過ぎたことを後悔する人。

 若者が「なんか退屈だ~」と言いながら「今日」という日を、ボーッと過ごしている自分自身を省みて。

 最近、冷たくしてきた両親に対して、育ててくれたことに、感謝していなかったことに気づく聴衆もいます。

 日々、部下を怒鳴り飛ばしている上司が、怒鳴りつけている部下にも、優しい親があり、その親たちからすれば「わが子を大切にしてもらいたいだろうなぁ」と、上に立つ責任を思いだす人もいるのでしょう。

 それぞれが、何かに気づかされる死のストーリー。

 インディアンは言いました。
 「命は終わらない、誰かの生き様は、生きている人々を応援するパワーストーリーになる」と。

 そう、死者にとって、死はもう影響力も脅威にもならない。死んだ者の物語は、生きている人々に何かを学ばせる物語になると…

 先日、「ツナグ」という映画を観に行った。前評判も知らず、ただ、観る映画がなかったから観た映画だった。
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 僕は映画館の座席をしばらく立てなかった…

 そこに出てくる言葉が、とてもステキで、優しくて、僕は大ファンになった。

 「死者たちへの解釈は、生きている者たちの勝手な解釈や都合なのかも知れない。でも、死者たちの物語は、生きている者たちを生かすものであって欲しい…」と主人公の青年が語る。

 原作の直木賞作家の辻村深月さんは、映画を観て「微妙なニュアンスも、全部丁重に拾っていただいたことに驚き、感謝しました」と映画関係者に感謝を伝えたと言います。

 僕も祖母に育てられたので、主人公の松坂桃李くんと、祖母の樹木希林さんのやり取りに、とても共感をおぼえ、懐かしさを感じました。

 僕が大分に帰った時に、布団の中から手招きして、僕の耳もとに、そっと「もう、おばあちゃんに何かあっても、あなたには大切な仕事があるやけん。もう帰ってこんでもイイんよ。ノブくん、シッカリと頑張りなさい」と言った祖母。

 まるで、自分が最後の再会だと分かっていたような、貴女からの最後の言葉でした…

 「はい、孫は今日も頑張って、愛を伝えますよ!」

 おばあちゃん、つながっているからね。ラブラブ

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日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき


色んなところで、メンタルの受講生。

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 博多校の心理カウンセラー養成講座の受講生で現在、高校生君がいる。

 その高校生君が『カウンセリングの勉強中なので僕に相談して下さい!』とブログに書いていたら、テレビ局のディレクターの目にとまって、今度、テレビに出るので衛藤先生、観てください!」と言われたので録画して見ていました。

 そのテレビに相談員として参加しているレギュラー22名の内、4名がメンタルで心理学を学んだことのある受講生でした。

 「驚き!すごい確率」

 解決!ナイナイアンサーという番組です。

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 メンタルで心理学を学ぶ受講生の職種は様々で、個性的な人が多いですが、この4名も「くせ者相談者」と番組内で言われるだけに、とても個性的なメンバーですね。
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 大阪校174期生
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 大阪校182期生
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 博多校現在基礎前編受講中
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 東京校49期生(ただし前編のみ)

 以前、放送されていたナイティナインの番組で、ナイナイプラスという番組には、栫井利依ちゃん(東京校73期生)も、美人すぎる心理カウンセラーとしてレギュラーで出演していました。
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 また、夫婦問題アドバイザーの岡野あつこさんも、2008年にメンタルのガイダンスに遊びに来てくれていました。
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 これから、この番組も注目しておきます。

 心理学を広く、面白く、使えるようになるためには「メンタルで!」と言われますが、卒業生が色んな分野で活躍していますね。

 皆さん、ガンバって下さい。

 そして、博多のメンバーに朗報です。

 来週の月曜日に久しぶりに、独立した林 恭弘先生が、メンタルの博多校で「新しいあなたに生まれ変わる8ステップ」に登場します。
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 きっと、定員オーバーでキャンセル待ちになると思いますから、新規の受講生以外の人は、お早めにリピートの申し込みを!








日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき






心風景への旅。

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 文化の日でした。

 歴史のある場所に行くのが好きです。

 それは、神社仏閣だけではなく、昔から人の住んでいた場所も好きなのです。

 そこにある残り香がたまらなく好き。

 磨き上げられた廊下、畳の香り、歴史が塗り込められた柱。そして、そこに生きていたであろう人々の日常生活。

 家庭に恵まれなかった幼少期、転校や引越しが続いたから、そんな歴史のある家に憧れるのかもしれない。

 唯一残されていた祖母の家も、改築を繰り返し、今はトタンが少し残ったガレージしか、その香りを感じるところが存在しない。

 里に帰り、近くを歩いても、景色の中から、その香りが薄れてゆく…
 わずかに、それを感じた瞬間に、僕は昔にトリップする。

 それは自分だけの歴史ではなく、そこに生きた人々との歴史が交錯する瞬間でもある。

 休日の日、そんな歴史の香りを探すことも文化の日に、もってこいの休日かもしれませんね。

 僕ですか?

 僕は、そんなステキな一日を過ごせなかったけど、こんな風にエアー散策をして、懐かしい景色を歩きました…

 芭蕉が「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と病床で歌いましたが、僕たちはいつでも、心の中では、どこにでも出かけられます。

 テレビから与えられる情報に占拠される一日ではなく、自分の心風景を旅するのもいいかもしれませんね。

 「連休に、どこにも行けない」と嘆かないで、そんな内の世界へと旅立ってみませんか?

 近所を歩く。アルバムを見る。懐かしい人の声を聴く。

 静かに窓を開けて、小鳥の鳴声や、小さな子供達の遊ぶ声を聞く。

 町の静寂の中にも、内の世界に入る入り口が、あなたの隣りに、いっぱいあるから。

 このブログに合った写真を探しているうちに「過去のひとりごとアーカイブ」2008年8月11日 を読んで、また、タイムトリップしてしまいました。なつかしいお婆ちゃんに会いたいなぁ…







日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき





引きこもりはヒーローになる!

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 文化の日に椎間板ヘルニアの手術をして3日目。いつも身体を鍛えてきた僕が腰の痛みから筋トレができなくなって2ヶ月半…[みんな:01]

 いつも元気印の僕も、さすがに顔では笑っていても、心は凹みます。[みんな:02]

 ましてや、昨日までは連休だから、気が引けなかったけど、月曜日の今日は林先生に代役を頼み、オフィスに電話するとみんなが、それぞれの役割で仕事をしている、自分だけポーンと世界から抜け落ちたみたい。

 そして、大阪のオフィスに連絡した時が、スタッフの柘植ちゃんのサプライズ・バースデー・パーティーでした。[みんな:03]おめでとうクラッカーお花は贈ったけど、やっぱり、さびしいです。

 きっと、引きこもりの子供が、平日の日中が、苦しいのはこんな感じなんだね。もちろん、不登校やウツの人も…

 でもね、ジャンプする時には、腰を屈めないといけない。そして、イモムシがキレイな蝶々になる時には、動かないサナギになるだろ。

 それは、大切なんだよ。

 きっと、この引きこもりの期間が終わったら「エイヤーッ!」って、鬱積したエネルギーが輝く時がくるから。

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 日本のアニメが、なぜ、世界から脚光を浴びるか知っていますか?

 それは、普通の誰かが、泣きながらヒーローになるからだよ。アメリカン・ヒーローは絶対的に正義だし、迷いがないし、完全に強いだろ。

 日本のヒーローは挫折しながら、また、ズリ下がって、また、はい上がる。どこか心に劣等感や痛みを抱えているから、アメリカン・ヒーローよりも、日本のアニメが世界では人気なんだよ。

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 そう、僕たち引きこもりは、サナギの中のヒーロー予備軍なんだ。

 今は、不安で、孤独で、ぜんぜん、もう自信なんかなくて…弱っちくても。

 きっと、そのサナギの中には、羽ばたけるエネルギーが、固いカラの中で充満している。

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 炎は、赤いところよりも、青白いところのほうが温度が高いのさ。

 だから、今は青白くても、俺たちは絶対に大丈夫‼
 
 最近、元気がないとメッセージをくれた同志よ!

 だからなぁ、きっと、大丈夫さ、My Friend.

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北欧の上質に触れる旅。ボルボ・セーフティセンター訪問など7日間ツアープレゼント。

分析屋さん

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 ある笑顔がステキな女の子がいた。

 その子は「今が一番幸せだ音譜」と思って笑顔で人に接していた。

 ある時に、ある人が「その笑顔が嘘っぽい」とその笑顔を指摘した。「どうしてムリするの? 本来の貴女を出せばイイじゃない」と、その笑顔の彼女は言葉を失った。

 なんとか、気を取り直して「もちろん、イヤな時まで笑顔を作っているわけではないですよ。でも、職場や、このような楽しい場では、笑顔でいた方が人に不快を与えないでいいじゃないですか」と笑った。

 その人は「 でも、その笑顔が嘘っぽい」と、また指摘した。

 「もっと、素直になればいいじゃない。何でそんなにムリするの?」と、さらに諭すようにその女性は言った。

 さらに、その女性は「私は、あるがままの自分と接してくれる人と、いつも出会っているし、そんな『本来のあるがままの私』を良しとしてくれる友人や仲間だと、私は周囲を信頼しているから。ムリする必要がないの」と胸を張った。

 自分の笑顔を否定されてしまった女の子は「自分は周囲を信じていないのかなぁ」と悲しい気持ちになった。

 さらに、彼女に追い打ちをかけたのは、そばにいた顔見知りの男性までが「いつも、その笑顔で癒されてはいるけど、なんだか、その笑顔のせいで親しくなりにくい。もっとありのままの貴女が見たいです。なんだかその笑顔で『これ以上入らないで』と壁を作られているみたい」と輪をかけて言われたから、彼女はさらに自分の笑顔に自信を失ってしまった。

 このような、分析屋さんは、誰の周囲にもたくさんいます。

 「衛藤先生は、笑顔でいるけど、本当は孤独じゃないですか?」

 ここで、ポイントは、誰でも孤独な時もあれば、満たされている時もあり、人は弱気な時もあれば、前向きな時もあるのです。

 誰もが、人生の歴史を振り返れば、色んな側面を持っているのです。

 そこで、僕が過去の孤独な瞬間を思い出し、そこにフォーカスすれば「ええ、そうなんです」となる。相手は「当たり!我が意を得たり」となるのです。

 そして、僕はその会話に誘導され導かれることになります。

 これは、メンタリストのダイゴ君が、よく使っているコールド・リーディングの一つです。交流分析の心理学ではフック(相手を引っ掛けるかぎ爪)と呼びます。

 霊能者や占い師などが良く使うテクニックでもあります。

 誰でも「今まで苦労されましたね」と言われると、誰もが過去に一つや二つは苦労した出来事があります。まして、占いに足が向く時には迷っている時か、悩んでいる時です。

 当然、弱気な時には「そうなんです。わかります~ぅ⁈」叫びと、相手の占い師に依存したくなる、心のスキマが生まれます。

 女の子のステキな笑顔に、マイナスな指摘をした女性は、もしかして初対面の人に、そのような意表を突く会話をすることで「スゴい!この人!」と、今まで周囲から注目を集めて来たのかもしれません。

 そして、そこにいて賛同した男性は笑顔の女の子と、もっと親しくなりたくて、自分に弱さを出して欲しかったのかもしれません。

 それが、一所懸命に、今が楽しくて笑っている女の子の笑顔を凍りつかせたようです。

 ここで大切なのは、人にアドバイスや助言、分析をする時は、誰かが人生が上手くいかず、自分に完全に自信を失って「どこが私の問題ですか?」と直接に訊ねられた場合には、助言や分析も必要な時があります。

 でも、そうでない限り「貴方は、こうなのよ!」との指摘は、相手の為にならないどころか、相手を傷つけてしまう可能性がありますね。

 ましてや、相手は「そうではなくてあせる」と言っているのに、自分の絶大なるプライドの為、勝ち負けに、こだわり過ぎて「いいえ、貴方はそうに違いない!」と言うような、相手への決めつけは、ヘタな占い師みたいで、相手を傷つけることになりかねません。

 初対面での、会話のマナーには、気をつけなければなりません。

 「人」の「為」と書いて「偽り」と読むことを再度、肝にめいじていたいものです。

 衛藤先生は「孤独でしょう?」と言われたら、

 「そうですね。孤独な時もあるかなぁ。でも、孤独は人を強めるし、孤独を知っているからこそ、人に優しくできますからね」と笑顔で返します。

 もちろん、僕を指摘してまで、僕に関心を持ってくれて「ありがとうラブラブ」と心から感謝しながら。

 ムリは良くないこと、あるがままがステキなこと、孤独は淋しいこと、自分を作ることは良くないことと、周囲のジャッジメントに影響されない人になりたいものです。

 なぜなら、孤独もまた良し、ムリも時には必要。自分をステキにする時には、それが習慣化するまで、自分を作る必要もあるのですから…


日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき








と・き・ど・き…

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 いつも、ブログを楽しみにしている人ゴメンなさい。

 土曜日も東京の受講生に「母が先生のブログの大ファンで、最近はブログが更新されていないと淋しそうです」と言われました。

 ヘルニアの治療後の経過がよくなく、おそらくはヘルニアの時に、腰をかばい過ぎ、梨状筋症候群(お尻から足)で筋肉痛が取れません。

 もちろん、日頃の仕事は、ツラい顔をせずに続けています。でも、我慢しているワケでもなく、講座中にはあまり痛みを意識することはないのです。

 その反動で独りになると「う~ッあせる」と痛みとの悲しい再会になります。

 ここ数ヶ月は大好きな激しい運動は辞め、なるべく睡眠をたっぷり取り、シャワー中心の生活から、しっかり風呂に入る生活をしていますが……

 …未だにトンネルの出口が見えずです。

 いろんな人に、有難いことにイロイロ勧められ、行ったり、試したりしているのですが、思うような結果が得られない日々です。

 でも、いろんな治療方法や面白い人がいるのですね。

 これだけでも面白い本が、書けそうな気がしています。

 でも、いろいろ心配してくださって、心からありがとうございます。

 きっと、その愛情で回復しますよ。
 きっとね!

 焦りは禁物ですね…

 僕は占いは、朝のテレビにある、今日の運勢で、自分がいい時にしか信じないのだけれど、今年に入って三人の占いに精通している知人から「今年は衛藤先生は『背信の年』ですね」と言われました。
 心の片隅で、え? 誰かに裏切られたり、足をすくわれるの?と考えていましたが、どうも自分の身体に足をすくわれ、裏切られたようです。(笑)

 でも、誰かに裏切られるより、自分の身体に裏切られるなら、まだマシかもひらめき電球と感じています。

 これは、裏切られたと言うよりも、自分自身とシッカリ向き合え、ということでしょう。

 さて、自分の思い通りにならないストレスにぶつかると、僕は「この経験は、未来の講座でネタ話になっているだろう」と考えるクセがあります。

 近視眼的に見ると、人はその問題に取り込まれてしまいますが、長いスケールで観察すると、それは未来には思い出の1シーンになるのです。

 失恋した人も「食事もノドが通らない」と言う人がいますが、1年後、5年後、10年後、30年後まで、悲しみのために食事をしない人とは、過去にも出会ったことがありません。いや、早い人なら数時間後には、メシを食らっているのです。

 その瞬間に、鏡を前に置き、自分の滑稽さや、身体は「生きよう!」としている、生命のたくましい、もう一つの自分の姿を見ればいいのです。

 そう、人は意外と、たくましのです。滑稽⁈ それでいいのです。

 話は変わりますが、僕が、一番最初に講師指導をした、上村光典先生がSoftBank Creative出版から本を出しました。

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 タイトルは、
 「あなたを悩ませる『つらい!』人間関係から自由になる本」です。

 この中にも、僕が先に書いたのと、似たようなテクニックが書かれていました。

 何かストレスを感じる人間関係や出来事があれば、自分に質問してみるのです。

 このストレスを1週間後も、感じているだろうか?
 1ヶ月後も、感じているだろうか?
 1年後も、感じているだろうか?
 5年後も、感じているだろうか?
 10年後も、感じているだろうか?
 50年後も、感じているだろうか?
 100年後も、感じているだろうか?
 1万年後も、感じているだろうか?
 10万年後、100万年後は??

 そう、そんなに人の寿命は続かないのです。

 これを「時間のズームアウト・イメージ」と上村氏は書いています。

 この本では、過去にも、意識を向けることを勧めています。

 昨日は、私は何にストレスを感じていたのだろうか?
 1週間前は?、1ヶ月前は?、1年前は?10年前は?、何に思い悩んでいただろう?20年前は?50年前は?100年前は?と、1000年前は?

 そう、そんなに生きてはいませんね(笑)

 今、永遠のように感じているストレスも、長い時間の流れの中では「あっ!」と言う間の「点」なのですね。

 他にも、たくさんのテクニックが載っています。

 来年の1月20日に東京校で、僕も参加して、上村先生の出版記念の講演会をします。詳細は後日、メンタルのHPで掲載します。

 この本はオススメです。

 そう、僕の痛みも「点」になるのです。

 ブログを読んでくださっている有難い読者の皆様へ

 講座や講演は歩き回るので、痛まないのですが、ブログを書くのは、長時間イスに座るので、テレビのコマーシャルではないですが「あ、固まった!」となって後が、大変です叫び

 で、と・き・ど・き(時々・漢字よりもひらがなって感じで)の更新になりますが、首を長が~くして待っていて下さい。よろしく、お願いします。




 あ、固まった!








日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき


名古屋の仲間!

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 昨日は名古屋でした。

 名古屋校は唯一、貸し会場です。
 博多、大阪、東京は立派な教室があるのにです。

 でも、名古屋校のメンバーは、そんなことなど気にしていないし、とってもステキなメンバーが多いです。

 それは、早めに来た受講生のメンバーが授業の準備を手伝ってくれることです。この手作り感が、とてもステキなのです。

 さらに、僕の授業が延びると(いつものことだけどσ^_^;)名古屋のサポーターのメンバーがいつも、貸し会場のスタッフに頭を下げてくれ「時間だから!」と、追い出されないようにバリケードしてくれます。

 僕のライブ講座は、そんなメンバーの優しさに守られています。

 先日、名古屋の受講生で、ご夫婦で参加してくれている加藤夫妻(僕はこの二人が大好きです)がいます。その奥さまで似顔絵師の紗耶香さんから、ステキなプレゼントをいただきました。

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 僕の似顔絵です。

 彼女は「今までは、依頼者に気にいってもらえるように描いていたのですが、今回は自分で感じた衛藤先生を書きました」と言ってプレゼントしてくれました。http://ameblo.jp/ekagami/

 僕の後ろに七色の羽根と虹虹がかかっています。ホピ族の言い伝えにある、虹の戦士みたいです。

 ネイティブ・アメリカンであるホピ族には「予言」があります。この世界は四番目の世界だそうです。

 そして、この世界もバランスを失うと滅亡するといいます。

 母なる大地が浄化を始めると言うのです!(◎_◎;)

 ただ、バランスを守ろうとうする虹の戦士たちも同時に現れます。

 「その虹の戦士の数が勝れば、母なる大地は浄化を止めるだろう」と言うのです。

 more&more(もっと、もっと)と欲望を肥大させると、この地球は保たないです。

 人と人が寄りそい合い、心と愛が満たされるなら、人は物質や権力で欲望を満たそうとしなくなる社会が来るのかもしれませんね。

 人々の集合無意識が、この世界に影響を与えると深層心理学派のC・G・ユングは言いました。

 ですから、私のモノ!俺のモノ!と言い合う時代に代わって、世界のみんなが、仲良くするステキな優しい世界を心に描きたいものですね。

 なぜなら、僕たちの思いがこれからの世界の方向性を決めるのですから。




日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき





それほど、孤独でもないのだけど…

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 完全な世界。

 完全な世界など、どこにもない。これはべつにニヒリズムの虚無感で言っているのではありません。

 ある人が「私は孤独だ」と言った、だから、いろんなセミナーなどに参加してトラウマや無意識にある満たされない感情を取り除いて努力をしているのだと…

 僕は思う…人は独りで生まれ、独りでこの世界を去って逝くと…究極は、人は孤独なのだと。

 人は、孤独を意識し始めれば、誰もが孤独の深さを感じるものです。

 もちろん、孤独でない瞬間もあります。

 仲間と語り合っている瞬間、誰かと愛し合っている瞬間、家族と笑い合っている瞬間、旅で他人の親切にふれた瞬間、成しとげた仕事が成功した瞬間、友と酒をくみ交わす瞬間、そう、「今、ここ」の瞬間になら「完全な世界」と感じることはある。

 僕は孤独を訴える人に言った。

 結婚したからと言って孤独はなくなりはしないし、孤独の不安は完全に消え失せることはない。

 人は将来に、完全に幸せになることを願って、未来に幸せをお預けにする。そして「今、ここ」の幸せを味合わないで、未来に幸せになろうとする。

 僕は「今、ここ」の幸せを楽しめない人は、未来も幸せになれないと思っている。

 いつか、結婚さえすれば、子供ができれば、有名になれば、お金持ちになればと、そうなりさえすれば、永遠の幸せが約束されたと思っている。

 でも、結婚したらしたで、相手を失うことの怖さ、孤独への不安はなくならない。

 子供ができたら、子供がケガをしないか、不合格になることはないかと…
 出世したら、失脚することの不安、判断を誤ることはないかと…
 お金持ちになれば、そのお金を失いはしないか、奪われることはないかと…

 確実なのは「今、ここ」の瞬間の中に、探しさえすればパーフェクト・ワールドは隠れているのです。もう、戻って来ない一瞬、一瞬に…

 人はそれを味合わないで、どこかにあるパーフェクト・ワールドを求めて「今 ここ」を見ていない。

 悩んでいる今の自分も、二度とは戻らないのに「今、ここ」の自分なのに。

 その相談者は、完璧な孤独のない自分を求め、お金を使い、時間を使い、孤独がなくなると言う催眠や、無意識にある孤独のトラウマが取れるというセミナーに通い、より孤独を深めているように見える。

 ギリシア神話にある武勇のヘラクレスの話。

 彼がある時に道で「モヤモヤ」という石につまずいた。彼は「この野郎っ!」とモヤモヤを足で蹴ってみた。するとそれは、ひと回り大きくなった。驚いたヘラクレスは、さらにキックをくり出した。

 すると、モヤモヤはヘラクレスと同じくらいの大きさになった。不安にかられた武勇の神ヘラクレスは、剣をぬき出して「この化け物め!」と、さらにモヤモヤに攻撃をくり返した。

 やがて、そのモヤモヤはヘラクレスを圧倒するくらいに巨大な存在になった。それを最初から見ていた女神アテナがヘラクレスに向かって大声で叫んだ。

 「私は最初から見ていましたが、あなたが攻撃するほどに、その化け物は大きくなっていますわよ。その化け物が何かをしたのですか?関わらないでいたほうが良いのでは?」

 そう言われて、ヘラクレスは、剣をサヤに収め、その巨大になったモヤモヤの化け物を無視して、歩き始めた。

 すると、そのモヤモヤは最初にあった、石ころのように小さくなっていった。

 人はこのように、何かの悩みに突き当たると、これは無意識のトラウマだとか、これを取り去らないと、前に進めないと思ってしまう。

 でも、僕は思っている。人はやはり生きることは孤独なのだと…だから「人生には孤独は付きものだ」と、引き受けて生きてゆく強さを持てれば、ほんの少しの日常の中にある、ありふれた「ふれあい」に感謝ができる。

 「今、ここ」の、ふれあいの瞬間を味わいつくせるのだと、僕は思っています。

 そして、誰しもが、そんな完全ではないけれども、捨てたものでもない人生を生きているのだと思えば、人は究極の孤独ではなくなる。

 そう「自分だけが孤独ではないか」と思う病が、よけいに誰かを孤独にしてしまう。

 話は変わるが、僕の自宅は山の斜面にある。

photo:01

 眼下に巨大な都会の街のネオンが広がっている。

 この街にある灯りの、ひとつ、ひとつに、幸せと孤独が、同じくらいに存在しています。

photo:02

 そして、人は「今、ここ」にある幸せに感謝し、その一瞬を心に、とどめることができれば、その一瞬の中に「永遠の幸せ」があるのだ思う。

 人は孤独だけど、その孤独を誰しも抱えながら「今、ここ」に生きている。
 そんな人々たちが、肩を寄りそいながら「この瞬間」も、人びとは生きている。だから、それほど人は孤独ではないのですよ。




日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき




華やぐ時間!

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アメンバー限定公開記事です。

何に囚われる?

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年末になりました。
今年の一年を振りかえる時期ですね。

先生は後悔する事などはないですか?

僕の場合「こうしておけば、こうなったかもなぁ」と思うことがあっても、後悔は続かない。

 なぜなら、後悔しても過去は変わらないからです。

 3時間、後悔したら、過去が変わるなら、僕も3時間くらい一生懸命に後悔することをガンバルかもしれません(笑)

 でも、後悔しても、現実の世界では、なにも過去は変わらないのです。

 ならば、後悔して過ごしている「時間がもったいない」と思いませんか?

 講座でも、言い続けたことですが「愛情」の裏返しは、「憎しみ」ではありません。
 「あの人が大好き」という思いと「あの人だけは許せない」という思いは、頭を占領している時間は同じだから「愛情」も「憎しみ」も同じように、その特定の誰かや出来事に「囚われ」ているのです。

 囚われるという字は面白いですね^_^

 人が枠に閉じ込められている状態を書いているのですね。

 どうせ、何かの枠に入るなら幸せの枠に、入りたいと思いませんか?

 誰かを、恨んだり、腹立ちの時間の「枠」に入るのが憎しみの感情なのです。

 年末の大掃除は部屋だけではなく、心の中も悲しみや、恨みと言ったホコリを、拭き払って「清々しい心の部屋」で、新しい新年を迎えたいものですね。





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自分に「今年もヨロシク!」

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 2013年がスタートしました。

photo:01

 新しい年は、貴方にとって、どんな年になりそうですか?

 一年の計は元旦にあるそうです。

 新年早々、外気の冷たく張りつめた空気を、胸いっぱい吸いこんで、目を未来に見すえて、凛とした一日を過ごしたいものです。

 自分が今年絶対に、叶えたいことはなんですか?

 デカ過ぎることもなく、気をつかって小さ過ぎることもない夢を考えることは大切なことなんじゃないかなぁ…

 もちろん「今」が満足しているなら、インディアンのように「今日のような日々が7世代、先まで続きますように」でもいいかもしれないですね。

 7世代が、デカ過ぎることならば「今年一年は、続きますように」って、そして、来年の元旦も、同じように「今年一年は、続きますように!」って、そんな階段を一つ一つ踏みしめるように、噛みしめて、日々を味わって生きることは大切なんだと思う。そして、元旦は、その小さな第一歩だから、より味わって生きたいものです。

 一人で「今」を過ごしている貴方も、自分を抱きしめて「明けまして、おめでとう!」って…人には「明けましておめでとう!」を言えても、自分に言う人は少ないから。

 ほら、恥ずかしがらずに、自分に言おうよ!

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 「明けまして、おめでとう。今年も、君に(身体)お世話になります。今年も、しなやかに動いて、サポートしてくれよな。やっぱり今年も、かなり君を酷使するとは思うけど、どうか、ついて来てくれ。
そして、遅くなったけど、昨年もありがとう。そして、今年も、ヨロシクお願いするぜ‼ 俺。」

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 もちろん、女性は女性らしく伝えて下さいね。





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変わることと、守ること。

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 皆さん、新しい年の過ごしごこちは、いかがですか ?

 何を言っているんだと思われますか?年末と年始から日付が変わっただけで、何も変わらないと思われている人も、いるかもしれません。

 でも、身体の中では、いつも生と死がくりかえされています。

 皆さんは、細胞レベルで言えば、5年前と、全然違う人になっているのです。

 ですから、何時だって生き直すことはできるのです。

 いつも出会っている学校のクラスルームのメンバーも、会社でデスクを並べている仲間も、周囲の人々も変化しているのですから。

 いつまでも、何かイヤな感情を引きずっているのは、貴方の方かもしれませんね。

 新しい年、新しい目で、周囲を見わたして見るのもいいですね。

 新年から生き直し、生まれ変わるのもいいでしょう!

 話は変わりますが、年始の休み開けの休日に、友人がたずねて来ました。

 15~6年前の借金の返済金を持参して…

 彼に貸した金額は、僕にとっては当時、高額でした。もちろん、今の僕にとっても高額なのですが…f^_^;

 僕の信条として、友人との貸し借り絶対しない。もちろん、ジュース代貸してくらいはOKですが(笑)

 子供の時から、親分肌であった父親が、頼まれた保証人や借金の肩代わりをして、苦労した時期もあったので、父親が「貸すなら、やるつもりで貸せ!」と言われてきました。

 だから、彼に借金を頼まれた時には、悩みました。そして、その信条も彼に伝えました。

 お互いに、若いヤンチャな時代を過ごし、僕が学びの時代に、先に社会に出ていた彼に、食事に連れ出してもらったことも、数えきれないほどありました。そう考えれば、彼の友情に借金とは言わず、くれてやってもいいのではないか。「よし、差し上げよう!」と決心しました。

 そして、彼に僕はこう告げました。

 「僕は、人に、お金は貸さない!と、今まで決めて生きてきた。保証人になって、バカをみた父親を見てきたから。なによりも友情を失いたくないから。…だから貸す時には、差し上げるつもりで渡す。だから、絶対に忘れないでくれ、次の借金はないし、そして、その時には、俺たちの友情は終わると思う」と…

 彼も苦しそうに「俺も衛藤には、絶対そんなことをしたくなかった…」と…頭を下げた。

 それから、彼とは電話での近況のやり取りだけの数年間を過ごした。それは、お互いに、日々の生活が忙しくなったこともあります。

 そして、彼が投資したビジネスはうまくはいかなかったことは、風の噂で知っていたし、それに僕は「彼に差し上げたもの」と借金のことは封印して生きているので、彼と会うたびに、借金の話になるのを僕は避けたかったのかもしれません。

 彼と年に数度、電話で話すたびに「申し訳ない」と、彼は借金が、そのままであることを僕に謝罪した。

 僕は「もう、その事はいいじゃないか」と話をそらした。

 でも、彼は電話を切る直前「忘れていないから」と必ず言って、電話を切った。

 「忘れていないから」の証は、自宅に毎年届く、中元と歳暮に書かれた、彼の名前から、僕は感じ取っていた。

 一般社会からすると高額な借金に対して「たかだか、お歳暮、お中元でしょ」と言われるかもしれない、でも僕には、それで充分だった。

 その彼から、昨年の夏に久しぶりに電話があり「長い間、迷惑をかけた。借金を返すのが、衛藤が最後になったけど、借金を返すから」と電話が入った。そして、約束どおり毎月、僕の通帳には「忘れてないから」の、彼の言葉が振込まれるようになった。

 電話で「毎月、たいへんじゃないのか? あれだけの金額、もう、あれは、お前にあげたものとずーっと生きてきたし、俺をエンちゃんと、親しく呼んでくれる友達は少ないから…それに、毎年のお中元や、お歳暮の数々で返済は済んでるから」と僕が言うと「それと、これは全然、別物や。ホンマに長い間悪かった」と彼。

 そして、彼は最後の返済金を持って自宅に訪ねてくれたのだ。

 「最後くらいは銀行振込ではなく、手渡しでお前に渡したかったから」との言葉をそえて。

photo:02

 年末年始から「仁義」とは何かを考えさせられる出来事が続いた。

 恩を仇で返す人もいる。

 でも、かたくなに「自分らしさ」を石にかじりついてでも、守り通す人もいる。

 人と人との関係を、人前で語る仕事をしている僕としては、自分の人生を最後まで自分らしく「人として」の誇りを大切に生きたい。

 そんなことを思った2013年の新年になりました。

 みなさんの「誇り」「大切にしているもの」は何ですか?

 そんなことを考えてみるのも良い機会です。そう、新しく生まれ変わった年の始まりには…






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大局観

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 変えることを変える勇気を

 変えられないことを受け容れる心の平穏を

 そして、この世界には変えらることと、

 変えられないことを知る叡智を授けたまえ

 神学者 ラインホルト・ニーバ


 僕は日本に生まれ、日本で育ちました。
 もし、韓国に生まれれば韓国人の考える視点が正しいと信じたでしょう。
 もちろん、中国、北朝鮮で、生まれれば、やはりその国の考えや価値観が正しいと信じたのでしょう。

 龍馬をはじめとする倒幕の志士たちには彼らなりの、幕府側の新撰組には、彼らなりの正しさが、互いにあったのです。
 それぞれの中に入って観れば、感動的な愛や友情のドラマが生まれます。

 忘れてはならないことは、互いに愛する心と、怖れる心を持った人間という存在の集まりです。

 違ったのは属した集団が違っただけ。

 その違いだけで集団であることの愚かさは、その集団の怒りは、誰もが知らないところで燃え上がり、個人では決して止めることができない、戦いの火蓋が切られます。

 この過ちを我々は、いつまで繰り返すのでしょう…

 ニーバの言うように、変えることを変える勇気を、僕たちは持っているのでしょうか? 戦うことが勇気だと思っている人はいないでしょうか?

 自分が変わりたくないように、相手にも変わりたくないことが存在するのです。

 お互いに変わることには勇気が必要です。強い大人は、子供とのケンカに負けることができます。それは余裕があるからです。本当の余裕、強さはゆずることのできることです。

 互いにゆずりあうことができないのが、子供のケンカです。

 対立した時に、大切なのは、それを見きわめる叡智です。

 その叡智を持った人が、たくさん住んでいる国が「大国」と呼ばれる時代が到来することを心から祈ります。






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死にたいと言う、あなたに…

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 「死にたい」と言う、貴方に…

 何が貴方にあったのか、僕には分からないけど。
 生きるのは辛いことだと、僕にも分かっているから。
 そう、誰もが先、未来のことは分からないし、誰からも気にされない時には、人は淋しさに押しつぶされそうになる。

 また、大切な人を失ったりすると、その人がいない人生なんて、ただ、平坦な地獄のような、空虚な日々が永遠に続いてゆくのだと思えてしまう。


 「死んで花実が咲くものか」と人は言います。でも、絶対、生きていれば花実(良いこと)が実るとも、誰もが保証はできない。

 でも、僕は「石に噛りついても、生きていかないといけない」と思うのです。

 死ぬと楽になると、思っている人がいますが、僕はこの世界をしっかり生きなかった人は、死んでも楽にならないと思っています。

 仏教では、生きていることは、修行だと言われます。四苦八苦の苦しみの中で、生き抜くと、もう、生まれ変わることのない涅槃(天国)に行くそうです。

 キリスト教でも、人は生きていることが原罪で、人は罪の中で生きているのだそうです。そして、神から試練を与えられても、誰かのために祈りながら、生きた人だけがパラダイス(天国)に行けるそうです。だから「苦労していない、お金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と言われています。

 僕がアリゾナで暮らした、インディアンの考えの中にも、生きることは、心と身体を鍛えるためであり、いつか時が来れば、グレート・スピリットに導かれ、僕たちは永遠の世界に、迎えられるのだそうです。だから、人は、泣いて生まれ、最後の時が来たら、亡くなる本人が笑い、周囲がわんわん泣いて、皆から惜しまれて死ぬ。それが、ネイティブ・アメリカンの死生観です。

 それを、信じる、信じないかは、誰もが自由なのです。でも、多くの神話や経典、聖書の中に共通することがあるなら、僕は生きることは、やはり修行ではないかと思っています。修行だと思えば、苦しく、辛くても、あたり前になります。

 人生は、楽しいものだと考えて生きると、悲しいこと、辛いことがあると、「自分だけが」となるのかもしれません。

 また、人生が、悲しみが前提なら、楽しいこと、ステキなことがあると、自分の力だと有頂天にならず、すべてに感謝できる生き方ができます。

 僕自身は怖がりだから、たとえ立派には生きれないにしても、与えられた時間(刑期)の修行だけは、ただ、ただ生きないといけないと思っています。

 それが、最低限度の修行だと思うのです。

 人も、動物でも、命の持つ生命は、最後の最後まで「石に噛りついてでも、生きないといけない」のではないでしょうか。それが生命のルールだと。

 運動をしていると、苦しさの先に、今まで出来なかった事が、苦しくなく出来ることがあります。勉強から登山まで、苦しみの先に「この景色を見たかったんだよなぁ」と思える時があります。
 今、それが見えないと言うなら、見るためにも生きて貴方は見る必要がある。

 貴方の「死にたい」と思うほどの苦しみの先に、何が見えるのか、それは誰にも、分からない。誰からも教えてもらえない。もちろん、僕にも分からない。

 それを見つけるために、誰もが生きているのだから。

 だから「ただ、生きる」と「答えを探すために生きる」とでは、生きる姿勢が違う。現代は「生きる」ことは誰でも出来る裕福な時代です。でも、答えを探して生きることは簡単ではない。

 仕事でも、挫折でも、恋でも、人生でも、だから、先を人は歩き続けるのだと思います。

 もし、そこまで行っても答えがなかったら「なんだ、答えがなかった」(笑)と答えを出すことも、立派な答えだと思う。
 あの世に、それを手土産に、持って行ってもカッコいいじゃないですか。だって、それはゲームを降りなかったのだから。

 自分で自ら命を絶ち、途中で出した答えは、決っして答えではない。

 カウンセラーから言えることは、

 周囲が幸せそうに思うと、自分だけが苦しく、不幸だと思う時があります。でも、カウンセリングをしていると、誰もが、それぞれの課題を抱えて、石に噛りついても、人は生きているように思えます。

 どんなに幸せそうな人の中にも、それぞれに探している宿題の答えがあるようです。

 最後に、貴方の中にある細胞のすべては、食事したものを吸収し、毒素を外に吐き出そうと日夜、この瞬間も戦っています。

 そう、貴方の心の悲しみや嘆きなど「それどころじゃないあせる」と言わんばかりに、身体は、今日を生きること、さらに明日も、貴方が生きてもらえるようにと、戦っています。

 日夜、細胞は生まれ、そして死に、命のバトンを手渡している。

 その身体の細胞も道づれに滅ぼすことは、60兆の細胞の願いを裏切ることになります。もし、貴方が孤独で淋しいのなら、その細胞だけでも、貴方の味方だから、身体に聞いてみればいい。心臓の鼓動も、血管の脈も、今日も「生きよう!」と訴えかけている。

 だから、その細胞の主人であるあなたが、外の世界が心地よくないからと、今日という日をあきらめたら、彼らの日々の活動は「なんのための努力なの?」となります。

 貴方が終わらせなくても、時が満ちれば、細胞のすべてが休止に入ります。その時までは、貴方は人生の答えを出すべきではないのです。

 だから、君死ぬことなかれ…





日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき



桜宮高校だけで、事件は起こっていない。

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 動物には、捕食、生殖、群居の本能があります。
 人間にも、 食欲や性欲 、集団欲があります。

 ただ誰もが食欲や性欲は、ピンと思い当たりますが、集団欲はピンときません。

 なぜなら「私、独りでいるのが好きなの」という人もたくさんいるからです。
 でも、それらの人々も、人間関係に疲れてしまう出来事があって、今は刺激遮断状態にいるのです。そう一時的に逃避しているのです。

 お腹が空くと、何かを食べたくなるように、淋しくなると、人は誰かを求めます。

 引きこもりの人の話を聞いていると、今は人との関係を遠ざけていても、DVDやゲームの中に人間関係をシッカリと求めています。

 だから、人は人によって傷つきますが、でも、人によって生かされてもいるのです。ですから、僕たちは「ふれあいたい欲求」(集団欲)を持っています。

 その集団欲が満たされる最小単位は家族です。

 だから、幼少期に親から愛されないと、人は不安になります。その結果、子供は親の不機嫌な態度に対してとても敏感になり、不安な子供ほど親の顔色をいつも、うかがいます。

 ですから、親が学校の成績だけに「人生の価値があるのだ」と、偏った価値観で子供を見れば、子供は親から気に入られるような成績に到達するために努力をしますが、その親の期待に応えられなくなると、病弱になって、心配や看病で、親の関心を引く場合もあります。それは、決っして仮病ではなく、本人も治したいと思いながらも、治らないのです。

 また、家族の中で思ったような愛情がもらえないと、暴走族や非行集団に入って、そこで集団欲を満たしたり、カルト宗教に入って、ふれあいを満たそうとする若者も現れます。

 特に学生時代は世界が狭いのです。小さな教室は、彼らにとって世界です。結果、クラスで無視されたら「死にたい」と思うほど深刻になるのです。

 大人ならば「この集団で、ふれあいが無くても、他の集団があるさ」と、いい意味で開き直れもします。それが学生時代は、そう簡単にはいかない。

 ですから、今回の桜宮高校のバスケット部の顧問とキャプテンの生徒との二人に起こったことは悲劇なのです。

 自殺した生徒は、学校という世界、とりわけ顧問との二人の関係は、きわめて重要で大切な世界だったのです。彼にとっては世界の中心、それくらい深く大切なものだったのです。だからこそ、彼は人一倍クラブを真面目に取り組み、今まで苦しいキャプテンの職務をシッカリ遂行できたのです。

 彼にとって、顧問の先生の存在は大きかったのです。その証拠に卒業生からは「熱心な先生だった」と嘆願する声も少なくはない。

 ただ、この顧問の先生は、思春期の彼らにとって、自分の存在が、いかに大きな存在であるかの自覚さが、なさ過ぎた。もし、教育のプロとして、それを十分に理解していれば、あのキャプテンである生徒との関係もギリギリ回避でき、彼は死ぬところまで追い込まれなかったのかもしれない。

 そして、嘆願した卒業生と同じような「あの頃に厳しくご指導いただけたので、自分は大人になって、どんなにツラくても乗り越えられます。だから今は感謝しています」とコインの裏と表のように、美談で終わったのかもしれないと思ったりもするのです。それほど、思春期の柔らかい心は身体に反して繊細なのです。

 もちろん、僕は暴力を肯定しているのでは決っしてありません。決っして何十発も殴るなど教育ではありません。ただ、暴力の問題だけが社会でクローズアップされているようで心配なのです。

 貧民の国に行った時、店の親方に頭を何度も叩かれても、目を輝かせて働いている子供たちに、僕は涙しました。でも、彼らは生きていることに一生懸命だったし、不思議なことに親方を、子供たちはキライにはなってはいなかった。

 あの桜宮のキャプテンが肉体的な暴力で死んだのか、顧問との会話のやり取りで、大切な師弟関係に絶望した結果、彼が死を選んだのかを、思春期の時期を考える時に、深く掘り下げる必要があると思うのです。

 彼らにとって、世界は狭く限定されています。その世界の中心で、あの顧問が放った「お前は二軍落ちだからなぁ」が、キャプテンには、絶望感となったとしたら、こんなに僕は努力しても報われない、自分は愛されてなどいない・・・・この思春期の彼にとって、この先生の放った言葉が「世界から見捨てられた!」と思い、絶望し、死を決心させる致命傷になったように僕には思うのです。

 決っして暴力だけではない、何気ない言葉の絶望。

photo:02

 人は冬山で遭難しても、寒さや空腹にはある程度、耐えられます。でも、そこに絶望が加わった時には、人は、もろくも死にます。

 何が言いたいのかと言うと、教育現場での行き過ぎた指導と暴力だけが、社会で話題になっています。では、暴力を使わなければよいのか。で、終わらせてはいけないのです。言葉や態度が人に与える絶望感にも、心理カウンセラーとして教育者に関心を向けて欲しいのです。

 そして、家庭の中でも、たとえ暴力がなくとも、親子関係のちょっとした会話の無関心さや、関係性が途絶えた瞬間にある、子供たちの絶望感にも、今回の事件を通して大人たちは深く掘り下げて考えてみたいものです。

 これは「ある学校の行き過ぎた指導」という事件ではなく、あなたの子供に向ける言動にも、注意を喚起させる警笛にならないとダメなのです。





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消毒社会は失うこともある。

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 僕は父親が怖かった、父の顔色を見ながら生活をしていた時期もありました。でも、そのsensitivityで敏感な性格は、人間関係に決して役に立たない訳ではありません。


 カウンセリングをしていて「困ったさん」の多くは空気が読めないで、自分の事ばかりシャベリ過ぎる人だったり、親しくなると対人距離が近くなり過ぎて、周りから迷惑がられる人だったり、自分で失敗してもいいから、やりとげたいことが人にはあると気づかないで、お節介にも先回りしてパッパッパとこなしてしまい、相手に劣等感を感じさせ、さか恨みされてしまう人であったりします。


 また、与えてもらうことが、当たり前になり、自分で何をしたいのか、何を言いたいのかを表現しないから、仲間からは、分かりにくい、付き合いにくいと敬遠されている人々も多く見られます。


 これらは周囲の顔色に、逆に鈍感な性格でもあるのです。

 ですから、僕のようにある時期に怖い人と過ごすことは、決して最悪だけではないのです。これを「フラストレーション・トレランス(欲求不満に耐えられる能力)」と呼びます。今、この能力の低下もたくさんの所で見られます。


 授業をボイコットして先生の話を無視する学生。警察の検問にブチ切れ飛びかかる暴走族。上司に悪気なくタメ口で会話する新入社員。チョットした家族旅行で「めんど~っ」と座り込んでしまう子供たち・・・


 今、暴力がテレビでは話題になっています。


 暴力ときびしい指導は違います。無関心と愛情も違います。何より、暴力のパワーで、心からの変化は見られません。人が変化するのは、その指導者の魅力のパワーです。「つべこべ言わずにやれ!」ではなく「あの人の言うことなら」と、やりたくなるような人間性の魅力を持った指導者です。それは言葉のコミュニケーション能力なのです。


 そのことを学ばないで、学校の先生たちが「生徒と熱く関わり過ぎて、パワハラで訴えられでもしたら困るから」と「事なかれ主義」の冷めた雰囲気が、学校にまん延するのではないかと一抹の不安を感じます。


 また、生徒の中にも「あ!これってテレビで話題になっている熱血指導ですよね。パワハラ~ッ。訴えますよ!」と、チョットした注意にも、あげ足を取ってしまう生徒が増えると、より冷めきった先生達が増えるのではないかと心配になります。


 消毒は、 英語でsterilizationで、sterile(ステリル)は、もともと不毛という意味を持っています。ステリルな土地は草木の生えない荒野を表し、ステリルな年とは、凶作を意味します。


 何でも禁止、検閲、管理は、映倫を作り、映画をも切り刻み、黒くマジックで塗りつぶしました。先ごろ亡くなった大島 渚監督も、禁止は「文化を逆に、ゆがめてしまう」と語りました。


 何でも完全に消毒する社会は、マイナスに振子が振ることも多いのです。消毒し過ぎると有益な微生物まで殺菌してしまいます。人間には、空気や水がかけがえのないものと同じように、バイ菌も、かけがえがない環境の一部であることがわかっています。敵もまた味方、毒もまた薬になるのです。


  だから、ヨーロッパで起きた魔女狩りのように、熱い先生までが魔女として処刑される魔女裁判のようなことが学校の現場で起きないことを願います。





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