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Channel: 日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき
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あせらないで歩もう!

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 新年を迎えました。


 自分を変革する時は、竹の節目のようにキッカケが必要になる時があります。新年であったり、誕生日であったり、引っ越しであったり、入学であったり、失恋のような悲しい節目であるのかもしれません。


 もちろん、「何か変化しなければいけない」と思わないで、今まで「自分の成長」のみに、いつも追い立てられていた人は、今の自分で大丈夫。変わらなくても自分は充分に満ちたりていると「変革にこだわらなくなる」変化もあるのかもしれません。


 そう、今までは、小っぽけと感じていた自分の頑張りも、変わらない日常の日々にも、ありがたさを感じて「成長すること」にムキにならない変化もあるからです。


 なぜなら、「成長」「進化」とムキになることは、今の自分を否定したり、嫌っていることからスタートすることが多いからです。


 「不安からスタートした行動は、よりその背景にある不安を強める」というのがメンタル心理学の基本です。


 そう考えてみると、「変化」「進歩」「変革」と声高に叫ばなくても、人は何らかの方向へと変化していくものなのです。


 新年を迎えてなんだか、あせり、不安、追い立てられるような気持ちになっている人は、少し深呼吸しましょう。「大丈夫です」人に変化はつきものなのです。


 昨年の大晦日から元旦にかけて、そして、今日も「あなた」の中の細胞は、古いものは新しい細胞にバトンを渡し、細胞は刻々と今も入れ替り変化しているのです。ですから、あなたは日々刻々と変化しています。また、この瞬間も、地球は1700キロメートルの速度で自転しています。もし、地球外に出れば、僕たちは1700キロの速度で走らなければ、同じ位置にいられないで取り残されるのです。そして、この太陽系の星々もビックバンからずーっと、もっと早い速度で宇宙全体に広がる旅をしています。


 変化しようとするあなたも、変わらない日常を楽しめるあなたも、それ自体が変化の中にいるのですから。何もあせることはないのです。時には風にまかせて変化する雲のように、静かな変化も楽しみましょう。


 王子さまは言いました。「みんな特急電車に乗り込むけど、今ではもう何を探しているのか、わからなくなっている。だから、みんなは、そわそわしたり、どうどうめぐりなんかしているんだよ…」

   サン=テグジュペリ 星の王子さま より


 ゆっくり深呼吸して、2016年の新しい今の空気を味わいましょう。














急がば回れ!

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 人生80年、1、2年まわり道して何が悪い。

 「回り道が、近道だった!」ってことは後になってわかるもの…

 回り道か、最良の道だったかは、その後の成功しだい。

 誰もが、絶対と思った道が、後になって落とし穴だったなんて事はよくある話。


 その子が6年生で解けなかった問題を、自分の力で大人になって、その子の力で解けたら立派なもの。6年生で解けた問題の数々を、大人になって忘れてしまう一夜漬けの記憶じゃ意味がない。


 子どもが学校に行かないとなげく母たちよ。1、2年棒に振っても何が変わるというのか。外の世界にふれ、もう一度、子ども達が心から学びたいと思った時に、学べる場所があればいい。それが、ステキな学校なのだと思う。そして、社会という学校の中で学べる学びもあるのだ。


 恋は盲目だと言うけど、盲目ではいけないと思うから苦しくなる。盲目なら盲目の恋を楽しめばいい。「盲目」と自覚できているなら、どこかはシッカリと目覚めている。失恋が苦しいなら、苦しい失恋を楽しめればいい。そんなに、苦しくなるほどに胸を痛める失恋を、人生で何度できると思うか、バカ者め!


 それは、命が燃えている証拠じゃないか。


 無駄だと思うから、すべては無駄に思えてくる…

 無駄だと誰が決めるのか?人がなんと言おうとも、自分が認めなければ無駄にはならない。人の意見に踊らさられるな、弱気者よ!


 こんなブログを書いていた時に、新幹線が福山駅に停車した。


 新幹線から見えるお城に海外からの観光客が写真を撮っている。新幹線と歴史のあるお城。ステキな組み合わせだと思った。 


 できれば、新幹線を通す時、京都なり奈良なり、各地の名所を車窓から見られるルートを通すと言ったアイディアは当時出なかったのだろうか?

 もちろん、環境や景観の問題もあるだろうが…


 そんな夢想をイメージしていると観光立国を目指そうとする日本は「オリジナルな歴史があって美しい」と誇らしく思えた。日本の史跡は、海外から来た新幹線の乗客に、それなりのアピールができたであろうにと…


 新幹線が開通した当時の日本は、高度成長期の真っ只中。最速到着を目指す新幹線に、そんな最短路線を無視した、子どものようなアイディアは、当時も、今も一笑に付すような夢想でしかないのだと、自分の幼稚な想像に苦笑した。


 ついでに言わせていただくなら、僕はあの「岩ガキ」みたいと揶揄された、新国立競技場は嫌いではなかった。近未来的で、流線形のフォルム。


 何か未来に日本を新しく引っ張ってくれるような気配がして。シンガポールの街は観光産業で成功している街です。それは、マリナーベイサンズやガーデンズ・バイ・ザ・ベイなど斬新な建物に頼るところも大きいのです。

新しい新国立競技場も一生懸命にアイディアを出した人がいるので、悪くはないのだけど、海外から見て「パッ!」と目を引くなら、岩ガキかな(笑)



 これはあくまでも好みの問題です。
 
 もちろん、わかっています。予算がですよね。でも、紆余曲折のすえオリンピックのシンボルマークも全国の公募で決めるのなら、未来の日本のため新国立競技場の建築費の不足分も、全国勇志者から募金をつのればよかったのにと、また、幼稚な夢想に心は遠回り…


 近道、遠回り、未来から見たら、どっちが成功だったの?


 スピーディな新幹線の中で、僕の心はいつも、そんな遠回りも楽しんでいる。


 昨年5月25日のブログで紹介した香葉村真由美さんとの講演会が、いよいよ今週末になりました。関東地方で会場に来られる方は、現地でお会いできるのを楽しみにしていますワクワク!













清々しいケンカ

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 「衛藤先生は奥さんとケンカすることなんかないでしょう」「いえいえ、ありますよ」「え~先生、ケンカするんですか!」「もちろん、殴り合いのケンカはしないですよ。でも、意見のズレの対立はありますよ。無いほうが健全ではないでしょう」


 よく「うちの夫婦は、対立はないですなぁ」と、自信を持って言われる人がいます。でもそれは、どちらかが、対立した時の「イヤな雰囲気」を味わいたくないから、それを避けて、我慢して、見かけの上で平和を維持しているだけの場合も少なくはありません。


 「うちの夫はケンカすると、こちらの話を聞かないで、理論的に言い負かされてグウの音もでないくらいイヤな気分になるので何も言いません」「言ったら最後、100倍になって返って来るから、あきらめています」対立を相手が避けている場合もあるのです。


 このように、対立がない夫婦は、決してそれだけで「いい夫婦」だとは言えないのです。


 対立には「破壊の種」と「理解の種」の双方が宿っています。


 人と人が一緒にいれば、お互いに違いがあって当然なのです。「あなたは間違っている!」は、「対立している同士の『間』に違いがありますね」が「間違い」の本当の意味なのです。


 ですから、間違いを否定的に感じることはありません。そう、今「お互いの間に違いがあるね」と言う確認なのです。だから、対立は、そのお互いの違いのズレを理解し合うキッカケにもなります。


 いいケンカをすればいいのです。意見の違いを伝え合って「相手は、そんな気持ちだったんだ」「相手は、それを気にしていたんだ」と分かり合えば理解の道も開かれます。


 でも、Youメッセージで相手を責め合うと「破壊の種」になります。

 相手の話をアクティブ・リスニングで聴き、自分の気持ちを正直にIメッセージで自分を開示することです。


 そして、メンタルの心理学ゼミでは、対立はしても気持ちよく解決できる、必殺ワザの「Win-Win解決法」があります。


 だから、決して意見の違いを恐れないで「気持ちよかったね!」と言えるような清々しいケンカをしましょう。


 子どもとのトラブルを抱えた家族には「衛藤先生から、うちの息子に言って下さい!」または「先生の教室に行けばなんとかしてくれますか?」とか、「学校に行かないので、外国の学校に行かせればなんとかなりますかね?」と、いつも他人まかせで子どもと向き合うのを避けているご両親に出会います。

 父親は「ヤツは言っても変わらない!」と、家族の前で苦虫を嚙みつぶすだけで、自分の子どもと向き合わない。


 傷つくのが怖くて、恋人に自分で告白できない若者が増えてもいます。部屋の中でコミュニケーションした気になる人もいます。生きたリアルなコミュニケーションを避けたがる。ですから、カウンセリングやコミュニケーションも通信教育で学ぼうとします。


 ある時、娘と電話をしていて、僕が電話を切る前に「わかった!」と、娘に先に電話を切られた事がありました。もう、中学生になっていたので、もう一度、僕は娘に電話をかけて「もしもし、今、パパよりも電話を先に切ったろ。悪気がない事は分かっているけど、大人になったら、お前が、いつか誰かに注意されるだろうから、今、パパが言っておくな。目上の先輩や上司、年輩者が切ってから電話を切りなさい。それが、マナーなんだ。分かったか、気をつけろよ」と、娘より先に電話を切ってあげました。


 もちろん、面倒くさい父親です。わざわざ、電話をかけ直すなんて、と僕も思います。でも、愛しているから娘に向き合う(対決)のです。娘に嫌われたくなくて、猫なで声を出してストレスを与えなければ、愛される父親になることはたやすいことです。でも、愛しているから嫌われる事を覚悟で大切なことを伝えるのです。


 それも愛です。愛は時には厳しさも必要とする時があります。目先の心地よさの関係ではなく、遠い未来の相手の心地よさのために厳しく向き合うのも教育の側面でもあります。


 だから、向き合うことを恐れないで、清々しいケンカをしよう。


 清々しいケンカを学びたければ、メンタルにコミュニケーションを学びに来て下さい。




 そう、リアルな生きたコミュニケーションを…








新たなる虹の仲間たち

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 研究プロコースの卒業パーティーが感動の中に終了しました。


 それぞれのスタッフも、多くの参加者をお迎えするために連日ハードな日々を過ごしました。ご苦労さまでした。最高のスタッフに囲まれ、僕は幸せです。


 「人の幸せを願う人は、自分も幸せになれますね!」


 最初の挨拶に丸山先生も声をつまらせ、オープニングのレーザーとムービングライト、スモークがたかれた会場は期待感で胸がいっぱいになりました。







 ホピ族の予言に、この世界は滅びるという恐ろしい予言があります。


 人は自分勝手に行動し、自然や生き物とのつながりを見失い、破壊し、青空を汚した。何よりも母なる大地が悲しんだのは、人と人との関係ですらも見失い始め、これ以上「人類を生かす必要があるのか?」と、母なる大地は人類の浄化を始めた。最近のハリケーンの巨大さ、地震の頻発の増加、天候の予測不可能な乱れ。それは、もうすでに始まっていると思える気候データが世界の人々の未来に影を落としています。


 アリゾナでアメリカインディアンと生活した時に、僕は希望の予言も知りました。


 ホピの浄化のプロセスが始まると「虹の戦士」たくさん現れる。その虹の戦士は、人と人との関係を取り戻し、人と自然の関係を調和させることができるなら、母なる大地は浄化のプロセスを即座に停止するだろう。


 メンタルの心理学を学ぶ受講生の中で、憎しみでこり固まっていた心が溶けだし、未来の自分のため、誰かのために産まれ直そうとする人たちを見ていると、人は変われるし、そんな、受講生の中に、たくさんの虹の戦士を見出すことのできるステキな卒業式でした。





 メンタルの講師のパフォーマンスは、今回はスゴイ挑戦をしました。


 今回のバージョンをお見せできませんが、過去のパフォーマンスはお見せしましょう。



 2次会も盛り上がりました。





 卒業式後の教室で卒業パーティー参加者から感謝の手紙をいただきました。



 <衛藤先生へ>


 メンタルプロフェッショナルコースまで受講できて、とても楽しかったです。 仲間のいることの大切さ、安心感、相手を信頼すること、沢山学びました。 “楽しく生きるとは?”と思いながらメンタルに通い始めて、プロコースを終了した後、ふと気づきました。

 今まで、色んな本を読んだり、人からお話してもらっていたはずなのに心で納得できなかったことが、メンタルに来てやっと心に落ちました。


 楽しいことを探すのではなくて、“今、ここ”を楽しむことが大切なのだと気づきました。


 卒業パーティーが終わり、やはり先生方に感謝の気持ちを伝えたいと思い手紙を書きました。


 本当にありがとうございました。


 これからも心の勉強を続けていきます。


 2016.2.7
       T.R より



 僕たちこそ、みんなに感謝です。










進化せよ!

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 人には恒常性(ホメオスタシス)と言うものがあります。

 体温を保ち続け、ケガをしたら修復し、病原菌が進入したら免疫システムが病原菌を攻撃し、常に健康で安定した状態を保とうする力のことを恒常性といいます。

 ですから、僕たちは恒常性のおかげで健康な身体で生きていけるのです。

 人間関係の中にも、生活の行動パターンにも、恒常性があります。

 そのため「変わりたい」と言いながら、変わろうとしない人がいます。

 安定したパターンは、今まで通りを維持すればいいので「緊張」や「不安」を感じなくてすみます。でも、新しいことへのチャレンジは「緊張」や「不安」がつきまといます。だから、人は「変わりたい」と言葉で言っても、新しいことに挑戦することには不安や戸惑い、さらに緊張がともないます。

 野球選手が投げるフォーム変えたり、ランナーが走るフォームを変えると一時的に、前よりも結果が悪くなる時があります。ですから、勝負のかかる大切な試合では、自分のフォームを変えることに不安になり、今まで通りの自分のパターンやフォームに戻ってしまいます。

 このように、人は変化を嫌います。

 子供に「自立しなさい」と言いながら、子供がひとり立ちする段になると「あなたは私がいないとダメなんだから」と、スグに子供の生活に手出しして、自分の存在を子供にアピールする親がいます。

 娘に「結婚しなさい」「早くいい人見つけなさい」と言いながら、結婚しようとすると「家柄」とか「学歴」が、または「定職についていない、あの人で大丈夫なの?」と無意識で娘の未来に不安感を与えて、無意識に結納を阻止する親もいます。その結果、破談になると「どうして、お前はダメなのかね?」と、自分が不安感を与えたことは忘れて「お前には私がいないとダメね」と、娘を自分の側に縛り、無意識に娘を責めて自信を失わせるのです。

 怖いのは、このような親は自覚性がありません。だから、無意識の作用なのです。「私は娘の幸せを祈っています」と言葉で言いながら、つぶさに観察していると、親が娘の自立の障壁になっている場合があります。

 恋愛の心理にも似たような事例があります。

 幼い頃から暴力的な家庭で育った子どもは、家庭内にある種の緊張と、暴力が存在していたことが家庭のベースになっていますから「暴力をふるう男性なんて大嫌い」と思っていたのに「付き合う人、付き合う人が、暴力的な人に出会ってしまう」と相談に来る人が多いのもこのためです。緊張と不安が幼い頃の「ふるさと」だったので、その「ふるさと」に無意識に帰って行ってしまう。



 これも生活の恒常性と言えるものです。

 メンタルの教室でも、不思議と前の席のほうが前向きな人が多いのに、自分が「変わりたい」と言っても、後ろの目立たない席にクセのように座る人がいます。もちろん、言葉では理由をアピールします。「光がまぶしくて」「首が疲れるから」と…

 でも、ゲシュタルト療法や森田療法では、「無意識」は行動を支配すると教えます。無意識に前向きになることに抵抗をしているのです。

 言葉は「意識」。でも行動は「無意識」が支配されることが多々あります。だから、行動のパターンを見ることは、カウンセラーとして大切な作業です。言葉では「急がなければ」と言いながら、必ず、同じ時間に出社してしまうのです。その瞬間の寄り道や、歩く速度も、その人の恒常性が反映されています。

 「前向きですよ」と言いながら、前向きになる自分に不安をおぼえ、皆と笑っている自分に、ふと「これではいけない」と、笑っている自分に不信感を感じる人がいます。こういう人にも恒常性が働いています。だから、変化することに極度に抵抗をしてしまうのです。

 教室でも、講演会場でも時折このような抵抗をしている人を見かけます。

 子どもがカウンセリングを通して、自分をとり戻し、自分の意見を言い始めると「この子は素直でなくなった!」と怒りだして、カウンセリングの中断を求めて来る親もいます。この親にとって、子どもは心の病気になってでも、過剰に親の期待にこたえて、親の夢(進路、結婚)に従順にしたがい、親を喜ばせる道具になってくれれば良いのです。病的な関係性にも残念ながら恒常性は働くのです。

 また、他人に後ろ向きな恒常性を求める人もいます。

 笑顔が増え、前向きになって来た人に、攻撃する後ろ向きな集団もいます。「なに意味なく微笑んでいるの?」「あなたさぁ、急に、なに⁉︎良い人になっているの?バカみたい」「人なんて、皆、しょせん変われないのよ」「人間なんてみな自分が可愛いのよ。何、夢持ってるの?」と…

 気の弱い人ほど、その言葉や集団のシラけた恒常性に引き戻されてしまいます。

 でも、僕は思う。そんな恒常性に引っ張られないで「成長しよう!」

 人は幼児期から、少しずつ変化をしながら成長します。その時には不安と緊張の連続でした。自転車に乗ること、水の中で泳ぐこと、逆上がりにチャレンジすることも…

 その新しいことが出来た時のことを思い出してごらん。

 「変われない」と言う心の緊張と、「変わりたい」と思う勇気が、安定した恒常性に「ゆらぎ」を起こし、少しずつ「変わりたい」にシフトを変化させながら、人はまた一歩先に進むのです。

 自分の冷めたニヒリズムと、人の高笑いなんかに惑わされないで、海から陸にシフトした先駆者のように「変われない」という恒常性に、少し揺らぎを起こし、新しい自分に進化しよう!

 負けるな!












傷つきやすい心

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 若者自殺が後を絶たない。


 先日、ついに学校の入力ミスで他の生徒の「万引きの記録」を、間違われて入力された生徒が「私立高校への校長推薦が出来ない」と担任に言われたことで自殺に至るという悲しい事件がありました。


 担任と4回面接をして、5回目の家族を入れた三者面接、直前の自殺であったそうだ。


 担任に、「あなたは一年の時に、万引きをしたでしょ!」と言われて「あっ、はい」と答えたらしい。ただ、「あ!はい???」かもしれません。もちろん、学校の聴き取り調査だから真実かどうか分かりません。


 ただ、他人の犯した罪を、パソコンの入力ミスで、他人履歴と自分の履歴を間違われての推薦取り消しの自殺であっただけに「学校のズサンな対応」「学校側と生徒の間に権威の壁があり『それは違っています』と言える雰囲気が今の学校にはないのだ」「先生が『あなたは万引きをしたでしょ!』と最初から決めつけているのはけしからん!」とテレビのコメンテーターも学校側に、憤りを隠さない。ましてや当初、自殺した生徒は「急性の心不全」と偽って、保護者たちへ虚偽の報告をしていたのだから、さらに学校側は弁解の余地がない。


 これは、あってはいけないことです。


 ただ、僕はどうしてもニュースを見ていて気になることがあります。


 それは死を選択することへの安易さです。状況がどうであれ現実と戦わないで死を選択してしまうことへのスピードさです。


 なぜか、戦時中の生きることが大変だった時代には自殺者が少なく、敵の恐怖も爆撃の不安もない、平和な現代のほうが自殺者が増えているのです。もちろん、戦時中も自殺が無かったわけではありません。

 「敵の辱しめにあうなら」と集団自決です。でも、これは軍国時代の洗脳によって行われた自殺で、今の自殺とは質が違うような気がします。


 現代の自殺は、死に向かうスピードが異常に早いのが特徴です。


 日に日に科学テクノロジーは便利で豊かになってゆく。コンビニは24時間営業し、夜間には店が開いているから我慢する必要はありません。面倒な家族との会話から逃がれて、携帯電話で気の合う友人との会話は話し放題。その友人との会話すら面倒なら、一人スマホのゲームに参加すればいい。室内では冬は暖かく、夏は涼しくが実現され、食べ物で飢えることもない時代の若者からは「苦しみに耐える能力」が失われていく。


 モラハラ、セクハラ、パワーハラと、ハラスメントも年々増加傾向にあります。学校では生徒がちょっとした注意に「それ先生パワハラじゃない。教育委員会に行きます!」と逆パワハラと言える言動をすることも多くあります。


 心理学ではパッシブアグレッシブ(受動的攻撃性)と言う言葉で表現されています。「傷ついた、傷ついた」と弱者や被害者をよそおい、相手を受け身で攻撃する心理です。


 仲間に「急げよ」と言われると、「僕・の・ど・こ・が~お・そ・い・・・の~さ」と、よけいにグズグズした態度をとり、周囲の仲間をさらにイライラさせ、パッシブアグレッシブで周囲の友だちに復讐する子どもがいます。


 関西の学校で、ツバを手にこすりつけたり、鼻をほじって、給食を配るので、友だちから「〇〇君の給食は食べたくない」と仲間に言われたことで「クラスメイトからイジメにあった!」と母親から教育委員会に報告がありました。そして、その子の母親は、そんな言動をした子どもの親たちに「ウチの子どもに土下座をして謝れ!」と学校内で怒鳴ったのです。そして、その母親は「給食を配らないで」と言った、子どもたちの家のポストに「お前は人をイジメたのだから、一生、人生は呪われて二度と、はい上がれない」と投函してまわったのです。


 現代は教育委員会をはじめ学校も「イジメ」と聞くと、ある種の過剰アレルギーがあり、先生たちは、その事件以来、その生徒に気をつかって当たり前のことも注意ができない状態が続きました。それをイジメにあったと訴える当人は、やはり鼻の穴をいじりながら「先生や、大人なんてチョロいよ」と友だちに自慢気に話をする始末。


 だから、周囲の父母は触らぬ神に祟りなしと「あまりあの子には関わらないで」と、よけいに地域周辺から孤立してしまう結果になる。


 もちろん、ハラスメントで、人に迷惑をかけ、人を傷つけても平気な人もたくさんいます。でも、一方で傷つかない強い人格を作ることも、学校や家族の急務なのではないでしょうか。


 最初に書いた少年や、本当にヒドイ、イジメの屈辱に耐えかねて「死」を選ぶこともあるのかもしれません。でも、長い人生は、いつも思うようにならないことの連続です。その曇りの中にも、垣間見る笑える日もあるのです。また、自分にふりかかった濡れ衣に最後まで抗議し、勝利した時に、自分の人生を切り拓いているという自負心、自己信頼感も味わえるのではないでしょうか。


 だからこそ、死をすぐに選ぶのは、生きたくても生きられなかった人への「生」への冒とくのような気がして、僕はノーコメントになってしまう。


 「君、死にたもうことなかれ」











自分と楽しいデート

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 今日は久しぶりに一日たっぷり休めた。




 家族もワケあって出かけているので、ゆっくりとした自分との時間。家族がいると日頃は忙しくて家族サービスが出来ないから、家族を連れて食材を買いに行ったり、外に、食事を家族で行ったりと、やはり家族であっても、それなりに気をつかうものです。


 「なぜ、家族にそんなに気をつかうかって?」

 それは、幼少期が影響しているのだと思います。僕の父はあまり家族に気をつかわない人でした。「釣った魚にエサはやらないタイプ」です。女性と、つき合っている時(外の人)には気をつかいますが、その女性が、家族(内の人)になると甘えるタイプ。だから、父は、たくさんの女性からはモテタが、その女性がいったん家に入ると、外の女性に気が行く。だから、僕にとってママ母は、冷たかった女性も、優しい女性もいましたが、気がつけば何らかのかたちで去って行きました。父の母である、祖母は戦争未亡人で、父を育てた。しかし、戦争が終わって再婚した祖母は、一人だけ衛藤の姓を名乗らせた息子である父を愛し溺愛したのだと思います。だから、若い頃の父は、僕たち家族(内)には、甘えて手を抜いて、そして、外の女性には気をつかった人だったのだと思う。なので、父は家に帰らなかった。だから、もの心がつくまでの僕は、そのように父に、ほったらかしにされた女性たちに囲まれ育った。

 愛し合った二人なのに「ごめんね。いいお母さんになれなくて…」と寂しげに去って行く、女性の愛のゆくえから、僕は学んだのだと思う「愛は水をやらないと枯れる」と言う人生教訓を。


 その人生の教訓は決して僕にとってはムダではなかった。だから、仕事が忙しくても、やはり家族のバランスも大切にしてきた。もちろん、僕だけではなく、家族全員が、それぞれに同じように気を使っているのだと思いますが。


 だから、こうして家族にも、人にも、気をつかわないで自分との二人きり(?)の時間はとても贅沢な時間なのです。そうですね、二人きりと言うのはブログを読まれている皆さんには「一人きりだよね??」と、思うかもしれないけれど。メンタルでは「自分とアポイントを取ろう!」ということを勧めています。


 人は誰かに気をつかいながら生きています。周囲の友に、職場の仲間に、家族にもです。その与えられた役割の期待に応えようと頑張っています。「友だちとして」とか「部下として」とか、「夫や妻として」とかの役割に意識的にも、無意識的にも影響を受けて、誰かの期待に応え、見捨てられないように人は生きています。

 なぜなら「人は一人では生きて行けない」からです。だから、ニートになって部屋に引きこもっているだけの人は、何も周囲にサービス与えなくても許してもらえる環境にいるからです。その環境を与えているのも家族なのです。


 過去に、誰かに過剰に気をつかい過ぎて、人嫌いになり、うつ病になるのも問題ですが、家の手伝いをするでもなく、家族に、笑顔や会話することもなく日々を過ごしている引きこもりやニートは、家族にコミュニケーションというサービスをしないのですから、やはり問題なのです。


 だから、人に対して「頑張る」か、「何もしない」かの、オールorナッシング ではなくバランスなのです。

 人に気をつかい過ぎて日々ガンバっているなら、自分と二人きりで過ごし、自分にアポイントを取り、自分を楽しくいたわる。人間関係に消耗した自分に省エネモードに設定して、誰にも気をつかわない時間を過ごす。日頃、ガンバっている自分に、もう一人の自分が「ゆっくりしろよ、今日ぐらい。私と過ごそう」と、心に栄養を与えるのです。これを「積極的、引きこもり」とメンタルでは教えています。


 愛情恐怖の人は、一日中誰とも会わないと不安になりますが、それは「人は愛によって癒される」の言葉を誤解しているからです。一番にないがしろにされているのは「真なる身内!」そう、自分への愛です。誰かと過ごさなければ不安な人は、家族や友人、恋人、「外の人」に愛を依存し過ぎているのです。だから、一人でいることに無意味さを感じ、それに不安をおぼえるのです。


 でも、最終的には「一緒に墓に入るのは自分」です。ずーっと長い人生を一緒に辛苦をなめてきたのも、大切な仲間である自分なのです。

 もちろん、人は愛によって癒されます。でも、その愛は他者からの愛だけではないのです。いつも、泣きなら、悩みながら生きている自分に自分が「よくガンバっているなぁ」とねぎらうのも愛なのです。


 ブッダが「己こそ、己の寄るべ、己を置きて、誰に寄るべぞ」と言ったのは、そういう意味だと思っています。


 他人に頼りすぎるから「親が愛してくれなかった」「恋人が冷たい」「子どもが勝手に育ったと思っている」「会社の人が理解できない」「夫が、妻が…」と、すべての悩みの根源は、他人への依存によって起こり、そして、他人に期待している分だけ、愛の飢えは激しくなります。


 最終的な癒しスポットは「自分にベースキャンプ地を作る」ことです。だから、今日の僕のように自分と会話しながら、自分と楽しむことも、僕自身には大切な時間なのです。


 そんな中で、このブログを書くという行動は、休んだ今日という外への唯一のおすそ分けのサービスなのです。

でもそれも、僕はこの文章を人に読んでもらって、誰かに喜んでもらえたとしたなら、僕も幸せを感じるのですから、与えた分だけ、愛がもらえるのです。だから、人の世は「ギブ&テイク」なのです。

 なので「愛は水を与えないと枯れる」のもやはり真実です。それを与えなかった父は家庭を壊しました。だから、身内こそ気をつかわないといけないのです。それを与えなくても、許されのは子どもの時だけです。


 それを、大人になっても許し過ぎると、誰かをダメにしてしまいます。もちろん、与えるのは「物」ではありません。ありがとうの感謝だったり、笑顔だったり、「元気ですか?」の電話でも素晴らしいサービスです。そして、電話する相手を失ったとしたら、誰かに与えてもらった愛を、他の誰かにも与えることが愛を与えてくれた人への恩返しなのです。それが、大人の社会性です。


 だからこそ、他人にばかり愛を求め過ぎる人は、人と上手につきあいができません。そんな時は、自分とアポイントと取って、気をつかってあげて、そして、エネルギーがチャージできたのなら、今度は誰かのために愛あるコミュニケーションを与えよう。


 「さぁ、また明日から外へのサービスをガンバろう!」誰かに必要とされるために。


 携帯の充電もシッカリ使い切ったほうが、充電しやすく、壊れないんだってね。

 明日から読者も他者へ、優しさの放電をガンバって!






現地に行かない援助

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 僕の出身は大分です。


 生まれは大阪ですが、育った場所は大分です。
 今回の震災があった熊本には友人知人がたくさん住んでいます。
 震災の直後は、名古屋にいましたが「衛藤先生は大分に飛んで、名古屋に来られないと思っていました!」と、週末の東京校でも似たことを言われました。
 そうですね…
 ただ僕の父親は、大分に帰ったほうが叱ります。
 「何しに帰ってきたのか?お前の仕事は、すぐに帰れる程度の仕事か!」と、そう彼は九州の男です。
 慌てて被災地に馳せ参じるのも良いですが、日本の社会を皆で下支えしなければ、日本の国自体が被災地に支援する援助金も払えなくなります。


 僕の育った大分の近くのお寺の住職は「人生は修業なのだよ。のぶ君、君は両親が離婚して大分に預けられツラいだろうが、子どものうちにツラいことを経験しておくと、その後は良いこともある。だから、辛抱しなさいね」とお話ししてくれました。


 仏教では、この世は修業場だそうです。だから、修業場なのに、良いことが続き過ぎると、後でそれが病気とか、死ぬようなことが、まとまって来ないように、せめて余裕のある中から、お布施をするそうです。


 よく駅前で、傘を深ぶかとかぶった修行僧が、たく鉢のハチを持って立っています。それにお金を寄付する人(お布施する人)が頭を下げて、修行僧は鈴をチリんと鳴らす。なんだか逆ではないかと思ってしまうのですが、お金を与える人が偉い、もらう人の立場が低いという常識は仏教にはないのです。


 人生という修行中に良いことが続くと、また、生まれ変わり、また修行を積まないといけなくなるので、商売がうまく行ったり、恋愛がうまく行ったりする人は修行中に楽しんでいるので「喝!」なのです。せめてお菓子を食べれば失う程度のお金なら、どうぞいただいて下さい。一回の食事をして消えてなくなるお金なら、どうぞ受け取って下さい。それが、お布施だそうです。人の生活によって違いますが、それらを一回くらい我慢して、そのお金でお布施させていただきます。

 そんな精神が、お布施の本当の意味なのです。


 キリスト教にも同じような考えがあります。この世の人は生まれつき罪人なのです。生きるためには何かの犠牲が存在しています。人の食は、その食材の命をいただいているのです。誰かが合格すれば、誰かが落ちます。人は生まれつき原罪の中で生きています。まさに牢獄です。なので「お金持ちが天の国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と言われるのです。


 そう、だから、九州に起きた地震が、みなさんの地域で起こったかもしれないのです。ですから、熊本の人がそれを引き受けてくれたので、その分、ボランティア精神で、それぞれのフィールドで下支えして、いつも以上に働きましょう。そして、その1日分を寄付するのもいいでしょう。それのほうが、慌てて一時的なボランティア精神だけで被災地に行って混乱を引き起こすよりも被災地のためになると思います。


 だから、目の前のお仕事に、九州へのお布施の気持ちで、祈りを込めて頑張りましょう!



<関連記事>
2011.3.13「黙考の中で・・・」
2011.3.22「喪をあける戦い」
2012.3.02「大丈夫?は、大丈夫の質問にならない」







収穫の時

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 4月10日(日)東京校の修了式が無事に終わりました。4月14日(木)に熊本地震が起きたため、震災に関しての投稿が先になり、修了式の投稿が遅れてしまいました。ごめんなさい。

 今回の修了式もメンタルに来た人に何人かにインタビューしてメンタルに来た理由や、気づいたことを聴かせていただきました。


 ある主婦の方は、下の子が生まれて長男の子どもがえり、2歳の長男のイヤイヤ期が重なり、次男の授乳と、夜は長男が寂しがってお母さんを求めて来る。トイレに行きたいけど行けない、お腹が空いているのに食べられない。求めて授かった子どもだったのに次男が生まれて、2倍の大変さかと覚悟していたのが私にとっては10倍の大変さになっていました。二人の子どもが育つ中で兄弟ケンカが増え、怒鳴っている自分。ご主人は、すぐに予定を入れられるのに、自分は子どものために予定も入れられない。外出もままならない。そんな中、育児についてご主人に口出しされると「何もやってもいないのに口出さないでほしい」と思い、『ありがとう』と言われても素直に受け取れなくなっていたそうですそんな中、仕事関係での知り合いの方のブログでメンタルを知って来られたそうです。今では講座参加に協力してくれたご主人に感謝されていると言われていました。


 何に気づかれましたかという質問に、講座で僕が言った「悩み=人生の宿題だ」と思っているという言葉で、私は逃げている場合じゃない、私は育児を通じて自分を見つめる人生の宿題なんだと思えるようになりました。また、子どもは母子一体感、大人は『親しき中にも離別感』という言葉。主人に対して私が、『○○して当然、私の大変さを分かっているはず』と母子一体感を持っていたからうまくかみ合っていなかったんだと知りました。


 その後の講義でも、脳の構造を知ることで衝撃がいっぱいでした。育児も家事も完ぺきにこなそうとするからこそストレスが溜まっていること。私が私自身を認めていないから他人からの認証を求めていたということも。
 だから、私は、私を認めよう。セルフラブ、とても好きな言葉になりました。また、子どもの躾と思いながらも、感情的に怒ることが多かった私・・・、5歳と3歳の子どもに今まで悪い事をしてきてしまったと思い、反省の涙が止まりませんでした。けれど、日常に戻ると『また感情的に怒っている・・・よね、イライラしているよね・・・、私』自問自答する日々でした。前編第3講座で日々たまっている不満をノートに全部書き出し、どのような行動になれば私が満足なのかを書き出し、スッキリしていた私に丸山先生が言った言葉、『あなたはそれを出来ていますか?問題を持っているのは誰ですか?』その言葉に本当にハッとしました。


 変わるべき相手は、主人でも子どもでもない、私なのだと。ただ、私の気持ちを押し付けているだけでした。怒ったりイライラする感情を作っているのも私だし、主人・長男・次男に期待をしているから怒りが出る、その期待している部分を相手に素直に伝えればいいんだと。


 それをアイメッセージで。なんて難しいんだーーーーーー!と最初思いました。
 なので、感謝のIメッセージから始めようと、この日からとても意識しました。子どもが何かした時にすかさず『○○が○○してくれてママはうれしいなー、ありがとう』すると、子どもは得意そうに満面の笑み、こんなに喜ぶんだーと嬉しかったです。たった一言なのに。


 ある日、次男が『ママはね、くつを揃えたら喜ぶんだよねー』と誰かに話してをしていたのを聞いて、ビックリしたのを覚えています。また、怒ったときは『あ、ママ怒ってごめん』と一度謝り、何を私は伝えたいんだろう?⇒『ママは○○思ったんだよね』と時間がかかりながらも自分の気持ちを素直に伝えるようになりました。余裕がない(だいたい寝不足か時間のない時)時は激怒で終わる時もありますが、必ず後で謝ることにしました。

 今思うと、講座の初期は、変わりたい自分と無意識の中の今までの私が葛藤して苦しい時期でしたが、少しずつ怒る・イライラするという感情より、自分の気持ちを感じて、丁寧に伝えるという気持ちに変わっていきました。そのお陰で、兄弟で喧嘩する時もお互いの気持ちを言いあい、解決している事も増えてきました。私自身が変わることで、子育てが変わっていくのですね。きっと目に見えない所でも現れているのだと思います。


 色々なカウンセリングの方法で印象的だったのが、ゲシュタルト療法でした。子どもの可愛いところ・優しいところ・元気なところ・主人の優しい所、沢山いいところがあるのに、どうして大変な所にわざわざ私は焦点を当てているのだろう。幸せは、自分でみつけるもの。


 育児の大変な部分ではなく、楽しい部分を見つめて楽しもう!子どもの5歳と3歳の今日という日はもう来ないのだから。一緒に、かまきりごっこしたり、猫ごっこしたり、子どもの発想の豊かさに自然と笑顔になる日々が増えました。子どもと一緒に四季を感じる場所にも意識的に行きました。

 突然虫好きの長男と次男が公園の木にぶら下がって『ミーン、ミーン』と鳴き真似をしたので、え?冬に?とは思いましたが『あ、せみだーーー』と私が叫び両手で○を作り網にみたてて、2人を本気で追いかけて公園中を走り回っていました。
 すると、小学校1・2年生ぐらいの子どもが『いいなあ、あんなにお母さんが構ってくれて』と小さい声で言っているのを聞いて、こういう時間が子どもには大切なんだと、ハッとさせられた瞬間でした。


 家事をしなきゃいけない、けれど、そっと手を止めて、一緒に遊びを楽しむ。また、子どもと一緒にいて大切にするようになったことがあります。それは、私自身が発言する言葉の重みの大切さ、マイナス言葉ではなくプラスの言葉を意識するようになりました。

 例えば、子どもがピアノの練習をしていて間違えてしまう時、以前だと『違うよ~こうでしょー』と言っていたところ、『○○なら出来るよ、出来てるよ、頑張ってるね』と言うと、本当に弾けるようになり一緒に喜びました。そして、何度も自分から練習している姿には感動しました。また、『疲れたー』という言葉が多かった私は、『頑張ったー』という言葉に意識的に変えてみました。すると、突然長男が『ママもあなた達も、今日1日頑張ったね!楽しかったよ!』と。プラスの言葉で、私自身が、私を認められるようにもなりました。人は言葉でできているんだな、そう感じた瞬間でした。


 最後の受講が『本当の自分に出会える音楽力』でしたが、この講義ですべてが繋がりました。音楽診断テストのワークで自分がどうしよう?と思った瞬間、仲間が現れて出口に出られたのです!誰かに依存するタイプなんだなということに気づかせてくれた瞬間でした。


 確かに、今までの人生の中で、誰かに助けてもらいながらここまで歩んできたなと。子育で、私が苦しかったのは自分でどうにかしたいと思いながらも、根底には主人が助けてくれるはずと思っていた自分がいたことに。しかし、主人は助けてくれない。
 私が、現実を受け止めて自分自身を改善しようと動いた分しか世界は変わらない。子どもや主人を責めても何も改善されない。子育てという思い通りにならない今を楽しむ。私には私の人生、人とは比べないで過去の自分と比べよう!!講義を受講して、度々私がヒットする共通の部分はこれでした。この半年の経験で、どんな子育て本より、お話より、私の心にしみわたりました。と笑って話してくれました。




 次にお話を聞いた男性は、知り合いの人と食事中に『僕は最近、心屋さんの本が気に入って読んでるんですよ』『あら、私は心屋さんが心理学を勉強したところで心理学を学んだんですよ。』『とにかく凄くて楽しく心理学を学べますよ』『あっそう。あとでネットで調べてみる』との会話がキッカケでメンタルに来ました。


 ユーチューブで『衛藤信之』で検索すると約15分の講演の動画を発見。インディアンカウンセラーの異名を持ち、死んだら墓標に何て書かれたいですか?受け止め方で気分は変わる(ABC理論)。小児がんのしゅんしゅんの話。皆さんは彼がどうしてもなりたかった大人という夢の中で過ごしてることに気がついてください。我々はパワーストーリーの力を信じています。あなたも誰かのパワーストーリーになりませんか?という内容で、3度も涙しました。すかさず動画を3回繰り返し見て、内容は分かっているのに又も、泣いていました。


 すぐさま体験講座のスケジュールを調べ、早速一番速い日にちで予約。予想していた以上に笑いがあり、別名吉本流心理学と呼ばれているという噂通りの講座でした。

 この日のワークで、初対面の方と向かい合って、この人は普段どういう人なのかを感じたまま伝えるというワークがありました。私自身が、他人からはどういう風に見られているのかを気づかせてくれるワークでした。お互いの見え方を話した後に実際の私はこういう人ですという時に、相手の方が最初に結構内面的なことまで話してくれました。私も普段は自分のことを自分から積極的に話すタイプではなかったのですが、つられていつもより多くの事を話していた事を思い出します。この事は『自己開示』だったのですね。


 体験講座で印象に残ったのは、衛藤先生が『帰りの電車では笑顔で乗ってみてください。子ども達が笑顔の大人が乗ってきた!』とびっくりするくらいに。まずは大人が人生を楽しみましょう。とその後、私も笑顔の実験をしてみました。朝の通勤電車の中で、周りを見ても不機嫌そうな人、下を向いている人が多いのです。自分は抵抗もありましたが、誰かを笑顔にしようとするより、笑顔でいると、自分自身が楽しい気分、気持ちに余裕のある自分が感じられて、思い出すと今でも実験しています。パートナーにも勧めながら。


 この講座での衛藤先生の『日本は経済大国になるのはもういい。それより、こころ大国日本を目指しましょう』という言葉に共感しました。そして、早速基礎コースに通うことにしました。


 基礎コースでの最初の講座は『聴くこと』でした。この講座で結構落ち込みました。自分は聴けていなかったと、早く救ってあげたくて、相手の意見を全て聴く前に、答え(自分なりの解決策)を用意してやろうとばかり考えていました。


 『悩みは、自分を見つめ、人生を振り返るための絶好のチャンスなのです。だから聞き手は解決してはいけない。聞き手が、相手を映し出す鏡になることで、相手は自分を見つめるのです。』『正そうとするな。わかろうとせよ』いいことを習いました。


 心身症の仕組みの講座で同じテーブルになったリピーターの方からは素敵な言葉を教えてもらいました。その方は以前パニック症候群になり、電車に乗れなかったそうです。今は回復して《あいうえお》の法則で人生を楽しんでいるとのことでした。
  《あ》 会いたい人に会う
  《い》 行きたいところに行く
 《う》 嬉しいことをする
 《え》 選びたいものを選ぶ
 《お》 美味しいものを食べる
 メンタルは素敵な生徒さんとも出会える場所だと実感しました。


 自分で自分を認め愛してあげる。セルフラブの考え方も大収穫でした。今の時代、否定が多く、自分で自分を認めてあげることがいかに大切かと感じます。


 相手を変えてやろうとするのではなく、自分の気持ちを正直に伝えるアイメッセージの講座も心に沁みました。ワークで同じテーブルになった方に私が話した内容は自分の母に伝えるアイメッセージでした。その時、母は血液のガンで入退院を繰り返し、抗ガン剤治療もしましたが、強い抗ガン剤治療は高齢(86歳)には負担が大きいため断念し、緩和ケアの病院に入院中でした。自宅では母の食事の準備や寝るための介護を一年近くしてきたところです。


 男三人兄弟の末っ子で育った私は、最後まで母と同居していました。伝えたかったメッセージはこうです。

『産んでくれてありがとう』『丈夫な体に育ててくれてありがとう』『叱ってくれてありがとう』『いっぱい言葉を教えてくれてありがとう』『小言を言ってくれてありがとう』でした。


 メンタルのテキストに書き、ワークの中で自己開示しながら、涙ぐんでいました。同じテーブルの方からは、その言葉は絶対お母さんに伝えてあげてくださいね。喜ばれると思いますよと言ってもらえました。

その後に衛藤先生が僕の側を通り、伝えたいアイメッセージは、キチンと練習しておかないと、いざという時に噛んじゃいますから。泣くとスッキリするでしょとも言ってもらいました。


 その日、帰宅後、病院から電話があり、母の容態が思わしくない。万が一の為に、家族には来て欲しいとの連絡でした。急いで病院に行くと、三人兄弟では私が一番自宅から近いので最初に到着しました。父はすでに亡くなっています。三人部屋から個室に移動されていたのでもう長くないことは悟りました。


 病院のベッドで母の顔を見ましたが、既に意識はない状態で、右目が半分ほど開いていましたが、左目は閉じたままでした。テキストにも書き、何度か言葉にした母へのアイメッセージを伝える時だと感じ、母の耳元で伝えました。聞こえなかったらいけないので、声を大きくして3回伝えました。


 すると、閉じていた母の左目が半分開いてくれました。そして母からは、『くに(私の名前です)、聞こえたよ。ありがとう。最期に看病で迷惑かけちゃったけど、立派な大人になってくれて誇らしいよ。私の息子として産まれてきてくれてありがとう』と言ってくれているように聞こえました。それから約3時間後に母は息を引き取りました。亡くなる二日前までは自分で食事が食べられて、比較的苦しまずに最後を迎えられたのだと思います。しかし、まさかこのタイミングでアイメッセージの講座を受け、母へ伝える内容を用意できるとは、何かの力を感じざるをえません。母へのアイメッセージを伝えられて、自分自身でなんというか達成感が感じられるようになりました。


 人は何歳からでも変われる。講師のキノピーの生き方や、教え子を救えなかったことを開示し今は活躍されている香葉村先生の話を聞くと、人は本当に変われるんだと理解出来ます。


 《講座で心に残った言葉》『愛を学ぶということは、今まで愛していなかったことを知る作業である』人は自分の思い通りになる恋人を求めます。でも人は誰かの思い通りにはならない生き物です。離別感が大切なんです。『その人が、そう生きねばならなかった人生を愛していますか?』この言葉は衝撃でした。


 講座を受けて、今までは何かイヤなことが起こると、『最悪なんです』と大騒ぎしていましたが、焦点を欠けているところばかりではなく、既に得ていることにフォーカスしなおせば、自分は相当恵まれていることに気がつくという思考回路になりました。

 私も少しでもいい、誰かに優しくできて、誰かのパワースポットになりたい。こう思えるようになったのがメンタルで学んだ財産です。とたくさん感動的な話を語ってくれました。



 次の方は女性です。私がメンタルヘルス協会に通い始めたきっかけは、その当時勤めていた職場の上司の紹介でした。上司が心理学の学校に通っていることは知っていて、時折話を聞いては「面白そうだな」という印象は受けていましたし、何度か「行ってみないか」と誘われましたが、実際に「行ってみよう!」という気持ちにはなりませんでした。ところが何回目かの上司の「行ってみない?」に即答で「行きます。」と言っていました。


 最初は体験だけのつもりでした。でも、その「つもり」は体験受講中に崩れました。その場で前期コースに申し込み、その時は前期だけで終わりにするつもりだったのが、前期4講座目で後期コースに申し込み、今に至ります。

 

 上司がなぜ何度もメンタルに誘ってくれたのか。それは、私の家庭状況を考えてのことです。今は離婚していますが、その時はまだ結婚生活を続けていました。私の元夫はうつ病という診断でした。結婚当初は元気で、夜中までバリバリ働いても土日は趣味に出かけるような人でしたが、東日本大震災がキッカケで躁鬱病になってしまいました。元夫は原子力の仕事をしており、福島原発事故の直後に現地で作業員として派遣されたことに加え、数か月後からは汚染水の対応をするため技術者として福島に派遣されました。元夫は次世代型原子力の開発者で、現在の原発の問題点を改善した次世代の原発を研究する仕事をしていました。


 福島原発事故が起こったことで、今まで自分が良いと信じて行ってきたことが崩れ、世間からの原発批判を自分が批判されているかのように感じてしまったのです。事故対応に追われている時は必死に仕事をこなしていましたが、一段落したあとから少しずつ体調を崩していったのです。

 当時の私は、その変化に気づきませんでした。休日に出かけなくても「忙しいし疲れているのかな。原発の未来が失われそうでショックを受けているんだろうな。」と考えてはいたものの、まさか精神を病んでいたとは思いませんでした。ある時、元夫から「精神科に行こうと思う」と言われたときはショックでした。精神科に行き、抗うつ薬と抗不安薬を処方されました。そこからさらに元夫の体調は悪くなりました。


 元夫は服薬を開始して少ししてから会社に行けなくなり、休職を余儀なくされました。その後、自殺願望に留まらず自殺未遂を繰り返しました。首をつりました。手首を切りました。睡眠薬を大量に飲み、意識朦朧として「死ぬ」と言いながらベランダに出ていきました。思うようにならない苛立ちから物を壊したり、大声を上げました。私は何度も止めました。泣いて止め、怒って止め、元夫が意識朦朧の時は自分より30キロも重い体重の元夫を必死に部屋にひきずりました。家にあるロープは切りました。遠出できないように車のキーは常に私が持っていました。私自身も、もうどうでもいい気持ちになり「一緒に死んであげるから殺していいよ」と言ったこともあります。自分で死ぬ勇気はありませんでしたが、誰かに手をかけてもらえるなら死んでもいいと思っていました。


 毎晩、布団の中で一人で泣きました。息子にも元夫にも涙は見せられないと思い、息子が寝静まってから泣きました。当時3歳の息子も元夫の荒れた状況を目撃したことがあります。一騒動収まった時に息子が台所の隅っこで丸くなって座っていたこと、大声を出すパパにびっくりして心配し「○○ちゃんは悪くないよ。大丈夫だよ。パパは病気だから仕方がないんだ。」と布団の中で話したこと、忘れられません。


 手におえず元夫は3回入院しました。

 入院中は金銭面は心配でしたが、夫が家にいないことでほっとしました。入院していない間は、家に帰ることが恐怖でした。「死んでいるかもしれない」と思い、仕事が終わる30分前になると動悸が起こり、手が震え、吐き気がしました。帰宅して生きていても、暴飲暴食した残骸と寝ているかゲームをしている元夫を見ると悲しい気持ちと怒りの気持ちが沸いてきました。 「いつまで休職が続くのだろうか。収入はどうなるのか。」という金銭的な不安もどんどん大きくなりました。


 うつ病の治療が長期にわたることは理解しています。しかし、十分休息をとったはずなのに後ろばかりを見て、自殺未遂を繰り返す元夫を見ると、私に対する甘えなのではないかと感じるようになりました。「本当に死ぬ気でいるのなら、一人になる時間を選ぶはず。私は昼間は仕事で不在。チャンスはいくらでもあるはずだ。食べるものもないくらいお金に困ったら復職するための努力をするはずだ。プライドは高い。生活保護という手段は選ばない性格だ」と。 最初は義母が支えてくれ、耐えることができましたが、2回目の入院あたりから義母との関係が悪くなり、私は追い詰めれました。


 逃げ場を失った私は離婚を考えはじめましたが「離婚したことを理由に自殺されたら私は人殺しなのかもしれない。夫だって好きで病気になったわけではない。それを見捨てるのは冷たすぎる。」という恐怖からなかなか決心できませんでした。しかし、3回目の入院中に離婚を決心しました。私も限界でした。発病してから約2年半たった頃です。

 自分の中で理由を作りました。「これ以上息子にあの父親の姿を見せるのは精神発達上よくない。あの人は、私がいなければ自立するはずだ。これ以上一緒にいると共倒れしてしまう、そうしたら息子は誰が育てるのか。家族3人、それぞれのために離婚するべきだ」という理由で自分を納得させました。今思えば、自分を正当化したかったのだと思います。その時の私には精神的余裕がなかったのです。


 3回目の入院中、病室で離婚届を渡しました。なぜ入院中か。保護されているからです。仮に荒れても、精神病院は自殺する道具がありませんし病院スタッフが守ってくれます。自分を守るため、保険をかけたのです。卑怯な手段でした。

 義母にはさんざん責められました。元夫は荒れました。当たり前です。しかし、離婚の意志は変わらず引っ越しや転職の予定を進めました。元夫も離婚に応じました。これは意外でしたが、離婚をつきつけられ、ショックを受け荒れたあとに躁状態に入り、離婚協議を進めてくれたのだと思われました。


 メンタルの体験講座の受講を決めたのはそんな時でした。今まで何度言われても行く気にならなかったのになぜなのでしょう。夫の病気から逃げてしまった自分が、これからどう生きていけばいいのか、何かヒントがほしかったのかもしれません。

 元夫が病気になってからは金銭的不安と精神的余裕のなさのため、少し無駄遣いをしただけでも不安になっていました。事情を知らせていない友人と会うのも苦痛でした。それなのに、行ったこともない場所へ行こうという気持ちになったのです。


 体験講座を受講した日。エレベーターを降りたとたん、明るい光と明るい笑顔の方々にびっくりしました。しばらくテンション低めだった私には眩しかったです。でも、その笑顔が自分を受け入れてくれたように感じ、ほっとしたのと同時にわくわくしました。「楽しみ」という気持ちを持つのは久しぶりでした。その時出迎えてくださったのは丸山先生でした。あの時の丸山先生の笑顔ははっきりと覚えています。

 そして講座。たくさん笑い、たくさん泣きました。我慢せずに笑って泣いたのも久しぶりでした。体験だけ受講して終わりにするつもりが、その場で基礎前期コースを申込みました。


 基礎前編で一番印象的だったのは「人の話の聴き方スマートテクニック」です。それまでの私は聴き方失敗例ばかりでした。息子に対しても、元夫に対してもそうだったと思います。コミュニケーションの障害となる12の型のお話をされた時、先生が「こういう言い方を使ってしまうのは、使っても人間関係がこわれない、と思っている相手であり、子どもや部下に使ってしまいがち。」とおっしゃいました。ものすごく納得してしまったのと同時に、猛烈に反省しました。知らず知らずの間に使っていました。たまにどころか頻繁に使っていました。息子や元夫にかけていた言葉が、コミュニケーションを悪化させる原因になっていたとは・・・、もっと早く知っていたら・・・、と思いました。


 元夫の病気が悪化したのは私のせいかもしれない、私がもっと話を聴いていたら、もっと彼の甘えを受け入れられていたら、と思いました。

 しかし、その思いから救ってくれたのもメンタルの講座でした。「過去は変えられない。変えられるのは自分と未来。」「できなかったことよりできたことに目を向けよう」「今がメンタルに来る時だったのだ。」と。


 一緒に講座を受けた受講生の皆さんにも救われました。前編受講中は離婚直後であったため、ディスカッションで話す内容は離婚や元夫の病気のことが主でした。昔からの友人にですら話すことを躊躇した元夫の病気のこと。なぜかメンタルでは躊躇せず話せました。誰も私を「卑怯者」と言いませんでした。目を見て聴いてくれ、自分のことを否定されませんでした。もっともっと講座を受けたいと思い、最後の「悩みを取り去るマイクロカウンセリング」の講座を受けて後編も受講することを決めました。


 基礎後編コースは1~2か月に1度という、スローペースで受講しましたから、行く度に受講生は違う顔ぶれ。講師の方々やスタッフの皆さんにも覚えてもらっていないだろうな、と思いながら行くと「こんにちは。久しぶりですね。」「〇〇さんのペースで来ればいいんですよ」と声をかけていただいたことがうれしかったです。


 後編コースの受講を進めていくうちに、自分の中の問題点や解決したいことが受講した当初から変化していったことに気づきました。それは、講座中のディスカッションで気づいたのです。基礎前編を受講している時はディスカッションで話すのは元夫のことが多かったのが、後編ではほとんど元夫のことは話さず、息子のことばかり話していました。元夫のことを話したくなかったのではありません。自然と話さなくなったのです。その時、元夫のことは過去のことになったのだと思いました。


 元夫は、離婚した少し後に3度目の入院から退院し、以前一緒に住んでいた家から引っ越し、復職をするためにリワークを始めました。そして、リワークを終了して無事に復職したのです。離婚するときに考えた「私がいなければ自立するはず」の予測は本当のこととなりました。離婚を機に自殺してしまうかもしれないという恐怖の気持ちと、離婚を機に自立してほしいという希望の気持ち、両方ありましたが、自立をしてくれて本当にほっとしました。


 離婚条件を協議したとき、「息子とは月1回面会する」という約束を交わしたため、定期的な面会をしています。最初の何回かの面会は元夫に会うのが恐怖でしたが、何度か会ううちに恐怖がとれていきました。そして、私がメンタルで学んだのと同様に、元夫も人と接する方法を学んでいました。同時期に、コミュニケーションへの考え方が変わっていたのです。メンタル卒業生の野口先生の「鏡の法則」ですね。これは、とても良い方向に働きました。おかげで今は離婚前より良い関係が築けていると思います。


 ですから元夫にも私は感謝をしています。だって、私は彼を見捨てたのですから。いくら理由をつけたとしても、その理由は私の理由であって、彼の理由ではありません。息子への愛情があって面会を希望したとしても、私は散々責められても仕方のない立場です。私がいくらがんばったところで父親代わりにはなれませんし、息子のことを想って話ができる関係を築いてくれたことは本当に有り難いことです。息子から完全に父親を奪うようなことにならなくてよかったと思っています。


 今のチャレンジは、もっぱら息子のことです。6歳男子はこちらがやめてほしいことばかりしてくれます。メンタルに通う前の私だったら毎日毎回怒鳴りつけ、YOUメッセージばかり投げつけていたと思います。それも、疑問を持たずに。自分の言い方次第で息子に伝わるか伝わらないかが変わることに気づかずに。


 メンタルに通い始めてからアイメッセージを意識することや、一旦息子の意見や訴えを受け止めてから話をするようになりました。そうすると息子の反応が怒鳴るだけのときと全く違うのです。癇癪を起しても、その時私が踏ん張れれば、きちんと気持ちが落ち着き、話を聞いてくれるようになりました。そう、その時に私が踏ん張れれば、です。まだまだ未熟な私は、踏ん張れない時も多いのです。余裕がない時、イライラしやすい時は、息子のイライラや注意すべきことに対して、こちらもイライラで返してしまい負のスパイラルに入ります。

 そんな時は落ち着いた後に自分から「さっきはイライラしてしまってごめんね。」と謝ってから息子に直してほしいことや自分の気持ちを伝えるように心がけています。


 イライラしすぎて私のクールダウンに時間がかかってしまうことも多々あります。そういう時は、息子のクールダウンのほうが早く、先ほどのギャーギャーしたやりあいはどこへやら、「ママー、来てー。遊ぼー。」です。こんなダメな親でも許してくれます。こんなに怒りっぽい親でも好きだと思ってくれます。子供の親への感情はゲシュタルト(見方を変える)の考え方だな、と感じます。


 息子は元夫のことも許していました。3歳の頃からパパの見たくない姿を見ていたのにも関わらず、「パパは病気だから仕方ないよ。僕は治るまで我慢する。」と。そして病気の姿を見なくて済むようになった今は何かにつけて「パパは強いし足も速いしいろんなことできるし、すごいんだ!」と。良い所しか見ていません。離婚した理由も経緯も知っているのに。私も子供の頃はそういう風に考えられたのかもしれませんが、年齢と経験を重ねるにつれ、無意識のうちに丸の欠けた部分に目がいくようになってしまったのでしょうか。息子に教えられました。


 メンタルとの出会いは、私に様々な気づきを与えてくれました。ここで語れないほどたくさんの。メンタルと出会っていなければ、元夫から逃げた自分を認めることもできず、元夫と離婚後うまくいかず、息子に自尊心を養うこともできなかったでしょう。もちろん、今後の私次第で良い方向にも悪い方向にも行くと思いますので、メンタルで学んだ気づきを忘れず、ヒートアップして忘れてしまっても思い出してフォローしながら生きたいと思います。死んでしまったほうが楽だと思っていた2年半は無駄ではなく人生の糧であり、今後の私に必要なものであったと信じられます。と笑って語ってくれました。




 それぞれの気づき。修了式は僕たちメンタルのスタッフが、自分たちの日々の生徒さんとの関わりを学ぶ場でもあり、日々の仕事の収穫の場でもあります。ここでは載せることの出来ない人々の感動のお話もたくさんありました。インタビューに答えて下さったメンバーに心より感謝です。









災難に負けない心

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 東北の震災の傷も癒えぬうちに、今回の九州の震災。

 マスメディアでは南海、東海、東京直下型の震災は話題になってはいました。どれほどの人が僕の出身の九州地区に、こんなに大きな被害をもたらす地震を予想できたでしょうか?
 福岡で起きた2005年の福岡県西方沖地震の時も、地震学者は驚きを隠しませんでした。
 もちろん、マスメディアで話題になっていなかっただけで「潜在的なマントルの動きは活発だったのだ」とも、言われています。


 江戸時代の良寛いわく、「どこにいても、どこに隠れても災難は、来る時には来る、来ない時には、ぜんぜん来ない。不幸なのは、災難に来る前から、災難に頭を支配されて『どこに行けば助かるか、どこに移動すれば地震に遭わないか』と、あれこれ悩み、日常の平和な時から心配して生きることが、災難な生き方だ!」と言っています。災難に遭う時には「来たか!」とシッカリと覚悟して出遭い。いつ死んでも「悔いはないです」と、思えるように「今、ここ」をしっかい味わって生きろと言っているのです。


 だから、前回のブログに書いたように「今回は九州の人々が引き受けてくれたのですから、僕たち被災しなかった地域の人々は出来る援助はシッカリと考えてする」のは当然のことなのです。


 メンタルの九州(福岡校)のデータベースには、熊本、大分の受講生は375名います。九州新幹線の再開に合わせ、日本メンタルヘルス協会では、熊本と大分の受講生には、年内いっぱいは無料でリピートできるよう、決定しています。


 少しでも教室で、笑って、泣いて「講座中の楽しい時間だけでも」大変さを忘れ、心のデトックスをして、現実の生活の中でメンタルのメンバーらしく、カウンセラーとして、それぞれの地域で活動できるようにと願いを込めての決定です。


 日本の心理学の世界では、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を話題にしますが、世界の最新の心理学ではPTG(外傷後成長)が注目されています。その証拠に、阪神淡路大震災の時に子供だった、大学生にアンケートを取った結果、彼らが苦難と感じているどころか、逆に「いい経験になった」「震災が、いい思い出になっている」と答えた学生が多かったのです。


 ストレスが、その後の成長でマイナスに働くと言われるケースが多いのですが、実際には、震災があったから「生きることを考えるようになった」と多くの神戸の学生が応えたのです。僕は、この意見に強く強く共感をしました。


 僕自身も両親の離婚、まま母の自殺の第一発見者になり、多くの人から「大変な幼少期ですね」と言われますが、子ども時代は楽しいことも多々ありました。悲しみだけで色塗られているわけではないのです。これこそゲシュタルト心理です。問題は、どこにフォーカス(焦点)を当てるかは自分次第なのです。この幼少期の体験が、カウンセラーとしての「今の」僕の原動力になっています。


 大先輩たちにお話を伺っていても「『戦争は絶対に起こしてはいけない』と強く思う。ただね、幼少期は貧しく、お腹を空かしていたけれど、楽しい思い出もいっぱいある」と語る人も多いのです。大陸からの引き上げ体験、大空襲、ヒロシマ、ナガサキの原爆、オキナワの戦闘も、苦難が日常で、たくさんの死が隣接していた時代に、幼少期を過ごした人々が、日本の高度経済成長の原動力になり、トラウマに押しつぶされることもなく、むしろそのトラウマをエネルギーにして、生きて来たのも事実です。


 だから、メンタルはトラウマに負けない、強き心を作ることを理念に掲げているのです。


 今は、大不況と未曾有の災難が、くり返し起こる時代です。でも、それに負けないポスト・トラウマティク・グロウス(PTG)の世代として、強く未来を突き進んで生きましょう!




 不死鳥の如く!!






イライラしているあなたへの手紙

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 有名な話にコップに水が半分入っている時に「半分もある」と楽しめる人と「半分しかない」と不安になる人がいます。


 現実は何一つ変わりません。これが目の前で起こっている事実なのです。人生を楽しむ人は「あるもの」に心が向く性格です。でも「ないもの」に、すぐに心が向き気分が落ち込む人がいます。



 睡眠が少なくても「『0』よりも眠れた」と思える人と「睡眠が少ない」とイライラする人がいます。
 この睡眠が少ないとイライラする人は、自分の理想とする睡眠時間があり、そこからマイナスに心が向くタイプの性格です。


 完璧主義の人は、睡眠にも、仕事にも、上司にも、現実にも、完璧を求めます。その完璧も自分の望む完璧だと言うことを忘れて…


 何かをやろうと思うと気分の不調に心が向く人がいます。


 「気分が不調だから何もできない」「時間がないから本が読めない」「体力がないから運動できない」と不調に焦点があたって、何もしないで時間を過ごす。でも、完璧症だから、何も動かなかった自分も許せない。だから、また、さらに落ち込む。その結果、さらに気分が不調になり「不調だと何もできない」とさらに思ってしまう。このような「完璧主義者」は、さらに何もしないで過ごした時間に心が向けられる。さらに悔やんでイライラして腹がたつ。そうすると、すべてに不満になってしまう。


 なぜ自分に出来なかったこと、何か欠けているところが気になってしまうのでしょうか?


 それが、「完璧症」の正体です。


 どうも今日は睡眠不足だけれど、睡眠不足は睡眠不足なりに仕事をすればいいのです。でも、完璧症の人は「完璧な睡眠をとらなければいけない」と思うから、睡眠の足らなさに意識が向くのです。
 心が健康な人は「調子が悪いなぁ」と思いながらも調子の悪いということを認め、現実を受け入れて、やれる仕事だけを「My best.」でこなしてゆきます。でも、不安な完璧主義者の人は「The best.」でないと自分が許せません。


 毎日毎日、絶好調な日々などは存在しません。毎晩毎晩、完全な熟睡などもありえないでしょう。毎時間毎時間が、有意義に過ぎて行くことも起こるはずもなく、毎月毎月が、幸運に恵まれた月なども存在しない。さらに、いつも頭が冴えわたり、身体が不思議なほどに軽やかに動くこともありえない。
 それが「現実」というコップの水です。


 現実は、上司は思ったほどに自分の努力を評価はしてくれないし、待ち人は時間どおりに来るわけもない。自分の描いたように予定どおりには進まないし、親は完璧な愛情に満ちた親たちでもなかった。


 こんな不完全な世界の中で「完全じゃないと許せない!」と思って生きている完璧症の人は、心の中は怒りと不満でいっぱいになっています。だから、理由もなく憂うつになります。
 憂うつの正体は、自分の中にある攻撃性だと心理学では言われています。


 「思うようにならない現実」に「世界は自分の思うようになるべき」と思って生きていると、この現実に不満をもちます。でも、この世界なしでは人間は生きられないのですから、攻撃性は自分に向かうと「憂うつ」になり、外に向かうと、誰かを「攻撃」したくなります。


 仕事を辞める時に「辞める」か「辞めないか」は自分の問題です。自分の決断です。


 でも、会社を辞められないのは妻がいるからだ。生活があるからだと奥さんにブチブチ攻撃する人がいます。自分の思い通りにならない人生で、心に怒りがあるから何かのキッカケで立場の弱い人に攻撃的になってしまう。


 でも、これは自分の思い通りにならない自分に対するイラだちで、それを認めたくない、自分を見たくない人は、自分の不決断、自分の思うように進まない現実へのイライラを誰かを攻撃することで、自分自身を誤魔化してしまうのです。


 何かをする時にはリスクもあるけれど、メリットやリターンもあります。動けないのは「完璧症」だからです。


 Aを選ぶとBが得られない。Bを選ぶとAが得られない。どちらかを選択する時に、失うこともあるけど、得られることもあります。でも、AもBも得たいと思う完璧症だから選べないのです。「どちらも得たい!」「得られないと許せいない」と思ってしまう完璧症だからこそ何一つも選べない。


 そして時間だけが過ぎ去ってしまう。その時間が過ぎたことも「完璧症」だからイライラします。またそれで眠れなくなる。「完璧症」だから、眠れなくなったことに不満を感じて怒りをためる。そこに何かの思うようにならない現実が起こると「このせいだ!」と自分の不調の悪さを誰かを攻撃することで、自分自身を見つめ、自分を鋭く冷静に洞察することから遠ざかって行く。


 そう、怒っているうちに、いよいよ悪いのは自分ではない、相手が悪いのであると思い込みのシステムが完成します。だから、その人は慢性的に現実の出来事に不機嫌になるのです。


 それが、親であったり、上司であったり、指導してくれない師匠であったりと不満になり、いじけたり、悪口を言ったり、攻撃したり、仕事を辞めてしまう。


 そんな完璧症の人たちは、いつも自分に語るべき治療の言葉があります。


 「この世界は自分の思いどおりに設計されてはいない」
 「相手によって傷ついたのではない。自分の思い通りにならない現実に自分が勝手に傷ついている」


 そして、その不完全な現実に「自分には耐える力があるし、そんなことは『どこ吹く風で』私は思うようにならない現実をも、きっと楽しめるタフな大人になる」と、事あるごとに自分に言い聞かせることです。


 もう一度言います。同じ「出来事」に対して、執着してイライラしているのは皆がそうなのですか?あなただけですか?


 これが現実を知るための道標になります。


 ほら、あなたの隣に同じ出来事を愉しんでいる人がいますよ!











親しき仲にも離別感

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 恋愛が失敗するタイプ。仕事でトラブルが続出するタイプ。

 この二つの共通点は「相手と自分の立場の違いが理解できない」人に多いのです。


 「明日、衛藤さんにカウンセリングお願いしていますが、僕のことがすべて分かると思うので、日記を送ったので、しっかりと明日までに見ておいてと伝えといて」とスタッフに伝言して、2年分の日記を送ってくる相談者がいます。自分にとって「時間がある」という現実と、カウンセラーにも「時間があるだろう」という非現実が結びついてしまうのです。


 また「今すぐにカウンセリングをして欲しい」と事務局に依頼がくる。「こちらのカウンセリングは予約制なのです。緊急のご用件とは?」と応じると「そちらのカウンセリングルームから、私の自宅は10分も離れていないんだ💢」と怒りだす。自分が近いから、そちらも「すぐにでもカウンセリング出来るだろう」と理屈に合わないことを理屈にあっているように主張してくるのです。


 仕事でも、仲が良い二人が仕事を共同経営でスタートした。一方はサイドビジネスとして、一方は命がけの出費で人生かけての再スタートとして、この二人の間には「仕事にかける思い入れ」には違いがあります。それを理解したうえで共同経営をスタートしないと「仲のよい関係」が「最悪の関係」になることもあります。


 結婚式で、新郎・新婦の共通の友人が「結婚式の出し物を協力するよ」と言ってくれた。仕事で友人が打ち合わせで遅れたとします。
 「ありがとう。仕事が忙しいのに来てくれて」とねぎらい感謝する新郎・新婦と、「お前は真剣に、俺たちの結婚の出し物を考える気があるのかよ💢」と友人を責めるタイプがいます。
 自分達の「一生に一度の結婚式」への思い入れと、友人の「できる範囲で手伝うよ」には、思い入れに違いが存在するのです。


 自分の立場と相手の立場は違う存在です。そこを理解するのが大人の関係です。メンタルでは「親しき仲にも離別感」と言っています。


 自分には時間がある。愛する人には仕事に追われて時間がない。毎回、ラインを送って、自分と同じような返信の数が返って来ないと「愛がない💢」と攻撃的になる人がいます。そして、泣いたり、わめいたり、自分の思う常識で、相手にその常識を押しつけると、愛情は「重いだけの関係」になってしまいます。


 つねに恋人に気をつかい過ぎるのも心理的に問題があります。がしかし、恋人を自分の常識に取り込んで、一体感が強くなると「すべてが当たりまえ」にり、相手の立場や状況を理解しなくなると、愛情はやがて憎しみに変わってしまいます。


 職場でも、友人にも、家族に対しても、自他分離がなく、一体感だけを要求すると「相手は~してくれてあたりまえ」「相手が~これくらいはしてくれるよね」となり、感謝やねぎらいがなくなります。親しくなればなるほどクセのように幼児的な感情が強くなる人がいます。他者は自分ではないから「あたりまえ」は、何一つないのです。


 ある会社のことで相談者が烈火のごとく怒っている。話しを聴いてみると会社が自分を特別に対応してくれず、他の人と同じ扱いを受けたのが許せないと言うのです。
 「自分が時間を作って出向いたのに、自分を採用しなかった💢」とか「自分の話しを聴いてくれなかった💢」「アポイントが必要ですと言われた」そこで気になって「約束はしていたの?」と、こちらが質問すると「そんなものは必要ない。話しを聴いてくれたら僕の才能がわかる💢」と怒りだす。
 他の人と自分を同じように対応したことが、その人には許せないのです。その会社にとって自分が優先順位の上位でなかったことが許せないのです。


 トラブルを作ってしまう人の特徴として「いつも自分をスペシャルに扱う」ことを過剰に求めます。それほどに自己愛が強く「人にはそれぞれに大切なものがあり優先順位がある」ということが頭では理解できても、心では納得できない。自分のことに意識が向きすぎて、他人の立場には恐ろしく無関心なのです。


 ストーカーになる人も「自分が愛している」という事実だけが現実の中心になり、相手には家族や友人がいて、そちらが自分より優先順位なのだということが理解できない。いや、認めたくないのです。
 それほどに自分への自己愛に圧倒されてしまい、人の気持ちを考えることができません。しかし、自分ほどに愛の人はいないと強く信じてしまっているからトラブルが起こってしまう。


 ナルシシズムは自己愛と訳されていますが、自分の愛だけに視野が限定されてしまい、他人の自由や考えには恐ろしく無関心になってしまうのです。


 友人にリップグロスを買って来て「あなたが欲しがっていたから買ってきたわよ。1万円ね!」「そんなにするの?」「なによ💢あなたのために買って来たのに💢気にいらないの💢」
 「高額の商品を買う時には、相手に確認したほうがいいかもしれない?」という思いがない。自分の「親切心」に圧倒され消えてしまうのです。そして、第三者に「私は相手のために、こんなにしてやったのにさ~」と別の場所で、自分の愛だけを強調をして、相手を引き下げてしまう。それが愛のない行為だと考えもしないで…


 こんなタイプの人が、ボランティアに走り出すと、自己愛だけに意識が向き、他者が協力しないことが許せなくなります。どこまでいってもボランティア活動は「自分がやりたいからやる」のが精神です。「素晴らしい行為だから、すべての人が私に協力すべき」となると、愛から始まった素晴らしい行為が、他者を攻撃して周囲を焼け野原にして、なにも後には残らない結果になってしまいます。日本ではボランティアのNPOがたくさん生まれ、消えていきました。その背景には一体感やナルシシズムが潜んでいたのでしょう。


 「私」と「相手」は違うのだという距離感覚が、何よりも大切な時代です。


 親しき仲にも離別感ですね。









大地のように・・・

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 おっと!気がつけば7月になりました。
 夏ですねーと言いたいところですが、まだシトシト梅雨さんが自己の存在と役割をアピールしています。


 インディアンの人々は「自然を愛することは、晴れの日も、雨の日も、嵐の日も受け入れると言うことだ」と、受け入れの重要性を教えてくれました。
 僕は、そこから「人生を愛することは、楽しい晴れの日も、哀しい雨の日も、思いもしなかった周囲の出来事にふり回される日々も、受け入れることだ」と学びました。


 自然はいろんなことを教えてくれます。海が荒れるのは後に、海の栄養を循環させて、プランクトンが豊富になって海の恵みを豊かにしてくれます。嵐も大気を浄化し、大地を削りとることで肥沃な栄養を土の外へ導き出す手助けをします。


 一見、不幸な出来事の中に、将来の幸せが隠れています。陣痛の後に、新しい命の誕生があるように…


 良い子だった子どもが荒れています。「今まで愛されてなかった!」「いつも親の期待に応えてきた!」「したい事をさせてもらわなかった!」
 どうしたらいいのですか?


 それはね、お母さん。彼らが自分の生きる道を見つけ出そうとしている証拠なのですよ。


 彼らが言っているのは真実か、思い込みかは、どうでもいいのです。彼らが「そう感じた」と言うことですから「そう感じて、辛かったんだね」と聴いてあげて下さい。聴くことは「確かに、そうだったね」と、お母さんの非を認めることではないのです。彼らは「そう感じたんだ」と言う思いを聴いてもらいたがっているだけですから。


 その時に「違うよ!」「あなたは愛されたのよ!」と言い返すと「ほら、そこよ。いつも聴いてはくれないんだから」となります。いま彼らは思いを嵐のようにぶつけているだけですから、大地のようにドンと受け入れて聴いてあげて下さい。感情をぶつけられるのは、お母さんを信頼している証拠なのですから。信頼していない人には、感情は決してぶつけない。


 大人になって心にトラブルを持つ人は、反抗期のなかった人に多いのだから。反抗できるほどに安心できる家庭でなかったとも言えるのです。何を言っても受け入れてもらえるか?今、ただ彼らは甘えなおしをしているだけですから。感情をぶつけている彼ら自身も、心ではブルブルと震えながら血を流している。


 そして、やがて穏やかな朝が来る。
 それは、彼らが旅立ちの時かもしれません。そして、旅の途中でふりかえる。大地が大らかで、守られていたことを…


 今年の夏はネイティヴ・アメリカン(インディアン)の地に行こうと思っています。なんだか、乾いた大地が懐かしくて…












ディスカバリー

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 心ひかれる場所、それが、お前の魂が求めている場所だ。頭で考えないで、心が向かう場所に向かいなさい。そこには必要な答えがあるから…

                ~ラコタ族の言葉より~


 心を癒す時には、心が欲する場所に行くのにかぎる。


 僕にとっては、ネィティブ・アメリカン(インディアン)の住むところ。


 今回はサウスダコタ州とワイオミング州を移動する旅でした。妻に一度見せたかった、水平線の彼方に星が輝く世界を…
 人が立った目線の横に、東西南北の真横に星が広がる大地。
 星々が人の目線の横に沈み、反対の大地より星が生まれてくる景色を「そのうちいつか行こう」ではなく「今、行ける時に」と思い立って…妻を旅に誘った。


 妻が言った「本当に地球は丸いんだね…」

 その言葉も広い天空に消えてゆく。
 星が放つキラキラとしたリズムが、オーケストラのように空から語りかけてくる。太古から変わらない宇宙からの優しいオーラを現代の今にも忘れるなと伝えるように。


 静寂の沈黙の中にこそ、星たちの会話が聞こえる…


 そこから妻とは別れて、僕はインディアンの聖なる地に一人で入って行った。


 昔、英語が話せないインディアンの首長が、イギリスに連れて行かれました。王様はインディアンの首長にイギリスの街の華やかさを見せれば、自分たちの文明をインディアンは尊敬するだろうと思ったからです。


 英語を知らないインディアンは、王様に自分の頭に飾っていた「聖なる羽」を渡した。すると二人の身体は空中に浮かび上がり、窓から外へと飛び出してしまいました。


 雲のはるか上を飛んで、銀色に光輝く大海原をわたり、大きな豊かな大地が見え始めました。その緑で美しい大陸に少しずつ降りて行きました。


 二人の人間を見て驚いているタカやカラスといっしょに、丘で跳びはねるシカやキツネたちの上を二人で飛んで行きます。


 すると、たくさんの可愛いテント(ティピー)が並ぶ、小さな村が見えて来ました。澄みきった美しい池では男たちが釣りをし、広場では女たちは子どもたちと幸せの歌を歌っていました。子どもたちは走り回っています。


 村のどこからも、歌声や笑い声しか聞こえてきません。


 王様とインディアンは村の中央に降り立つと、首長の帰りを歓迎し、客人に挨拶をしようとみんなが集まって来ました。そして、遠くの国から来てくれた客人のために晩餐会が開かれました。それは、王様だからではなくインディアンの地では「客人をもてなす」のは当たり前のことなのです。


 人々は歌い、踊り、一族のいい伝えをストーリーテラーが語ります。
 首長と村人はとても幸せな気分になります。


 でも、王様はどうも居心地が悪そうです。


 首長はどうしたら、この高貴な人が喜ばせることができるかと考えました。


 そこで、再び頭の羽を取り王様に渡しました。王様がそれをつかむと、イギリスのお城へと、二人は戻ってきました。まるで何時間もたったとように思えました。けれど王様がインディアンの村に行って来た話をすると、王様の家来たちは、不思議な顔をして王様に言いました。
 「王様はその羽を握って目をつぶり、ほんのしばらくの間、ここに立っていらっしゃっただけです」


 「この魔法はいったい何なんだ!」


 首長は、自分の国の美しさを言葉では説明できなかったので、王様を自分の心の中に入れて実際に経験してもらったのです。
 それが、彼らの言語なのです。昔のインディアンは文章を文字に残しません。なぜなら、ストーリーが偉大なパワーを持っていたからです。



 僕もストーリーのさわりをやってみましょう。


 あなたが、ここに来てくれて、とてもうれしいです。
 この岩の上にいっしょに座りましょう。


 もちろん、あなたは、あなたが今いる所、僕は僕のいる所です。
 ブログという制約を越えて、あなたの瞳をみつめ、呼吸を感じ、心を感じながら話しをしたいのですが、今はそれができません。


 ですから僕たちはできるだけのことをして、互いに心を開いた状態にしておきましょう。


 僕たちは同じことに関心があります。自分の使命とか、または誰かの健康、平和、愛、地球の美、それらすべてが満ち足りた幸せの状態を、ただ知りたいのではないでしょうか。


 僕の声をあなたに、今聴かせることはできませんから、僕はこうして言葉を文章で書いています。


 でも、あなたと僕はいつも一緒です。そう感じてください。僕たちは心の中でひとつです。そして、このブログを読んでいる他の人達もそばにいます。ともに、手をつないで聖なる輪を作りましょう。


 あなたの右にも安心する仲間がいて、あなたの左にも安心する仲間がつねにいてくれます。


 僕たちが学ばないといけないのは「癒し」です。


 地球、社会、そして自分自身の癒しなのです。病んでいる時代においては、なすべきことはただそれだけです。宇宙にはリズムがあります。病んでいるのは、そのリズムから離れて不協和音が出ているというサインです。


 では、一緒にここに座り、あなたも「聖なる羽」を持って旅に出ましょう。自分のリズムを取りもどす旅に、風と一緒に呼吸をしましょう。ここでは太陽が水平線から昇り、この入り江の波の光を、あなたの心に届けてくれます。人間社会の騒音や人の視線を気にしないで、静かに自分の身体に注意を向けてみましょう。風の音、波の音、カモメの飛行する音さえも、あなたのリズムを取り戻す手助けをしてくれます………とこのように、つづく。


 インディアンが使う癒しの薬は、ストーリーテリング、つまり物語を語ることです。この癒しの技術の中で心を一つにして、新しい目で世界を見てみましょう。


 もうすぐ3年ぶりにメンタルのアイランドツアーが復活です。3年前にファイナルにしたはずが、あまりにも復活期待と要望が大きく3年ぶりに行うことにしました。このツアーをより完成させるためのヒントを得たかったので出かけた旅でもありました。


 アイランドツアーはメンタル生でなくても、自分自身を自然の中で発見したければ誰でも参加できる癒しのツアーです。そう、自然のパワーを借りてね。


 詳しくは下記内容を参考にして下さい。


 また、皆さんも安心できる仲間とは何か、人といることの安らぎを感じて下さいね。

 ※関連ブログ
愛逢いランド! 2005年9月21日



 






たとえ、人と違っても…

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 人として大切なことを学ぶ場は、大学や大学院という教育の頂点ではなく、幼稚園の「砂場」という、人生の最初の社交の場であり、人間関係の大切なことが、たくさん隠れています。

 
 今一度、幼かった頃に砂場で学んだことを、掘りかえしてみましょう。
 
 何でもみんなで分け合うこと。
 ずるをしないこと。
 人をぶたないこと。
 使ったものはかならずもとのところに戻すこと。
 ちらかしたら自分で後片づけをすること。
 人のものに手を出さないこと。
 誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うこと。
 釣り合いの取れた生活をすること──毎日、少し勉強し、少し考え、少し絵を描き、歌い、踊り、遊び、そして、少し働くこと。
 毎日かならず昼寝をすること。
 おもてに出るときは車に気をつけ、手をつないで、はなればなれにならないようにすること。
 不思議だな、と思う気持ちを大切にすること。
 〜中略〜
 
 昔に読んだ「人生に必要な知恵は、すべて幼稚園の砂場で学んだ」本の抜粋です。
 
 自分だけ勝ち組になりなさい!
 「そのためには隠れて勉強して良い学校に入りなさい」と、友だちを出しぬいても成功が「善」という思考を植え付けている親がいます。
 ワイロなどの便宜を図って、自社だけの成功と発展にこだわる組織もたくさんあります。
 みんなの予算を使いすぎても、謝らない政治家も後を絶たないです。


 もし、今、宗教心や民族の違いを乗り越えて国と国、人と人が、国境の壁を乗り越えて「手をつなぎあうこと」が出来れば、この世界から「戦争」の二文字は一瞬にして消えてしまうのではないでしょうか。
 「なんでも少し」も大切です。なんでもやり過ぎないで、余力を残すことも人と人との関係では大切なことなのです。別の誰かに手柄を立てる喜びを知ってもらうためにも…
 
 また、昼寝をすると頭がスッキリもします。

 
 電卓の打ち間違いや、パソコンの入力ミスなどは睡魔が襲う午後以降に集中しているそうです。
 
 ワシントン・ポスト紙は、アメリカ合衆国では疲労で、年間180億ドルの経済的損失が発生していると発表しています。


 また、2007年の研究では、心臓病で死亡する確率は、昼寝をする人のほうが、しない人より30%低いと発表されました。昼寝には血圧を下げる効果があるそうです。

 アメリカ人は年間一人当たり平均1092ドルをコーヒーの費用に使っています。

 

 日本では 厚生労働省が11年ぶりに『睡眠指針』を一新しました。その中で、働く世代に対してお昼寝を推奨する項目が追加されたのです。


 日本でも労働時間は年々増加しています。睡眠不足による作業効率の低下や、居眠り運転の事故など、経済的損失は年間3兆4600億円という試算もでています。


 「下手な考え休むに似たり」とありますが、くだらない考えや意見は、休んで何も意見を発言しなかった人と、変わらないくらいの意見でしかない、という意味だそうです。僕は「休んでいない人は、いいアイデアもヒラメキも起こらない」とも考えています。だから、悩んで答えが出ない時には、頭を活性化するためにも、すべて手放して遊ぶか、休むかしたほうが人生は上手くいく時もあります。


 アメリカでは、近年、ナイキ、グーグル、ピザハット、P&Gの先進的な会社は、快眠マシンを導入して、昼寝を社員に推奨している企業が増えています。


 先日、メンタルのミーティングの時に、僕が「あの〜、メンタルも心の健康を推奨しているのなら、新しい組織のモデルとして身体の健康にも気づかって、昼休み休憩を2時間にして、1時間はみんなで昼寝したらどうだろうか?」と発言したら、アイランド・ツアーの前の準備に追われ、皆が忙しい雰囲気の中でのミーティングだったからでしょう。僕の思いつきの提案は「この呑気な人は誰なの????」って感じで、熱いミーティングという空気の中で、一笑に付されるように、その熱き空気に吸いこまれて消えてしまいました。


 「でも、いつか絶対に僕たちは昼寝ができる、組織になる!」(マンガ、ワンピース風に)と、心の中で目標ができました。


 そんな中、美塾の内田塾長が「癒しの風」を運んでくれました。


 彼の初の出版本を、わざわざ届けに来てくれたのです。


 美塾の原点も、メンタルで教えているゲシュタルトの欠けた円(自分の欠点、過去のツライ体験)が、「その人の美点、唯一無二の美しい個性として輝くと考えて人生を楽しもう」に基づいています。


 ですから、美塾は化粧を「欠点を隠し理想の姿に変えるもの」から「特徴を活かし、魅力として磨くためのもの」に、ゲシュタルト的にメイクを反転させて、さらに進化させています。


 また、メンタルの「セルフ・ラブ」と同じに、美塾でも「自分の顔を優しく、愛するように触りましょう」と伝えているそうです。


  メンタルの「セルフ・ラブ」のワークでも、自分を抱きしめて「いつも、ありがとう」「よく頑張って来たね」「誰も愛してくれなくても、自分が味方だからね」「あんなに叱られても、泣かないでいたね」と、自分の日々の頑張りをねぎらって、感謝しながら自分の身体を両手で抱きしめると「ツーぅ」と、頬に涙が流れる受講生が続出しますが、美塾でも、やはり自分の欠点を自分で責めて、愛さなかった自分に「ゴメンなさい」という気持ちになって、両手で顔を包んでいると、初の参加者の多くは泣かれるそうです。それほどに、人とは自分のことや、身近な人にはキビシイのです。


 「自分にキビシイ人は、周囲(恋人、子ども)にもキビシイ」と心理学者カレン・ホーナイの考えをメンタルでは教えています。「他人を好きになりたければ、自分にもOKを出しましょう」と…


 内田塾長は本で語ります。シミを嫌わないで下さい。それは、あなたが子どものスポーツの応援に、太陽の日射しも考えないくらい、心から応援した過去の大切な時間でもあるのですから、そのシミを、ただ嫌うことは「過去のあなたの、その瞬間の子どもを愛した思い出の時間まで嫌うことになる」と…


 まさにメンタルのプロコースまで進み、公認試験にもパスした内田裕士塾長だけに「今、ここ」「反転の美学」自己信頼の「トータルの自分を許可する」「嫌っていた他人の価値観や人生から、あなたの新たな未来につながる自己発見がある」など、メンタルの考えかたが、たくさん登場します。


 これはメイクの本ではなく、メンタルの仲間が読んでもメンタル心理の学びを深めるための良書だと思っています。僕が太鼓判を押します。


  いつも、僕を兄だと慕ってくれるうっちー(内田塾長)が、この本で伝えたかったこと、自分をあるがままに自分が認めてあげないと、この世界で唯一無二の自分の輝きが活かされないし、誰にも負けない貴方だけの美しさも発見できないで人生が終わってしまう。


 自分の個性を愛せない女性は、周囲に満ち満ちた個性も、多種多様にある世界のすべても、愛せないのだと言うことです。


 この本を読んでいて、彼はメイクを通して愛を伝え、メイクで世界を変えたいのだと感じました。彼もインディアンの「虹の戦士」(世界を変える人々)です。


 ネタバレになりますが…


 もし、あなたが自分の眉毛が太いと嫌っているなら、僕はその太い眉毛を愛します。あなたが美白になりたいと思っているなら、僕はあなたの、そのままの肌色を愛します。


 もし、あなたが、あなたであることを悩み、あなたであることを隠したり変えようしていたとしたら、僕はあなたが、あなたであることを愛しています。


〜本文より抜粋〜


 メンタルの卒業生である、ひすいこたろう君も、うっちーの出版に協力してくれただけあり、読みものとしてもページの進行も飽きさせない展開で、ユーモアと気づきと感動の連続です。だから、最後までストレスなく読み進められましたよ。


 内田塾長、美塾のメンバー諸君!


                  心からステキな本の出版おめでとう!



 「毎朝、自分の顔が好きになる 内田裕士著 フォレスト出版」









Go for broke!

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 「石橋を叩いて渡る」という故事があります。
 頑丈に見える石橋でも、用心の上にも用心深く物事を慎重に行うことのたとえです。
 でも、慎重になり過ぎて渡らない人がいます。そうです、石橋を叩いて、叩いて、ひたすら叩いて石橋を叩き壊しておいて「やっぱりなぁ…」と、チャンスを自分から壊して渡らない人です。
 逆に「当たって砕けろ」という言葉があります。
 駄目で元々という心意気でやってみれば、案外うまくいくことがあるかもしれないという故事です。

 

 前者は「思考優先タイプ」で、後者は「行動優先タイプ」です。

 

 「思考優先タイプ」は、思考の中での実験で「ああでもない、こうでもない」と考えてアクセルと、ブレーキを同時に踏んでいるだけで、エンジンは空回りして脳も心も疲れはててしまいます。
 「行動優先タイプ」は、行動して、うまくいかなくても「少なくても、今のやり方ではうまくいかない」と経験則だけは身につきます。それだけでも前に一歩進んでいます。

 

 アメリカで、ゴジラと言われた、松井秀喜は巨人に入った時は、ゴジラどころか、見逃しと凡打を量産していました。

 ある時、コーチに「松井!バットは振らなきゃ当たらない!」と激が飛び「そりゃそうだ」と思った松井は「人の評価など、どうでもイイ」と考え直し、バットをおもいっきり振ってみると面白いほどホームランを量産しはじめ、メジャーリーガーでも活躍し、名実ともに怪物ゴジラのような活躍をすることとなりました。

 

 恋愛でも、傷つきたくない若者が多いです。でも、そんな傷など、どこにもないし残りません。残る、残ると思うことが「今も」「これからの未来も」傷つけるのです。

 

 禅の話しに、達磨(ダルマ)という、とっても偉い禅の師匠に、慧可(エカ)という弟子がいました。彼は師のところに行って「師よ、いまだに私の心から迷いが(煩悩の火が)消せません。どうかお願いです。師よ、心の迷いを取って下さい!」苦しむ弟子をあわれむように、ダルマは言いました。「弟子よ、その心の中に燃えつづける煩悩の火を取り出してごらん。そうしたら、その火を消してあげよう。お前が消さなきゃ、消さなきゃ、と思えば思うほど、お前の迷いの炎は、さらに猛火となる。そんなものがあっても、なくてもよいと思えば、炎は静けさの中で消えてしまうよ」そう言ってダルマは口をすぼめて「フウー」と風を送りました。すると、弟子のエカは「消えました!」と言って笑いました。そして、エカは「こだわらない悟り」を得たのです。

 

  僕もアメリカで、電車の車両の中を「次のニュースを読みます。五番街で覆面の二人組みが、宝石店を襲撃しました!」そして「次のニュースを読みます!フロリダの浅瀬で、サメに犬が嚙みつきました!スゴいですね!」次のニュースを読みます…どんどん、読みながら次の車両へと移って行くのです。これを心理療法で「羞恥心粉砕法」と呼びます。
 すべて読み終わって車両を出たら、仲間が寄って来て「どんな感じだった?」「スゴく恥ずかしかった」と僕。

 

 車両の中の、みんながノブの顔をポカンとして見ていたり、彼は「クレイジーだ!」と頭をふる人、「why?」ってゼスチャーをする人もいっぱいいたよ。

 

 教授が続けて言った「そうだ、君はこの車両の中で一時的に、一番の有名人になった。皆がお前にくぎ付けだった。でもね『君がクレイジー』というような評価は、一時的な評価であって、永遠にはついてまわらないんだよ。見てごらんノブ、皆が駅から街に消えて行く、そして、1ヶ月後に君に街の中で会っても、誰も君を覚えていないのさ。残念だねノブ。一瞬の有名人で終わってしまったんだよ」と教授は首をすぼめた。もちろん、僕もそう願いました。

 

 人生一回です。二度も、三度もあれば、指をくわえて遠くから「ああでもない」「こうでもない」「傷つくのが怖い」「傷ついたらどうしよう」と、見ているだけの人生も、問題はないと思うけど、でも、どうせ一回の人生です。人に迷惑をかけないことを条件に「当たって砕けろ」の人生です。特攻の精神で砕けてみたらどうですか、そう、バットは振らなきゃ当たらない。伝えれば一歩、伝えなければ「永遠の0」です(そんな映画じゃなかったけ⁉️)

 

 

 

孤独と戦う方法

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 最近、大切な人を亡くされた人のお話を聴くことが続きました。


 もちろん、大切な人の死は、喪失体験の究極ですが、恋愛や仕事を失うことも、やはり喪失感でいっぱいになります。


 そうした悲しむ人々に追い打ちをかけるのは、それが「自分だけに起こってしまったのだ」と、より孤独になることです。「世界の中で一番の孤独を背負ってしまった」と思うことにより、さらに孤独を感じ落ち込むのです。


 もちろん、理屈で考えれば「誰にも別れはあって、自分だけではない」とは考えられます。しかし、人は誰もが自分の世界の中で生きています。頭では「誰にも別れはある」と理解できても、感覚の世界では、人は自分自身が、世界の中心です。ですから「この孤独は、誰にも理解されることはないし、この失った関係性は特別なものだから、この悲しみは誰にもわかることはない」と、より孤独感を深めます。


 僕も、青年期には、夕暮れが来て街に明かりが灯りだす頃になると、無性にもの悲しさを感じました。


 自分だけが世界の中で取り残されているように感じ、胸が締めつけられ、そんな深い孤独感を感じたことがありました。それは、何か大きな忘れ物をしたようでもあり、間違った道を歩んでしまったような気になり「きっと、もう取り返しがつかないのだ」と焦りというか、不安というか、そんな、なんともやるせない気持ちに襲われたりもしました。


 幸か不幸か、カウンセラーになり、いろんな人の相談にのるようになると、この感覚は自分だけの特別なものではなく、誰にもある感覚なのだと理解できるようになりました。


 そうなると、ある種の達観というか、軽い悟り(本当に軽い…σ^_^;)というか、「誰もがそんな孤独を抱え、多かれ少なかれ人は一生懸命に生きているのだ」と知ることが出来たのです。


 これを僕は「目には見えない連帯感」と呼んでいます。「自分だけ」から「誰にもある」を感じて生きることで、生きることが楽になったような気がします。


 多くの悩みを知ると「みんな孤独を生きている」と知って、一生懸命にこの世界で生きている人びとに連帯感を感じられるようになりました。街の灯しびや、行き交う人をみて「みんな孤独だけど頑張ろうね!」と心の中で小さく声をかけるようになりました。

 この考えの真逆が通り魔です。街に出て「みんな巧く、楽に、生きやがって💢!!」と、自分だけが一番の不幸だと勝手に思い込み、社会に嫉妬し、刃物をふるって、誰かれなしに襲いかかる。それが、通り魔なのでしょう。こんな人こそメンタルで心理学を学べばよかったのにと悲しくなります。

 

 生きること、それは母の胎から離れて誰もが孤独なのです。


 心理学の世界では生まれることは、死ぬことだという考えかたも根強く存在しています。つまり、人は誕生の時に一度死んで、そして生まれてくるという考え方です。胎児は子宮の羊水の中で生きています。その期間は、肺呼吸ではありません。でも、この世に誕生した瞬間から自立呼吸にかわり、肺呼吸に強制的に代わります。赤ちゃんが生まれる時の産声は、魚が陸に打ち上げられた時にする、あっぷ💦あっぷ💦と同じ状態だと言うのです。そして、僕たちは肺呼吸に変化して、親の胎から自立して「一人で孤独に生きる」ゲームに参加するのです。ですから、人は一度誕生で死んで、生まれて来る。そのため、死は第二の死であり、新たな誕生だとも言えるのかもしれません。


 「え⁈そんなゲームに参加したくなかった」それは、残念!!
 ならば放棄しますか?


 でもそれは強制的に、またもっと過酷な人生というゲームに参加しなければならないかもしれませんよ。なぜなら、「自殺」は、このゲームからの脱走になるからです。このような考えかたが仏教でもあり、キリスト教でもあるのです。多くの宗教に、似たような発想があります。


 とするなら病気でも、老衰でも、不慮の事故でも、本人の意識と関係なく亡くなることは、もしかして受刑期間からの釈放かもしれません。どうです?心理療法的なゲシュタルトの発想でしょう。


 世界各国の2万人の臨死体験者(一時的に心肺停止し息を吹き返した人々)に対し、科学的調査とインタビューでデーターを集めた、キューブラー・ロス博士は、死後の世界があるか、ないかは別にして、病院で蘇生した患者に「あなたは死んでいる間はどういう体験をされましたか?」と、世界の主要な病院でインタビューをしました。


 その結果、臨死体験者には共通した体験が三つあったそうです。


 一つは、意識を失ったあと、自分の肉体をハッキリと見たと体験者は言うのです。わかりやすく言うと、ベッドの上に自分が横たわっていて、それを家族や医者が取り巻いている光景が鮮明に見えたと言うのです。実際にロス博士が立ち会った例では、まったく目の見えなかった老婦人が、意識が回復したあとに「先生はあの時に、こういう服装をして私のベッドの傍らに立っておられました」とそのロス博士の服装の色や、家族の立ち位置やそれぞれの服装まで言い当てたそうです。もちろん、息を吹き返した時には、また目は見えなくなっていました。


 さらに、肉体から出た時に、時間と空間がなくなるという感覚をあげています。たとえば、サンフランシスコで死んでも、ニューヨークのお母さんが何をしているか、ということがハッキリわかったと言うのです。会いたいと思った時に、距離、時間の制約を受けなかったと言うのです。


 二番目の共通している体験は、かつて亡くなった人たちの中で、自分を愛してくれた人、たとえば、親とか兄弟姉妹とか、愛した人が自分のそばに来ているとことを感覚的に強く感じ、かたわらにいて自分を助けようとしているのがわかったそうです。


 三番目には、キューブラー・ロスの言葉によると、多くの人たちが、優しさに満ちた、何とも言えない柔らかく、安心できる光に包まれたというのです。しかし、その奥までには行くことができないまま、息を吹き返してしまったそうです。


 これらの報告を、ロス博士は宗教やイデオロギーめいた宣伝をするためではなく、一人の医者として、アンケートの事実だけを淡々と報告しています。

 

 アメリカインディアンは、亡くなる時には、畳の上ではなく、大地の上で亡くなることを望みます。彼らは「大地にはたくさんの愛する仲間がカタチを変えて、自分たちを応援してくれている」と考えているからです。

 

 現代科学がたどりついた結論は、この大地も、そこに咲く草花も、人間も、空気も海もすべて、もとをたどれば、同じ素粒子から出来ています。知恵を持った人間だけに特別な素粒子はないのです。宇宙のどこにでも存在する素粒子で、僕たちの身体はできています。やがて僕たちも風や川のせせらぎになって、この大地にもどって行くのです。すべてと出会える場所へと…


 「私たちが大地の上を歩くときに、いつも愛と慎重さをもって一歩、一歩進むのは、地面の下から私たちのことを、愛をもって支えてくれる存在がいるからだ。私たちはそのことを、片時も忘れない」~オノンダーガ族の言葉~


 ネイティヴ・アメリカンの友は言った。「淋しい時は、モカシン(靴)を脱いで大地をゆっくり歩いてごらん。先祖の魂がお前に力をくれるから…」


 そう、大地にいるかぎり君は決して孤独ではない!

 

 

 

 

一緒にプレイヤーになろう!

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 人は、いつも自分のやりたいことを通せば、周囲の人とぶつかってしまいます。だから、そこそこ自分のやりたいことを抑えて、我慢し、自分を周囲に合わせることを学んでいくのです。笑いたくない時に笑い、付き合いたくない人にも、時には付き合って飲み会に参加し、休みたい時に、自分を奮い立たせて仕事に向かったりと…それが、社会性だからです。

 また、周囲に合わせて過ごすことを、社会や大人たちは求めてきます。それができてこそ「一人前の大人になった」と大人社会では言うのです。

 

 周囲に合わせる自分。社会が期待する役割りを演じられるのが社会人です。

 それが、理性のある大人です。それを求める司令塔が大脳新皮質(新しい脳)という大人の脳です。

 

 でも、僕たちの心の中には、子どもの脳が隠れています。それが、大脳辺縁系(古い脳)というエネルギッシュな子どもの脳です。この脳は、寝たい時に寝て、食べたいものは好きなだけ食べたいという衝動です。

 

 嫌いな人には付き合わないし、泣きたい時に泣くし、怒りたい時には「感情を外に出したい!」というシンプルな脳です。これは恐竜の時代に発達した爬虫類の脳です。ですから、恐竜なのでパワーがあります。

 

 パワーがある脳なので、好きな人に逢えるなら、どんなことも乗り越えます。美味しいものが食べられるなら遠くでも出向きます。恋人にフラれ「くそ〜、いつか見返してやる💢」と思うエネルギーは、それからスゴく働き続け成功して、もっとステキな恋人を見つけて見返す人もいます。ですから、このエネルギッシュな脳をうまくコントロールすると成功します。

 

 そのパワフルな子どもの脳(古い脳)を、大脳新皮質の大人の脳(新しい脳)が、大人として「自分を抑えろ!」「はしたない!」「立派に振る舞え!」「なにごとも我慢、ガマン」と命令をして圧力をかけています。

 

 子ども脳を強引に抑えすぎるとストレス(摩擦)によって、心身症のような病気になったり、突然、社会的に立派だった人がキレて、意味なく怒り出したりするのです。

 

 このように脳のバランスの悪さ、脳のコントロール法が上手くいっていないのです。

 

 ですから、ときおり子ども脳の解放が必要です。子どものように周囲に気をつかわないで好きなことで発散することが必要です。

 

 お祭りもその一つです。お面をかぶって、酒を飲み、新しい脳の圧力をゆるめ、好きなように振る舞い踊ったりするのです。世界のいたる所で祭りは開催されています。人にはバカになる時間が必要なのです。これを「ハレ時間」と呼びます。人には周囲に気をつかう「ケの時間」と、子どものように解放される「ハレ時間」があります。

 

 この非日常へ、自分をいざなう時に着る着物を「晴れ着」と呼びます。晴れ着で仕事をしたり、掃除をしたり、日常雑貨を買いに行く人はいません。仕事や掃除は、役割を演じる「ケの時間」だからです。

 

 最近、心から笑ったり、泣いたりしていないなぁと思うなら、ときおり、ハレ時間を作りましょう。それが、メンタルのショー講座なのです。

 

 2015年のハロウィンの市場規模は、前年比11%増で約1220億円。14年のバレンタインデー市場(約1080億円)を上回りました。11年の560億円からわずか4年で倍増しました。そして、今年はさらに伸びると言われています。

 

 日本は、全国で老若男女が盛り上がる祭りが少ないので、現代のハレ時間なのでしょう。だから、どうせやるなら「踊るアホうに(プレイヤー)と、見るアホう(批評家、冷めた人)。同じアホなら踊らな損ソン!」

 

 人生は一度だけの祭りのようなものです。同じアホなら、演者(プレイヤー)になろう。大人の脳を使って、冷めた観察者になるよりもね(^_−)−

 

《おまけ》

 金曜日は名古屋教室と東京教室、月曜日は博多教室と大阪教室をスカイプで結んでハロウインの教室を生中継をしました。アイランドツアーの後だったので、それぞれの地域に仲間ができて、生徒同士が互いにモニターを通して大盛り上がりでした。

 

 「大人はツラそうだから、大人になんかなりたくない」と言っている子ども達に「大人も楽しいだよ」とステキなモデルを見せよう!

 

トランプ遊び

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 立冬が過ぎて、自宅のそばにある山の色彩が濃くなった頃・・・

 

 メンタル博多校近くの道路で、大きな陥没があったり、おおよそのマスコミの予測に反して暴言王と言われたトランプ氏が45代アメリカ合衆国大統領になったりと、明日のことは誰もが予測できない時代に僕たちは生きています。

 

 今年はイギリスのEU撤退やら、世界が「他の人種や他の国のために、損するなんてありえない」と自国の利益のためだけを考える、昔のようなナショナリズムに戻りつつあるのかもしれません。

 

 日本もかつて、藩と藩が対立し合っていました。そこに坂本龍馬が現れて「薩摩も長州も藩同士で対立しちょっちゃいかん。薩摩じゃち、長州じゃち、お互いにケンカしちょらんで、お互いに手を結ばにゃいかんきよ。ワシは土佐藩なんか飛び出して、この日本のために走りよるんよ。ワシらは同じ日本人じゃ。そうならんと、いかんぜよ」

 

 これからは「イギリスじゃち、メキシコじゃち、中国じゃち、日本じゃ アメリカじゃち、ケンカしちょっちゃいかん。お互いに手を結ばにゃいかんぜよ。ワシかい!? ワシは地球人ぜよ!」

 

 この青い、あおい地球の中で、僕たちが生まれ、それは誰も約束されて日本人になったわけでも、北朝鮮人になったわけでもありません。

 

 誰もが「出たら目」に生まれてきました。そう、サイコロのサイの目が出るように偶然に、いろんな国に生まれて来たのです。だれかの国や、どこかの人が、苦しむことに無関心になることは避けたいですね。やっぱり僕たちは、地球人なのですから。

 

 この世界を滅ぼすのは、マザーテレサは「愛の反対である、隣人に対する無関心です」と言いました。

 

 どの国や人種に対しても、無関心ではいたくないものですね。

 

 たくさんの脳細胞が結び合って、人の「意識」が生まれるように、僕たちの世界も、たくさんの国や人種が手と手を結び合って、地球全体に、正しい意識が目覚めることを願います。

 

 トランプさん、ゲームのトランプがバラバラにシャッフルし合っていても、それがいつかは一つにまとまりあって「あがり!」となるような社会を目指しましょうよ!ね・・・

 

 

 

朝起きてワクワクする仕事を君はしているか?

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 就職のフォーラムでの講演会で「仕事をすることで大切なことは?」と質問されました。

 

 就職する時に一番大切なことは、定年をむかえた時に「もう一度この会社に就職したいですか?」と聞かかれて「はい!」と言えることだと思います。

 もちろん、何もプレッシャーもない、楽しいだけの職場はないかもしれません。

でも、ふり返った時に「自分があの時に自分は燃えて、イキイキと成長していた」と思えた時間は、よい職場生活だったと言えるのではないでしょうか?

 

 ある大学の調査によると「学生に戻ったとしても、現在の会社を選びますか?」という質問に「別のところに就職したい」と、大卒の会社員の7割が答えたそうです。

 

 有名企業の課長職100人に調査したところ4割以上が転職希望だったという驚く結果も出ています。

 

その結果からではないですが、電車に乗っていても、瞳のキラメキを失い、うつろに電車にゆられている中高年が、日本には多いと思うのは僕だけの印象でしょうかいや、中高年だけではなく、若い人にもそれは広がっています。

 

 僕の友人のなかで、楽しんで仕事をこなし、人生をイキイキしている人たちの共通点は経済の裕福には関係なく「今の仕事で自分は成長している!」と実感している人たちです。

 

 ある大学の就職担当教授が言っていました。

 ある中小企業に就職を決めた学生がいました。そして、その経営者には将来のビジョンがあり、子どもがいないので、将来は自分の後継者まで考えているとも言ってくれたそうです。担当教授も、堅実な経営手腕と、社長の実直な性格もあって、その学生にも勧めたそうです。学生自身も、その経営者にひかれ相思相愛で「ここに勤めたい!」と強く思ったそうです。ところが、内定が確定した時点で、その学生の母親が文句を言い出しました。

 「そんな聞いたこともない、会社に就職するなんてありえない。こんなところに就職したら恥ずかしくて、親戚にも、誰にも言えない」と猛反対💢しました。「どうしても息子を就職させない」と強く言ったのです。困った教授は、学生自身から本音を聴こうと思って「君の本音はどうなんだ?」と確認してみると「最初は就職したいと思っていたけど、母親がしつこく辞めてくれと言うので、僕も辞めたい」と言い出しました。あわてて担当教授は、わざわざ会社まで朝一番に行って、しぶる人事部長に、頭を下げて内定の誓約書を返してもらったそうです。経営者も「その気になっていたのに」と残念そうに肩を落としました。

 

 心理カウンセラーとして、この学生は、親の望んだまま大企業に就職し、未来に役職がついたとしても、退職する時期に「今の会社に入ってよかったと思えるのだろうか」と疑問に思ってしまいました。この学生は「親に認めてもらう人生」を生きているようで

 

 就職でも結婚でも「誰かに認められたくて」また「自分にとって重要な人間から否定されることの恐怖から」人生の方向性を決める人に「充実した人生だった」と言える人は少ないように思えるのです。世間体のために有名企業に就職したり、結婚相手を決める人も破たんするケースが多いからです。

 

 誰かに笑われるのが怖い、よい印象を誰かに持ってもらえるために就職を考えると、他人の評価の奴隷となり、周囲からの承認、上司の顔いろに左右され、次には出世がすべてになり、一生という長い時間を、競争と緊張と無味乾燥の日々に苦しむことになりかねません。

 

 また、就職担当教授が就職の相談に乗っていて無念に感じることは、本人がきちんと納得して決めたのに、親が世間体を気にして反対し、学生自身が苦しむ姿を見ている時だそうです。

 

 でも、僕は親に反対され、悩む学生は健全な成長をしていると感じています。

なぜなら親と自分との価値観の違いに気づいているからこそ、その学生は苦しんでいるのです。それは自分自身の心にある、本当の自分の姿に気づきつつあるからです。

 

 僕が気になる学生は、親と衝突することもなく、親の願いを叶えることが、自分自身の願いだと固く信じてしまっているタイプです。そういう学生は、幼い時に、周囲から十分な注目が集められず、ありのままの心を理解されなかったために、永遠に一体感願望を求めようと努力する人生になります。愛してくれなかった、親からの承認を、大人になってから周囲に求めようとします。世間がうらやむ結婚であったり、就職であったり、有名私立にムリにでも行かせようとする子育てであったりと

 

 「子どもの時の未完成の輪」を別の形で完成させようと、一度しかない人生をも、ささげてしまうのです。

 

 だから、根本的に自分に自信がないので会社に就職してからも少しの失敗や、お客さまとのトラブルに過剰に落ち込んでしまいます。叱咤激励を成長のエネルギーに変えるどころか、幼い時に感じた叱責や責任を過剰に受け取り、自宅に帰ってくつろぐ時にも、お風呂に入っている時も、波状攻撃のように思い出し、心が打ちひしがれていく切り替えられないのは幼児期の心理の再現なのです。

 

 周囲が「そんなこと誰でもあるよ。気にしなくてもいいじゃない」と言っても、この世界には叱責をリフレインしながら、恐ろしいほどに自分自身で落ち込んでいく人がいます。

 

 こういう人は、失敗やストレスを乗り越えて成長しようとすることを避けてしまう傾向にあります。ですから、いざとなると幼い子どもに戻り、親の保護を求めてしまう。そうなると心理的にも経済的にも、親に頼ることになり、そこで心理的にさらに親に取り込まれ、親のすすめる職業や結婚を選択してしまいます。それにもやがて挫折すると救出ゲームの親が、優しい顔で「あなたは私が決めないとね」と、さらに親の望む人生を生きてしまうという悪循環に入ってしまう。

 

 やがて誰かに認められるだけに生きた人生は、10年後、20年後に仕事や結婚に虚しさや空虚感を感じ「もう一度、今の人生を生きたいですか?」と尋ねられると「絶対にイヤ!」と答えるようになるのではないでしょうか。

 

 将来の生活の安定のために、学生たちが大企業に就職したいと思うことは理解できるのです。もちろん、最低レベルの経済は必要です。ただ、人生の安定性には、経済の充足と、心の充足とがあります。生活は安定していても、自分に向上心を感じることができず、時間の切り売りのように職場に行き、空虚なルーチンワークの中に、ただひたすらに呼吸しているだけの日々を過ごしている人もいます。

 

 先のことは分からないけど、確実に「自分が成長しているんだ」とおもえる仕事に生命も心も燃やしている人のほうが人生を充実させているのです。

 

 21歳から84歳まで特許を1300件取ったエジソンは「仕事は癒しです」と言いました。彼は不眠隊と言われるほど、研究に没頭し、不眠不休で研究に邁進しました。でも彼が過労性の心身症に苦しむことはありませんでした。

 

 有名企業のエリート社員が心身疾患で職場を離脱するのは、自分のしたいことよりも、世間の評価を気にして、自分のやりたくない仕事に就職したとしたら身体は反乱を起こすこともありえるのです。

 

 カウンセリングをしていて、身体的な不調にみまわれた時にこそ、心のゆがみを学べるのです。企業トップ10に就職したのは「その仕事をやりたくて」ではなくて、自分の自信のなさを補って、自分の素晴らしさを社会に「印象づけねばならない」の不安感が真の動機だったのかもしれません。

 

 ある学生が数々のアルバイトをしているうちに、社内でデスクワークしているよりも、自分は汗かき、人とふれあい外で動きまわっているほうが好きだと気づき、一流大学からあるスーパーに就職した人がいます。大学の教授も、親も驚きましたが「子どもが行きたいのなら」と、両親はその息子を送り出しました。でも、その彼は九州で店舗を拡大している大手スーパーのエリア統括部長になり、日々の活動から気づいたアイディアを仕事に生かし、さらにスーパーの出店数を着実に増やしています。彼は「役職は関係ないのです。成長している周囲や自分が確認できて楽しい」と笑っていました。

 

 このような人は「もう一度この仕事に就きたいですか?」と言われたら出世に関わらず「はい!」と元気に答えるのでしょう。

 

 今、就職を考えている人は、目指すべき仕事は「それがしたい」からなのか「よく見られたい」からなのか、自分の心にシッカリと聴いてみるのもいいのではないでしょうか。

 

”少年よ大志を抱け”  クラーク博士

 

 

 

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