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Channel: 日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき
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結び目

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 桜が咲き、本格的な春の到来で、寒さで緊張していた肩を少しゆるめても良いかなぁ~と思える季節です。


 また、この時期は出会いと別れの季節でもあります。


 卒業、入学、就職、新居とあわただしく人間関係が変化する季節でもあります。新しく縁を結んだり、過去の関係を見直したりと…


 誰かにプレゼントをいただいた時などは、僕の不器用さで包みの紐をほどく時に、さらに強く結んでしまうことがあります。
 結び目をほぐす時のほうが、結ぶ時よりも、とても根気が必要になります。


 人の縁も同じことが言えます。離婚の相談にのっていると、愛を結ぶ時よりも、ほぐす時のほうが、辛抱がいるし、苦しいものなのです。


 新しいリボンを結ぶ時には、真新しかったリボンが、ほどいた後には、互いのリボンが影響しあって、結んだ強さと、過去の幸せの名残がそこに残ってしまう。思いのほか入りくんだ二人の関係の深さに、その結び目の固さに、涙を流しながら二人ほぐしていく…


 出会った時の幸せな日々には、その関係を苦しみながら解く日が来るなど、当時の二人は想像もしなかったはずです。


 そうやって、すべての別れは、その結び目をほぐす時に、年月の長さと、思った以上に深く絡まってしまった結び目の強さに驚いてしまうものです。

 だからと言って、それが分かっているから、最初から結び目をゆるめると、大切な「心」が包めない。だから、それが分かっていても、次もしっかり結ぶ。そうやっているうちに人は強くてしなやかな縄になる。


 人間という縄は、風雪にさらされるほどに、その強靭さと、しなやかさが増してゆきます。そして、それが人間の深さと人間味に変わるのです。


 だから、もう誰とも縁を結ばないなんて臆病にならないで、前を向き、新しい旅立ちを!








プロのメンタルサーファー

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 以前、株のトレーダーと講演前の講師控え室で話をしていて「日本人は株で儲かる!」と言われると、普通に貯金している人も、損失感を刺激されて株に群がる。
 株式は売ったり買ったりすると、お金が動くのだから儲かる人は儲かるし、寄付する人は寄付で終わるのだと言うのです。


 日本人の多くは、この損失感を刺激されると心理的に弱い傾向は確かにあります。誰かが儲かっていると、自分が損をしているという心理になるのです。
 横並び社会の日本では、個人主義の「自分は自分流」という欧米とは違って、周囲に取り残され感が異常に強くなります。


 ある女性は家にジッとしてはいられないと言います。特に夕方になるとキラびやかな街が恋しいのだと言います。
 「街では楽しいことが行なわれていて、何か自分だけ退屈な人生で、損しているみたいだから」と言うのです。この自分だけが取り残されているのではないかという損失感が彼女の中にも流れています。


 主婦の不倫も「私だけが楽しんでいないのではないか?もっと、燃える恋ができたのではないか?」
 そして、その燃える代償として大切な子どもや安定した家庭生活まで不倫の結果として失ってしまう。


 僕が尊敬する年配の女性で、いつも笑顔で働き、いつもどんな状況におかれても、何事にも感謝して日々を過ごしている人がいます。
 「この人はストレスをストレスと感じていないのだろうなぁ」と彼女の周囲の人は、いつも感心してみている。
 ある時、その年配の女性に心理的なタフさの秘密を教えてもらったことがあった。


 その女性のお母さんは、働き者で、いつも汗をかき、どんな苦境にも黙々とグチを言わずに生活していたそうです。そのお母さんの口グセは「1年間に三日でも良いことがあると、その年は『ステキな年だった』」と言って、感謝して毎年を締めくくっていたそうです。


 だから、亡くなった母にあの世で会った時に、褒めてもらえるように、その母を見習って、いつも感謝して日々の仕事を黙々としていると、さらにステキな日が増えて「このままでは、亡くなった母に会わせる顔がないと思うから、また、黙々と働くと、また、ステキな日が増えていって、もっと、もっと働かなきゃと思って過ごすと、また、今日のようにステキな日が増えて、こんなことで良いのかと思って生きています」と、その彼女の功績を讃える表彰式の会場で、まるで自分自身が表彰されることが罪であるかのように「また、こんなステキなことがあると、さらに努力しないといけない」と、自分に言い聞かせるかのように、肩をすぼめながら、僕に語ってくれた。


 彼女は、まるで徳川家康が詠んだ「人生とは、荷車を押して坂道を登るがごとく」に似た人生観で、人生は苦しくてあたりまえと思って生きているから、逆にストレスある日常の生活を、ストレスと感じていないかのようなのです。


 多くの現代人は、人生は楽しくなくては、また、良いこと続きでなくては、と思っています。そんな幸せ症候群の人たちほど、そのようにならない日常の現実に落ち込み、苦しんでいるのです。前出の女性のように、夕方になると、街ではみんなが楽しんでいると思うから、家でジッとしていることに耐えられなくなる。


 楽しい祭りの日々が当たり前と思うから、単調な日々が損失感でいっぱいになる。このような心持ちで結婚すると、普通の結婚生活に不満が出てくる。付き合った当初のような、美味しい食事と、ワクワクするイベントが日々の結婚生活にないと不満になります。出会った頃のデートのような華やかなイベントがないと虚しさを感じてしまうのです。


 だから、結婚生活への期待値と現実のギャップに耐えかねて、あこがれ、夢見た結婚生活が喪失感でいっぱいになり破たんしてしまうのです。

 

 現代の多くの人が鍛えられてこなかったのは、日常の普通の生活に耐える内面にある「心理的なタフさ」です。


 普通の日常のありふれた生活の中に幸せを発見し、楽しめる能力の開発が人間の素晴らしさです。


 「お金持ちになるセミナー」「運を引き寄せるセミナー」「自分を好きになるセミナー」などのセミナーはありますが、これらのセミナーは、その状態 にならないと幸せではないし、常に幸せが続き、いつも自分が輝いていなければならないかのように、よりアドレナリン系の幸せの中毒患者へと誘い込み、興奮のイベントへの依存症を強化しているかのようです。


 僕は、ずーっと、その発想は危険だと警笛を鳴らしてきました。


 なぜなら、人はお金がなくても幸せに感じている人はいくらでもいるし、成功していても、いまだに不満な人はいくらでもいます。


 成功しないといけないと言われると「自分だけが人生の落伍者だ」と、挫折感が強くなり、人生の不満から、意味なく街で人を斬りつけたり、自分だけ価値がないと落ち込んで心の病いを発症したりと、現代の社会問題の背景には、アドレナリン全開の日々への賞賛と憧れがあるようです。


 どんな状況でも、心を安定させ、その中に楽しみを見出しうる能力の向上が、日本メンタルヘルス協会の理念でも謳ってきたことですし、それをメンタルの教室では伝えています。


 どんな状況下でも、サーフィンのように、大波小波の人生を楽しもう!















いつも最大値の自分!

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 ビジネスにおいても、家事においても、何か不完全感を持たれる人がおられます。
 「何かもっと自分に出来たのではないか?」「仕事の依頼をもらっても、自分でよかったのか?」と不安になることがあります。仕事を終わらせても、 なんだか、すべてにおいて自信が持てないと…


 僕も時より、そう思うことがあります。これは、すごく真面目な考え方だし、未来に反省を活かせるように思えます。しかし、この思考は少し危険な兆候になる時もあるのです。

 うつ病の基本性格に不完全感があります。


 何か行動したあとに、もっと、努力できたかもとか、もっと、準備できたかもとか、もっと、介護ができたかもしれないと、どんな時でも、後悔は残るものなのです。


 そんな時には「今の自分の最大値だった」と自分自身で、心の中で完結させることが前を向くコツとして大切な考え方なのです。


 「自分が今何をしたいか、やる事が分からない」と、相談される方がいます。しかし、その相談者には「今は、やる事が分からない」ということが、本人にはシッカ リ分かっているのですから、それが、今の自分の最大値の気づきなのです。


 夢を持て、目標を持て、自分の役目を探せと、周囲に言われると、そんなものがない自分を責める人がいます。とても、世間はノイジーなのです。そんな時は、これが今の自分の最大値だと思えばいいのです。「世の人は我を何とも言わば言え、我が成す事は、我のみぞ知る」の坂本龍馬の心境です。


 そうやって、「かくあるべき何か」を手放せば、エネルギーはチャージされ、自然体で生きれば、これからやる事が見えてきます。そして、その時には最大値の力が不思議と出せるものです。


 不登校の子どもやその家族も、学校に行けないのに「学校に行かねばならない」と悩み、自分たちを責め、心的エネルギーを放電して「学校に行く」 ことを考え過ぎて疲れはててしまいます。

そんな時は、僕は不登校の子ども達を、シッカリ遊ばせます。アリゾナのインディ アンの地に一緒に行ってもいいのです。
 そうです、自然の中でシッカリ遊ばせるのです。それも、徹底的に、思いっきり遊ばせる。すると、遊ぶことにも子ども達は飽きてきます。それでも、 毎日 、遊びを続ける。すると学校に行きたいと言い出す不届き者が出て来るのです(笑)
 「そろそろ学校に行きたい」などと、とんでもないことを言い出すのです。そんな時は「とんでもない、学校になんか行かなくてイイから」と、それでも遊びをシッカリ続けます。すると「お願いだから学校に行かせて」と恐ろしいことを言いだします。
 「そんなことを言わないで遊ぼうよ!」と誘いかけると「本当に行きたい!」と哀願されるのです。


 そうなると、子どもたちは嬉々として、学校に行き始めるのです。


 働くことに疲れた人に、森田療法では入院してもらって、何もしない日々を過ごしてもらいます。すると「何もしないことに嫌気がさしはじめます」それでも、ひたすら何もさせません。入院患者は「何かしたい!このままでは退屈で死にそうだ」と訴えてくるのです。そこで、少しだけ何かをしてもらう。ベッド周囲の掃除でもいいのです。すると、小さな行動でも「楽しい!」と思えるようになります。それから、人と関わることも、少しずつでも行動し、何かを行動して、周囲に影響を与え、変化することは幸せだと思い始めます。そうなると退院となります。


 今の現状を認めないで、それでも「もっと、もっと」となると、人は疲れて来るのです。だから、まずは今の自分が「最大値」なのです。


 僕もいつもギリギリになってしまうことがあります。もっと早く準備すれば良いのにと、ため息まじりに反省します。でも「それでも帳尻が合うからギリギリになるんだろうなぁ」とも考えるのです。
 その時は、これが「僕の最大値なのだろうなぁ」とウジウジや後悔を過去に捨て去るようにしています。


 何かの、かくあるべき姿にこだわると、自分がダメに思えてきます。主婦が、掃除をしないことで自分を責めるより、時より「自分に英気を与えたのよ」とサボったほうが前向きな時もあるのです。
 そんなことはない「自分はいつも努力をシッカリしなきゃ」と思う、一見、前向きな発想が時に、自分の心のコンディションによっては、後ろ向きに なって自分自身を苦しめる時があるのです。
 「自然は逆らわず!」で、前向きになる時は来ます。そうならないなら、それが 「今日の自分の最大値」なのです。


 天気には晴れの時も、曇りの時もあります。それが今日の天気です。


 雨の日に雨を楽しまないで、晴れを望めば、一日中憂うつな気分になりますから ね。人生の、今日の自分の天気を楽しみましょう。








隣で静かに微笑んでいなさい

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 「会社で隣に座っている仲間が、いつもネガティヴな事ばかり言っているから『もっとポジティブになったら』と、言っても、いつも後ろ向きな言動ばかりを繰り返すのです。どうすれば良いでしょうか?」

 この質問は、よく聞かれます。

 少し前のブログでも伝えましたが、私達は、多くの人と一緒の世界に住んでいると思っているかもしれませんが、人は、それぞれの世界観で住んでいるのです。ですから、住む世界がそれぞれに違うのです。肉食のライオンに「あなた、時より食物繊維の多い野菜を食べなきゃいけないでしょ!」とお節介をやいても「僕はライオンだから」としか、言いようがない。
 また、キリンさんに「やっぱり肉のアミノ酸や、たんぱく質を取らなきゃダメでしょ!たまには血の滴るような肉を食べなさい」と言われても「私はキリンだから」としか、応えられない。

 ネガティヴの世界で生きている人は、そのネガティヴの世界が好きなのです。イヤなら出てきます。ツライ、ツライと言っている人は、やはりツライ世界が好きなのです。

 迷っている、悩んでいる人も同じです。イヤなら止めます。

 「うどん」を食べるか「そば」を食べるか悩んでいる時には、うどんを食べても、そばを食べても、死にはしないのです。そこそこ満足しそうだから人は悩み迷うのです。「そば」を食べれば、そばアレルギーがあり「食べれば死ぬような人」は、迷いも悩みもなく「うどん!」を選びます。

 「うどん」を食べても「そば」を食べても死なないから迷うのです。どちらを食べても満足しそうだから、人は悩むのです。
 であるのなら「楽しんで悩めばいい」のです。
 そして、どちらにしても、死なないし、満足しそうなら、サイコロを転がし、偶数なら「やる」、奇数なら「やらない」と“ 出たら目 ”に決めればいいのです。



 もっとも愚かで、残念な人は、悩んでいるうちに、大切なチャンスを失ってしまうことです。

 話がそれましたが「苦しい、苦しい」と言いながら「そこ」の世界にいることは、けっこう気に入っているのです。
 風呂が熱けりゃ、人はあわてて飛び出します。その世界に居続けると言うことは、その人は、その自分の世界が好きなのです。
 苦しいなら自分で脱出するアクションを起こします。

 よくある事例で、お母さんが口うるさいと言いながら、家賃を払わないで食事にありつけるメリットを選択しているのかもしれません。主人が、イヤだと言いながら、自分で生活をし、働いて自立するストレスを考えないですむのです。
 だから、イヤだ、イヤだと言っていても、メリットが「そこにも」あるのです。職場でも「こんな仕事!」と言いながら、安定した収入を手放すことのリスクを避けています。
 ならば「自分は積極的に、それを選んでいる!」と宣言したほうが前向きなのです。でも、そうは簡単にはいかないのが人間なのかもしれません。

 「縁無き衆生は度し難し」と言いますが、誰かがネガティヴの人を助けたいと思っても、本人が助かりたいと思っていない限り、助けられないのです。変わりたいと言っても、いつも言葉だけで、本人が変わる努力やアクションをしない人を、変えることは何びとであってもできません!

 そして、隣の人のネガティヴな言動が気になるのは、ネガティヴよりもポジティブのほうが「絶対に正しい!」と、思っている側にも問題があります。「私は正しく、相手が間違い!だから、教えてあげようと思っている私は『善』で、相手が『悪』という」人を裁く心理が隠れています。僕は、それもネガティヴな考えだと思っています。

 時より、ネガティヴがあるから、ポジティブが活きるのです。冬がないと、春の素晴らしさがわかりません。悲しみの季節を乗り越えてこそ、幸せの充実感を満喫できるのです。だったらネガティヴの世界の人を躍起になって救おうとしてイライラするよりも、ネガティヴな人を横目にしながら、誰かを裁かないで、ポジティブな自分を精一杯楽しめば良いのです。これを「モデリング」と呼びます。

 また、隣のネガティヴが気になるのは「自分の中に眠るネガティヴ」が反応するからです。これをマイナスのインジャクション(負の投影)と呼びます。隣のネガティヴな人に、自分が抑え、忘れる努力をしてきた「自分の中にあるネガティヴ」がズキズキと疼くからです。

 人は、それぞれです。

 キリン、象、ライオン、シマウマ、と、同じ世界に住んでいても、その人が、それぞれの世界を選んで住んでいるのです。これを「離別感」と呼びます。一緒にいても、身近な存在でも一緒ではないのです。

 だから、お節介せずに、あなたは隣でモデリングして、笑ってましょう!

 こちらの世界が良さそうなら、やがては隣の人も、こちらの世界に入って来るかもしれません。だから、言葉でお節介するよりも、行動で伝えましょう。

 安心して下さい。カウンセラーでも、ヘタなカウンセラーは前向きになれない相談者にイライラするカウンセラーがいます。
 これも「早く解決し、前向きになれないのは、私が能力がないからだ」と、間違ったイラショナル・ビリーフに苦しんでいるからです。

 カウンセリングをして解決するのは相談者なのです。これはとても重要な考えです。僕はアメリカでロジャース博士に教わりました。
 だから、悩みが解決してもカウンセラーの手柄ではないのです。それは、相談者が変わろうと努力してくれたからです。ですから、カウンセラーが有頂天にならず、尊大にならないで謙虚でいられる、大切なロジャース博士の教えです。

 この教えは医者にも、教師にも大切な戒めになります。



 ※2015年5月10日福岡校修了式258名、キャナルシティ・グランドハイアット福岡
 ※2015年5月17日名古屋校修了式255名、名古屋マリオットアソシアホテル











虹の戦士としての旅立ち

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 将来、人と人の心が冷めてゆく、やがて身近な人ですら分かり合えなくなる時代が来る。その時に、母なる大地は「これ以上、人間を存在させる理由があるのか?」と悲しみ…

 そして、大地は不純物(心を失った人間)の浄化を始める。

 ネイティヴ・アメリカン(インディアン)ホピ族の予言にはそうある。

 最近の地震の多さ、火山の噴火、ハリケーンの巨大さ、異常気象は世界中から報告されています。もう、浄化のプロセスは始まっているのかもしれません。

 でも、多くの地域に住んでいるネイティヴ・アメリカン達は信じている。ホピの唯一ある救いの予言を…

 大地に、浄化のプロセスが始まった時に、たくさんの「虹の戦士」が世界に現れる。その虹の戦士の数が、心を失った人間の数よりも勝れば、母なる大地は浄化のプロセスを停止するだろう。と、ホピの予言には、そう語られている。

 メンタルでは、福岡校と名古屋校の修了式が終わりました。
 多くのメンバーが、虹の戦士として羽ばたいて行きました。

 その修了者から、ステキな修了レポート<アイ・メッセージ>を、ご紹介します。

 サヤカ へ

 あなたが亡くなってから、もう8年の月日が流れようとしています。サヤカは、先生が初めて担任をした生徒でしたね。とっても明るくて活発で、誰よりも正義感の強い、あなたでした。

 クラスでドッジボールが一番強くて、サヤカの投げたボールは、男の子も受けることができなかったね。女の子だけどケンカも、誰よりも強かった。正義感の強かったあなたは、弱い者いじめを見つけると、相手が誰であろうと向かっていって、決して弱い者いじめは許しませんでしたね。そんなところが昔の先生に似ていて、先生は、あなたが可愛くてたまりませんでした。

 いつも、サヤカは、学校に来るなり「先生。あのね…」「先生、私ね…」「先生、聞いて!!」と、たくさん先生にお話しをしてくれました。先生は、あなたの話を聞くのが大好きでした。話をしている時の、サヤカのキラキラした目を見るのが大好きでした。

 3年たって、先生が、学校を変わらないといけなくなった時、あなたは「先生なんて大キライ!!」と、教室から飛び出していったね。急いで追いかけてつかまえると、目にいっぱいの涙をためて「どうして、先生は、学校を変わるの?どうしてずっとサヤカと一緒にいてくれないの?」と言って、ウワァーと泣いたんだ。先生は、そんなあなたの気持ちが痛いほど伝わってきて、ただただ「ごめんね」「ごめんね」と言って、抱きしめることしかできなかったよ。

 でも、あなたは、先生が学校を変わっても、先生をずっと頼りにしてくれた。お手紙もたくさんくれた。電話もくれたね。相変わらず元気いっぱいで、たくさんのおしゃべりしたね。

 一度、あなたは、お母さんとケンカをしたと言って、どこで住所を調べたのか、先生の家まで来てくれたことがあった。家に帰ると、家の前でサヤカが立っていて「先生のところしか行くところがなかったんだ」と言って、大泣きしたね。先生は、とっても、びっくりしたけど、あなたが来てくれたことが、嬉しくてたまらなかったよ。

 それから、サヤカが大人になり、大阪に働きに行くことを知った時、先生は、あなたが立派に成長してくれたんだと思い、すごく嬉しくてたまりませんでした。

 サヤカが大阪に行って2年した冬のある日。あなたはその当時、先生が働いていた学校に突然やってきたね。「先生のお誕生日のお祝いを一緒にやりたくて…」と言って、訪ねて来てくれたんだ。先生は、すごく嬉しかったよ。
 2人で喫茶店に行ったね。でも、先生は、そこで、あなたの手首にあるたくさんのリストカットの傷に気づいたんだ。「サヤカ!その傷はなに?」と言う先生の言葉に、あなたは、一度、袖で傷を隠したけれど、次の瞬間、思いきったように、その手首の傷を見せてくれたんだ。両手首に無数の傷。横に数10本。縦に数10本。そして丸く大きくえぐられた傷。先生は、何がなんだかわからず、ただ泣けてきて、たまらず「何をしているの!サヤカ!!」と怒鳴ったね。すると、あなたは、とっても悲しそうな顔をして「違うの。違うの、先生。もう大丈夫。大丈夫だから、先生に会いに来たんだよ」と言ったんだ。

 そして、あなたは、今までの出来事を話してくれた。働きに出た大阪で頑張っていたこと。しばらくして好きな人ができた事。一緒に暮らしはじめてから、すぐに赤ちゃんができたこと。でも、赤ちゃんができたことが、わかった時、彼はいなくなってしまったこと。悲しくて博多に戻って来たこと。まわりから反対されて、赤ちゃんを堕ろしてしまったこと。それから、赤ちゃんを堕ろした自分が許せず、リストカットを始めたこと。

 でも、そんな自分を守ってくれる人に出会ったこと。その人に守ってもらいたくて、夜中に呼び出した時に、その彼は、サヤカのところに来る途中で、ダンプにひかれて亡くなってしまったこと。そして、それから、今度はたくさんの薬を飲み始めたこと………そのことを、一気に話してくれたね。先生は、たまらなく悲しくて、また、たまらなく腹ただしくどうしようもなかった。

 どうして、サヤカが、こんな辛い目にあわないといけないのかが分からなくて。悔しいぐらい悲しくて、悔しいぐらい腹ただしくてたまらなかった。誰に、この悲しみをぶつけていいのか分からなかった。
そして、先生は、その悲しみと怒りと、悔しさを、あなたにぶつけたんだ。

 「サヤカ!あなたは、何をしているの?命は一つしかないんだよ。頑張らなきゃ。頑張って生きて行かなきゃダメじゃない!!」
 サヤカは「ビクっ」としたね。先生の言葉に何も言わなかったね。そして、あわてたように「大丈夫だよ。先生。もう大丈夫だ。わかっているよ。頑張るよ。頑張って生きていくよ!」と言ったんだ。

 本当のあなたの気持ちなど考えようともせず、本当は、あなたが、どうして、先生に会いに来たのか? など考えようともせず、先生は何度もあなたに「頑張って生きて行かないといけない!!」って言ったんだ。そして、あなたが「わかっているよ!」という言葉を言った時に「もう、これで大丈夫だ」と、思ってしまったんだ。

 でも、それから、2~3日して、先生のところに届いた便りは、あなたが亡くなったという知らせでした。

 あなたはネットカフェで、たくさんの薬を飲んで亡くなって行った。たった一人で亡くなって行った。あなたのことを、始めに見つけた人は、ネットカフェの店員さんで、あなたの事なんて全く知らない人でした。サヤカは、誰にも言わず、たった一人で亡くなっていきました。

 あなたの死が信じられず、あなたのお家に走って行った時に、あなたのお母さんが、先生の顔を見るなり、大きな声で怒鳴ったよ。
 「先生!!サヤカと何を話したのですか?」「先生!! サヤカに最後に何を言ったんですか?」「サヤカが、最後に会ったのは、先生だったんですよ!!」

 その言葉を聞いた時、先生は頭をハンマーで叩かれたような気持ちになったよ。あなたは、最後に、先生に会いに来てくれたんだ。そんな、あなたに、先生は、最後に、何と言っただろう。何と声をかけただろう…

――― 頑張りなさい! ―――
 確かにそう言った。

 そして…「頑張れ」「頑張れ」と、そう言った。

 あなたが、先生から聞きたかった言葉は、その言葉ではなかったんだよね。

 先生は、最後に、先生のところにやってきた、大切なあなたを助けてあげることができなかったんだ。
 先生は、それから、自分をたくさん責めました。出るはずのない、あなたの携帯に電話して「ごめんね。」「ごめんね…」と、謝ったり、ネットカフェにあなたを探しに行ったりもしました。あなたの家の周りのどこかに、隠れている気がして、「 サヤカー!!」って叫んで、探しまわったりしたよ。

 先生の心と体は、坂を転げ落ちるように、転がっていったんだ。あなたが亡くなったという事実を受けとめきれず、自分を責めて心の病気にもなっていきました。

 サヤカ。あれから、8年して、先生は、日本メンタルヘルス協会というところの、心理学を学ぶことになりました。自分の心を見つめ直したくて、学ぶことにしました。

 初めて、教科書を手にした時、そこには「PASSPORT」と、書かれていました。先生はなぜか、その時、とってもドキドキしました。この「PASSPORT」という本を開けば、新しい世界が、そこに待っているような気がしたからです。先生は、自分の心のことを学ぶ「PASSPORT」を手にした気分になりました。

 そして、毎時間、毎時間、たくさん学びました。学べば学ぶほど、サヤカ。あなたのことを思い出しました。今でも忘れない…前編の第3講座。「アイ・メッセージの授業」あの時、先生は先生が幼い頃に亡くなったお母さんへ アイ・メッセージを伝えたけど、本当に伝えたかった人は、サヤカ、あなたでした。でも、怖くて言えませんでした。また、あの時みたいに、心が閉ざしてしまうかもしれない。自分を責めて、また、心の病気になってしまうかもしれない。と思うと、怖くて言えませんでした。

 でも、衛藤先生のお話を聞いていて、自分のこの大きな一歩は、自分のためでもあり、あなたのためでもあると思いました。勇気を持って、自分の心を開示し、あなたへの想いを伝えようと思う。

 8年間、言えなかった想い。先生の心の中に、しまいこんでいた想い。気付かないふりをしていた想い。でも、大切な大切な想いを《アイ・メッセージ》で伝えます。


 《サヤカに送る、アイ・メッセージ》

 8年前のあの日、先生のところに来てくれてありがとう。先生に、たくさんのことを、お話してくれてありがとう。たくさん、たくさん辛いことがあったんだね。でもね、サヤカ。赤ちゃんを失ったことも、あなたのことを守ってくれた人を失ったことも、全て、あなたのせいじゃない。あなたの責任ではないんだよ。

 あなたは、きっと、先生に「大丈夫だよ。サヤカの責任じゃないんだよ!!」と、言ってもらいたかったんだよね。だれかに、全て、「あなたのせいじゃない!」って言ってもらいたかったんだよね。
でも、先生は、あなたのメッセージを受け取ることができなかった。

 ごめんね。サヤカ、本当にごめんなさい。先生は、あなたが、リストカットしたことが許せず、あなたを責めたね。あなたの本当の心を受けとめることができなくてごめんなさい。

 一番、あなたが苦しんでいたのに、あなたを責めてごめんなさい。
 頑張らなければいけないことなんて、わかっているのに、それでも「頑張れ!」と言ってごめんなさい。

 抱きしめてあげれなくてごめんね。

 リストカットしても大好きだよ。
 薬を飲んでも、大好きだよ。
 あなたが何をしても、先生は、あなたが大好きで、あなたが大切だ。

 だから、生きていて欲しかった。
 先生が一緒に乗り越えて行く方法を、見つけてあげたかった。
 あなたの笑顔を、もう一度見たい。
 あなたには、幸せになってもらいたかった。
 そのお手伝いが出来なくてごめんね。

 あの日、大好きなサヤカと最後だとわかっていたら、先生は、あなたに、たくさんのことを伝えたかったよ。

 先生の生徒でいてくれてありがとう。
 先生に何でも話してくれてありがとう。
 先生と出逢ってくれてありがとう。
 そして、最後に、先生のところに来てくれて、ありがとう。

 先生は、心理学を学んで「その人をまるごと受けとめる」ということを学びました。

 先生は、今、あなたをまるごと受けとめています。

 そして、サヤカのことで、ずっと許せなかった自分自身を許そうと思います。

 「自分自身を許せない人は、他人をも許せない」ことを、衛藤先生が教えてくれました。

 先生は、ずっと、自分自身を許せず、生きてきたように思えます。でも、サヤカ。先生は、やっと、自分を許せる時がやってきました。
喜んでね。サヤカ。そうだね。あなたは、きっとそのことを喜んでくれていることでしょう。

 そして、これからは、あなたが、先生に、命をかけて教えてくれたことを、たくさんの人達に伝えていきます。

 そうすることで、あなたの命が再び、生きかえっていくことを信じて。

 先生は、心理学を学んで、本当に良かったと、心から思っています。

 それは、どんな出来事にも、感謝できるようになったからです。
 どんなに苦しい辛い出来事にも、全てに意味がある事を学びました。

 そして、その出来事が、感情を決めることではない!ということも、ABC理論で学びました。出来事(A)の受けとめかた(Belief)が、感情(C)を決めるということです。そうであるなら、“ サヤカの死 ” を、悲しい出来事であったけど、学びに、変えていこうと、思えるようになりました。そして、そう思えた瞬間、あなたが、笑ってくれたように思えました。

 サヤカ。
 先生は「虹の戦士」になっていきます!!

 「虹の戦士」となり、サヤカと同じように、心苦しむ子どもたちを、笑顔にしていきたいと思っています。その子が、本当は、何を語っているのか、「心」を見ていける先生になっていきます。

 心理学を学んで、本当に良かったと心から思えています。サヤカ。これからの先生を見ていてくださいね。強く優しく生きていきます。

 「虹の戦士」となり、「虹の戦士」をたくさん育ていきます。

 サヤカ。ありがとう。先生と出逢ってくれてありがとう。先生は、決して、あなたの死を無駄にはしません。学びとして生かしていくからね。だから、安心してね。
そして、これからも、一緒に生きていこう!!

 大好きな サヤカ へ

                  香葉村 真由美

 この映像は僕の友人でもある、居酒屋てっぺんの大嶋啓介代表(たった15分の習慣で人生が変わる すごい朝礼/現代書林「元気が出る本」出版部刊)の朝礼に刺激されて香葉村先生が生徒と一緒に考えた、きらきら朝礼です。




 悲しみを悲しみで、心に沈めないで、悲しみの意味やメッセージを、誰かのパワーに変える。

 それが、生きている者の使命だと思っています。






昨日と違う今日を、生きたければ、昨日と違う自分を、演じればよい!

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 「『今、ここ』に、フォーカスして生きることが大切だ」

と言われますが、過去にやってしまった過ちはどうすればいいのか。


 人間は完璧な存在ではなく、不完全な存在です。
 今まで誰一人として、失敗を犯さなかったことも、自覚することはなくても誰かを傷つけなかった人はいないのではないでしょうか?


汚れた水の入った袋を眺めながら、この水は「汚れている」となげいても、なにも現状は変わりません。だったら、その袋に新たな清い水を注ぐように、少しでも「ステキだなぁ」と思う、未来の自分を目指して、生きるしかないのです。


 A・バーンの有名な言葉で、彼は「他人と過去は変わらない、変えられるのは、自分と未来だけ」と言いました。


 アメリカのワークショップで、電車の中を「Newspaperを読みながら歩く」という事に挑戦したことがあります。「今日、ニューヨーク五番街で、二人組が、こんな事件を起こしました!」と、大きな声を出して車輌の中を歩きく。そうやって、次の車輌、次の車輌と通り過ぎて行くのです。乗客の多くは、変な珍客である僕を見て、首を振ったり、手をWにあげて「なに?ヤツは?」って顔をする。そんな、乗客を横目で感じていても、僕は無視してNEWSを読み続ける。

 車輌をすべて通り抜けて電車から出たら、隠れて観ていた仲間が「どうだった?」僕は「スゴイ恥ずかしかった!」
 「そうだなぁ、皆、お前の事をクレージーだと思っていたよ」ワハハは…皆笑い。
 「でもな、その「クレージー」という評価が、お前にずーっとは、ついてこない。永遠に影響は与えないのだ。ただ一瞬の「今、ここ」の、お前の評価でしかない。確実なのは、少なくともお前は、わずか数十分で、この電車の中で『1番の有名人になった!』と!」

 

 人生の失敗を、永遠に抱え苦しんでいるのは、実は自分だけなのかもしれません。人はそれほど、あなたの失敗など、さして意識はしていないのです。


 失敗した、愚かなことをしたと、過去の自分を責めないで、未来を信じ、一歩一歩でも、過去の汚水を押し流し、新しい水に入れ変えるように、前を向いて歩き出すしかないのです。


 その時に、大切なことは、遠い先を見ないで「今、ここ」の一歩一歩です。そのようにして、歩いていると、その先に必ず違う景色、変化した自分と出会えるから。


 僕は思います。
 「昨日と違う今日を、生きたければ、昨日と違う自分を、演じればよい!」と…









優しい思いは、誰かに降り注ぐ…

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 今、自分自身が親に行なっている態度および言動が、いつか、自分が年老いた時に、大人になった子どもから向けられる態度や言動になると孔子は儒教で教えました。


 でも、性的虐待を受けた、また、それを見て助けてくれなかった、育児放棄など、親を尊敬できない人は多いはずです。


  だからと言って、無視したり、こちらが態度を冷たくすると自己嫌悪におちいることもあります。未だに過干渉であったり、今の現家族よりも親を中心に考えろと強要されたり、お金を要求したりと、肉親だから、よけいに他人とは違う感情が生まれます。社会や周囲も「親なんだから」と、今までの関係性を知らずに「したり顔」でお説教を言う親戚も登場します。


 親であっても「ここが嫌いだ」「やっぱりここは好きになれない」と思う気持ちは認めればいいのです。「すべての人を心から愛しましょう!」と言う自己啓発本は、そもそもムリがあります。足を踏まれても「何とも思いません。僕はあなたを愛しています!」は不感症か、過度の怒りの抑圧でうつ病や心身症になってしまいます。


 嫌いは嫌いでいいのです。


 親に対してどのような態度を取るかは、儒教の教えだから、親だからではなく、自分がどんな人でありたいかの問題なのです。
 「親が私を傷つけたから、傷つけ返すの!」は、やはりその人も、毒親と同じ程度の自分自身なのではないでしょうか。
 例えるなら「あの人は挨拶するから私も挨拶する、あの人は挨拶しないから、絶対に私からは挨拶してあげない」は、相手の態度によって自分がコントロールされている人なのです。相手にかかわらず、自分がどうしたいか、それが自分をセルフコントロールしながら生きている人の態度です。


 自分が傷つけられたから、相手を傷つけるというのは、相手にやはり影響を受けています。「毒親、大嫌い!」と言いながら、その親を意識しているのは、未だに親にコントロールされ続けている自分に気づいてはいないのです。


 許すのは相手の為ではなく「自分がどのような人になりたいか」「どんな人生を自分が歩みたいか」なのです。親がどうだったかではなく、自分が親とは切り離したところで、どう生きるのかが問われます。


 まさに「情けは人の為ならず」そう「自分の為」なのです。
 傷つけられたから傷つけようとするのか、傷つけられても、自分は自分らしく、軽快に明るく生きるのか、 を決めるのは過去の環境ではなく、あなた自身の人生です。


  「そんな行為を、あなたの子供が見ている」と、孔子は伝えたかったのではないでしょうか。たんなる人生教訓ではないような気がします。


  僕も父親によって、継母がたくさん入れ替わり、立ち代わりしました。その度に大阪、九州と住居も転々としました。でも、それがあったから心理カウンセラーになりました。


 「今の自分を愛せる人は、過去の不幸をも愛せます!」


 過去を愛せない人は、過去ばかりに囚われないで、全力でこれから幸せにならないといけません。いや、なるべきです。


 過去を恨んでいるヒマなんかないのです。なぜなら、今日の幸せを少しも味わないで、その人は過ごしているのだから。


 電車の車窓から過ぎ去った景色ばかりを追いかけて、暗い顔をしながら窓に顔をあて見ている人みたい。なぜなら、今も確実に電車に乗って、未来に向かっているという事実を楽しむことをしないで、もったいない人生だよね。


 僕の実の母は、父と別れて小さな喫茶店をやっていました。店のレジのお金を若いアルバイトが持ち出し、行方をくらませる事があったそうです。その時に周囲の人たちは「警察に届けるべき」と母に言ったそうです。でも、今は亡くなった母は頑として警察には行きませんでした。元主人の元に置いてきた、息子である僕が、どこかで人さまのお金に手をつけているのかもしれない、でも、私があのアルバイトの若者を許せば、きっと、その時に誰かに息子が許してもらえるかもしれないと言ったと、後に僕は周囲の人に聴きました。

 そんな母の祈りが、母と会えない長い時間の中で、僕が無事に生活し、周囲のステキな人たちに救われ、たくさんの愛を教えてもらえたのだと、僕は今も信じられるのです。


 あなたの誰かに対する許しが、あなたの大切な人に降りそそがれるのかもしれません。それが、孔子が言いたかった意味のように思えるのです。


 あなたの取る態度が、きっと、あなたの未来を作るのです。









共感する思いが、幸せにつながる。

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 「自分は不幸だ」「自分は運が悪い」と思っている人に、職業柄たくさん出会います。また、これらの人は、メンタルで心理学を学んで活躍されているカウンセラーに紹介されて、僕の教室に足を運んで来る人も多いのです。

 その不幸な人たちの共通点は「自分のことだけ」に集中してしまっている。


 自分の不幸、自分の思うようにならない生活、自分の生い立ち etc.


 人生がうまくいっている人のことを「あの人は運がいい」と言います。いつも、うまくいかない人を「運が悪い」と言います。


 この「運」も、最近では、心理学的なアプローチによって説明されつつあります。


 京大の藤井教授が「運」の良い人は「利他的」で、他人の幸せを考えて活動することが多いのに対し、運の悪い人は、自分のことばかりに意識が向いていて、自分自身の損得だけを考え「利己的」に行動する人が多いと紹介しました。「あの人は、人間的に器が大きい」と言われる人を数値化したものです。


 これを「認知フォーカシング理論」と言います。


 いつも、その人が「心の中で考える基準が、自己中心なのか、周囲の幸せを考えての、行動なのか?」その選択で、人生の「幸運度」が決まると発表したのです。


 藤井教授は「運」のある人を「配慮の範囲」の広さで表しました。


 配慮の範囲の一つは「関係の範囲」です。
 自己中心なのか、広い範囲の人間関係を意識しているのかで表します。
 二つ目は「時間の範囲」です。
 目先のことなのか、未来のことを考えての行動か?


 縦軸が「関係の範囲」です。
 自分⇒家族⇒親戚⇒友人⇒職場の仲間⇒自分の国⇒多くの国と、広がれば、広がるほどに縦線は長くなります。これが「自分だけ」のことになる人は利己主義者です。


 横軸は「時間範囲」の広がりです。
 目先のこと⇒今日のこと⇒3日先⇒1年後⇒自分の未来⇒子孫の未来⇒地球全体の将来⇒宇宙の未来までも考えたりすれば無限に長くなります。


 これが縦、横に大きく広がれば、広がるほどに「運」が良いと言われる人だったのです。このような人は「器の大きな人物」と言われ、周りの人びとから慕われています。


 利己的な人は、自分のことしか考えず、目先の損得で行動するので「配慮の範囲」が狭い人です。逆に、他人や遠い未来の幸せまで思いをはせる人は「配慮の範囲」がとても広い人になります。


 自分勝手な人は、一時的にビジネスで成功したように見えても、まわりの人びとは、成功するための道具やネットワークでしかないのです。やがて仲間が離れてしまい、人生をトータルして眺めて観ていると「損」をしてしまっているような人生で終わります。
 逆に「配慮の範囲」が広い人は、周囲から好かれ「あの人のためなら協力したい」と思うような人が、次々と現れます。いつも多くの人が、こぞって助けてくれるので、そのことが一見、周囲から見ると「運」がいい人に思えるようです。その例として、坂本龍馬は、狭い土佐藩を飛び出してしまいました。それは、日本のこと、世界のことを考えていたからです。そんな龍馬だから、多くの仲間たちが彼を慕って集まったのです。


 最近の研究では、この運の良い人と言われ、愛され、好かれるには、脳内物質が大きく関与していると言われています。


 メンタルでは脳のコントロール法で学びますが、人は誰かを愛するとドーパミン、βエンドルフィン、オキシトシンと呼ばれる脳内物質が放出されます。これらは「恋愛ホルモン」と呼ばれるものです。記憶力が増し、活力がみなぎり、免疫力を高め、イキイキと若々しく、いつまでも元気です。


 反対に、誰かを攻撃し、憎み、嫉妬し「失敗しろ!不幸になれ!」と、他人を呪い、自分を悲観するとアドレナリン、ノルアドレナリンが放出されます。これは攻撃的なホルモンですから、相手を攻撃するための瞬発力はあっても、これらの脳内物質が長時間出し過ぎると、血圧を高めて、血糖値を上げ、心臓に負担をかけます。そして、交感神経が優位になるので、消化活動に異常をきたし、胃炎にもなります。だから、イライラしている人は、幸せになれないし、寿命を縮めてしまっているのです。何よりも「恋愛ホルモン」を出す、脳そのものを萎縮させてしまいます。だから、年老いて、やる気を失い、誰とも話さなくなると、脳はいちじるしく萎縮してしまうのです。


 「恋愛は4年の期間で終わりをむかえる」と、人類学者のH・E・フィッシャーは発表し話題になりました。彼は、多くの動物を研究する中で求愛行動から、生殖行動が終わると、相手を見向きもしなくなると言うのです。動物の中では人間は長いほうです。
 この説は、心理学では「刺激鈍麻の法則」と呼び、常に興奮し続けると、身体の中で脳がエネルギーを一番使っています。ですから、すべての出来事に慣れて、脳が省エネモードにはいるのです。そのことで、4年を越すと脳の「恋愛ホルモン」は、例外なく減っていくのです。残念ながら、恋のトキメキは時間と共に失われていく運命にあるのです。


 しかし、ステキな報告もあります。愛知県の生理学研究所は「人間は、誰かが喜んでくれると思える行動には、恋愛や、美味しいもの食べるよりも、もっと多くの喜びを感じ、幸せは持続する」らしいのです。


 夫婦は、子育てを協力することで、ドキドキの「恋」から「愛」へと変わってゆきます。「家族愛」「友愛」「尊敬する愛」へと変化してゆくのです。人を育てることにより、誰かの幸せなどに貢献し、協力している関係では「幸せホルモン」は途切れません。
 ですから、職場でも、人の幸せを願い協力しているチームや、部下を「伸ばすぞ」と思い、育成にはげむ上司、子ども達の幸せを願っている先生などは、ハードな日々が続いても、幸せホルモンが持続し、疲れないのです。


 誰かの幸せのために、多くの人びとの笑顔を夢みて行動する努力には「快楽ホルモン」の分泌が盛んにおこなわれます。

 この「快楽ホルモン」は「インターロイキン6」や「コルチゾール」と言った身体によくない「悪玉物質」の分泌を抑制します。また、放出される、恋愛ホルモン「オキシトシン」が病気を攻撃する免疫力を高めます。


 人は「自分」と「他人」とは違うと識別をしています。これを脳の「方向定位連合野」が受け持っています。でも、ペンシルバニア大のアンドリュー・ニューバーグ(脳はいかにして”神”を見るか-宗教体験のブレイン・サイエンス:PHP)の研究で「人間が誰かの幸せを強く願っている時『方向定位連合野』のはたらきを抑えらる力がある」と言うのです。
 これが抑えられると「自分と他人が一つである感覚」「自分が孤立したものではなく、分かちがたく結ばれているという直感力」「時間を超越して、無限に広がるような超感覚」が起きるようになります。このような感覚を成功者の心理を研究した、A・マスローは、「至高経験」と名づけました。メンタルではトランスパーソナル心理学(未来心理学)で学ぶ内容ですが、成功する人には、この経験が大きく影響すると言うのです。
 すべての出来事がつながりあって、自分に意味を与えているのだと感じるような「悟り」の感覚です。

 

 これは、愛情や美味しいものを食べた時に得られる幸せとは、比べ物にならない多幸感なのです。


 そこまでの感覚はなくても、素晴らしいことに、人には「共感」する能力があります。人の幸せを喜び、人の悲しみが自分のことのように心を痛めるのです。

 人には「ミラーニューロン」という神経細胞が脳にあります。相手が痛がっていたら、自分にも痛みを感じます。人の痛がるのを見て、自分も同じように心が痛くなるのは、この神経回路に痛みの電気発火が起こるからだそうです。
 ですから、共感能力は人間の特徴とも言えます。誰かが悲しみから立ち直って行くドラマや映画に観客は感動し、観ている側も感動の涙を流すのは「ミラーニューロン」のお陰です。よって、人の幸せになった姿を見て、自分のことのように快く思えるのは、人のすばらしさです。


 ただ、自分の悩みだけにフォーカスしている人は、何かの感動的な話しを聴いても感動しません。自分のことだけに集中し過ぎて、ミラーニューロンの「共感システム」が機能していないのだと、脳科学者の中野信子さんは指摘します。(脳科学からみた祈り:潮出版社)


 したがって「悩み過ぎる人」や、私は「運」が悪いと訴える人は、自分だけのことに意識が向いているので「共感力」が低下します。他人の優しさが見えなくなります。


 そんな人は、メンタルに来て「いい話しを聴いても感動しないし、何も感じない」と平気で言ってしまいます。もちろん、人の感じ方は十人十色です。何も感じなくても良いのです。でも、そのような一言をポンと言ってしまうことが、メンタルに紹介したカウンセラーや、「その人を救いたい」と願っている人びとの努力を踏みにじることに気づかないのです。それほどに「自分だけの悩み」にとらわれています。


 そのため、自分のことだけを悩み、考えている人は、ますます人生が下降線をたどり、人の幸せと、いつも誰かを救いたいと、未来に希望を持つ人は、どんどん幸せになれる「運」の法則が、ここにもあるようです。


 だから、暗い顔ばかりしないで、今日よりも明日は、少しでも笑顔で過ごしてみませんか。それは、自分のための笑顔ではなく、人に幸せを与えるための笑顔だと信じて。それがあなた自身を、幸せに導くためのパスポートなのだから。













脳飯

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 暑い日が続いています。
 汗、情熱、発散、燃える太陽、入道雲、花火、水しぶきと、動きがある季節です。もうすでに夏バテで動きたくないと言う人もいるでしょうか。


 先日、リゾートの写真を見ていました。
 ステキだなぁと思うけれど、たまに行くにはイイけど、ずーっといると頭が腐ってしまうのかもしれないと思って本を閉じました。


 僕が大脳生理学に興味を持って勉強していた時は、脳の細胞は胎児の時期に完成し、その後は刺激に対してニューロンが延びて、新しい記憶は増えるけれど、脳細胞は大人になれば減ることはあっても、増殖はしないと言うのが一般常識でした。

 ただ脳科学は年々、進歩し、最近の研究(1998)によると、大人の脳でも脳神経は新しく生まれていることを、アメリカのカリフォルニア州ソーク研究所のピーター・エリクソンとフレッド・ゲージは発表しました。


 ただし、大人の脳で生まれた神経細胞は弱いため、刺激がないと、すぐに死んでしまうのだそうです。ですから、生まれてスグに刺激を与えないと新しい脳細胞は消滅します。でも、適度に刺激を加えると、新しい脳細胞は脳の中のネットワークとして完全に仲間に加わります。


 この脳の刺激とは何か?
 脳トレのゲームソフトを買うことでしょうか。それもムダではありませんが、一番の刺激になるのは、人と人とのLIVEなコミュニケーションなのです。相手がどう出るか予測ができない人間関係ほど脳の刺激と栄養になります。


 やり直しがきく遊びのゲームではなく、もっとも強い刺激は、異性や、異なる世代、違う分野の人々との新たな出会いなのです。

  いつも、出会っている職場の人や、家族との人間関係では、同じパターンの神経回路に電気が走るだけで、やがて脳は刺激に慣れてしまい、脳は怠けてしまい活動しません。脳の栄養は、新しい回路を探索し、新しい回路に電気が走ることなのです。これが脳力を伸ばす方法です。ですから、同じような友人と会うよりも、新しい友人や知人をドンドン増やしていくことが、脳の報酬系が刺激され、脳に快楽が走ります。

  アメリカの心理学者アルバート・メラビアンの研究によると、言語情報は7%、視覚情報(表情)55%、聴覚情報(声の抑揚)38%の割合で、人は情報を得ていると言われています。これが有名な「メラビアンの法則」です。ですから、電子メールやネット空間で学ぶことは、効果は1割以下しかないのです。したがって、たくさんの人に出会うことが脳のトレーニングになります。だから、教室に足を運び、講座を受けることが一番の刺激になるのです。

 最近では「新規探索遺伝子」-「ノベルティ・シーカー」という遺伝子が発見されています。新しい事を学び、発見し、出来るようになると、脳内快楽物質がたくさん放出されます。パターン化されたデートや、美味しいものを食べる時に出る快楽物質の数千倍の多幸感が得られます。

 したがって、新しいことにチャレンジしなくなり、臆病になると、欲求処理の「食」と何ら変わらない「人間関係」に逃げ込んでしまい、味気のない人生になります。

 

 つまり、人は新規探索遺伝子によって、鉄棒で「逆上がり」が出来たことを喜んだり、自転車を乗れたことに感動したり、新しい友だちと心が通いあえた瞬間や、不可能だと思っていたことが出来るようになった時に、人生の中で最高の多幸感を得ます。

 それは、新しいことチャレンジすると、脳内快楽物質であるβエンドルフィン、ドーパミン、オキシトシンがたくさん分泌されることによって、免疫力が上がり、顔のツヤがよくなり、若さを保てます。仕事の現役を離れた人が、老けていくのは、このためです。

 僕にとっては忙しくても、いつも教室で授業をするという現場があることは、いつも脳に新たな回路を増やしていることになるのです。


 なぜ、新しいチャレンジは脳の栄養になるのでしょうか。それは、動物界において、人間は、他の動物に比べて、牙も、走るスピードも、著しくひ弱なのです。大昔から、新しい世界に果敢に挑戦した存在だけが、長い歴史の中で、生き残れた強い個体だったのです。
 だから、進化の中で、新しい事に挑戦し、達成すると、脳内では、快楽物質を放出し、快楽をおぼえ、多くの幸福感を味わえる仕組みが生まれたのです。


  そのため、人は、満足と安定の中にどっぷりつかる日々を得ると、幸せを感じるのは最初のほうだけで、やがて脳には刺激がなくなってしまい、萎縮して、機能低下が始まるのです。学生時代を終えて、社会に出ると勉強しなくなり、輝きがなくなるのも、高齢者が、生活が安定し、優雅な生活に入った段階から、脳の萎縮が始まるのも、この新規探索遺伝子にスイッチが入らなくなるからです。


 さらに安定した安穏とした日々は、不幸なことに、脳に新しい脳内細胞が生み出されても、スグに死滅させてしまいます。また、いつも見慣れた生活と、いつもの行動パターンの日常を続けていると、脳の神経回路も新しい突起となるニューロンを延ばすことを止めてしまいます。


  したがって、お金持ちになって、何も悩みがなくなり、人間関係に気を遣わない生活は、脳の仕組みからすると最悪な状態になるのです。波風が立たない人生とは、脳にとっては何の刺激もない、新鮮な感動もない砂漠のような人生になり、このような脳の飢餓状態が続くと、脳は発達を止め、見た目も老け始めます。恐ろしいとは思いませんか?


 だから、やりにくい上司や、覚えの悪い部下、頑固な父親、口うるさい母親とのバトルなどは「脳の栄養」=「脳飯」なのです。


 思うようにならない人びとこそ、脳の食事なのです。


 今日も「脳飯ちゃん」と楽しめましたか?


 そんな脳飯な人達とは、逃げないで関わり、新しいコミュニケーションのテクニックを学び、果敢にストレスを、ノンストレスになるまでトライして脳のトレーニングをしましょう。


 そして、明日も、困った人達に出会うことも、脳の呆け防止、脳トレだと思って楽しみましょう!


 新しい場所に行くこと、新しい知識を得ることは、もっとも崇高な脳飯になります。

 出かけましょう!


 そこで本題です。
 以前、ブログで紹介した博多校の卒業生の香葉村真由美先生と居酒屋てっぺんの大嶋啓介君の東京エリアの第一回「あこがれ先生」が、中村文昭さん主催で8月8日(土)に開催されます。
 僕も同じ日に、東京ビックサイト「癒しフェア」で、特別講演会があって重なるのですが、僕に気づかいは入りません。あなたの行きたい場所に行きましょう!












愚かさが愚かなのではなく、そこから学ばないことが真の愚かさなのです。

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 戦後70年になって、テレビでは、戦中戦後をふり返る番組が多く流れています。この反戦ムードの中で、安倍総理の70年談話の発表がありました。

 保守派の安倍総理のことだから、謝罪や反省が少ないのではないかと発表前からささやかれていましたが、結果的には謝罪や反省の言葉もあり胸をなでおろしました。


 アメリカで勉強している時に、韓国や中国の友だちが沢山できました。ある時に「いつか僕の故郷に来てくれよ」と誘われたことがありました。


 インディアンと共に過ごし、白人が彼らの聖なる儀式を禁止させ、彼らの言葉を奪い、重労働に従事させられたことが、いかに屈辱に満ちたものであるかを知った僕は、親しくしてくれる彼らに「大東亜共栄圏をという大義のために、隣国である君たちに日本語を強要し、君たちの伝統文化を排除し、重労働に従事させ、迷惑をかけた過去の出来事を、日本人として心から反省し申し訳なく思っている」と自分の思いを伝えました。


 彼らは目を丸くして「あれは俺たちのおじいちゃん、おばあちゃんの時代のことだし、年配者は怒っている人もいるけれど、俺たちとノブは兄弟だろ!気にしなくていいよ。お前なら家族も大歓迎さ!」と、肩を叩いて心から笑ってくれました。
 後に、彼らの一人が、僕に耳打ちしてくれました。あの後に「あんな日本人がいるのか? ノブは特別だからか…でも、日本人のイメージが少し変わった」と口ぐちに話していたと教えてくれました。日頃は、親しくはしていても、やはり「日本人は謝らない国民なのだ」と思われていたのだと複雑な思いにかられました。


 「俺は相手に謝罪したよ」と言っても、相手は「謝罪された気がしない」と言えば、それは謝罪する側が、誠意を持って対応しなくてはいけないのが謝罪だと思っています。「謝罪は終わった」とは、謝罪される側が言うことであり、謝罪する側が「謝罪は決着しているんだ!」と胸を張るものではないように思えます。


70年談話の中で、安倍総理は、わが国は謝罪として戦後一貫、他の地域の平和と発展のために力を注いで来ましたと語りました。


 これは以前から繰り返してきた日本の言い分です。しっかりとした事実への謝罪の言葉ではなく「ODAや円借款などで、他国に金をまいて来たでしょ。具体的には謝らないけれど、誠意は、なんとなく感じて下さいよ」となる。これは、お金を使っても実りが少なく、より嫌われる外交政策のミスだと思っています。国と国の交渉でも、結局は心と心なのです。


 例えるなら、 友人にケガをさせた事実には、直接に謝罪しないで「状況の流れで起こったトラブルなんだから、いろいろとお金を使って、お前にはおごって来たじゃないか、そろそろ俺の気持ちをくんでくれよ」となります。これが、日本の政府が世界に向けてやってきたやり方なのです。

 今回の安倍総理の談話では「子や孫、その先の世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と述べました。「謝罪の繰り返しはしませんよ」と歴史問題に終止符を打とうした試みです。


 確かに今の日本の子ども達には責任はありません。当時の特攻隊員のように身近な愛する人の命を守るために散った英霊たちにも責任はありません。戦争を始めた人達によって、日常の生活を踏みにじられたのです。空襲や原爆で苦しんだ非戦闘員だった普通の人びとも、やはり戦争の被害者なのです。


 この文面と比較して、ドイツの国際外交は日本に比べてうまく行っているのは、なぜでしょうか?


 ヴァイツゼッカー大統領は終戦40周年の記念演説の中で「ドイツの国民は、罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」


 そして、過去のナチス、ドイツを徹底的に糾弾しました。これらの帝国主義を間違いだったと認めた考えです。それを国民一人一人が止めることが出来なかったことにも深い反省と後悔を持って、歴史を見つめています。そして、最後にドイツの一般の国民も、ナチの被害者なのだと、国民と軍部を切り離したのです。


 ドイツも日本と同じように発展しましたし、今もなお発展しています。ドイツの若者の中には「平和で裕福な『今の幸せという遺産』を受け入れるなら、過去の『負の遺産』も、我々ドイツの若者は受け入れるのは当然だよ」という精神が浸透しています。でも、彼らドイツ人は自信を失ってはいません。「なぜなら、過去に過ちを犯したから学ぶことが多かった…」と言います。日本の政府が言うように、認めたからと言って、自国を卑下して、子供たちが自虐的な国家になったりはしません。過ちから学ぶことが進歩への一歩なのです。


 そんなドイツのお国柄だから、学校でもナチ体制下のドイツのことは批判的に教えるのが教育の基本になっています。戦争責任を否定したり、戦争時にドイツも良いことをしたとは誰も言いません。その教育を通して、人がどうして狂気の行動をとるのか? さらに、狂気化した大衆の愚かさを学ぶのです。にもかかわらず、彼らは自分たちの祖国に誇りを持っています。失敗から学ぶことの大切さが未来を決めるからです。

 大日本帝国が近隣諸国にしたよりも、ずっと大きな被害をドイツは近隣諸国にもたらしました。でも、日本よりも周辺国から信頼を得ているのは、こうした教育がおこなわれ、過去の罪を子々孫々まで伝えるんだという信念が、ドイツ国民にはあるからです。それを理解しているからこそ近隣諸国も安心して、ドイツという国が二度とナチス時代に逆戻りしないという安心感を、ドイツ国民一人一人の中に感じているからです。


 それに、比較して日本の人たちは、テレビやネットで「謝罪をしているのに受け入れてくれないのは、あの国は金銭目当てだ!」とか「奴らは恨みを忘れない国民性なんだ!」と「いつまでも、謝罪、謝罪と言うな!」と言うような風潮が多くの日本の報道やネットの書き込みに見られます。そうすると、近隣諸国は「やっぱり日本は、本気で謝罪をしていないし、軍国主義を反省していないのだ」と、やはり不安になります。


 そうなると、中国も韓国もまた「日本人という国民は」とか、「反省のない日本人」と、立場が違えば、お互いに「あの国全体が!」「奴らの、民族性が!」と、一人一人と会うことなく、やはりそれぞれの個性を一まとめにして、「奴らはそういう国民性だから」と、互いに憎しみの思いを深めていきます。


 「あの国は」と単純化してしまう心が、お互いに不安を呼びさまし、気づいたら泥沼のような戦争へと優しい人びとをも導いていくのです。


 たまたまテレビを観ていて、NHKのEテレに立花 隆さんの「次世代へのメッセージ」~我が原点、広島・長崎から~という放送がありました。


 立花さんがライターとして、かけ出しの頃、画家の香月泰男さんの絵に惹かれたそうです。その中でも、シベリア抑留の絵の中にある「1945(赤い屍体)」に強く衝撃を受けたそうです。


 ・・・描かれているのは、香月さんが、中国からシベリアへ連れて行かれる時に、鉄道の線路脇に捨てられていた日本人の死体です。生皮を剥がれ、筋肉を示す、赤いスジが全身に走った赤い屍体。教科書の解剖図の人体、そのままの姿だったそうです。憎悪に駆られた中国人に殺されたに違いないと香月さんは瞬間に感じたようです。「日本人は、すごく悪い加害者的な行為を中国人に対してしてきたので、戦争が終わった途端に(中国人が)手近な日本人をつかまえて生皮を剥いだという歴史的な事実があったことを忘れないように「赤い肢体」を絵に描いた」そうです。


 そのきっかけは、香月さんが日本に復員後に、広島の原爆で真っ黒焦げになって転がっている「黒い屍体」の写真を見た。黒い屍体を中心に、みんなが口をそろえて、ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキを叫んでいた。まるで戦争が原爆でしか存在しなかったかのように、日本の「黒い屍体」が戦争のすべてだとでも言うように…日本人は黒い屍体を見て被害者意識を持つことができたようだと…。


 亡くなった画家の香月さんの意思をついで、立花 隆さんは語った「それにしても、人間の生皮を剥ぐという行為は、あまりにむごい。日本は、それほどの憎しみを生むほどに、中国人に残虐行為を、やはり行ったということではないのか? 誰とは知らぬ日本人の「赤い屍体」の責任は、誰に責任をとらすべきなのか? 再び赤い屍体を生み出さないためにはどうすればよいのか」…


 立花さんは、続けて「だが少なくともこれだけのことはいえる。戦争の本質への深い洞察も、真の反戦運動も、被害者の『黒い屍体』からではなく、加害者でもある『赤い屍体』から生まれ出なければならない」と。


 僕は考えます。赤い屍体も、黒い屍体も、何も語りません。
 でも、彼らの死のゆくえは?死の意味は?


 ただ、言えることは、いつも悲しい思いをするのは、政治家ではなく「皆がそう言っている」という言葉に右往左往する、普通の平和な人達なのです。












悲しみ依存症

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 「最悪」「悲しい」「不幸」「自分だけが」と言って嘆いている人が親切なカウンセラーに出会う。
 いくら、カウンセラーが手を差し伸べても、現状を「なげくばかり」で、色んなアドバイスをしたとしても人生を前に向かわせない。

 「私はこんなにツラい」と訴えるばかりで、解決の決断をしない。

 フロイトは、人生を失敗する人は「いつも悩みたがる」と書いています。こういう人は時間が「ある過去」で止まってしまっています。

 人生の時間は限りがあり、この悩んでいる瞬間にも、人生の大切な時間が流れていることを知識としてわかっていても、感覚としてわかりたくないのです。

 それは、周囲が「大変ね」と同情し、関わってくれることに意味を見出しているからです。だから、誰かの援助を求めています。そして、自分の思うようにならない現実や世界を恨んでいます。その人にとって「こんなにツラい」「苦しい」と言うことが、無意識の中で唯一のストレスのハケ口になってしまっています。簡単に解決してしまうと困るので、アドバイスは耳で聞いてはいても、心からは聴いていません。相談者の心に届かないのです。

 多くの心理学者は「私は不幸だ」には、受動的な攻撃性(passive aggressiveness)が、隠れていると言っています。なげき癖がある人や、うつ病患者の中には「ツラい、ツラい」と訴えるだけで、悩みを解決するための行動は起こしません。「私は苦しい」と訴え「誰も私を助けてくれない~」と、周囲(社会)を攻撃していると言うのです。

 井戸の中に落ちている人にロープを下ろしても、本人はロープをつかまない。「ロープが見えない!」と訴え続けています。
 それはロープが見えないのではありません。依存が強いので、無意識の中で「あなたが井戸に降りて来て、私を持ち上げてよ」と丸投げの心理が隠れています。心理的に母子一体感で幼児性のあらわれです。

 「なげき癖」のある人の特徴は、周囲に見捨てない母親を求めています。ですから、うつ病患者の特徴は「依存」と「不機嫌(無意識の攻撃性の抑圧)」です。そのため、うつ病患者はちょっとした他人の言動で、気分が上下に浮き沈みしてしまいます。

 ここで、幼児性の心理とは「夏休みが終わる、もう、終わる~よ」と言いながら、宿題を終わらせる行動はとらないで、悲しみ、泣くことで、誰か(親や周囲)が、根負けし手伝ってくれるのを待っている状態の心理です。

 なげき癖のある人は「ズーッと悩んでいます」「色々な相談に行きました」と訴えます。「私の問題は単純ではないですね」と、誰かに認められて心配してほしいのです。

 そこに、さらに「自己卑下の心理」がからむから厄介です。

 「僕なんか生きていても価値がないから」「どうせ、わたしはこんな人間だから」と自分自身を卑下し始めます。そう言われると、周囲の人は「そんなことはないよ」「君には、こんなところがあるじゃないか」「こう考えてみたらどうだろうか」と多くの人は言ってくれます。なぜなら、誰もが落ち込んでいる人がそばに居ると、多かれ少なかれ「なんとかしなきゃいけない」と罪障感を感じるからです。このように周囲に申し訳なさを感じさせるtypeのキャラクターをアドラーは「攻撃的悩み」と呼びました。精神科医のカレン・ホーナイは「神経症的愛情欲求」とも言っています。

 こういう人は、心から自分を卑下してはいません。

 その証拠に、その自己卑下タイプの人の横で「そうだね、君は価値がないよね」とか「本当に、君はダメな人間だよね」と言ってみて下さい。その人は不愉快になって落ち込むか「ヒドい!」と言って泣き始めます。

 かくして「お助けゲーム」をする優しいカウンセラーと、悲しみ依存症の人は、鍵とカギ穴のようにシッカリと、からみ合います。メンタルを卒業したカウンセラーにも、このゲームに苦しんでいるカウンセラーが少なくありません。

 何よりも、悲しみ依存症は、ロープをつかまないだけではなく、即効力のある魔法のように、努力のいらない解決策をいつも求めています。ジャクと豆の木のような魔法の豆を周囲に求めるのです。

 何事も「Mr. 時間」という存在を味方につけないと、どうしようもない事があります。 栄養を与え、水をやり、変化を待つことが、自然の流れです。でも、それをすっ飛ばし、植えた瞬間に、明日にも、天にも登れるような問題の解決策を求めます。

 うつ病の特徴として「結論をあせる傾向」があります。

 アドラーも落ち込みやすさの特徴として「hypersensitiveness」超敏感質と「impatience」待てないという、二つの特徴をあげています。

 気になり出したら、そのことに囚われてしまい、様子を見るとか、状況や時間の推移を待つことができません。アセって、いろいろと策をめぐらし、大騒ぎして、その結果、問題が解決する糸口すら、もつれさせてしまうのです。

 こうして「私は簡単には解決できない」と泣き叫ぶ相手に、優しい心理カウンセラーの相関関係が出来上がります。

 このような心理カウンセラーも「早く解決しなければ」と焦りがあります。「早く解決しないと自分はダメなカウンセラーになる」という思いにせかされて、苦しむtypeのカウンセラーが多いようです。

 だから「私は誰も救えない(あなたなんかに解決できないのよ!!)」と攻撃しながら、前を向かない「悲しみ依存症」の人にしがみつかれてしまう。相手を助けようとして、一緒に深みに沈んで行くのです。

 こんな場合、カウンセラーとして、気づかないといけない。嘆いているのにどうして相手は前を向いて動こうとしないのか?
 「苦しい」「ツラい」と言いながら、どうして、解決する意思を本人は見せないのか?

 泣いていて、落ち込んでいて「大丈夫?」と声をかけてくれるのは親です。親が子どもを愛しているから慰めてくれる。

 「ツラい、苦しい、自分は価値がない」と言われ続けると、普通の人間関係では、いつかは誰もが逃げてしまう。過去の苦しみにしがみついて「今」を生きようとしない人には、普通の人は去っていってしまう。

 幼児性が強いから、誰に対しても「親代わり」を求めてしまう。

 「私は生きることを楽しんでみます!」と言ったほうが、聞いていて誰もが清々しいし、明るい気持ちになる。それをしないのは、周囲のことを考えていない。相手の気持ちに無関心になって、周囲の出来事にイラだち「自分だけの過去」に生きています。ある意味で自己中心的なのです。相手に無関心と言えば言い過ぎかもしれないけど、僕はそう思っています。

 「幸せなこと探してみます」と、言ったら、人は笑顔になるし、そのほうが好かれる。でも、悲しみ依存症の人は、周りが同情してくれることにしがみつく。好かれようとして、嫌われる。泣いて注目を集め、周囲を心配させて振り回す。悲しみながら、好かれようとするから、周囲は去って行く。

 自分は「特別に悲しい」と訴え、周囲にいる親代理の誰かが、かまってくれることを、いつも求めてしまうのです。何よりも自分の悩みを優先するのが、相手の心に対しては無関心な証拠なのだと思うのです。

 有名な心理学者、G・ウエインバーグは、抑うつ期の人に、こうアドバイスするそうです。

 「ある一定の期間、自分の問題について話すのをやめること。まず、一日やってごらんなさい。それから一週間。もし、不平を言うのをやめると、あなたは、自分自身について重要な発見をするかもしれません。抱えている問題を話すことは、しばしば抑うつな気分を刺激します。あなたが不平なことしか、しゃべらないから、あなたの人生はすべて不平以外のことは、人生に何もないと思ってしまうのです」

 アドラーは「うつ病になる人は、毎朝、人に喜びを運ぶことを考えなさい」とアドバイスをしました。「そうすれば、あなたのうつ病は、二週間で治るでしょう」とアドラーは断言しました。

 うつ病になる人は、周囲のこと考えないで、自分の悩みの世界だけにひたっている。すべては自分の悩みだけを優先させてしまう。

 僕は思います。泣いている時間、空を見よう!「楽しいことは世界に、きっとある!」と人に呼びかけ、誰かに援助を与えよう!

 悩んでいる人は空を見ない、草の中のクローバーを探す気にもならない。風のそよぎが頬にあたっても感じることなども数年忘れてしまっている。



 楽しいことは、あなたの世界にも、きっとある!




雑感

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 10月に入りました。


 9月はブログの投稿が1回だけでした。ブログのプロ達からすると「ブログの読者登録を増やすには、コンスタントにブログを発信しないといけない」と聞くと「自分の思いを整理するために、ブログを書いているのだ。ただ読者の数を増やすことが目的ではない!」と、ヘンな反骨心が反応したり、そのくせ、間が空きすぎると、読者に喜んでもらえる内容を書かないとならないと気負って、書けなかったりとヘンな状態が続いています。


 シルバーウイーク前に安保法案があんなにも簡単に決まり、その結果に落ち込んだ気持ちもあったりと…


 僕は世界を旅する中で「日本は、武力による平和解決は、憎しみの連鎖をつくるので、我々はこれを永久に放棄するという憲法を掲げている!」と言ってきました。それは、平和な未来の世界に向けての美しい憲法でした。その憲法が僕には自慢でした。


 他国の人にも「うらやましい」とまで、直接言われることもあります。それが、いともたやすく塗り替えるようなことが起こるなんてと…将来の子ども達の未来に不安を感じています。


 国際貢献って何?


 アメリカに従って武力をサポートすることが国際貢献なのか?

 

 ベトナム戦争だけではなく、イラク戦争でも、時間経過とともに何のための戦いだったのか?と、国外だけではなくアメリカ国内からも、疑問視する声が上がっています。このように国際貢献が間違わないという保証はありません。
 まして、近々、巨大地震が、日本で起こるかもしれないと言われている時代に、もしそのような国難になった時に、一番助けてもらわないといけないのは韓国や中国といった近隣の国々なのです。それをアメリカ一辺倒に軸足を偏り、近隣のアジアの国々に不安をかき立てるような外交政策にも疑問を感じています。


 もし、日本と中国がぶつかることがあれば、僕はアメリカに住んでいて思いましたが、アメリカの国防総省の中枢は恐ろしく頭がいいブレーンがそろっています。アメリカの国益を何よりも優先します。彼らは念密な予測性を計算しています。日中戦争が始まっても、アメリカは日本をすぐには助けには来ません。中国が大国化することをこころよく思っていないアメリカは、日本と中国が互いにかなりのダメージを受けて、国力が互いに落ちたところで、正義の名のものとで平和解決に乗り出すのがアメリカのペンタゴンの常套手段です。そのほうがアメリカ政府にとって好都合なのです。アメリカが正義の大義名分を持って乗り出した時には、多くの日本人の命が失われています。


 第二次世界大戦で、アメリカの参戦のきっかけとなった、日本の真珠湾攻撃も、アメリカ政府の中枢では知っていたとも言われています。
 9・11のテロにおいても、アメリカの中央政府はすでに知っていて、アメリカの世論を「怒りの一色で動かして」イラク攻撃の理由に使いたかったのだとも言われています。


 いずれにしても、中国の人民軍は、自衛隊の10倍の軍隊です。まともに、ぶつかれば、日本に甚大な被害をもたらします。それを阻止するためにアメリカに、日本の政府は頼っての今回の安保法案なのでしょうが、その偏りが僕からすると外交政策のバランスの悪さだと思うのです。


 日本は原爆と、東北の原発事故で、核の恐ろしさを一番知らされた唯一無二の国なのです。そして、戦後に朝鮮戦争にも参加しなかったことが幸いして、高度経済成長を果たし、かつてはアメリカを凌ぐほどの経済大国にまでのし上がった国でもあります。だからこそ、安倍首相のかかげる「軍を出す積極的平和主義」ではなく「武力による平和解決を我々は求めない」と別の意味での積極的平和主義を世界に向けてアピールすべきだったのです。


 それを逆行するかのように70年も守って来た、憲法を200日そこそこの議論とも言えない話し合いの末、強行採決してしまったことは、悲しみを通り越し、日本の未来を憂いてしまいます。


 これから、子ども達に「人はやっぱり最後には暴力で制裁するしか、問題解決はできないのだよ」と教えることになってしまいます。


 集団でのイジメはいけませんと言いながら、皆が「正しい」と言ったら、それが正しいのだから、攻撃してもイイのだよと教えるのですか?


 日本が藩で仕切られ、藩が絶対で、藩の教えがすべて正しかった時代に、土佐藩から飛び出した坂本龍馬は「薩摩藩じゃち、長州藩じゃち、藩、藩、言いよっちゃいかんのじゃき!ワシらは同じ日本人ぜよ!」と叫びました。


 僕も最近は政府に叫びたくなっています。
 「日本じゃち、アメリカじゃち、中国じゃち、ケンカしちょっちゃいかんのじゃき!ワシらは同じ地球人ぜよ-!」


 すみません、こんなコトを書きたくて書き始めた10月のブログではなかったのですが、グチっぽくなってしまいました。


 でも、最近なんかモヤモヤしていたので、書いたことでスッキリしました。また、しっかりとブログを書きます。読みたい人だけでも読んで下さいませ。


 どうも、ありがとうございます。



※過去のえとうの関連記事 2003年12月2日 「失われた武士道を思って。」


あるよりも、たくさんの空っぽ

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 いつも全国を往き来していますが、連日、秋深しな日々を感じています。


 とは、言っても栗とか、秋刀魚とかを、ゆっくり味わっている余裕もなく、ただ澄んだ高い空であったり、日が暮れる時間帯の短さであったり、夜に感じる肌寒さの空気感ですが…


 僕たちの無意識が、感じる情報網は素晴らしく、意識に上る、上らないに関係なく、店先に置かれた柿や、ショーケースに陳列されたマロン味のケーキ、車を降りる時に感じる鈴虫の声、街にキンモクセイの香り、稲刈りの終わった景色など、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)のスーパー・センサーが無意識に取り込み、季節の変化を身体と心は感じています。


 「秋深き 隣は何を する人ぞ」は芭蕉の有名な句です。秋が深まり、元気な夏の熱風ではなく、赤や茶色の景色から吹く、さびしげな風を感じて、ふと目の前の人よりも、隣の住む知らない人とも感動や温もりを分かち合いたくなる…


 僕たちは、目の前の誰かのことを考えて、日々を生きています。恋人や、ビジネス相手、身近な人を中心に考えがちです。


 直接には縁のない人…
 街の歩道で過ぎ去っただけの人、エレベーターの中で乗り合わせた人、遠景の中に見える家、マンションの一室一室にも、人びとの暮らしがそこにあります。直接には縁のない人びとにも、喜びや、悲しみの深い人生があり、今この時を、誰もが一生懸命に生きているんだ!と「目には見えない連体感」を芭蕉のように広い心で感じていたいものですね。


 そんな心の余裕を、秋の静かな時間は感じます。


 ただ、秋風が吹くと、自分にないものを数える人がいます。ないものを数えるよりも、自分の生活の中にあるものを数える時間を意識することが大切です。落ち込みやすい人は、自分にないもの、人生に欠けたところを数える傾向があります。


 コップに半分しかないと言ってしまうより「コップに半分もあるよ!」と言えるには、心の余裕が必要なのです。それは、物質で幸せを感じる人と、心で、いつも穏やかに幸せを感じる人との差なのです。


 道元が中国から帰郷し「何を持ち帰りましたか?」と質問されて、「空っぽを持ち帰った(空手還郷)」と笑いました。「空」は「たくさんある」より無限大なの です。ある者(物)は失いますが、空には詰め込む無限大の広さがあり、また、空には増えてゆく楽しさがあります。「有(ある)」は、ただただ、今から失ってゆくだけなのです。


 有名な人は、無名に変わります。だから、無名は有名より安心です。


 そして、この世には、何も持っていない人は存在しないのです。


 誰にも今までの歴史があります。思いのままあやつれる手があります。高級なモンブランのペンはなくても、身近な机の上に目をやれば安物のペンはあるのです。どちらも書けます。ブランドの服はなくても、今この瞬間の貴方も服を着ています。そう、寒さは充分に防げるのです。


 そして、道元はこうも言いました。「目横鼻直!」だから、この世界は何も持っていない人などいないのです。と、目は横についているし、鼻は誰でも真っ直ぐ、 縦についている。「何と比べる?」と、「何が必要?」と… ただそのことに気づいた「心を持ち帰った(空手還郷)」と言ったのです。


 ありがたい経文を持ち帰ったところで、なんになる‼️と…


 石川啄木の歌に「友がみな われよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ」僕はこの歌が好きです。


 周囲が成功して、うらやましく思えて心が落ち込む時には、何のために生まれて来たのだろう???
「生まれて来なければよかったのに」と、心がしおれた時には、花を買って、自分にも自分を愛してくれる妻がいる。その人と花を楽しむ時間があるじゃないか。


 もちろん、福山君のように吹石一恵さんのような妻がいなくてもです(ここ笑うとこです)


 誰にも親がいる、その親が愛してくれなくても、ワンちゃんがいる、いやネコがいる。たとえ、ペットも、周囲に誰もいなくても「目横鼻立」の自分の身体がいてくれる。そう「セルフ・ラブ」です。自分をシッカリとHold me tight!です。


 だから、秋は「ある」ものを数える“実り”の秋にしよう。


 仕事のない人は、読書や自然とたわむれる時間があります。有名で人に囲まれていなくても、あわただしく人と会うよりも、身近な人とゆっくり語りあえる時間があります。愛する人がいない人は、運命の誰かは、あなたをこの広い空の下で待っている。う~ン最高


 さぁ、ゆっくり秋の薫を胸いっぱいに感じますか…









大河に流されない一本の柱のような生きかた。

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 やさしい、やさしい瞳で老人が言った「ゆっくり、ゆっくり歳をとりなさい。大切に時間を使いなさい。まるで素晴らしいものを味わうように…若い人には恋をする時間が必要なんだ、子どもが出来たら、子どもと過ごす時間が、友人がいるなら、友人と過ごす時間が必要なんだよ」


 「豊かさとは、物をたくさん持つことではないんだよ。君がたくさんの物を持つということは、それだけ自分の大切な時間を、物と交換していることになるんだ。物をたくさん持つことは、それだけ人生の時間を請求書の支払いだけに使ってしまっていることになるんだよ。そして、貧しさとは、物を持たないことではない、いくら持っても満たされない心が貧しいのさ」


 これは「世界一貧しい大統領」と言われる元ウルグアイの大統領、ホセ・ムヒカが語った言葉です。


 あの世の地獄には餓鬼が住んでいるそうです。相手を罵倒する時に「このガキ!」と言う語源になったのが、この餓鬼です。鬼の周りでウロウロしていて、いつも飢えているのが餓鬼です。
 生きている時に、欲張りで強欲な人が死ぬと地獄に堕ちて餓鬼道に入ると言われています。


 この地獄に生きる餓鬼には三つの種類があるそうです。


 一つは無財餓鬼で、ハダカで走りまわっている餓鬼です。


 二つ目は小財餓鬼です。これは少し財産を持っています。身体に布をまとってお腹が出て走りまわっています。


 三番目は多財餓鬼です。たくさんの財産を持っている餓鬼です。

 この多財餓鬼は地獄に住んでいるだけではありません。


 今の社会、現代社会にも生きています。そうです、食事が三食取れて、屋根のある家に住み、そこそこ普通の生活をしていても、何かに飢えていて、今の生活では満足できなくて、もっともっと欲しがる、心の飢えが止まらない人びとのことを「多財餓鬼」と呼びます。飢えは地獄にだけにあるのではなく、心の中にもあるのです。


 ムヒカ元大統領は、2012年にブラジルのリオで開催された世界環境会議での「伝説のスピーチ」が有名です。


 「現代のハイパー消費社会を続けるためには、商品の寿命を縮めて、できるだけ多くの物を売らなければなりません。10万時間持つ電球を作れる技術があっても、1000時間しか持たない電球しか作ってはいけません。また、売ってもならないのです。たくさん働き、たくさん売るためには、マーケットには長持ちする電球はいらないのです。その壊れやすい電球を買うために、人はもっと働き、大切な自分の時間を削り、その時間と寿命との交換に1000時間しか持たない商品を買うために人は、また働くのです。多くの人びとはこの悪循環の中に住んでいるのにお気づきですか…」


 環境問題の国際会議で、未来に環境を維持するための資源確保や発展する方策が議論される中で、環境問題に対する根本的問題は「環境問題は全世界の心のあり方の問題ではないですか?」と質問をまじえてムヒカ元大統領はスピーチをしました。


 「現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することが未来と環境には大切なことですか?」


 「ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てば、この惑星はどうなるのでしょうか。息をするための酸素がどれくらい残るのでしょうか?同じ質問を別の言い方でしましょう。西洋の富裕な社会が持っている傲慢な消費を、世界の70~80億人の人が維持できる原料が、この地球のどこにあるのですか?」


 「高価な消費、ライフスタイルの追求と言った、「豊かさ」という競争の中で、世界のみんなで未来を良くしていこうという、共存共栄が私たちに本当に可能なのですか? 資源と言う問題に対して、どこまでが仲間で、どこまでがライバルなのですか?」


 「 私たちは消費社会をコントロールしているのですか?その消費社会に人びとがコントロールされているのではないですか?」

 「なぜ、私たちはこのように消費することが幸せであるという社会を作り、その社会の幸せだけに支配されてしまったのでしょうか?」


 そして、最後に彼は「私たちは消費社会を発展するために、この地球に生まれて来ているわけではありません。幸せになるために、この地球にやって来たのです」とスピーチで、自分の思いを熱く語りました。


 彼の言うように、中国や韓国とのトラブルも、木も生えていないような島の問題ではありません。資源の問題なのです。


 この世界一貧乏な大統領は、給料の90パーセントを寄付し、小さな家と小さな畑、そして、友人からもらった中古のビートルが総資産です。彼は言います。人生は旅のようなものだと、旅に出るのにあれもこれも必要だからと50キロのリュックを背負うと疲れて歩けなくなる。人生で必要なものは少なくていいのさ…


 そして、 彼は子ども達にも語ります。


 ゆっくり、ゆっくり大人になりなさい。大切なものを味わうように…

 

 そして、いつの日か今の大人達に解決できなかった問題を、解決できる隣人に分け与えられる、心優しき大人になって行きなさいと。











人生は祭りです。

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 人生は祭りです。
 参加する側は楽しいけど、くだらないと言ってしまうとドンドン冷めてゆく。

 昔、ゴジラとの異名を持ち、国民栄誉賞を手にした松井秀喜選手は、高校野球時代から評判が高く、当時、長嶋監督に切望されて巨人入りしました。しかし、プロに入ってみると、見逃し三振と凡打の山を築き、やがて松井選手は二軍落ちになる。ある時、コーチに「松井!バットは振らなきゃ当たらないぞ」と言われて気づいた。自分自身は、ホームランを打つことにこだわり過ぎて、逆に打てなくなっていた我が身に。
 それからの快進撃は巨人、メジャーリーグを含めて誰もが知っている事実です。

 石橋を叩いて渡ると言いますが、慎重になり過ぎ、石橋を叩きすぎて、橋を壊して渡れないまま終わる人生もあります。「一か八かに賭ける!」と言いますが、丁(偶数)か、半(奇数)にサイコロを振る。「出たら目!」は、人生は出た方向にアクションを起こした方が、上手く行く場合があります。

 望む学校が不合格になり、泣く泣く行った学校で一生の友に出会うこともあります。また、入社を望んだ会社に落ちて、しぶしぶ、入社した会社で頭角を現し、その会社を大きくし、その後にヘッドハンティングされて、落ちた最初の会社以上の企業のCEO.になった人も多くいます。あの時に、死にたいと思った出来事があったので、今があると笑った人は、星の数ほどいます。

 予測を考慮して動いても、それは、目先の事だけでしかなく、長~い人生は誰もが予測不可能なのです。
 
 インディアンは言いました。
 「カラスの奴は、風を押さえて飛ぼうとするから、あそこまでしか飛べない。でも、イーグルを見ろ。奴らは風に身を任せることを知っている。だから、あそこまで飛べるのさ!人間だってそうだ。だから、風の吹くまま、気の向くままに、ゆだねた方がいい時もあるのさ…」

 乗る時には乗ろう!

 てなわけで、ハロウィン博多の教室で乗ってみました。



 次の僕の担当は金曜日の後編のハロウィン東京です。前編のメンバーは普通で来てね!
 金曜日のハロウィン名古屋は、他の講師ですが、名古屋で盛り上がって下さい。

 大阪スタッフのケイトのご主人、上田雄太くんが作ってくれた動画です。

 よければ見てください。雄太君に感謝です!






シラミつぶし

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 「 不安を取り除きたいのです」多くの人が持つ悩みです。誰もが将来に対する不安を抱えて生きています。不安のまったくないという人は少ないのではないでしょうか。

 

 より上手に生きたいと思っている人ほど、上手くいかなかったらどうしようと不安が強くなります。


 ギリシア神話にヘラクレスと言う半神半人の英雄がいました。ある時に道にある小さな塊(かたまり)につまずいてしまいます。いら立ったヘラクレスは、その塊を足でけりました。すると、その塊はボン!と大きくなりました。不安になったヘラクレスは、さらに足で蹴ります。すると、さらにその塊は大きくなってしまいました。不安になった英雄ヘラクレスは、剣を抜いて、その塊に斬りつけました。ところが、斬りつければ、斬りつけるほど、その塊は大きくなっていきます。やがて、ヘラクレスが手におえないほどに成長していったのです。それを、見ていた女神アテーナーが、ヘラクレスに言いました。「あなたが攻撃すればするほど、その塊は大きくなっているのではないですか?その塊は何も動いていません。あなたは剣を戻して、無視をしたらいかがですか」と、そこで「そうだなぁ」と納得して、無視をして歩き始めたら、その塊は小さく小さくなって消えてしまいました。
 不安もそれと同じようなもの、意識すればするほど、心がその不安に支配されてしまいます。


 考えても仕方のない不安は、今から拡大鏡で拡大しないで、今、目の前のやるべきことにエネルギーを向けることです。階段の先の扉を目指して最初の階段のステップにつまずく人がいます。人生もそれと同じ、一歩、一歩を生きるしかないのです。


 相手の陣地を奪うことのみを考え過ぎて、自分の陣地が奪われるチェスや将棋の素人ように。


 ほら、そこのあなた、笑顔あふれる未来の幸せを願いながら、今日の笑顔を忘れていませんか?


 今日の行動が、未来を写しだす、あなたの鏡なのだから。







愛からの逃避行

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 肉体的な暴力や言葉の暴言をふるわれても恋人から逃げない人がいます。


 幼い頃に家庭内にある暴力的な雰囲気の中で育つと、そこが故郷になることがあります。あんな親のようにはなりたくはないと過去から離脱する人と、過去をくり返すように、DVという故郷に帰る人がいます。


 やっぱり「自分は幸せになれない」と、幼い時に書いた脚本を書き換えないまま人生を歩いてしまうからです。


 またDVから逃げられない人の特徴は、自分が「あの人を救うの」と、聖母マリア願望があり、愛と服従を完全に取り違えてしまっているようです。


 「許す」ことだけが愛ではないのです。愛は相手の未来を願って「祈る」(離れる)ことも愛なのです。


 DVを受けた時、自分が傷つきたくないために「愛する人から逃げた」と自分の弱さに落ち込む人がいます。でも、愛する人に、もうこれ以上、過去かつての素晴らしい愛を傷つけさせたくないから、その人のために逃げることもあるのです。その愛を守るために…


 そばに寄りそうことだけが愛じゃないのです。逃げることも、また、その過去かつての愛への忠誠なのかもしれません。








ああ、カン違い

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 人間はいったん思い込んでしまうと「えっ?」というようなカン違いをしてしまいます。


 いい夫婦の日(11月22日)は、連れ合いを亡くした妻の母を誘い一緒に食事をし、その次の日、妻と中島みゆきのコンサートに行きました。


 チケット購入アプリから、僕が準備をしました。


 中島みゆきの「歌縁」というタイトル。


 会場でポスターを見て初めて、RESPECT LIVE⁇

 出演者、満島ひかり、研ナオコ、大竹しのぶ、平原綾香、中島美嘉、華原朋美、クミコ、坂本冬美、中村 中、安藤裕子、矢野まき???


 そう、そうなのです。中島みゆきさんに楽曲提供されている歌手や、役者たちが、自分たちが選曲した中島みゆきの曲を歌っていく、まさにリスペクトライブ ‼︎


 だから、中島みゆきさんは最初から最後まで出ずじまい
 「中島みゆきさんのコンサート」をワクワクしていた妻からは「いろんな歌手や役者さんをたくさん見られて良かったよ」と僕のカン違いへの慰めと、慈愛に満ちた発言をもらい…僕も好きな選曲の数々に、満足したコンサートではありました。

 大いなるカン違いが続くほうが、結婚生活は長続きするという調査結果があります。


 周囲から見たら「あの二人は馬が合わないだろう」と思っている周囲の評価と、「二人は馬が合う」と思っている当人たちの評価にひらきがあるほうが、結婚生活が持続するという研究論文があるのです。


 僕の友人の中にも、不釣り合いな夫婦がいます。奥さんは陽気で楽天家。ご主人は、心は優しいのだが、心配性で無口な人。


 奥さんが「今日は子ども達が休みだから美味しい物を食べよう!」と言うと、ご主人は、 昨日の残り物がまだあると言わんばかりに冷凍室から昨夜の残りの物を出してくる。
 子どもたちが家で工作をしていると、奥さんは「創造的な遊びだわ!」と顔をほころばせ、ご主人は、リビングが散らかってしかたないという顔をする。
 ご主人が自室で、趣味に没頭して家族に会話がなくても、奥さんは「あの人は趣味に没頭していると、子どものように瞳がキラキラしているのよ」と笑っている。


 彼女は友人から「あんな偏屈で神経質な人とよくやっていけるわね」と言われると「あら、夫はあれで幸せなのよ、あんな風にしか、自分のことを表現できないだけなの」といつも笑っている。


 周囲からの評価と、夫婦同士の共同幻想にギャップがあればあるほど、愛は持続すると論文は語っています。


 周囲には「それカン違いだよ!」と苦笑されても、夫婦同士は、カン違いと思わないから、それぞれの夫婦の面白さがあり文化があります。


 パートナーに、どこまでカン違いを膨らませ、欠点を長所に変えていけるか、これを「幸せのバイアス」と呼んでいます。


 夫婦生活を長続きさせるポイントの一つは、先に紹介した夫婦のように、この共同幻想を膨らませることにコツがあるようです。


 しかも、この共同幻想にはステキな副産物がついてきます。長い間一緒に暮らすうちにパートナーが、こちらの幻想どおりの人に変わることが多々起こりえるのです。


 僕の妻は、その幻想を膨らませることのプロです。


 先のコンサートの件でも「でも、その失敗したことを、ひっくり返して楽しくするから、いつも強運だなぁと感動するのよ」と目を細めて笑ってくれます。


 こちらのおバカなカン違いに、妻がさらに夫を良いようにカン違いし、その相乗効果が気分を良くさせてくれる。これを世にいう「馬鹿(バカ)ップル」と言うのでしょう。でも、この共同幻想が夫婦の持続の本質だと論文は言うのです。


 僕はせっせとカン違いをしながら、妻のカン違いの「ラッキーな結末」に、帳じりを合わせようと意識的にも、無意識的にも挑戦しようとする。


 中島みゆきのいない「中島みゆきのコンサート」は結果として「今度こそ本物を観に行くぞ!」の次の目標に心が向きます。


 二人の関係を育てるのは、周囲や外野の冷静なる意見を取り込んで、パートナーを冷めた目でイライラしながら眺め、日々を過ごすことではありません。


 良いところも悪いところも、お互いに共同幻想を作り出し、相手のマイナスに見える中にも、隠れた可能性を見つけ出す努力が必要かもしれません。そしていつの日か、ただの幻想だと思っていたことが、ある日、現実になって目の前に現れる。それこそが人生の幸せの番狂わせなのです。


 この幸せのカン違いは、子育てにも、夫婦にも、部下指導にも、幸せへ向かう道しるべになるようですよ。


 めでたし、めでたし!


 しかしなぁ~、そんなに上手くいくのかなぁ…


 いかんイカン、またもや「現実」と言う魔物に飲み込まれそうです。


 幻滅(デスイリュージョン)を、「ホースの力」で、幻想(イリュージョン)へと導くのじゃ‼️











口開裁判

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 司法試験に落ちた教え子に、司法試験の問題を教えた大学教授がいました。司法試験に落ちて泣いている教え子の姿をみて、自分の娘が泣いている気持ちになって親心で、ついつい全て(名誉・家族・信用)を失うことを忘れ、自分が作った問題を何度もチャレンジさせ、完全な答えに仕上げたという。その完全なる答えゆえに事件は発覚した。司法試験を作る側であり、司法を指導している立場にいながら、この教授の行動は愚かだと僕も思う。


 常識や一般論で言えば…報道番組では、コメンテーター達が注目していたのは「娘というよりも異性に対するようなお付き合いだったのじゃないですか?」とゲスな勘ぐりがスタジオ中に広がり、司会者もコメンテーターも冷たい含み笑いを浮かべていた。


 でも、僕は人間には、そんな弱さがあるように思える。目の前で愛する人が泣くほど落ち込んでいると、立場を忘れてしまい、その愛する人にテコ入れしたくなる「魔がさす瞬間」があるのではないかと。それを想像もできないとは言いきれない。それが娘でも、恋人でも、友人であっても。それが人間の持っている愛情という名の愚かさかなのかもしれません。それを「考えられない」「想像すら、私にはできないですね」「エロ教授だね」と正義をかざして責めるコメンテーターのほうが、僕からは想像もできない遠い存在のように思えてならない。


 だから、テレビのコメンテーターにテレビ局から誘われても、僕が引き受けなかった理由なのだと思う。


 こんな時に僕は、ボソッと「人は弱いね…」と言ってしまいそうで…いやそう言えるなら、まだ出演したのかもしれない。そう言える強さがあれば自分でも納得ができよう。でも、周囲に合わせて「ありえないですよね」と、もし僕が、したり顔で周囲の顔色を気にして言ってしまったら、僕は僕がキライになりそうでイヤなのだと思う。いや逆に、周囲に同調してしまう弱さが、自分の中にあることを薄々、僕はどこかで知っている。だからコメンテーター達に自分の影を投影して不快な気分になるのだと思う。そして、誰かの愚かさに冷めたく切り捨てるコメンテーターに、僕の中にあるシャドーが反応して嫌悪感を持ってしまうのだろう。


 この愚かな教授が被告人席についてすぐに「あなたの今の職業は?」と、裁判官に聞かれ「東京都在住で、無職です」と名乗った。その彼の言葉に、家族の悲しみと、権威から落ちた人の哀れさを感じた。


 その前にあった報道内容が「蛍火の墓」の作者で「オモチャのチャチャチャ」の作詞家であった野坂昭如さんの死去があり、大島渚監督の結婚30周年で、大島監督が自ら野坂氏に祝辞を頼んでいたのに、野坂氏の祝辞を飛ばして別の人を次々と指名したことに野坂氏が腹を立て、待たされている間に泥酔してしまったこともあり、祝辞を述べた直後に大島監督を殴ってしまった経緯がある。そのシーンが何度もテレビで流されていた。

 ステキな文章や、愛のある歌を作る人も、その順番を忘れられたことに対してメラメラと腹が立って、突然に子どものように友人を殴ってしまうのです。


 テレビ画面に映る、祝宴の壇上で主役に殴りかかる場面は、非日常なシーンだけに「え~⁉」ってかなりの衝撃でした。祝辞を読み終えた直後に、親友にパンチですからね。


 ところが、そのシーンに対してコメンテーター諸君は「野坂さんは間違ったことには、向かって行く人だから」「自分の思ったことは貫く人」「また、時代の風雲児が消えました」と、愚かな愛にすべてを失った教授には冷たく、死んだ作者には、寛大な笑顔でのコメントが続く…


 上げたい人を上げ、下げたい人を下げる。それが番組作りなのでしょう。


 司法試験漏えい裁判をとり行った裁判長も、今まで司法の権威者だと思っていた人の、あまりにも幼稚な犯罪に、裁判長みずから質問を投げかけたにもかかわらず「もういいですよ。あいまいだから」と呆れた顔で「答弁している元教授に、冷たく言い放って、答弁を途中で切り捨たようです」と裁判を取材していたスタッフが語る。「そらそうでしょうよ。裁判官も、やれやれって感じでしょうから」「自分達と同じ出身の司法の信用を地に落としたんだから」とコメンテーターの冷ややかなコメントは続く。


 そう、権威から落ちた人には、世界は牙をむく。地に落ちた過去の権威者に、冷たくなるのは世の習わし。


 そんな、愚かな愛にすべてを失った教授に対する、裁判長の冷たさも、僕の中にも、やはりあるのでしょう。心の闇のどこかに影として存在するから、僕はなぜか失語症のごとく無口になってしまう。


 聖書の中に、不貞を犯した女性に、村人たちが石を持ち、皆で石を打ちつけ、その女性を処刑しようとした、まさにその時、村人を制止してイエス・キリストはこう言い放った。「あなた達の中で、一度も人生で、罪を犯したことがない人から、その愚かな女性に石を投げなさい」と。そうすると、処刑場から一人一人と村人が首をうなだれて出て行き、イエスと女性だけが残った。


 そのあいだ、イエスはうずくまって無言で床に文字を書きながら祈っていた。やがて「女よ、皆は、どこに行った?」とイエスは女性にたずねました。「村人たちは、皆、ここから出て行きました」そうか、では私も出て行こうと、その場所からイエスは出て行かれたそうです。


 今の時代も、あの頃の村人たちのように、人は出て行くのだろうか?自分達のことはさて置き、皆で女性に石を投げれるような気がしてならない。あまりにも知的な司会者と、常識的で正しいコメンテーターの発言を聴きながら、僕は公開処刑場のようなテレビのスイッチを切った。


 愛に愚かな教授も、子どものような野坂さんも、その同業者の犯した罪に冷ややかな裁判官も、きっと、僕の中にあるから、誰も正義の刃で斬りつけたくはない。だから、僕は無口になっている。


 いや、僕からは一番に遠い距離にあるだろうコメンテーター達が、誰かを正義の刃で、裁いている中で「そうなのかなぁ…人には、そんな愚かなぁところがね…あるのでは…」と自分の意見を言わないで、周囲に同調してしまう風見鶏的な発言も、きっと、僕の中にある。


 だから、僕はこうして細々とブログを書いています。どこにも持っていけない、やり切れない思いとともに。


 そう、今にも消え入りそうな反骨精神だけを頼りに。


 そして、イエスは、こうも言った「汝、人を裁くなかれ、いつの日か、自分がその正義で、誰かに裁かれないために」と…







にぎやかな後に...

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 クリスマスや、歳末は何だか街が騒がしいです。


 そんな時には、孤独な自分を感じることがあります。にぎやかな街の人々の中を、足早に通り過ぎ、自分がどこに向かっているのか分からないそんな夜… みんなが楽しく乗り込んだバスに、自分一人だけが見送っているような、そんな気分…


 そんな時に、ふと立ち寄れる居場所を僕は作りたかった。そんな悲しい時に声を聴きたくなるような人になりたかった。


 孤独は誰にでもあるのだけど、そんな時に、あそこにたどり着けば、何とかなる場所、人、そんな男になりたかった。 やっぱり昔も書いたように、僕はマジョリティーより、マイノリティーの味方でいたい。


 誰もが、それぞれの孤独を抱えて生きています。どんなに幸せそうな奥さんも、どんなワンマンな社長さんも、塾帰りの子どもも、訪ねる家がなく町をさまよう営業マンも、受け取ってもらえないティッシュを配っているアルバイトも…そして、寒空の下に、さ迷う捨て犬も。


 光輝く街を見渡せば、その先の路地の中には、置いてきぼりにされた孤独が、そこに、あそこに落ちています。


 そんな時に、そこに行けば助けてもらえる。そんな場所が作りたかった。それが、僕の仕事。教室はそれを現実化した空間です。

 でも、誰もが知っているここの教室を出ると、それぞれの孤独の戦いが待っている。だからこそ、皆の笑顔が大好きです。


 誰かを癒しているのか、僕が癒されているのか…祭りの後は、それぞれのフィールドでの沈黙の瞬間が待っている。


 でも、あの屈託のない笑顔を思い出せれば、また、その孤独も乗り越えられる。

 その笑顔の中に、いたんだと思える記憶があるから。その記憶があれば 孤独も友だちになれる。ねぇ、そうでしょーみんな!









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