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Channel: 日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき
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幸せを発見するフィールド

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 僕にアメリカ・インディアンは、この世界は「どんな時も、幸せを発見する」ことを学ぶ場所(フィールド)なのだと教えてくれました。

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 イーグルは獲物を取れなかったことを、いつまでも後悔なんかしないで、悠然と次の獲物を狙って飛び続けます。

 花々は、彼女のほうがお日さまに照らされていて「イイなぁ」と羨むこともない。
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 自然は「どう生きないといけないか」を教えてくれる最高の先生だよとアメリカ・インディアンは語ります。

 自然をよく、よく観察してごらん。

 風の豊かさを知りたければ、タンポポの綿毛(綿帽子)に聞けばいい。

 水の優しさと厳しさを知りたければ、シャケの人生が、それを教えてくれるだろう。

 大地に触れる幸せを知りたければ、ナメクジを真似て、大地を抱きしめればいい。

 変化することの素晴らしさを知りたければ、蝶々のサナギを観察し、木々の色づく葉っぱに訊ねるてみるがよい。

 忍耐の意味を知りたければセミの声が、土の中にいた日々を語ってくれるだろう。

 旅立ちが、成長につながると、渡り鳥を観て覚えなさい。

 変わらない動きの中にこそ、安定があることは、ハチドリが教えてくれる・・・
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 僕の好きな詩に、こんな一説があります。

  To see a World in a Grain of Sand
  And a Heaven in a Wild Flower,
  Hold Infinity in the palm of your hand
  And Eternity in an hour.

  一粒の砂の中に世界をみる
  一本の野の花の中に天国をみる
  つかみなさい 君の手のひらに無限を
  ひとときの中に永遠を・・・


 この詩のように、ひとときの中に永遠を感じることがあります。

 一瞬一瞬の、この瞬間は、もう二度とは戻っては来ない。一生懸命に人を愛して、人と関わった人には、後悔の二文字はないのかもしれません。

 たとえ、勝利しなくても一生懸命にグランドで汗を流したことは、将来のツラさを乗り越える勇気になります。

 商談が成立しなくても、商談のために準備した、仲間との日々はキラキラとした職場の思い出に変わります。

 誰かを心から愛した日の思い出は、愛した者に瞳の輝きを与えます。

 親子関係も、たとえ子どもが親から離れて行っても、子どもがどこかで元気で生きていることに、幸せを感じることが親子愛なのでしょう。

 でも、成功や結婚、恩返しが目的の「ひととき」は、後悔の二文字につながるのかもしれません。その目標に到達しない「ひととき」は、目的思考の人たちにとって意味がないものになってしまいます。

 まるで、オセロが白から黒に一挙に変わるように…
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 聖書でイエス・キリストも「人は食べたもので汚れることはないが、口から出て行く言葉で、その人自身を汚してしまいます」(マタイによる福音書)

 ムダだった、意味がなかった、愛さなければよかった…と言う言葉が思い出を台無しにしてしまいます。

 人は誰でも正義があります。そこから離れた行為は、すべて悪になってしまいます。

 そして、その善悪を絶対化するために仲間を求めます。そして、その口から出た怒りの言葉で、周囲をも怒りの炎で燃やしてしまうのです。本人が冷めても、周囲がそれにまた火をつけて広げてしまいます。

 自分の「正義」に異論を唱える人は 無意識に “敵” になってしまいます。

 その客観的な意見をも攻撃し打ち負かすために、自分の持っている負のエネルギーを総動員してしまうのです。

 その正義の “正当性” が、誰かをも傷つけるかもしれないことに気づかないで…。

 そして、美しかった思い出をも、汚れた出来事にしてしまうのです。

 愛した人や、誰かを攻撃する人を見て、僕はその行為そのものに「悲しみと、淋しさ」を感じてしまいます。

 やっぱり傷つけるよりも、傷つけられたほうが良いのではと…傷つけた側が、誰かを傷つける側になることに虚しさを感じてしまうから。この世界で起こっている争いのように…

 「汚れる」とは「気が枯れる」と言われています。怒りの感情は人を弱らせます。判断力をも歪ませてしまいます。

 そんな時には、大分の禅坊主が教えてくれた「喫茶去」を思い出します。

 これは単純に「まぁ、お茶でも飲みませんか?」と言うような意味です。

 ある時に新入りの修行僧が、偉いお坊さんにたずねました。

 「師の修行の心構えを教えて下さい」

 「お前さんはご飯を食べましたか?」

 「はい、それはいただきました」

 「では、お鉢を洗っておきなさい」

 この師匠の言葉で、新入りの修行僧は「悟り」を開いたと言うのです。

 僕たちは、いつも食事をしていてもアレコレと何かを考えて、食事やお茶を心から楽しんではいません。

 「この後は修行しなければ…」

 「あいつだけは許せない」

 「どうして、この子の成績は上がらないの」

 「今日言われたことは、こちらをバカにしているに違いない」

 イライラしていては、一杯のお茶も楽しめません。一杯のお茶にも、お茶が歴史的に伝わり日本の緑茶が出来るまで、飽くなき茶師の苦労が一杯のお茶の中に脈々と流れています。

 一杯のお茶にも、永遠の時が隠れています。
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 悲しい時や怒っている時は、縁側でお茶でも飲みながら「あんな時代もあったわね」と日向ぼっこしている老賢人のように未来から、今日の自分の思い出を眺めるように客観視して見よう。

 ちなみに「永遠」とは「アイオーン」というギリシャ語で「始まりも終わりもない」という意味です。始まりがあれば、終わりがあります。であるならば「終わらないためには、始めないことなんだ」と感心したことがあります。

 永遠とは「結果がもともとなかった」ことです。

 そう、やっぱり結果なんて「クソくらえ!」です。

 今に生きよ!










そばにいるのに知らないこと…

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 8月も終わり、9月に入りました。
 夏に何したっけ?と思うくらい素っ気なく、もうすでに秋の気配がそこかしこに…

 先日、研究コースの修了式が終わりました。
 全国から総勢508名の卒業生を迎えました。

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たくさんのキラキラした仲間の笑顔に囲まれ、華々しくも凛とした研究コースの卒業生たち。
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 基礎の修了式と違って、研究コースの卒業式は同期生と過ごす時間も長いだけに「大人になって、こんなに素敵な仲間に出逢えるとは!」と誰もが言ってくれる。研究生は仲間の援助があって成りたつので、講師も知らないたくさんのドラマが生まれるようです。
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 今回もカウンセリングの経験を多くのメンバーが振り返って話してくれました。

 東京の受講生である男性教諭は、受講する中で感謝のIメッセージを元同僚の教師である奥さんに伝えたそうです。「いつも美味しいご飯をありがとう。美味しいご飯が食べられるから仕事頑張れるよ。君と結婚してよかった」と…そう言うと奥さんから「…こちらこそありがとう。私も結婚してよかったよ。大丈夫よ」と言ってくれたそうです。でも、この最後に奥さんが言った「大丈夫よ」が気になっていたのです。それのワケを話してくれました。

 交流分析のエゴグラムで、お互いが逆の性格だと知って、奥さんは「お互いに違う性格だから、私たちはうまく補い合ってるのよね…大丈夫よ」またもやこの「大丈夫よ」が気になったそうです。

 絵画療法で、木の絵(バウムテスト)を描いてもらって奥さんに説明したそうです。「紙いっぱいに枝が広がっているから、他人とのかかわりは広く、情緒は安定している。それに、幹が太く、生命力にあふれているようだし、全体的にエネルギーに満ちていて元気いっぱいって感じだね」
「そりゃそうよ。元気だもの!」
「でも、幹の下のほうにコブが二つ。もしかして、小学校の頃、何かショックなことなかった?」
「ぜ~んぜんない」と奥さん。
「そうか、ならいいんだけど。ゴメン役立つことが言えなくて」
「大丈夫よ…」とまたもや「大丈夫よ」がついて来た。

 彼がメンタルに通うようになってから、なぜか奥さんの「大丈夫よ…」と口癖が気になっていたそうです。

 実は、この奥さんの「大丈夫よ」で、彼は救われたことがあるそうです。

 熱血教師に憧れて先生になった彼のクラスに、不良グループの女子生徒がいた。その女子生徒に対して無関心な他の先生に反発を感じながら、彼は自分の信念に基づいて、その女子生徒に真っ向から向き合っていた。ある時のこと不良グループと一緒にいた彼女を、強引に仲間から引き離して家に連れ戻した。
 「卒業することが、君の一番の幸せだ!」と自論を熱く語った、彼は満足していた、彼の憧れた熱血教師に近づいているようで…

 ところが数日後に、その女子生徒の自殺騒ぎが学校で起こる。

 その女子生徒が、校舎の屋上に立ったのです。あわてて屋上に駆け上がる他の先生たちの中で、担任である彼は、ショックのあまり職員室で座り込んでしまったのです。その後、彼は教師としての自信を失って、辞めることしか考えられなくなった時に声をかけてくれたのが元同僚の奥さんだそうです。その時の言葉が「大丈夫よ」だったそうです。

 奥さんは、いつも家では鼻歌を歌いながら、楽しそうに家事をこなし、学校の出来事や生徒とのやり取りを、今そこで起きているように、身振り手振りを交えて話してくれる明るい人だそうです。

 メンタルの研究が最後になって、カウンセリングのレポートを書くために奥さんにクライエント役をお願いした時のことです。

 「研究生だからカウンセリングの練習をしなくちゃ」と言うと…
 「え~~もしかして本当に、あなた心理学の勉強に行っていたの?」と奥さんは心から驚かれたそうです。「私、実は疑っていたの。心理学の勉強と言いながら、本当は、仕事のプレッシャーで悩んで精神科にでも通っているのかと思っていたの」と…

 これで奥さんの付け加えていた「大丈夫よ」の謎が解けました。

 奥さんの「大丈夫よ」は、ご主人に気づかって使っていたのです。出会った頃のように、ご主人が重圧に落ち込んで、メンタルの勉強のことを知らない奥さんは、ご主人がムリして最近、明るく振舞っているのではないかと陰ながら心配していたのです。

 だから、エゴグラム・テストも、木の絵にも、ご主人が心配するような結果にならないように考えて、慎重に答えたりしていたと言うのです…それが分かり、ご夫婦二人は大笑い。

 でも、この話には続きがあります。

 お互いに誤解が解けて、再度奥さんにお願いしてクライエント役を依頼したそうです。

 ゲシュタルト療法の「エンプティ・チェア」をやってみました。

 「目の前の椅子には、君が座っています。君は君の守護霊です。だから、いつも本人を陰ながら見守っています。そして、守護霊だから君のことは誰よりも何でも知っています。今から、守護霊として自分自身に心配していることを言ってあげて下さい」

 「私、この方の守護霊なんですが、守護霊として苦労しています。この人を守ってあげたいと思っているんだけど…『あっ!』と言う間に、この人は行動するので、サポートが間に合わないことが多いんです。不言実行というよりも、発言しながら、もう実行をしているタイプです。だから、失敗も多い。それでも反省しないんだな。また、同じことを繰り返してしまうことが多々あるのです。本当に大変ですよ、この人の守護霊としては…」

 では次に、守護霊として、自分を見ていて「スゴいな!」と思うところを言って応援して下さい。あなたの守護霊は見えないガンバりも、いつも見て知っています。

 「うん。この人は、負けづぎらいなの。だから、自分が辛くても、辛いって言わないの。弱音を吐かないで、やるべきことをキチッとやるまでは、あきらめない。他人に、ああだこうだと言われたり、心配かけたくないの。だから、いつも動いている。けなげだねぇ。かわいいねぇ。だから、私はいつも励ましている。大丈夫よ。いつも私がついているってね」

 奥さんは少し涙ぐみながら「ありがとう。あなた」と言った後、思い出したように、奥さんが教師になった原点を話し出したそうです。

 奥さんが、小学校5年の時に、自分を変えてくれた先生に出会ったこと…両親が共働きで、かまってもらえず、さびしい思いをしていたこと。

 その頃の奥さんは、おとなしく自己主張が出来ない生徒だったこと。ただ、その先生だけはクリスマスや、誕生日には必ず声をかけてくれたこと。そして、奥さんを積極的で明るい性格にする為に、全校発表の代表や、クラス委員にも推薦してくれたのも、その先生でした。次の学年でも、担任は変わらないように配慮してくれたこと。でも、家庭の事情で、奥さんは友達のいない別の学校へ転校してしまったことも。

 それから、しばらくしてその先生が、病気で入院したことを知り、お見舞いに出かけたが、先生の病状がひどく、小学生の奥さんは病室に入ることが許されなかった悲しい思い出も…

 お見舞いから、数日後に、その先生は亡くなられて、その後、その先生の看病をしていた人から、先生は入院の病床の中で、知らない土地に転校して行った女子生徒である奥さんを心配していたと聞きました。「さびしいだろうに、かわいそうに。なんとかならないかね…」と、自分のことのように、うわ言で何度も何度も言っていたそうです。

 それを知った時に奥さんは、先生になることを決心したのだとご主人に語った。

 お世話になり、心配をかけた先生に何かを返したい…だから、自分が明るい先生になり、元気に先生をやることが、天国にいる大好きな先生に見せて安心してもらいたいとご主人である受講生に語ってくれたそうです。

 カウンセリングを通し、奥さんの生き生きした表情を見て、守るべきことが見つかったと、受講生である彼は「奥さんとの日々が幸せだ」と語ってくれました。
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 また、ある大阪の女性の受講生は、お母さんが強迫性の加害恐怖でした。外に出かけるたびに「誰かを、お母さんが殺していない?」「誰かニュースで死んでいない?」「誰かが倒れていないか?」「もし、誰かをお母さんが殺していれば、あなたは学校には行けなくなる」と、いつでもそれを言われたそうです。この加害恐怖のお母さんが納得するまで「死んでいないか?」の確認は続いた。納得いくまでの確認を子どもたちがしないと、子どもにも大きな声を出して怒鳴り、手をあげてしまうのです。

 彼女が育っていく中で、彼女はお母さんが納得するまで、確認をしないと許してくれないので、自分は「~しないと愛されない」条件付きの愛が教え込まれ、自分は「~出来ないから私はダメ」「誰からも愛されない自分はダメな人」と思い込むようになっていったそうです。

 愛するお母さんから、愛されない悲しみは、お母さんに対しての憎悪になり、親に対する愛情は薄れ、彼女は、母は「精神異常者だ」と思うことで納得していたそうです。

 でも、メンタルに通い始めて、過去の見方をチェンジすることを学び、そんな過去があるから心理学に興味を持ち、今は精神科の病院にも働いているのだから良かったと「人生の足らなさ」よりも「人生の足りている」ところにフォーカスをして見るようになると、やがてお母さんへの憎悪は消え、子育ての心理学で「母乳は白い血液だ」と知り、お母さんの中で40週も血を分けてもらったこと。

 生まれてからも、身をけずってずーっと育ててもらったことなどに気づき、それをIメッセージで、お母さんに伝えて、今、自分史上いちばんお母さんと優しい関係になっていると報告をしてくれました。

 彼女がメンタルに通うようになると同時くらいに、お母さんが「もう一度、子育てをしたい…」と言うようになったそうです。それを聞くたびに受講生である彼女は「私のことを失敗作とでも思っているの ‼︎」と悲しくなったそうです。

 メンタルの研究のレポートを書くために、お母さんのカウンセリングを試みたそうです。

 お母さんは「どうして、また子育てしたいと思っているの?」と、一言切り出したら、お母さんは「私が子宮を取ってホルモンバランスが崩れたせいで、加害恐怖の神経症になり、あんた達にイヤな思いをさせたこと、幼い時に甘えさせてあげれなかったし、今になれば、どれだけ、小さい時のかかわりが大切かが、わかるので後悔している…」

 カウンセリングを通して、お母さんはもう一度、新しく子供を育てたいのではなく、もう一度、受講生の彼女を、優しく育ててあげたいのです。

 さらにお母さんはつづけて「もっと早く心理学の勉強をしておけばよかったし、早く治るように精神病院に行ってればよかった。でも精神病院に行くと、変な噂をされて、あんた達の将来をつぶしてしまうのが怖かった」と…

 彼女は、お母さんのカウンセリングを通して、お母さんが姉妹の将来を心配して、独りで孤独に苦しんでいたことを知ったのです。それは、不器用だけど別の形の「愛」だったのです。

 謝るお母さんに、受講生の彼女は「お母さんは何もしてあげてないと言うけど、私はここまで育ててもらったことが充分に愛をもらったと感じてるよ。動物の中で人間の赤ちゃんほど弱い生き物はないんやて。
それを、ミルクをもらって、オムツ替えてくれて産後しんどい思いをしながらあやしてくれた。それは、すごい愛情をくれた証拠じゃないんかな?
 40週間、大事にお腹で育ててもらえたことも、何度も流産しかけたのに守ってくれたこと、お母さんの子宮と引き換えに生かせてもらっている私が今、ここにいることも、そして、その娘も今も笑顔で支えてくれていることも、それが充分過ぎるほどに、お母さんは愛を与え、家族に対して幸せをくれているやないんかな?お母さんどう思う?」

 「そうやなぁ。あんたは、昔みたいに暗い顔をしてないし、お嫁に行っても、いつも遊びにきてくれてる。母さん、母さんって。そうやな、あんたは母さんのこと嫌いじゃないんやなぁ…」と

 彼女はカウンセリングをして気づきましたと語ってくれました。
 このカウンセリングのやり取りで、母は子育ての後悔だけではなく、“こんな私だから娘たちに嫌われているのではないか?”と感じていたのかもしれませんと。私も母に似ていて「出来ない私は嫌われる」という考えの癖(イラショナル・ビリーフ)がありました。

 昔から母の「誰か死んでない?」と言う確認作業を出来ない私は「お前は何も出来へん。お姉ちゃんと全然違って役立たへん」という言葉を小さい頃から抱え、「出来ない私はダメな人間」と思い込んでいました。

 メンタルで勉強した今では、確認作業は出来なくとも、姉に劣っていても、私自身が愛されていないわけではない。また、母自身も過去の子育てに過ちがあっても、今は娘に愛されていないわけではないのです。

 出来ない=愛されない

と言う方程式が母と私にあり、そのことが膿んだ傷のようにジクジクと、にぶく痛み、自分を責め、出来ない自分は嫌われる、劣っていると感じていたのだと、母のカウンセリングを通し、さらに自分にも気づけたことが収穫でしたと語ってくれました。
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 また、ある博多の受講生は、お母さんが「一にも二にも、お金お金、社会的な地位、地位」と言っているのがイヤでした。そして、自分の中にも、その考えがあることが不安でした。

 そして、お母さんのカウンセリングをしてみたのです。彼女のお母さんは子どもの時には裕福な生活だったそうです。でも、医者であった父親が家族を捨てたことで家族はやがて離散し、一転、貧しい生活に変わったそうです。

 そして、お母さんは自分が学校に行けなくても、住み込みをして働き、弟は学校に行かせたこと、お金がある時とない時では、周囲が自分たちを見る目が変わったこと、幼い時から仲良くしていた母の従姉妹が、なに不自由もなく学校に通い自分のなりたかった女医になった時の孤独と嫉妬などを、カウンセリングを通して聴いているうちに、受講生の母がなぜ「学歴」や「地位」にこだわって、自分を育てたのかが理解できたそうです。

 その結果、お母さんの価値観にイライラしなくなり、自分の幼い時からの、なぜか金銭や社会的な名声にこだわる、認知の歪み(イラショナル・ビリーフ)に気づけたそうです。
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 また、名古屋の若い受講生さんは、祖母のカウンセリングをしたと報告をしてくれました。

 おばあちゃんの心にある老いることの不安、最近は耳が遠くなってしまい、空返事してしまう理由などを聞いているうちに、今までは話が伝わらなくて「あーめんどくさ、もういいわ」って言ったり「適当に返事するんじゃねーよ」って思っていた自分を振り返ったそうです。

 また「補聴器もっとるんやで、つけて!」とYouメッセージで言ってきた過去の自分を知り「ごめんねぇ」と、話を聴きながら泣きたい気持ちになったそうです。そして、補聴器が街の中では雑音を拾い過ぎて気分が悪くなったり、電話だと受話器との相性で「ピー」と高い音で出てしまい、外さないと逆に聴きづらいことを聴いて、おばあちゃんが補聴器をつけない理由も共感できたそうです。そして、優しくIメッセージで補聴器のことを伝えると、おばあちゃんが補聴器をつけてくれるようになった変化にも驚いていました。

 そのカウンセリングの時に、お母さんにはお父さんがいる。お兄ちゃんは会社に行けば話す人がいる、でも、家族の中で一番話すのが好きだけど、おじいちゃんが亡くなってからは、みんな仕事で疲れている時には、おばあちゃんの話しを聞き流すか、返事もしないことに気づいて、彼女が話し相手になろうと決心したそうです。

 この受講生と祖母の関係はメンタルに通って良好なので、仏壇に手を合わせて「今が一番楽しいから、もうちょっと迎えに来るのを、まっててねぇ」言っている祖母を見て自分自身も幸せだと報告をしてくれました。
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 また、ある大阪の受講生は頑固なお父さんのカウンセリングを試みたそうです。

 いつもは、怖くて近寄れない父が、仕事が不景気で持ちこたえれない時に、自殺を考えていたこと。親戚が誰も助けてくれなかったこと…それで、保険金を残し家族を守ろうとしたことなどを聴いているうちに、子どもの時から、漠然と感じていた親戚関係とが良好でないことなども理解できたそうです。

 そして、彼女は、人生の時間はいつか終わるタイムバジェットの考え方をお父さんに話し、ABC理論を用いて、過去に囚われずに受け取り方を変え「今」に注意を促すとお父さんが「兄弟仲が悪くなったことで、誰にも頼れないという気持ちで、今まで頑張れたこと、親戚が疎遠のぶんだけ、自分の家族の仲がいいことに幸せを感じて幸せだし、あの景気が最悪の時に逃げ出さなかったから、お客様から信頼される「今」があること」語り出した…

 そして「視点を変えると、気持ちが変わるね」と、お父さんが笑顔で応えるのを見て幸せに感じたそうです。受講生の彼女は、突然に仕事を辞めたお母さんに対して、父親は不満に感じていると思っていました。でも、父親がカウンセリングを通して、語った話しは、お母さんが仕事を手伝ってくれ、色々アイディアを出すことに感心をしていることや、お母さんのお陰で今の仕事がうまく行っていることなど、父から母親への愛の告白も聴けたことが、何よりも嬉しかったと、カウンセリングで報告をしてくれました。


今回はメンタルの卒業式で報告してくれたメンバーのカウンセリングを聴いて灯台もと暗しと言うけれど、そばにいて空気のような身近な家族に対して、カウンセリングを通して客観的に聴いてみると、それぞれに人生があり、それぞれが日常の中で思いを抱えて生きていることを、身近な人ほど知ることなく過ごしているのかもしれません。

 広島の土石流のように、突然、家族の命がなくなると、僕たちは四方1メートルの身近な人のことを知っているのかを考えます。それゆえに、悩める人のカウンセリングだけではなく、僕たちは四方1メートルのカウンセリングを考えるべきかもしれません。

 今回は研究のメンバーにたくさんの気づきをいただきました。
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ありがとう&おめでとう。

~Special Thanks~

※卒業式にご参列頂いた当協会卒業生の外部講師陣(五十音順)

空間心理カウンセラー
 伊藤 勇司 先生

絵本セラピスト協会 代表
 岡田 達信 先生

女性限定セミナー「ポリッシュナビ」主宰
TV番組・コメンテーター
 栫井 利依 先生

日本手相セラピスト協会 代表
 笹田 修司 先生

日本メンタルフィットネス協会 代表
自律訓練・メンタルトレーニング専門家
 下口 雄山 先生

日本読書療法学会 会長
パーソンドセンタードケア 講師
 寺田 真理子 先生

40万部ベストセラーシリーズ「24の物語」著者
 中山 和義 先生

質問家/「魔法の質問」主宰
 マツダミヒロ 先生

名言セラピーシリーズ他・ベストセラー作家
漢字セラピスト
 ひすいこたろう 先生

ホリステックアロマセラピーカレッジ主宰
アロマサロンココサリー主宰
 吉田 洋旺子 先生

アクティブカラー協会 代表
 吉原 峰子 先生








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試乗で分かる5つのポイント、ぜひ実感して下さい。対象期間、9月末日まで。

残酷な正しさ。

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 カール・ロジャース博士は「カウンセラーは正そうとする前に、相手と寄り添わないといけない」と、カウンセラーの卵たちによく語っていました。

 正しさは時に残酷なものです。

 ある先生が「生徒と話し合って決めたことなのに、いっこうに行動をしない」とタメ息をついて嘆いていました。
 先生の言い分はこうです「生徒と対面で、話し合ったし、相手の話しも〝聞いた″ しっかりカウンセリングしたのに生徒自身は変わらない」

 「どんなふうに聴いたのですか?」と僕が質問すると。

 先生「自分で勉強がわかったら楽しいだろう」
 生徒「はい、楽しいと思います」
 先生「だったら、少しでも、前に前に向かって勉強していくしかないだろ」
 生徒「はい、やるしかないです」
 先生「自分自身で勉強が分かり出したら、面白いだろ」
 生徒「面白いです」
 先生「だったら、自分で勉強がわかるようになるまでやるしかないな」
 生徒「やるしかないです」
 先生「じゃ、やるんだぞ」
 生徒「はい、やります」

 このような会話で先生は話し合いが「成功」したと思ってしまったのです。でも、実際に、生徒はそれからも積極的に行動しないというのです。そうなのです。これは会話ではなく正しさの押し売りです。

 人は正論を言われれば「はい、そうですね」としか言えません。でも、それが出来ないから人は悩んでいるのです。その心を〝聴く″のがカウンセリングです。会話は正しさだけを押し付けて、自分としては「聞いた」と多くの人は思っています。

 会社でも
 「売り上げを伸ばしたいだろう!」「目標は知っているだろ⁈ だったら、その目標に向かってやるしかないな!」
 「部下の指導は大切じゃないか!」

 家庭でも
 「家のこと、子どものことを考えたら、もう少し早く帰ってこないとね」「俺は仕事をして収入を稼がなければいけないのは知っているな」
 「家にいる時間は、君のほうが多いのだから、子どものことをシッカリ躾けないと…」

 職場でも、家庭でも、一つ一つの会話は「はい、そのとおりです」としか言いようがないのです。

 でも、人は「理動」と言う言葉がないように、人は心で動く「感動」の存在です。だから、正しさで押し切られると「おっしゃるとおりです…」と言うしかない。でも「あなたには私のことは分からない」と、心がポツリと後で置いてきぼりになってしまいます。

 先日も講座後の食事会で「職場の若い女性が、親に仕送りをしているのです」とある女性が話していた。

 「今時、立派ですね」と僕。

 「違いますよ。お金を親が求めるからです。だから、彼女は親に『NO!』と言えなくてお金を与えてしまう」

 「そうなんですか」

 「だから、私は『もう、与えたらダメ』と言っているんです。でも、与えちゃって…」
 「私も過去に、そういうコトがあったから、よくわかるの !」
 「その娘は、リストカットもしてるみたいで手首に切り傷後がいっぱで…」
 「会社側も、彼女がお金を与えないように、会社で積み立てを始めたのです。でも、彼女は親に与えるから少ししか参加していなくて…」
 「ある仲間が、『あの娘に恋人でも出来たら、その恋人にエネルギーが行って、親にお金をあたえなくなるのよ』と、皆と笑っていたんですけどね」

 と、その彼女の先輩である受講生は教えてくれた。

 「そうか、彼女の周囲には味方がいないんだなぁ」
 「いや、皆で心配しているんですから私たちは味方です」

 「あ、ごめんなさい。そういう意味の味方ではなくて。彼女は周囲に言われなくても『お金なんか与え続けても意味がないし、親をダメにするだけ』と悲しいくらい知っているのだと思いますよ。
それでもやっぱり親に愛されたくて、ついついお金を出してしまう。充分に、バカなことだとわかっていても、やってしまう自分がイヤで、情けなくてリストカットをやるんでしょうから…。もし、彼女のリストカットだけでも止めさせたいなら、味方になるしかないかなぁ」
 「味方って⁈」

 「ダメだと判っていても、親にお金を与えるなんて、偉いね」「あなたは優しい」って。
 「わかっていても、与えてしまうほど、親に嫌われたくないんだよね」
 「お金を与えないと、安心して眠れないんだね」って、

 「皆で『間違っている!』と責めないで理想どおりに出来ない彼女を受け入れてもらえませんか?」と僕は、理想と現実の狭間で苦しむ女性の先輩にあたる受講生にお願いしていました。

 そうすれば少なくともリストカットは治まるずだから…

 味方だと言いながら、彼女が自分自身を責め続ける材料になる「正論」を与える応援だけはしないでほしいのです。周囲の応援が、彼女を孤立に追いやる可能性だってあるのですから…

 「あなたの為は、裏側は、自分の正しさの為」だったりする。

 人って「こんな恋を続けても意味がない」それを誰に言われなくても、本人が分かっている。
 「勉強したほうが良い」子どもたちも解っている。
 「目標の到達」は社員の誰もが知っている。
 「勝つ気でやれ!」も、練習に明け暮れたチームのメンバーも死ぬほど分かっている。
 「主婦なんだから家事をシッカリしなきゃ!」は奥さんが一番その正しさで自分を苦しめている。

 でも、正論のようにはできない人の、心の悲しみに寄り添えるのがカウンセラーだと、僕は思っています。

 それが味方になるってことなのです。

 心の扉はノブが内側にしか付いてはいない。だから、真正面からの正攻法では、相手は心の扉を開いてはくれません。

 だからこそ、味方になるしかないんだなぁ…人って。

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裏切られた人のほうが…

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 あるスポーツコーチが落ち込んでいました。

 育てた選手が、他のチームに移籍したと言うのです。
 そのコーチが思い出すことは、自信のない彼を激励し、指導し、飯を食わせ、試合のチャンスを与え、いつも笑顔で援助した日々だという。

 彼は深く嘆いていました。

 「人はなぜ、裏切るのか?」

 経営者やリーダーで、誰かに裏切られて傷ついたことの経験のない人はいないかもしれません。

 どんな武将も、英雄も、誰かに裏切られ、多かれ少なかれ、傷ついた傷跡が「人望」ある人には勲章のように後で輝くものです。

 いや、小さな部下の誤魔化しまでも、裏切りとしてカウントするならば、それを指摘するか、観て見ぬフリをするかは別にして、人の上に立つ者は、その裏切りに遭遇することは日常茶飯事かもしれません。

 「いや、それがリーダーの仕事だ!」と言った腹の座った経営者もおられました。

 人は、育ててもらい、期待され、チャンスをもらい、フォローされ続けた大切な存在を裏切ってしまう、イエス・キリストを裏切った、イスカリオテのユダのような悲しい役割しかできない人は、世の中には掃いて捨てるほど存在しています。

 ですから、人は人を裏切る存在なのかもしれません。

 それは誤解です。もっと正確にハッキリ言えってしまえば、実力のない人が、人を裏切るのです。力がないから、より多くの人を裏切るという結果になってしまうのです。

 その人の実力のなさ、弱い心が誰かを裏切ることでしか、自分の存在を誇示することができないのです。

 誰かの力で世に出、相手の力を利用して成功をおさめ、その相手の存在を自分の人生の中から消し去りたいと思う心が、自分の今ある成功の世界にだけ逃げ込み、恩を忘れ、育てた存在を無視しようとする逃避の心になるのです。

 人はそれを「裏切り!」と呼びます。

 その不遜な行為は、相手への羨望と嫉妬の心理が、その心の奥底には隠れています。

 力がない存在だから、その人と離れておくことで、自らの心にある羨望や嫉妬心から逃れていたいのです。

 それを先の経営者のように「まぁ人間は、そういう弱い存在なのだからしょうがない。上に立つ者は、背信に見舞われ、裏切りに遭遇する日々が業務です」と、言ってのける豪胆な人になるか、
「もう、誰も人なんか信じない。人を育てない、任せない」と虚無主義におちいるかは、上に立つ者の器(人望力)が試される瞬間かもしれません。

 どちらにしても、人を裏切る側になるか、裏切られる側になるかで問われるなら、嫉妬と羨望をされた「裏切られた側」のほうが、ずーっと快晴の人生が送れるのは明白です。

 あなたは信じてきた人の裏切りに「絶対に許せない!」と徹底的に攻撃するのか、「信じてきたアイツがやったのなら、人生の中で余程のことがあったのだろう」と許容する人になるかは、その人の真なる人望力が問われることになります。

 あなたはどちらですか?

 いやいや、そんな誰かに裏切られたら…と考えるよりも、僕自身が、知らず知らずのうちに、無自覚にも、自分よりも優れた能力のある人を裏切ってはいないか?
 誰かへの恩を忘れてはいないか?を、自己チェックすることのほうが、それこそ大切な自己成長につながりますね。

 やはり人の生き方をあれこれ言うよりも、自分の生き方をしっかりと素敵にデザインするほうが、はるかに大切なのですよ。

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「ありのまま」と「わがまま」をはき違えるな!

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 ハロウィーンの季節になりました。

 日本でも変装しながら、街を歩いている姿が見うけられます。

 変装は、いつもと違う自分になれるので、固まった自分の仮面「枠」をハズすには良いチャンスになるようです。

 サッカーの応援で、フェイスにペインティングし、華やかな衣装をまとって、大きな声を出している人の中には、日々の生活では気の小さい商店のオジさんである場合があります。

 日本は世界に比べて、酔っぱらいには比較的に寛大な文化です。
 「酔った席での事だから…」と受け入れてもらうことが多いようです。そんな寛容な社会に味をしめ、人の迷惑も省みないで、お酒を飲むことでしか、自分を解放できなくなっている人がいます。やがて、酒乱からアルコール依存に進むと「酔った席でのこと」では済まされなくなります。

 もちろん、心を解放する非日常は楽しいのです。

 僕たちは日頃、仮面(ペルソナ)をかぶって生きています。

 上司の仮面、先生の仮面、よい子の仮面、警察官の仮面など…

 なぜなら、いつも周囲から期待される仮面つけて演じている人は、責任感のある素晴らしい人と評価されるからです。

 でも、それが強くなり過ぎてムリをすると「ムリしている自分の心」が、反乱を起こすこともあります。

 そして、体が反応して、パニック障害、不眠と言った心身症になったり、自分の役割の限界を超えてしまって、何もかも放り出し突然に蒸発したり、今までのイメージを崩壊するくらいのキレかたをしたりと、社会的に不適応な事件を起こしかねません。

 だから、人は非日常の「祭りタイム」が必要なのです。

 自分の社会的な役割をハズし「役割の枠」(~かくあるべき)から離れて、ストレスを解放する瞬間が必要になります。

 ですから、世界中にお祭りがあります!

 役割の枠(ペルソナ)内で、生きる日常を卦(ケ)の日といいます。そして、役割をハズれて自由で囚われない非日常を、晴れの日といいます。なので、特別に自分を解放する瞬間の時を「晴れ舞台」と呼び、その特別な日に着る着物を「晴れ着」と呼びます。

 そして、その自由な祭りの時間を過ごし、僕たちは社会の期待に応える日常(卦の日)に戻り、生活を新たに始動するのです。

 そう、遊んだあとには、期待に応える自分をしっかりと演じるのです。それが大人のバランス能力です。

 「ありのままの私になるの~」この夏に流行った「アナと雪の女王」の主題歌です。

 エルサ王女は、雪の女王であるパワーを抑え、部屋に閉じこもって生きていました。それは、必要以上に抑え込んだ「枠」をつけて生活していたので、彼女は苦しかったのです。その彼女が、お城から飛び出し、自由を手に入れたから、あの「アナ雪の歌」は開放の歌になります。

 でも、個人が自由に生きると、誰かの不自由になりかねません。だから、映画では、町は雪と氷でおおわれてしまいました。

 人は自分の「ありのまま」だけを追求すると、誰かを困らせます。

 〈それは『ありのまま』ではなく『わがまま』です〉

 論語に「心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こえ)ず」という言葉があります。

 心のワクワクすることだけに生きると、普通は「身勝手だ!」とか「わがまま」だと、周囲から批判されますが、テニス大好きな少年がウインブルドンで活躍し、多くの人に夢を与えると、その自由は誰かの幸せにつながります。だから、それは心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えずです。でも、テニスが好きだから「テニスだけをする!」と、仕事や家庭も放り出して、家庭の生活を不幸にしてテニスに没頭すれば、それは、矩(のり)を踰(こ)えています。それは「わがまま」です。

 人の話を聴かないで、「チョッと聴いて!」とばかり、自分の言いたいことだけを、しゃべり続ける人がいます。多くの人に話すチャンスを与えないで、自分の言いたいことをまくし立て、誰かの迷惑になったり、周囲が話す機会を失わせていたら、それは「わがままな、おしゃべり!」です。逆に、語りたいことを語っていても、誰からも、その話「もっと聴きたい!」と思ってもらえるなら、それは素晴らしい語り部(ストーリーテラー)の登場です。

 ですから、自分の好きなことをする。それが誰かに喜んでもらえるなら、それは立派な「仕事」になります。

 「アナと雪の女王」のエルサ王女は、自由を謳歌し、ワガママを乗り越え、やがて彼女はバランスを回復してゆきます。そう、女王として「国民の幸せを守るために能力を使う」というバランスのよい新しい「枠」を持って生きるようになります。

 自分の「ありのまま」で、なおかつ、町の人が喜んで生きられるようになる。だから、あの物語はハッピーエンドになるのです。

 ですから、人生は「ありのまま」に生きて行くのは良いのです。でも、それが人の迷惑になる「わがまま」にならないかを考えないとなりません。そして「ありのままに生きる!」と言って、自分の役割の努力も、我慢もしないで、自分の役割(上司・先生・夫・部下・生徒etc.)を無視して自由に生きるのは幼児性です。心理的に子どもなのです。

 怒りたいから怒った、休みたいから休んだ、傷つけられたから傷つけた! それは、子どもなのです。

 苦しんだ後の解放は、人の成長につながりますが、努力も我慢もなく、何もかも投げ出して「ありのままの私になるの~」はアホです。「オマエは、ありのままではいけない!」とツッコミたくなります。

 今週、ハロウィーンの仮装は大いに結構、でも、人の迷惑になるような意味のない奇声や傍若無人な振る舞いは、それは誰かの迷惑になるかもしれません。そんな酒の席でのバランスを考えて、社会的に容認可能範囲の晴れ時間を大人は持ちたいものですね。


 と、子どものような僕が語りました。へへへへ…(笑)










幸せの練習帳。

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 「愛は時間をたつのを忘れさせ、時間は愛を薄れさせる」とドイツの格言にあるように、愛の持続性は難しく、愛の半減期は早いのかもしれません。

 話せるだけでも幸せだったのが、次に逢えないとイラだち、電話がないと攻撃し、プレゼントや記念日を忘れると愛が冷めたと落ち込んでしまいます。

 子育ても、無事に生まれて、五体満足であればと願います。やがて、はえば立て、立てが歩め、そして、次には走れ、やがて、かけっこで一番になれ~!

 仕事も、人生も、僕たちは「もっと、もっと病」です。

 これを心理学では「順応水準の原理」と呼びます。

 テレビも、カラーになり、ハイビジョンになり、プラズマになり、3Dになると以前の状態では楽しめなくなります。そして、以前の水準では満足できなくなるようです。

 スピードが増す時代の中で、立ち止まって考えてみることが大切です。牛は胃と口で何度も「反芻(はんすう)」して消化します。

 ランニング・マシーンに乗って走っている人生から、すこし横に降りて、僕たちは人生の時間を「反芻」して、人生を味わうことが大切です。

《反芻》

 家で寝そべりながら、屋根のある部屋にいることの幸せ。
 歩く時も、ゆっくり歩きながら、すれ違う人の中にも人生があり、心があり、未来どこかで出会う存在なのかもしれない幸せ。
 生活のあわただしさの中にも、変わらない平和な日常がある幸せ。そして、今日は二度と戻らない一日、その愛おしさを抱きしめる時間の幸せ。
 食べている時に、今日も食にありつける幸せ。
 仕事のある幸せ。友だちがいる幸せ。
 いろいろ生きることに疑問があっても、それをこれから解いていける幸せ。
 地球が、今日も複雑な計算式以上の正確さで自転している幸せ。
 吸えば目の前に空気がある幸せ。
 片思いにせよ、両思いにせよ、愛することの幸せ。まだ、そんな愛する人がいないなら、これから出会うかもしれない幸せ。
 「そんな愛する人が出て来なきゃどうしょう⁉︎」と思っている、そこのあなた! それだけ未来が分からないほどに、可能性の世界に生きている幸せ。あれこれ考える頭が機能している幸せ。
 その愛する大切な人が旅立ったのなら、また、どこかの世界で巡り会えるかも⁉︎ と想像できる幸せ。
 看病をする幸せ。怒る幸せ。泣くことのできる幸せ。さよならを言える幸せ。
 そんな、人生のガヤガヤに五感が ふるえる幸せ。


 こんなに僕たちのそばには幸せが落ちている。そんな、立ち止まる時間が、心をリセットしてくれます。

《 告知 》
 一枚の絵には、切り取られた優しい時間が落ちています。そんなことを感じさせる、僕の好きな作家、内田新哉さんの水彩画展が青山のセントグレース大聖堂の真ん前にある東京青山コンセプト21で、先週の木曜日から今週の水曜日5日まで開催しています。東京の人は、そんな幸せな時間を探しに立ち寄ってみて下さい。

新哉




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温もりは、どちらから…

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 飛行機の最終便。

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 残された便だけを待つ飛行場は、とても静かな場所に変わってしまいます。
 途中に通過するだけの搭乗口は、多くの人を見送り、そして出迎え、一日のあわただしい役割を終え、シーンと静かに休息に入っている。
 最終便に向かうムービングウォークだけが「まだ、大丈夫ですよ」と安心感を与えるように静かに搭乗口に導いてくれる。
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 搭乗口では、遊び疲れた若者や、仕事を終えて家路に向かうビジネスマン。朝の搭乗口とは違って、目的地に着いても休息するしかないからなのか、旅立ちにしては脱力感の漂ようツーリストたちが、静かに搭乗の時を待つ。

 「お姉ちゃんこれに乗るの?」「そう、この飛行機に乗るのよ」と会話しながら、幼い少女と20代前半くらいの女性が、待ち合いロビーのイスに座った。

 「親子じゃない⁉︎」と僕。

 女性は「お姉ちゃんがいるから大丈夫だからね」と、少女を勇気づけながら、自分自身の不安感にも「大丈夫だよ」といい聞かせているように僕には聞こえた。

 搭乗のボーディングブリッジで少女は、お姉ちゃんの手をシッカリと握って歩く、絶対に置いてきぼりにされないように。少女の片方の手に抱かれている縫いぐるみの手が揺れている。少女が縫いぐるみに「一緒に行くよ!」と手を引いて行くように、自分がお姉さんに導かれているのと同じような姿で…
 それが、何とも可愛くて…

 機内では通路をはさんで、2人と偶然に同じ列番号の席に座った。僕は、本を読みながらも、時折、母ではない女性が、少女に毛布をかけたり、少女のモニターを操作してあげたりと、立派なお母さんぶりで、気遣っていることに「ホッと」しながら…

 僕が読書に入り込んでいると、飛行機は目的地に到着。

 降りる頃には、少女は眠たくなったのか女性を抱きしめるように、抱っこされている。
 そう、まさに、「抱きしめるように、抱っこされている」というのがピッタリなのです。
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 思い出しました…子どもを抱く時の、あの安心感。

 ふと、子どもから「抱きしめられる」ような一生懸命さで、こちらを幼い子どもが抱きしめてくれると「この子をどんなことがあっても守って行く ‼︎」と自ずからの中に力がみなぎる不思議な感覚。 
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 その光景を見て思い出しました、あの懐かしい感覚…

 もう、僕は子供たちを抱きしめて移動する時期は、過ぎ去ってしまったけれど、その光景を見てて「羨ましくて、羨ましくて」身体に残る子どもたちの温もりを思い出しました。

 僕の周囲には、まだ、その季節を過ごしているメンバーがたくさんいます。だから「今、ここ」の温もりを、楽しんで欲しいと願っています。その温もりが思い出に変わる前に…

 女性が少女を抱きしめているのか、少女に女性が抱きしめられているのか、お互いに不安なフライトは、お互いを抱きしめ合いながら無事に終わりました。
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 到着ロビーに出ると、少女の両親が女性に「ご苦労さま、ありがとう。疲れたでしょう!」「大丈夫です。いい子だから」と彼女。
 また一歩、その女性は、大人になる準備を、母になる自信をもらったようでした。

 頼っていた自分が、誰かに頼られることで強くなれる。

 大人の階段は、そんなバトンを渡すリレーのようなものかもしれません。
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自分星。

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 冬の到来がいよいよ本格的になったなぁと思ったら、暦も12月になっていました。11月は仕事に追われる日々を過ごし、気がつけば、本当に師走に…「師走」の意味には諸説いろいろありますが、師が走ると書くぐらい一年の締めに、すべての人があわただしい時期なのでしょうね。


 でも、そんな時季に救われるのは、夜空の空気が澄んでいてキレイなこと。
 
 夜空と言えば、アリゾナのネィテブ・アメリカンの地で見た星が忘れられない。砂漠の中では、横に星空が見える。そう、アリゾナの大地では、立ったまま横に星空が見える。日本では、星空は頭の上にあると思っている。でも、見わたすくらいの広い大地では、星は横にも見わたすことができるのです。
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 そして、冬は空気が乾燥しているから星もとてもクリアに見えるのです。

 夜空に光る、小さな星にも寿命があります。

 そして、その星の寿命の最後にある超新星爆発で創り出された粒子で僕たちが住む母なる地球は造られています。その中に存在する、人びとも、その粒子で身体ができています。人間にだけ存在する独特な粒子はなく、僕たちは宇宙の星々と同じ粒子で作られているのです。そう僕たちは母なる大地の星の子ども達なのです。
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 そして人間の脳の中にニューロンという神経細胞が走っています。そこを電気のパルスが走る時、頭の中に星座が輝いているように見えるといいます。脳の中に小さなカメラを納めることが可能であれば、頭の中にも星座が見えるのです。

 誰かのことを考えると、その誰かの記憶は、頭の中で同じニューロンを電気パルスが通るので、結合部のシナプスが星座のように輝く。ですから、誰かの頭の中にはカウンセラー、エトウ星座が輝いているのです!

 自分自身が、誰かの心にどんな星座として存在しているのか?
 どんな笑顔星座か、怖い顔星座か。
 優しい声星座か、イラだった声星座か。
 ステキな思い出星座か、悲しい思い出星座か。
 あなたの存在は、輝いている星座なのか、くすんだ星座なのか。

 誰かの星座を思い出すと、幸せになるのか、不幸になるのか?

 誰かの心に燦然と輝く星座でありたいものですね。
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狭い世界と広い世界!

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 もうすぐクリスマスです。


 アメリカでの生活には車が必要でした。通学で必要なのでユーズドカーだけど、白いダッジのイントレピッドが当時の愛車でした。
 ある時に少しスラム街に用事があって、ほんの少しだけ愛車を停車したら、真横一直線にコインで横にキズをつけられた。ガーン( ̄◇ ̄;)
 「なんで⁈」怒り心頭!


 アパートに帰った時に、訪ねて来た先輩に事の次第を説明した。


 サイコセラピストで先輩の彼は「ノブ、君はこの出来事が納得できないようだね」僕は「理解できないなぜ、こんな他人の車を傷つけて楽しいのだろう。クレージーだ!」彼は「僕にも理解できない。なぜこんなことをして楽しいのかを ⁈ 」


 でも彼はこう続けた。


 「ノブよかったなぁ。俺たちは車を傷つけて楽しい人の気持ちが分からない側で生まれ、育ち、今にいたる。この車を傷つけた人間は、他人の車を傷つけることでしか、楽しみを見いだせないんだ。どちら側で生きている方が幸せだと思う?」
 僕はふてくされ気味で「傷つけられる側…」
 そして「君が何か努力をしたから、こちら側でいるのだと思う?」
 「????…」


 彼は続けた「そう君はluckyだったんだよ。ステキな色んな人に出会い、色んなこと学び、そして、今、そんな(人を傷つける)ことが、楽しいと思えない(天国)側にいる。この車を傷つけた人間が、あちら(地獄)側を引き受けてくれたから、今ここに君が存在しているんだ!暗闇がないと光の価値がわからないだろ。この犯人が、そちらを引き受けて生きている。だから君はluckyなんだよ」

 「この悲しい側で生きている者の為に祈ろう!僕たちが、これからもこちら側で生きていられる為に! ハレルヤ! 」


 この時にクリスチャンであった先輩を見て「クリスチャンってスゲー」て度肝を抜かされました。


 世界は広いです。


 僕の親友であり、EQ英会話代表であり、さらに メンタルの心理カウンセラーのライセンスを持つ本城武則氏を紹介します。本編は登録が必要です。
https://www.youtube.com/watch?v=vyn_WnPg2oE







それぞれの旅立ちEpisode①

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アメンバー限定公開記事です。

それぞれの旅立ちEpisode②

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アメンバー限定公開記事です。

獅子よ、千尋の谷から登って来い!

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 初夢を見ました。

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 元旦に父と電話をしたからなのか、その父が登場する夢でした。


 なぜだか不思議な夢…


 昔のことを父が謝罪してくれるのです。


 僕としては、それは過去の事なのだし、振り返ってみると、それぞれの過去にあったツラいことも、悲しかったことも存在したから、今の僕があるのだから何も気にしなくていい、と一生懸命に父をなだめている夢でした。


 人間は叩かれたり、淋しい思いをしたことは憶えているけれど、抱かれたことや、愛されたことは忘れやすいものだよ…父さん…


 それに、カウンセリングをしていると、人間関係が上手くいかない人達は、逆に親に保護され、すべてのストレスを、親が先回りして取り去った過保護な親が多いのも事実なんだよ。


 僕なんかは、親の顔色をうかがって育った分だけ、人の気持ちが変化することや、多少なりとも気をつかうスベを身につけてこられたのは、父さんのお陰だと思っているんだから…それは、今の仕事にも、人間関係にもね…役立って、と逆に父を落ち込ませないように一生懸命に熱弁をふるっている夢でした。


 カウンセリングで受容、受容と言うけれど、親が自分の子どもとの衝突を避け、聞き分けの良い親の仮面をかぶって、社会の厳しさを教えない家庭の中に、コミュニケーションに問題がある身勝手な人格が多く見られるけど、その点、父さんは社会は厳しいものだし、子どもに嫌われても、世間の目にビクともせず、子どもを突き放すことで、自分自身で責任を持って生きなきゃ、誰も人は優しくなんかはしてはくれないこと、人の集う社会の中で、己自身が社会から必要とされ、好かれるような人格にデザインしないと、社会は誰も自分になんか見向きもしないで通り過ぎてゆくことや、誰も相手にもしてくれないことを、人生の早期に、厳しさの中で教えてくれたじゃないか!

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 それは、社会というジャングルでのサバイバル教育を教えてくれたんだよ。それが今の僕を作ったんだよと…


 だから、父さんのように父性的な厳しさも、生きる上で存在しなきゃダメなんだよ…と。


 自分で転んでおいて「ママがしっかり僕の手を握っていなかったから、僕は転けたんだ!」と、誰かに責任転換をする母性時代の中で、「テメエが転けたんだ、自分で立て!」とシッカリ突き放す、父性的な厳しい、優しさも時には必要なんだよ!と、最後は、自分自身に言い聞かせるように語っていました。


 その時には、すでに父の姿は夢の中にはなく、「これからのカギは環境に負けない強さなんだよ」と、まどろみの中で確信していました。

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 この初夢には意味があるようです。


 上司が、親が、愛する人が、お金が、地位が、ネットワークが、経済が、会社が、そのように「置かれている環境」が、人を幸せに向かわせないのではなく、自分がその満ち足りない人生の中で、どれだけ楽しみを探し出し、人生の中でどれだけ強くなれるのかが、人生の未来を分けそうです。


 「父性的な自己責任」が、今年のカウンセリングのテーマになりそうな予感がしました。


 もちろん、予感です…


 すでに自己責任から逃げてる…ん、ん~矛盾(~_~;)








パワースポットになるために!

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 成人式がありました。

 大人になることは、甘えられる存在から卒業をすること。世界の中では、そういう儀式です。

 インディアンの儀式の中には、山に独りで入り、孤独の中で「自分がどういう存在で、自分にはどんな使命があるのか? 」を、自然界に訊ねるビジョン・ク エストという儀式があります。
 世界には、たくさんの通過儀礼があります。アリの巣に放り込まれて痛みに耐えたり、どう猛な動物と独りで戦うことで一人前と認められたり、バンジージャンプも、元は恐怖を克服するための成人式でした。

 我が国、日本の成人式をふり返ると、七五三のように、親に多額の衣装を用意させ、お酒が解禁されたと大騒ぎする若者も少なくありません。こう書いているのは「今の若い者は…」という、お説教をしたいわけではありません。僕自身の時代を省みても、それほど大差はないからです。

 これは新成人の若者側に問題があるのではなく、成人式の本来の意味を問い直そうとしない大人たちや、社会に問題があるからです。
 成人式として、国として祝ってあげても、大人になる意味を、それぞれの家庭で大人達が、一人ひとりの目を見て語る必要があるのでしょう。

 僕は「何かをもらうパワースポットに行くよりも、自分自身が歩くパワースポットになって、誰かにエネルギーを与える側になろう!」と講座で話してきました。

 僕自身が「すごいなぁ」と思い、時より話題にする「歩くパワースポット」の一人が博多に居ます。
 前にもこのブログで紹介したことのある、JR博多駅、警察の木林さん。
 博多駅のコンコースで、大きく優しい声で「気をつけて行ってらっしゃい!」「お仕事、ご苦労さまです!」 帰宅時には「気をつけてお帰りなさい!」「お疲れさまでした!」1日9時間も脚立の上に立って声をかけるのだそうです。僕が通ると憶えてくれていて「エトウ先生、こんにちは!」と声をかけてくださる。

 その木林さんに、憧れた女子大生のことが新聞に紹介されていました。

 その女子大生は、高校時代にひき逃げ事故に遭い、すぐに警察が容疑者を特定し、検挙してくれたそうです。その時の警察官の人たちが頼もしかったので、警察官になることが彼女の夢になりました。

 電車内で痴漢に遭った時も、悔しさと怖さで涙が止まらない彼女の話を聴いてくれて、そんな彼女の悔しい思いに共感し「次の被害者が出ないように!」とパトロールに飛び出して行く警察官の後ろ姿に、彼女の警察官になる憧れはさらに強くなりました。

 でも、女性である自分が「どんな警察官になれるのだろうか?」と不安に思っていた二十歳の時に、博多駅のコンコースで、多くの人に無視されても一人ひとりに、大きな声で挨拶を続ける木林さんに出会った。挨拶した子どもに「ステキな挨拶だね」と脚立から降りて頭をなぜていたり、通行人から「お疲れさま」とアメを差し出されると「ありがとう。いただきます!」と差し入れを笑って気さくに受け入れる。誰に対しても、抵抗も、かまえもない姿を不思議に思ったそうです。今までの強い警察官ではないイメージに…

 思い切って木林さんに声をかけた。「なぜ、挨拶をしているのですか?」木林さんは笑顔で「平和な世の中を目指しているからですよ」挨拶が、平和な社会?と彼女はその答えに驚いた。
 
 木林さんは彼女にこう続けた。「挨拶は人の心を穏やかにするのです。挨拶された人が挨拶を誰かに返す。その嬉しさを、また、別の人に返す。そうすることで、みんなが明るい気持ちになれば、犯罪のない社会につながると…」

 その成人の時に出会った、木林さんがモデルになり、彼女は13.4倍の狭き門を突破して、晴れて女性の警察官になれました。

 そのことを憧れの先輩・木林さんに報告するために博多駅のコンコースに出かけた。そして、彼女は「力強い警察官ではなく、人に元気と安心感を与えられる警察官になります」と宣言しました。それに対して木林さんは「原点を忘れず、頑張って。私も第一線で待っていますから」と激励したそうです。(西日本新聞より)

 僕たち大人達が、何を新成人に伝えられるか、人生の先輩として、誰かの憧れる1日に今日もしたいものです。

 さぁ、胸を正し、笑顔で「行ってらっしゃい!」歩くパワースポットになるために!




「平凡」という荒波⁈

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 今年はスタッフの結婚ラッシュです。

 ステキな瞬間が続きます!


 自分自身の時もそうだったけど、準備する二人も、それを応援するメンバーも、産みの苦しみと同じで、その華やかな瞬間に照準を合わせ、苦労して準備するからこそ、その瞬間の感動はひとしおです。

 僕の愛する仲間だからこそ大切にして欲しいことがあります。それは、サプライズなプロポーズよりも、趣向をこらした結婚式よりも難しいこと、それは日常生活を心を込めて生きることです。

 今ほど、人に見られることを意識する時代はありません。美味しいものを食べると写真を撮り、ステキな時間をブログやフェイスブックに投稿し、見てもらう時代です。

 でも、平凡な日常をしっかり噛みしめながら生きることこそ尊いものです。結婚で大切なことは、火花のような瞬発力ではなく、持続力なのです。

  「結婚」とは、安全な航路が、未だに、発見出来ない荒海であると、ハイネは言いました。

 そうなのです。誰もがこうすれば結婚が成功するという解説本があって、指南書通りに過ごしたとしても、悲しい結末を迎えることがあります。誰もが「この人だ!」と思って、結婚という航海に出る。

 しかし、現代の離婚率からみても、荒海であることには間違いない。

 だから、結婚前にサプライズなこと、興奮することが続くと、結婚後の生活も、こんなアドレナリン系の日々が続くのだと夢見て、結婚という航海をスタートさせると、二人の航路は「単調」という大波で難破してしまいかねません。

 記念日、出産、家族旅行、贅沢なディナーはステキな事だし、刺激になることは間違いありません。

 でも、大切なことは、日常の質素な食事中の会話であったり、リビングの何気ない風景であったり、眠った誰かに毛布をかけたり、寒くないように部屋を暖めたり、誰かの為にトイレのペーパーを換えることを、思いを込めてすることなのです。

 祭りの後に来る日常をしっかり生きることです。それは、誰かにアピールする瞬間でもなく、これと言って特筆すべきことではない景色が続きます。

 それが、結婚という荒波に漕ぎ出す心構えなのだと思います。

 そして、すべての人がこの世を去る時が訪れます。その時に、その何気ない日常が、何よりも愛おしい日々だったと気づくことになるのでしょう。

 新たな船出に旅立つ仲間が、いろいろな荒波であってもステキな場所にたどり着けることを、僕は心から信じています。

 「いろいろ」を楽しんで下さい!










生きる事が苦しいと戦っている君へ

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 生きる事は戦うことじゃない、ただ、信じてほしい。何を信じるのかって「未来」「成功」「裏切らない誰か」…違う、違います。
 自分の身体を信じてほしいのです、自分の60兆の細胞を、身体という自分の味方の存在を信じてほしい!

 今日、君が食べた母なる大地の贈り物は、すべて君の身体に吸収され、明日も君が決して孤独にならないように準備をしています。

 君が望むものを自分のそばに近づけられるように、手の細胞は栄養をとり込んで、この瞬間も明日の準備にはいっています。明日、君が水が飲みたいと思った時に、コップをしっかりつかめるように…
 君が行きたい場所に行けるように、足のすべての細胞も準備にはいっています。明日、君が逃げたい場所から早く逃げられるように。君の行きたい方向にしか足は行かないから。君以外の誰からの命令も、両手、両足は受け入れない、最高の友だち。幼い時から、君を見捨てなかった大切な友人。

 目も、耳も、鼻もすべては君の味方です。

 君の身体のすべては、いつも君を守っている。暗闇を一人歩いている時も、君が悲しくて涙であふれている時にも、そっと手は、それを拭ってくれていた。そう幼い時からずっと、ずっと昔から…

 そう、たとえ君が死にたいと思っているこの瞬間にも、君の身体は生きることを求めている。君の命令を待って、君がいつも幸せになってくれるように、いつも君の機嫌をうかがっています。どんなに自分たちの存在を君が忘れていても。君が死にたいと願い、60兆の大切な仲間もろともに自分自身を滅ぼそうと君が企てていても。いまだに君の命令を信じて、いつも待っています…

 「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」と言うように、どんなに流れに任せても、いつかは立ちあがれる場所がある。

 人生で君が何かを見つけなければいけないとか、君が何かに成らなければいけないは、もうイイね。

 ただ、今日を一緒に生きてくれた仲間達のためにも明日を、ただ生きよう。そして、自分の身体を抱きしめて、それぞれに頬ずりしてあげよう、「よくガンバったね…」と、それぞれの身体のパーツをいたわり合うように…

 そう、誰も未来はわからないから、でも、今日を何とか生きれた自分を抱きしめて…

 君が孤独なのは、家族よりも身近な、60兆の仲間の存在を日々忘れてしまっているから。

 東京・自由が丘に教室があった時に、メンタルを受講してくれたこともある腰塚さんは、首の骨を折って、すべてが機能しなくなって「死のう!」と思ったそうです。でも、ナイフをにぎる手も動かない、高い所に行ける足も動かない。そこで、口なら動かせるので、舌を噛もうとしました。

 その時に「痛くて、痛くて」死ねなかったそうです。

 それから、多くの人の優しさ、励ましにふれ、学校の先生だった彼は、学校に戻ろう!これからは自分が、人を励ます人になろう。そして、元気になったら、身体が動いたら、手は人を助けるために使おう。目は相手の良いところを見つけるために使おう。耳は最後までどんな話でも優しく聴こう。そして、人を元気づける為に口は使おうと決めたそうです。すると奇跡が起こり劇的に彼は回復を果たしたのです。 現在では身体の問題も克服し、テレビにも出演し、子どもは出来ないと言われていたのに、可愛い息子さんが生まれ!毎日のように各地で「命の授業」をしています。ここ数年で、講演会は800回は超えたそうです。


http://inochi-jyugyo.com/

 僕は思います。 腰塚さんが「痛い!」と感じた舌の痛みは、きっと60兆の細胞が、まだ生きたいという「叫び!」だったのでしょう。

 君が死を考える時、それは仲間をすべて道連れにすることを意味する。60兆の命を絶つこと。

 今まで良いことなんか無かったから、これからも生きていたって良いことがないって?!
 それは、赤ちゃんが今までハイハイだったから、これからも永遠にハイハイだろうというのと同じ理屈。

 あの幼い頃は、頑張って歩くことを願っていて、今、その夢が叶っているのに、いつから、君はそんなに未来へのアキラメが早くなったの?

 自分を信じられなくても、身体を信じ、頼って、ただ、生きよう。
 意味があるとか、ないとかではなく、きっと、浮かぶ瀬(場所)もあるから。

 インディアンは言います。

 カラスの奴は一生懸命に翼をバタつかせて、あそこまでしか飛べねぇ。でも、イーグルを見ろよ、時より羽の動きを止めて、風に乗っている。だから、気がつけばあそこの高みにまで昇れるんだ。時より人も、バタバタしないで、生きてりゃいいのさ。ただ、生きてればなぁ!






誕生日によせて…

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アメンバー限定公開記事です。

幸せ隠れんぼ

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 先日、食事会で話しをしていた時に「幸せって何処にあるの?」って質問されて、僕は食事会のテーブルを指して「ココ」と答えた。


 江戸時代からすると「今、この瞬間」は、憧れの世界。一日三食の食事にありつけるのは、家康クラスの天下人だけの特権だった。いや、世界の珍味に舌鼓を打てることを考えたら、天下人の家康の上をいきます。

 まして、夜の講座後の食事会ですから22時近くになります。その時間に電灯が煌々と照らし出されているテーブルの明るさと同等にするには、女中さんにどれだけの行燈(あんどん)を用意させなければいけないかを考えるとスゴい数になります。


 結婚も、たとえ愛し合っていても、身分が違いで結婚できず。旅行に行くにも通行手形を発行してもらわないといけない。なぜなら、関所破りは江戸時代には重罪でした。仕事も親の仕事を存続させないといけないので「仕事選びはスマホで!」なんてあり得ない時代です。連絡を取りたくてもふみ(手紙)のやり取りで時間がかかる。人相書きの時代に、スマホで写真なんて江戸時代からすればSFの世界です。


 そんな中に、どっぷり浸って生きていても、僕たちは、不幸感がぬぐえない。うつ病や自殺者の比率は江戸時代よりもはるかに多い。


 「こうなったら幸せ」「こんな状態だったら最高!」は実は錯覚で、どんな時代でも幸せは、当たり前ではない日常を噛みしめる能力なのです。


 山の彼方の空遠く「幸い」住むと人は言う…カール・ブッセ


 あなたの、身近のその側に「幸い」住むと僕は言う…カウンセラーEtoh


 僕は自分の足下の「今、ここ」に、幸せはたくさんあって、僕たちはそこの身近に落ちている「幸せ」を見ようとはしないで、遠くばかりの幸せを見ている。

 子どもの笑顔、愛する人の瞳の輝き、学生たちの柔らかな語らい、道路の片隅に咲く小さな花、雲間から落ちてくる陽の光、もう二度と出逢わない風に…


 幸せはいつもささやいている、 僕たちは、ここにいるよ…









ストレスをもってストレスを制す

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 僕は両親の離婚などがあり、大阪から九州に転校し、祖母に育てられた。反抗期になり、祖母と言い合いになると決まって「この歳になって、孫の面倒まで見にゃいけんはめになって、普通の老後なら、のんびり隠居なのに。いつまでもあの世からお迎えは来んわね」と本気とも、冗談ともつかない顔でイタズラそうに笑った。僕は「当然や、俺がいる間は逝かせんから」
 それが、僕と祖母の休戦の合図だった。

 でも、これはまんざら嘘ではなかった。祖母は年齢のわりに同世代より若く、人生を最後まで元気で過ごした。


 僕自身も、日々、全国を移動し、教室で心理学を指導しているから、体調を崩さないで過ごしているのかもしれません。ストレスは時には、人の能力を覚醒させるというデータが数多くあります。


 北海道の旭山動物園は、赤字続きで閉鎖の危機でしたが「行動展示」という環境改善で、経営は黒字に転じました。今や上野動物園に並ぶ集客力をほこり、日本だけではなく世界からも注目を集めています。


 今までの動物園では「形態展示」といって動物の姿をただ見せる場所でした。でも、動物の美しさは形態ではなく、本能によってエサを探している姿であったり、危険から逃げるために身を避けようと、高いところによじ登る筋肉の動きだったりするのです。それが植物と違う、動物が動(く)物と言われる所以です。


 現在では、多くの動物園では形態展示から行動展示に移行しています。


 エサをただ与えるだけではなく、トラやライオンは、肉を木に吊るして飛びつく姿を見せたり、オラウータンは、エサを取りにくい場所に設置すると、細い枝を使って突き刺してみたり、象などは木の中にエサを隠すと、器用に長い鼻を使って、ほじくり出したりと、動物が一日中、エサを取るために全身全霊を使って行動している姿を「行動展示」では、入園者は見ることが出来ます。そして、動物たちも本能が目覚めストレスがなくなるそうです。ストレスを与えてストレスを無くす逆転の発想です。
 
 今までの動物園は、動物はただゴロゴロ寝ているだけでした。ですから、一日時間が余り過ぎて、動物たちは余計にストレスがかかっていたのです。

 でも、食べるための行動は動物たちにも活気を与えました。

 

 これは、家庭の子育てでも同じことが言えます。草食系の男子が現れ、家で、ただただ、ゴロゴロと時を過ごしている。もはや草食系を通り越して、植物と化した若者が増えています。


 親がエサを与えすぎて「働かなくても食える時代」の申し子です。
 子どもが朝起きないと言うお母さんがいます。でも、往々にして親が学校に遅れる事にたまりかねて起こして、お母さんが目覚まし時計の代わりをしています。


 ニートの子どもを持つ親に、僕はムリだろうと内心思いながら「30過ぎて働かないとなると、自然の動物界では死をむかえます。だから、お母さん、子どもを家から追い出して下さい」と言うと「そんなのムリです。子どもが外の世界で何かあったらどうするのですか?」僕が追い打ちをかけて「それは子どもの運命ですから。じゃ、このまま子どもを飼い殺しますか?」とショック療法のつもりで、残酷な言葉をあえて伝えてみたりする。


 そうすると「先生から言っていただけますか?厳しく!」と、言葉の意味は厳しくなんだけれど、結果はまた親が、誰かに(この場合、僕に)依存しようとする。そうやって、この親は、いつも戦いを避けてきたのだろうと、僕には、その家庭の背景が見えてしまう。

 

 ここで大切なことは、子どもに怒ったり、怒鳴ったすることが戦いの意味じゃない。ここを間違ってはいけないのです。


 ただ、親は静かに伝える…
 人は誰かに、「君が生まれてくれてありがとう!」と言われて社会の一員になること。キラキラした汗をかいて、一日誰かのお役にたって生きて行く、それこそが、あたなが社会の一員として、自分を「誇らしい!」と思える第一歩なのだ。その一歩が社会で、君の居場所を作る方法なのだよと、言葉と行動で伝える。それは、親が汗をかいて黙々と働き、社会に愚痴を言わないで、腐らないで日々を笑って過ごすこと。

 ただ黙々と働いていても、家庭で不満をもらし、社会に敵対していては逆効果になります。


 確かに、子どもが職場で叱られて、落ち込んでいたりすると、親として悲しい気持ちになるだろうし、感情的に叱った人に「一言、物申す!」といった気分になるかもしれません。


 「そんなにヒドイ上司がいる会社なの?? 辞めなさい。あなたは一生懸命にやっているのにね、理不尽よ!」
 これを言えば、社会の現実を、逆に歪んで、子どもに伝えることになります。残念ながら、この世は理不尽です。

 

 一生懸命に指示通りやったのに、上司の気分しだいで叱られることがあります。全力で準備していた企画を、見てもいない上層部に、企画変更させられることもあるでしょう。自分のミスでもないことを会社を代表して、お得意さんに罵詈雑言を浴びせられても、頭を下げなければならないシーンも出てきます。


 その理不尽さが、現実社会の側面でもあるのです。


 だから親はアイ・メッセージで伝えるべきなのです。
 「お母さんは、お前の存在が、誰かに『お前がいたから助かった!』と、いつかは言われる人に育ててきたつもりだよ。あなたなら、今の苦しさに耐える力がある。お母さんは、そう信じているよ。お前なら大丈夫さ」そんな思いで背中を押す。それが、親という存在です。


 講座でも僕は伝えていますが、
 「親」という字は「木の上に立って、見てる」と書きます。降りて来てはダメなのです。静かに見守っていられる、それ自体が、親がストレスに耐える姿勢を子どもにモデルとして示すことになるのです。

 これは、決して無関心とは似て非なるもので、まったく違います。
 見守るのは、きっと乗り越えられると信じているから手を出さないのです。信じられない人が、子どもの野生が目覚める前に、お節介にも先に手を出してしまう。もちろん、相手が成長し、野生が目覚めるには時間はかかりますから、手を出したくなる気持ちもわかるのですが…


 ただ、「人」という動物も、食えないとなると、苦しくても、誰かに頭を下げて汗をかいて、社会で生きていかないとならないのです。それを、たまりかねて、親が目の前に安定した部屋と、働かなくても食べられる状態を提供し続けると、子どもの本能は低下し、野生は植物に変わって「ニート」と化す。親も誰かに家庭の苦しみを語り、誰かに何とかしてもらおうと、また、子どもに依存的な逃げるモデルを見せてしまう。


 「働く」という字は「人」のために「動く」と書くのです。親も子どもも、自分が傷つきたくないからと、ストレスから逃げているから、社会というジャングルの中で、働けない子ども作りだしてしまう。

 一時的な逃避やひと時の休息は許しても、やがては子どもを送り出そう、社会のジャングルへ


 動物界で、親が子どもを巣から追い出す子離れの季節があるように。本能の目覚める世界へ


 そう、お前なら大丈夫さ!
 行き(生き)なさい!


 社会で必要とされる為の、君の居場所へ












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