自分が変わりたいと思うことは前向きなことだと思います。
カウンセリングの現場でも、心理学の教室でも「自分が、このままでは良くないと思うのです…友達に対しても、職場にも、だから、自分を変えたいと思うのです」
では、「自分の何をどう変えたいのかなぁ?」と質問すると「へこたれ無い自分に…」と答える。
「どんな自分がへこたれ無い自分なん
だと思う?」と質問すると「強い自分に…」になりたい。
「では、どんな自分が強いのだろう?」と質問すると。
「どんな時も、ブレない自分!」
「ねぇねぇ、ブレない自分とは、どんな人なの? 具体的に誰かいるのかなぁ、この人はブレないなぁと思う自分のモデルになるような人が?」
「自分に自信がある人!例えば 、そう衛藤先生みたいな人」
「え⁉ 僕?ブレる!、ブレる! ブレまくり」と焦る
また別の人は、
「自分が、昔も今も変わっていない」「どこが昔と変わっていないの?」「すべてが…」「具体的に、どこが変わっていないと思うの?」「心が弱いところ」「では、どんな人が、強い人なのだろう? 君が一番、自分自身で弱いなぁと思っているところってある?」「全部!」
これらのような会話のパターンがよく出てくる。
具体的になりたい自分も、修正したいと思う具体的な問題点も見えてこない。
自分が嫌いだから、もっと強くなりたいや、なんとなく幸せになりたいなど、なんとなくのムードだけで具体的なものがあるわけではない。
僕はこう思っています。
人は幸せになっても、また、不幸に見舞われる、人は強い時もあり、弱い時もある。ブレない時もあり、ブレる時もある。
それが人の人生だと思っている。
本当に強い人は、弱い自分もいることを知っている人なのです。
そして、強くなれない自分の状況に、また、いつか出会うことを覚悟しているのが、真の強さだと思っている。
僕がブレないように見えたとしたなら、ブレないのではなく、人にはブレることがあるのが普通だと思っていることにはブレない自信がある…(笑)
完璧を求めて苦しんでいる人は、完璧な安全地帯に行きさえすれば、永遠に安全なパーフェクトな世界やパーフェクトな自分自身があると信じている。
それは、真の弱い人だと思う。
本当に強い人は、弱さを抱えて生きることだし、泣くような人生が、今後も自分にもあるだろうと覚悟して生きることなのです。
そして、誰もがそれに耐えながら生きている。
足らない人生を悲しまないで、今、完璧ではなくても、少しでも足りている人生に感謝する中にこそ、真なる強さと幸せが宿っています。
あやふやな完璧主義!
モノサシを捨てる。
カウンセリングでは、なるべく自分のモノサシを捨てることが求められる。
「こういうタイプは、このような人だ!」というモノサシです。
学校に行かないのは、根性がないからだとか、真面目すぎるからウツになるのだ。
離婚する人は、見る目がなかったのだ。
このような事件を起こす人は、心が弱いのだと言う類の「モノサシ」です。
僕たちの「常識のモノサシ」が間違うかもしれない。
暴走族に入って親を心配させたが「あの子が一番親思いの大人に育ったね」と大逆転もある。
また、親の思ったようなエリート路線をばく進して、知識だけでは渡れない
社会に入って、ドロップアウトして精神に異常をきたした若者もたくさん知っている。
誰もが「あの時に、人生で失敗したから、今があるのね…」という類のことは多くの人が経験しているはず。
だから、僕の大好きな禅の先生は、神様にお願いする時は「請求書付きのお願いはするなよ」と教わりました。
「ウチの子供を、あの学校に合格させて下さい」と請求して祈って、望む学校に合格しても、その学校でイジメに遭って、我が子が自殺でもしたら「あの学校に落ちれば良かったのに」となります。
「僕は出世をしたいです」と願って、その願いが神様に聞き入れられ、出世をしたとしましょう。
でも、幹部になったことで会社ぐるみの汚職に手を染めてしまってテレビで記者会見で謝ることになれば「平社員のほうが良かった」となるかもしれません。
逆に、忘れ物を取りに帰って、事故に巻き込まれなかった、九死に一生を得ることも起こります。
僕も両親の離婚や、育ての親の自殺がなければ、心理カウンセラーにはなってはいなかったのです。
だから、何が正しいとか、何が間違いと単純に判定できないから、カウンセリングはカウンセラーが答えを出せない。
だから、その禅の先生は「神様に下駄を預けるように祈りなさい」と…「どうか、すべては最後には良かったと思えますように!」と…これを神様にゲタを預ける、神ゲタ主義と呼びます。
そうすると、不幸に見舞われても、今は最悪のように見えたとしても、これも、きっと振り返ると「あの事があったから…」と未来は、きっと笑っていますよねと…
そうなのです、今、テレビで話題になっているオウム真理教の指名手配の容疑者も、オウム真理教で幹部をやっている時は、まさか人生で逃亡の身になるだろうとは、想像もつかなったはずなのです。
彼らも、少し何かがズレていれば、幸せな生活が待っていたのかもしれません…
彼らの写真がテレビで流れるたびに、人生の哀れを感じずには、いられない僕がいます。
だから、あの人は弱かったのだと単純なモノサシで見れないのです。
自分自身も国や時代が間違うと、戦争や人殺しをしてしまう、弱い存在になる可能性があるのだと、人間の弱さを思ってしまいます。
だから、そんな状態ではない平和な社会に、普通の凡人として生きている、自分自身の日常に、感謝の気持ちがわいてくるのです。
誰もが笑える世界が来ますように…やっぱり、これも請求書付きか…
空より…
昔に比べて、組合の委員長も若いメンバーなので、和気あいあいとしている気がします。
やはり組合は勢いあるメンバーが、既存の職場の風土に風穴を開けて、新しい風土を作って行かなければね。
パイオニア精神こそが、日本の再生には不可欠だから…
休みなく、この週末は、今から博多の修了式です。僕は今、機上の人です。今日の飛行機はプロペラ機です。 いや~ 一生懸命に飛んでいるって感じです。 今日も快晴です。
先ほど飛行場のカウンターのところで、携帯端末でチェックインするためにポケットから携帯電話を出そうとしたら天然石の付いている生徒さんから頂いたストラップが勢いよく切れて石が散乱!
今から飛行機に乗るのに不吉だ~ッ
このブログは飛行機を降りたら、アップするのでこのブログを見たら無事に福岡に到着です。
また、修了式の様子はブログにアップしますね。
福岡の修了式にサプライズ‼
昨日の博多の修了式を終わらせ、博多から新神戸で下車して、ポートピアホテルに寄って、大阪ガスの講演会を終らせて、いま大阪に戻って来ました。
昨日、博多も255名の修了者を迎えグランドハイアットで盛大に、お祝いができました。
やっぱり、修了者は晴れ晴れとした、ステキな笑顔で、ある修了者は「大人になって始めて学ぶことの楽しさを知ることができました‼」と語ってくれました。
そして、中には「勉強が終わるのがイヤだから修了式は参加したくなかった」とか、悲喜こもごもです。
そして、今回はサプライズで講師キノピーと講師神野の婚約発表と
サプライズのウエディングケーキ入刀です。
神野として最後の修了式です。感慨深いことでしょう。
ハイネは、結婚とは未だに完璧な航路が発見できない荒波であると言いました。でも、人生も同じで、すべて誰もが完璧な方法論が見出せない荒波です…
だからこそ、漕ぎ出す価値がある…
二次会も大盛り上がりでした。
次は7月1日の大阪のニューオオタニの修了式です。
福岡の修了式にサプライズ‼
アメンバー限定公開記事です。
ワガママな時代…
生きるのがツライから人を殺して死刑になろうと思った。
メンタルの大阪の教室から離れていない場所で通り魔殺人が起こった…
こんな事件が起こるたびに深いため息と共に心も体も虚脱感を感じてしまう。
そして、突然命を奪われた被害者の悲しみは、もちろんのこと、遺族になってしまった被害者のご家族の無念さを想う。
生きることは楽しいだけとは、僕も言わない。
恐ろしく孤独に感じることや、絶望に見舞われることもあるだろう。
でも、人はそんな苦しみの中で這いつくばって生きているのが基本。
自分の思うようにならない現実に耐えられない人が増えている。
これはフラストレーショントレランス(不満に耐える能力)の低下が進んでいるのだと思う。
現代は、夜も遅くまでコンビニが開いています。「夜はお店が閉まっているから我慢しなさい!」と言う親の説得は通らない。
三食は誰もが欠かさず食べられます。それは、昔には殿様しか出来なかった贅沢な生活。
僕は毎週、博多、大阪、名古屋、東京の教室で話しています。
昔なら何ヶ月もかかって歩いた場所に、僕は数時間後には到達して話しているのです。
文明は素晴らしい恩恵をもたらしたけれど、失われることもあるのです。
それは「耐える能力」の低下です。
ここ数十年でも、時代は変わりました。
僕の時代には、恋人の家に電話するにも、彼女のお父さんという関所があった。今は携帯電話で何時間でもダイレクトで恋人と話せます。
昔は学校の友達と、家の前でサヨナラしたら、世代の違う親や祖父母世代と望む望まずに関わらず、茶の間で会話をしなければならなかった。
そのような中で敬語を自動的にマスターしたように思う。今は親と友達のような会話がまかり通る。
遊びの世界でも、年長の子供達との広場で、集団の中での序列を教え込まれたように思う。今はコンピューターの中で、いつでも自分自身が主人公になり、我慢する必要はない。
その中で身につくのは、ワガママな自己顕示欲なのかもしれません。
そして、親たち世代も「自分の子供さえよければ」とでも言うように、学校に無理難題を押し付けワガママに、モンスター化してゆく。
東北地方の瓦礫を、自分の街だけには持ち込むなと、それぞれの地域でキャンペーンがはられ、誰もが「自分さえよければ!」と言う時代になりつつあるように思える。
それに誰もが不思議に感じない時代…
集団にズレが生じると、その中にいる個人もズレてゆく。「狂気の中では、狂気の思考は正常になる」とは心理学の基本。
以前に岐阜の長良川国際会議場で講演会があった時に、山の上に岐阜城があった。
昔の人は何十kgの重い甲冑を身につけ、山の上まで行軍したのだと考えると、昔の日本人の忍耐とたくましさに度肝を抜かれました。
現代の若者に、それが出来るのは一握りのアスリートだけだろう。
今、尖閣諸島の問題で、日本の東京都知事は攻撃性を全面に出している。
もし、最悪のシナリオだが、中国と日本が戦争をするような事態が起これば、日本は勝てないと思う。
今の日本男子では残念ながら戦えない。
軍事力で上回ると思っている人も多いようだが、最新鋭の武器でも、それを使い切るマンパワーが低下していれば、敗北するのは戦争の歴史の事例を知れば歴然です。
…僕の講座のように話はそれましたが(クセでf^_^;)、
このような通り魔事件は、やはり子供の時から、思うようにならないコトに出くわすたびに、我慢したり、耐え忍ぶことを自ら鍛えないで、自分の思うようにならないことに感情を爆発させ、周囲に怒りをブツけることで生きてきた人々の代表例なのだと思えてならないのです。
一言言わせていただければ、
「甘えるな!!」
なのである。
小さな応援団員。
博多校の、ある女性の受講生が「家の小学校の息子がリビングにあった『イーグルに訊け』を読んで先生に会いたいと言い出したのです」
「『それはダメだよ』と私が言うと、「先生に手紙を書いたので渡してほしい」と預かったので読んでもらえますか?」
「もちろん! 喜んで読ませてもらいます」と僕。
衛藤先生へ
こんにちは、始めまして。
ぼくは、小学校6年生の、拓也といいます。お母さんが、小説を読んでいたので、何かなーと思って、お母さんに貸してもらったのが、きっかけです。
「イーグルに訊け」という本を、ぼくはまだ、26ページしか見てないのですが、「インディアンに学ぶ八つの世界観」までのページで、「自然は最高のカウンセラー」に、ぼくは強く心を打たれました。
それは「私の周りでどれほど大人たちの悲しいドラマが進行中でも、青空はいつもそこにあり、太陽はいつも世界を輝かせ、木々は静かにさざめいていました。雨が上がった後の土の香り、神秘的な月光、虫の声、自然は優しく僕に語りかけてくれたのです。」という所に、感動しました。
ぼくも、マンガや小説、ゲームなどといった物と同じくらい、自然が好きです。とくに、夏の森のカブトムシやクワガタ虫の土のにおいも、好きです。
もちろん、マンガなども読んでいます。しかし、自然のような、その時しかないふうけい、けしき、香りは、すごくいいものです。
ぼくの好きな季節は夏です。それは、かき氷が食べれるという事もありますが、一番はやっぱり、クワガタに会えるからです。ぼくはクワガタが大好きです。一番はミヤマクワガタです。最後にぼくは、「イーグルに訊け」には、
〔もう一枚につづきます〕
今の社会の必要な事、人間として、大切な事が書いてあり、すばらしいです。いつか先生に会えたらいいと思っています。
◯◯拓也
どんな毛筆で書かれた丁重な、お手紙よりも、彼が一字一字を鉛筆で書いてくれた一つ一つの文字に、僕の心は揺さぶられていました。
「優しい」と書いて、人が(ゆうつ)と書きますが、これは人が憂(うれいて)いるのではなくて、落ち込んでいる誰かのそばに、人が寄りそっていると書くのが「優しい」という字なのです。
この手紙は、疲れた僕に、優しく寄りそってくれました。
ありがとう。小さな応援団員‼
行動は人生を映し出す鏡。
先日、ある地域の体験セミナーでプリプリと不機嫌な人が参加されました。
受付で「迷ったじゃない。この地図わかりにくいわよ」とまずプンプン案内されたイスに荷物をドンと置いて、周囲を唖然とさせ、司会の話も資料にパラパラと眺めて目もくれない。
前で、講師である僕が「人との関わりの大切さ」の話をしていても「それが、なんなのさ」とでも言うように講師のいる前方を見ないで、窓の外を難しい顔で見ていたらしい。
「見ていたらしい」とは、僕の舞台の上からは確認できなかったからなのです。ただ、講座の途中で帰った人が、一人おられたので、後方にいたスタッフに講座後に「お急ぎだったのかなぁ?」と聞くと、講座に入る前の段階からプリプリムードで来ていたとのこと。スタッフいわく「でも、きっと講座を聞かれた後は、楽しんで帰っていただけると思って、お席にご案内したのですが…」
教室に入る時から、ドアをバンと開けて、バンと閉めて、後方にいた参加者の視線を集めたそうです。
スタッフは丁重に慎重に対応したらしいのですが、終始そうだったと…
気の優しいメンタルのスタッフが、ため息まじりにもらす「受け付けの用紙に、お店の店長とありましたが、下で働く人は大変だろうなぁ、となんだか同情しました」
「きっと、職場で頑張っているからストレスが溜まっているんだろうね」とボク。
「でも、いつもあんな風に苦虫を噛み潰したような方だと、お客様にも印象が悪いんじゃないのかなぁ…」とスタッフ。
「いや、意外にそういう人ほど、お客様には、すごいニコニコしているケースが多いよ。その分だけ、外で自分がお客になると『自分も日頃は我慢しているのだから、自分がお客の立場になったら、偉そうにすべきだ』と淋しい人生観を持ってしまうものだよ」
「へ~そうなんですか…」とスタッフ。
そうなのです、人は自分の言動・行動が、その人の世界を決めるものなのです。
これを「認知のゆがみ」と言います。
自分が上司や先生、目上の人に、どんなにヒドイ態度をされても、文句を言えなかった人は、自分が上の立場になった時に、二通りの行動に分かれます。
一つは、自分がされて嫌だったことは人にはしないと決める人。
もう一つは自分がヒドい仕打ちをされたから、自分も同じ立場になったら、立場の弱い人に自分がされたのと同じような行動をする人。
そうすることで「世の中はこんなものよ。勝つか負けるかなんだ」と冷めた人生観を持ってしまう。
僕は田舎の高校で、よく先輩から呼び出しを受けました。いつもトイレに…
「お前なにをニコニコしてるんだよ」
「転校して来たくせに、目立ちすぎるんだよ!」
「なんだか、生意気だ…」
僕も学習すれば良いのですが、毎回同じような理由で呼び出される…♪(´ε` )そう、学習能力がない。f^_^;)
同じように先輩に呼び出されている同級生は「ここの学校の伝統だから…」と半ばあきらめムードだった。
僕は、それにも納得できなかった…
だから、自分が上級生になった時には、トイレに呼び出された後輩に出会うと「俺が奴らに話をしとくから、帰れ!帰れ‼」となる。
だから、上級生になっても「トイレ」という場所は、後輩を呼び出した彼らと、後輩を帰らせた僕の、戦場の場所になる…。
そう、いつになっても、こんな感じで学習能力がないらしい f^_^;)
人は、その人の言動と行動が、その人の世界を決定する。
立場の弱いウエイトレスや店員に偉そうにする人がいます。
「早く水を持って来い‼」
「馬鹿野郎、釣りが間違っている‼」
「お客の荷物だろスグに持てよ‼」
「呼んだらスグに来いよ‼ ノロマ」
このような言動の人は「俺だって金をもらうのに苦労をしているんだ」だから「お前も苦労をしろ!」とでも言うような態度と言動をする。その態度を続けることで、自分の世界観を歪めて固めてゆく。
この世界は、上に行くか、下に行くかだ‼ 勝つか負けるかの世界なのだ…と自分の思い込みを中心に生きる世界を決定してゆくのです。
上司には、どんな簡単なお願いもできない部下がいました。その人は、逆に上司の無理難題や不当な仕事を申し付けられても、自分の考えすら伝えられない…上下関係は、そんなものだと決めつけている。
だから、その人は自分の部下にも、無慈悲で高圧的な態度になる。
そのような歪んだ考え方のために、彼は人間関係が上手くいかない。そのストレスから体を壊し、お酒やドラックに溺れる世界から抜け出せない。
もし、この人が、豊かな人間関係の中で過ごしたいのならば、自分よりも弱い立場の人に、自分自身が優しく行動する・言動することが、自分の歪んだ世界観を変える第一歩なのです。
確かに、苦労してお金を稼いでいるのかもしれません。でも、部下や他人に不必要な苦労をかける必要などないのです。
このような、部下への思いやり、目下の者に対する優しい配慮が、自分の世界観や人間関係に、確実に変化をもたらします。
上も下もなく、支配することも支配されることもない、穏やかに笑って過ごす豊かな職場生活や家庭生活。
その優しい穏やかな笑顔の中で、その人は安心して生きることが出来るようになるのです。
笑って過ごしたいものですね…
話は変わりますが、昨日は父の日で、息子がバイト代からケーキを買って来てくれました。
ケーキの甘さが、いつになく心に染み入りました。
ありがとう。
「自分は間違わない」という過ち…
ある小学校の関連の本に、このような詩が書かれていた記憶があります。
校庭で放課後クラブの練習。
野球とサッカーとテニス。
お互いにボールが飛んでくる。
校庭が「狭いなぁ」と、みんなが不平を言っている。
今日は、校庭で石ひろいと草むしり。みんなが校庭が「広いなぁ」と不平を言っている。
とても、可愛らしく、微笑んでしまうような詩です。
人は立場や状況が変わると、同じものを見ても、違って物事が見えてきます。
ある人が、ポールの先で揺れている旗を見て「風が流れている」と言った。
もう一人の人が風が流れているのではない。
あれは「旗が揺れているのだ」とその人を訂正した。
すると最初の人が、旗があっても、風という力が、なければ旗は揺れまい。だから、あれは「風が吹いているのだ」と、さらに、また相手を訂正しようとした。
何を言うか、風は見えぬものよ、その見えぬものの存在を、知らせているのは旗なのだから、あれは「旗が揺れているのだ」と、お互いに甲乙つけがたく、ゆずることをしません。
そこに通りかかった偉いお坊さんが、「あれは風が揺れているのでも、旗が揺れているのでもない‼
お前さんたちの心が揺れているのだ‼」と喝破したのです。
「あんたが、旗が揺れていると確信があれば『風が流れている』とこの人は信じているのだと思えばいい。
お前さんも、風が吹いていると確信があれば『旗が揺れている』と、この人は信じているのだと思えば良いだけじゃろ。
それを相手を『負かさねば』と思う心は、自分に確信がないから『相手に認めてもらわなければ』と不安になりムキになるのだ‼
それほどに自分の心が、揺れるのは、
自分に確信がないのだ‼」
…と戒められたのです。
自分に自信があれば、相手を脅威には感じない。
相手を恐れれば、恐れるほどに、相手を抑え込みたくなるのです。
僕は「日本のお母さんは~」と例えに使う時に「一般的には」とか「おうおうにして」と言う意味で話したりします。
すると…
「すべての日本のお母さんが、そんなお母さんでないでしょ」と、かなり怒りを感じる手紙を頂戴することがあるのです。
その通りなのです…アメリカのお母さんにも、お節介なお母さんがいますし、過干渉の父もいます。
僕は誰かと意見が違っても「この人の考えなのだなぁ」と思うだけで終わります。
自分が正しいと思うと、人はなんとも攻撃的になります。
そして、その「正しさ」が間違う時があります。
子供が小さい時には、一家そろって食事をするという幸せも、子供たちが大学生や社会人になれば、家族全員がそろうためには、自分の付き合いがある子供達は、友人の付き合いをかなぐり捨てて、家路を急がねばなりません。
家族の幸せのために、子供たちの今ある幸せは失われます。
子供達に「いい学校、上場企業に就職を‼ そして、経済こそ豊かな生活」と目標を強いることは今からの時代は、間違うかもしれませんね。
なぜなら、現代のような日本の右下がりの経済動向の時代では、今の大人たちに比べ、子供たちが大人になる時代には、収入も頭打ち、右肩上がりの生活は望めない可能性のほうが大きいのです。
そうなれば、彼らは思ったように収入が上がらない我が身を責めるようになり、期待した通りの就職が出来なかった自分の人生を悲観することになるでしょう。
そうなると自分の目標に到達出来ないストレスで、これからは、ますますうつ病が増加するかもしれません。
ならば、これからの親たちは「健康で、そこそこ食事が食べられて、余裕があるならば一輪でも花が飾れて、もし温かい、お風呂で温まることが出来たなら、人は幸せなのよ」と、教えることが、右肩下がりの経済社会を生き抜く子供たちには大切な視点なのかもしれないのです。
「今の若いものは上を目指さない」と思っているのは、右肩上がりを生きてきた僕たちの考えで、今の若者は、車もいらない、別に出世しなくても食べれれば良いと思っている(僕も好きではないが…)若い世代が増えている。
この「省エネ型世代」の若者は、右肩下がりの時代の申し子(^-^)/なのかもしれません。
「あなたの幸せのために」という、自分の人生観の押し付けは、相手の不幸を作ることもあるのです。
さらに、自分の正しさを疑わないと失敗をすることも多いのです。
ロシアのバルチック艦隊を撃破した日本海軍が、第二次世界大戦でも巨大空母、巨大戦艦の戦略にこだわり、ミッドウェイ海戦では大敗北をもたらしました。自分たちの「正しさの視点」を疑わなかったからです。
すべての戦争は「自分たちの正しさ」で始まります。
今、話題になっているオウム真理教の当時の幹部も、自分たちが「正しい」と信じていたから、あれだけ恐ろしいことをやれたのです。
だから「私は間違っていない」という思いは、「疑うこと」もしないと本当に間違ってしまう可能性があるのです。
ヨーロッパでは「地獄への道は、善意で舗装されている」という、ことわざがあります。
6月13日に僕が書いたブログで、東北地方のガレキを自分達のところに持ってくるなというキャンペーンに、僕の率直な感想を載せました。
読者の方から「放射能が含まれたガレキを日本にばら撒くのですか?」「あれは天下った運送業界の人たちのワナです」と指摘をいただきました。
もちろん、僕の大切な読者の方なので、僕はこのようにお返事を書きました…
「いつもブログを読んでもらって、ありがとうございます。
それぞれの立場に思いがあり、それぞれに真実があるのでしょう。ですから、何が事実で、事実でないかは、それぞれの立場で確認はできません。
ただ、僕は率直な感想を書いただけで、誰かを先導しようとか、こんな運動を起こそうとかの意図はありません。
もちろん、読者が多くいるので影響はないと言えないのも十分にわかっています…
でも、仙台でガレキの処理を自分の手でやった僕としては『それは危険だから自分のそばに持ってくるなぁ』と言われると東北で子育てしている、僕の友人やその家族の心情を考えると、あの感想になりました。
『そのガレキの中に放射能物質が含まれていない』と言うのも信憑性がない情報なら『運搬業者が儲けたいから』のシナリオも、やはり信憑性がない情報かもしれませんね。
ここで、僕は真実がどうかを議論したいのではなく、君の家にあるのは危険な物だから、わが家には持ち込まないでとは言えない僕がいただけなのです…ただ、それだけです。
隣人の家に危険な物があるなら、僕は一緒に片付けの手伝いをしてから、この危険物について、どうするかの意見を言いたいと思っています。
窓の外がガスで充満していて、相手が苦しんでいるなら、それで『自分が、死ぬかもしれない』けれど、僕はサッシの窓ガラスを開けることを選びたいと思っています。
窓を閉め続けて、相手がガスに苦しんでいるのを『ガスだから。ごめんなさいね』とは言えない僕がいます。
僕にも子供が二人いますが、身体が健康で生きるよりも、心が健康で生きることを僕は教えています。長生きするよりも、人として死ぬことを求めます。
僕も原子力エネルギーが大嫌いです。でも、それを容認して生きて来たのが今までの日本人なら、僕も同じ日本人として、罪は同罪でかぶるべきだと思っています。
同じ日本人として、どこまでがお隣で、どこからが我が家なのでしょうか?
申し訳ありません。これが僕と僕の家族の生き方なのです。
ブログは一意見としての感想です。
それぞれに違いがあっても、よいのではないかとも思います。ブログの内容を取り下げるという、ご期待に応じることが出来なくて、本当にごめんなさい。
あなたは、あなたの意見でいいのです。これはどちらが正しいかジャッジすることではなく、どちらの意見も『間違い』はないのです。『お互いの「間」に違い』があるだけなのです。ご指摘ありがとうございました。そして、ごめんなさい。」と…
もちろん、メッセージをいただいた方からも丁重に、メッセージを返していただきました。
ありがたいことです。
色々な意見を言い合えることが、また、幸せな社会なのかもしれないとも思っています。
国によって、教祖によって、政党によって、自分が言いたいことが言えないことが、危険なコトかもしれませんね。
金子みすずの「みんなちがって、みんないい」を噛みしめながら…
何気ない記念日!
「元気ですか?」
「どうした?」
「いや、体調どうかなぁ?と思って」
「元気でやっとるよ」
「そうか。ならいい、もう父さんしかいないからなぁ。元気でいて欲しいと思える人は…」
「アホか⁉ お前は、どうなんだ?」
「お陰様で…何とか、やってるよ」
「くだらんコトで電話するなよ!」
「そうやって、憎まれ口たたいてくれないと(笑)元気なら何より、また、電話します!」ガチャ(切)
こんな何気ない電話がいい…
あえてタイミングを外す…
あえて言うなら「何気ない記念日」
人は、記念日が好きだ。
今日は父の日、今日は母の日。
結婚記念日、恋人の誕生日。クリスマス。子供の日と…etc.
そんなタイミングに、こだわっているから、僕たちはチャンスを失う。
雲門坊主が「日々これ好日」と言ったのは、そのコトだと思う。
先日のある食事会の会話。
家に帰ると「子供が寝ていて、子供と接する機会がない」と言っている女性がいました。
「昨日も、お酒を、お客と飲んで…」
「じゃ、今日は帰って、子供の顔を早く見てあげれば良いじゃないですか」と僕。
その次に返って来た言葉が「子供が寝ているから…」
よく聞くセリフ…
確かに、子供との会話が、あればあったでいい。でも、寝ていても子供の部屋に入って布団をかけるコトはできる。子供の頭を優しく、なでるコトもできる。
ソッと、机に座って子供の目線を感じるコトもできる。
「出来ない」と放棄しないで、できるコトを探すことが大切なのでは?
僕は、その女性に「小学生の、あなたの子供の、筆箱の中を見たことがありますか?
どんなペンを使っているのかとか、どんな消しゴムの減り方しているのかとか。
色鉛筆は何色入りを使っているのか?
どの色が一番減り方が早いのか?
その色は子供の好きな色なのかなぁ?」って
「子供の机の上には、子供の声が、いっぱい落ちていますよ…」
子供部屋で、数分過ごすだけでも、子供を感じる。
いや、眠っていても、子供たちには親の愛が伝わるのだと思っている。
僕の父親は、愛人の家から数ヶ月ぶりに帰って来ると、子供部屋に入り、僕の肩まで布団をかけた後に、僕の布団の上から、数度手のひらでトントンと、優しさをその手のリズムは伝えてくれた。
そこには、子供との大切な時が過ぎて行くことへの謝罪(そう子供は、スグに大きくなる。過ごす時間は限られます)。
また、スグに愛する人の所に、出て行こうとする、自分の弱さや不甲斐なさや、子供への言葉には、できない愛情が、その手には詰まっていたのだと思う。
その数分の想い出が、僕に、父へ電話をかけさせる
そうした僕の父への愛情の理由は、父が時間を作って、一緒にキャッチボールしてくれたことでも、どこかに遊びに連れて行ってくれた想い出でもないのです。
そう、あの眠っている幼い僕に、布団の上から伝える「無言の会話」が、僕に、今も何気なく父に電話をかけさせるエネルギーを与えてくれるのです。
だから「眠っているから…」と言い訳しないで、やれることだけでも、やってみませんか?
言い訳を言い出したら、「誰か」を、ではなく「自分」を、誤魔化すことになります。
なぜならば「自分が変わりたい」と言いながら、何一つ変わらない人たちを見ていると、他人にも自分にも、言い訳がうまい人が多い。
「メンタルのセミナーで自分を見つめる時間を作って下さい!」と僕が勧たり、「自分が心で思ったなら、その思いを相手にアイ・メッセージで伝えてみませんか」と言うと、スグに出来ない理由を考える。
お金がなくて、時間がなくて、誰かに遠慮して、立場が邪魔して、年だから…etc.
変わらない人ほど、言い訳がうまい。
それが言い訳だったのか、真実だったのか、の分かれ目は、実は「行動」にあるのです。
真実の人は、実際に行動に移します。
でも、言い訳の人は、その人の言うタイミングが来ても、行動に移さないで終わるのがパターンです。
そして、出来なかった言い訳を、自分にすることで自己納得したまま、行動に移さない。
「いつか自分も、やろうとは思ったのだが…」と言い訳がつきまとう。
人生最期の時にも「やろうとは思ったのだが…」で締めくくる可能性があるのです。
それが、その人のクセになるからです。
これを交流分析では「人生脚本」と呼びます。
何度も同じミスをする。
何度も同じようなケンカで、大切な人とお別れする。
いつも何をしても途中で投げ出して「やり抜いた」という経験がない。
それを変えるためには、あなたが出来ない理由を考えないで、映画監督になったつもりで「アクション‼」と叫べばよいのです。
そうです、いつもと違う自分を「演じる!」タイミングは「今、ここに」あります。
いつもグッド・タイミングを待っている人は、そのタイミングは、昨年の震災で、大切な人を失った家族のように、そのタイミングすら来なくなるかもしれません。
なぜなら、未来のことは、誰にもわからないのだから…
だから、◯◯記念日など待たないで「何気ない記念日」の「今日」に思いを誰かに伝えませんか?
離婚を突きつけられた、ご主人が「僕もね。衛藤先生ねぇ~、妻に『愛している』って気持ちは、いつもありましたよ。でも、自分の仕事がハードだからね…いつかはね…僕だって」
やはり言い訳なのです。
僕は心の中で、禅坊主になって「カーッ(喝)!」
「日々これ好日‼」って、叫びたくなるんだよね
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奇跡の隠れん坊(^O^)
アリゾナで、ほとんど雨のない生活を経験した僕にとって、日本の湿っぽい初夏は、四季の素晴らしさを感じさせてくれます。
もちろん、気分が滅入る時もありますが…(笑)
雨が降る時には雨が降り、やがてセミが鳴く時にはセミが鳴く。僕たちはそれを、当たり前のように思っています。
めぐって来る季節は「優しい友からの便り」のようで…返事も返していないのに…君は約束を守ってくれる。
雨は静かに大地に降りそそぎ、すべての命にうるおし、暑い夏の準備を整えてくれる。
まるで、テーブルのセッティングを、目の前でしてくれる優しい執事のように…
雨は「感謝しろよ」と誰にも感謝を求めません。 陽の光も、好き嫌いなく、誰にもに、光のシャワーを与えてくれます。
風は、そっと肌に涼しさを届けてくれる。
この自然の優しい静けさは、インディアンの生き方に似ています。
インディアンの人々は、決して声高に知識をひけらかすことはありません。誰かに正しさを「教えてやる」という偉そうな態度もみられません。
彼らインディアンは、時に沈黙を好む。
それは彼らが沈黙の持つ雄弁さを知っているからです。
彼らは、毎日、太陽の色や風の動きで天候の変化を知り、雲の動きで季節の移ろいを確認します。
彼らは静かに自分を取り巻くすべての自然から生き方を学び、生きるすべを得ているのです。
彼らネイティブアメリカンは、自然のメッセージをないがしろにすることはありません。
街の中で暮らしていると、自然からのメッセージが届きにくいのです。
自然が与えてくれる、優しさへの見落としは、自分の中にある自然への無関心さにもつながっています。
私たちの内にある、たくさんの細胞は、「今」この瞬間にも、身体のバランスを守るために休むことなく活動してくれています。
そして、今日も呼吸と食事を取り込みながら、自分自身という、誰でもない「わたし」の体に組み立てらていくのです。
みんなと同じ空気を吸い、同じものを食べているのに…
その秩序だった完璧な動きこそが奇跡なのだと、彼らインディアンは言います。
何か一つでも、歯車が狂えば、僕たちは、一日たりとも生きてはいけないと…
「奇跡は特別なところにあるのじゃない。そうここにあるのさ…」と、インディアンの長老は、胸を指さして静かに笑った。
パワースポットに行かなくても…感じてごらん。
誰もが、その存在すべてがパワースポットなのだから。
僕達のまわりにはたくさんの奇跡が起きている。
季節が確実に繰り返される奇跡。
家族と出会えた奇跡。
愛する人に出会えた奇跡。
まだ、出逢えるべき人に出会っていない奇跡。
まだ、行ったことのない世界が、今も僕たちを待っているという奇跡 …(旅好きにはたまらない‼)
これからも、震えるような感動に出逢える可能性がある奇跡…
何より、これからも未来に、奇跡がいっぱい隠れているという奇跡。
あなたの身近にある奇跡は、いつも、あなたが気づいてくれることを静かに、ワクワクしながら待っています。
そうサプライズの時を今も静かに…人待ち顔で「君」を待ちながら。
あの角を曲ったところに、奇跡が待っているかもしれない…
明日の7月1日の朝4時40分に、東京地域はフジテレビで、二回目のテレビ寺子屋 に僕が出てたりします。
どれだけ、たくさんの新しい出逢いがあるのだろう…不思議な出会いの奇跡が楽しみです。
ワクワク、ドキドキ
感動が爆発した日 in 大阪
この記事は、レポート発表してくださった受講生の気持ちを思い、アメンバ限定にしましたが、ご本人の許可がでましたので、一般のアメブロでアップします。感謝です!!
大阪の修了式でした。
313名の修了者でした。東京と名古屋、博多に続いて、大阪での修了式した。
天候に恵まれない一日でしたが、ステキな笑顔に恵まれて、大盛り上がりの一日でした。
大阪城ホールの隣にある、ニューオオタニで開かれました。
やっぱり笑顔のパワーは最高でした。
右も笑顔
左も笑顔
修了レポート発表の中には、息子さんが水頭症で生まれて、小脳にも問題があり、赤ちゃんなのに、お母さんからの母乳も直接には飲めず、挿管チューブで胃や腸に送られる。そんな赤ちゃんを悲しみをこらえてご両親は看病したそうです。
うつろな息子の目には、お父さんとお母さんだとわかるのか?
いつか、こちらを見て笑ってくれのだろうか?
「お父さん」と「お母さん」と言う、声を聞かせてくれるのか?
ズーッと、家族と一緒にいたいよね?
…そんな中でも、ご両親は、きっと治ると信じて、一回一回の面会を大切にし、そんな一期一会のような面会を続けたそうです。
面会が終わった瞬間から、次の面会まで何もないことを願い、病院から悲しい電話がこないことを祈りながら、病院をあとにする日々…
息子さんの、一歳の誕生日が過ぎた一ヶ月後…電話での緊急連絡。
ご両親が駆けつけた時には、小さな身体に蘇生を試みる先生たち…
自分の子供のように可愛がってくれていた担当の看護師は、すでに目は充血していて真っ赤。
別れの瞬間が来ているのを感じて取って、ご主人が「もう、いいです。ありがとうございました」と、父親として、息子の命にピリオドを打っのでした。
誰も責任を感じないように、お父さんである受講生が、万感の思いでピリオドを…もう、一年以上も頑張り続けた子供に、これ以上の痛い思いはさせたくはなかったのです。
そして、奥さんが息子さんを毛布に抱えて外に…三人で初めてのドライブへ。
「初めてお家に帰れるね…」とご両親が息子さんに語りかける。
病室の天井しか知らない息子さんに初めての外の空気…
この空気をいっぱい胸に吸いこんで、この広い空の下を、息子は走っていたのかもしれない。
ここの公園に、お弁当を持って、お前と来たかったね…
このブランコに乗っているお前の姿が見たかった。いっぱい話したり、笑ったり…あるはずだった息子さんとの日々が心に広がる。
もっと、もっと思い出が欲しくて、冷たくなる我が子を、奥さんが抱いて、夜の街を別れを惜しむように車で走ったそうです…
ご主人は言います。
その子供たちの寝顔を見ているだけで、どんなにベンツに乗る生活より、大金を持つ生活よりも「今、ここに」
幸せを感じるのだそうです。
僕は、こう感想を語りました。
「○○さんは、5人家族なんですね。長男である彼は、弟たち二人が居るだけで『幸せだなぁ』と、あなたが感じられるように、今日も生きていて…家族の幸せを守っているのだから」
僕も長男ですが、長男の役割は大切なんですよ…
生きているとか、生きていないとかは関係なくて、今でも彼は家族の幸せをシッカリと守っていますと…
会場中も「大切な人が、今、生きているだけでも、幸せなのだ」という気づきと感動が、会場いっぱいに広がりました。
そう、そんな会場の気づきも、亡くなった長男くんから贈られたプレゼント。
彼も、またパワーストーリーになって、ストーリーとして、多くの大人に優しい風を吹かせました。
ありがとう…
いつまでも家族を守って下さいね。
そう、僕たちは亡くなった子供たちが
大人になりたくても、なれなかった夢の世界で生きています。
彼らが、憧れた大人の日々の「今、ここ」を生きている。
彼らの分まで、何げない中にある幸せをかみしめよう‼
結婚に想う…
独りで孤独を感じるより、誰かと一緒にいて孤独を感じてしまうと、より哀しい思いをします。
だから、片親だけの家族よりも、家族なのに、ふれあいがない家庭の子供のほうが、心の病になる率が高いのです。
これは、家族でも、恋人同士でも、同じなのかもしれません。
人はたとえ、一緒にいても、心がふれあえないと、心の栄養失調になります。
明日、美塾の内田塾長の結婚式があります。彼は弟のような存在です。
ドイツの詩人のハイネは「結婚とは、今だに、どんな羅針盤も、完璧な航路が発見できない荒海である」と言っています。
互いに価値観に違いがあり、どのカップルにも共通する成功論など、ありはしません。だから結婚は今だに見出せない荒海へ、漕ぎ出す航海のようなものかもしれません。
それは、現代人の離婚率の高さを見れば一目瞭然です。
誰もが、お互いに失敗しようと思って航海に旅立つ二人はいません。
結婚をゴールだという人がいますが、それは違います。
そこからが長い旅路のスタートなのです。生活すると、分かり合っていると思っていた二人が、何も分かり合えてなどいなかった、と驚くかもしれません。
夫婦の一番の亀裂は、お互いに相手を理解する努力を忘れて、理解されることを簡単に、求め過ぎることにあるようです…
分かってもらって当然だ、これくらいは、やってくれて当たり前だ!と言う感情です。これを心理学では、母子一体感と言います。
相手はどんな親しくなっても、違う存在です…
一緒であるわけがないのです。
でも、二人は慣れ親しむと、そのことを忘れて「考えも、感じ方も、同じであって欲しい」と、一体感願望が出て来ます。
でも、それは願望であって、現実の生活は違うものです。
相手は、それぞれに違う家庭で育ち、考え方も、感じ方も違うのです。
だからこそ、お互いに、自分の中にある思いを一生懸命に伝えて、相手の微妙にズレる、心の声をシッカリと聴き通さないといけないのです。
さらに、言葉に、ならない仕草まで…
視線の中にある淋しさ、元気のない声、ため息、笑っていても笑っていない微妙な表情…etc.
危機的な夫婦は、カウセリングの現場でこう語ります。
「相手が自分のことを分かっていない」と…
僕は奥さんに「では、あなたは相手のことを分かっていますか?」
「もちろん!」と
では、ご主人の子供の時のあだ名は?
幼い頃に、好きだった絵本は?
一番に憶えた歌は?
学校時代に嬉しかったことは?
飼っていたペットの名前は?
不思議なことに、こう言われると「わかっている」と豪語した人も、静かになってしまいます。
僕たちは、愛している人のことを知るには、たくさんの時間が、必要なのだと言うことが分かってきます。
だからこそ、簡単に相手をわかっている、相手は分かってくれているはずと言う考えは、お互いに、ズレが生じる危険性を宿しているのです。
夫婦とは、一生かけて、決して焦らずに、相手を理解しようとする決意と時間が必要なのかもしれません。
僕が結婚式で、旅立つ二人に読む《詩》があります。
あなたの夫や妻は、あなたの一部ではない。
これから一緒に暮らしはするが、決して二人は混じり合うことはない。
あなたは愛情を与えたとしても、自分の価値観を押し付けてはならない。
なぜなら、相手はある家庭で愛情いっぱいに育てられた息子であり、娘である。目にいれても痛くない存在であった時期があったのだから…
あなたが、相手を理解する努力を始めたとしても、相手から理解されないことにイラだてば、やがて愛は憎しみに変わるだろう。
なぜなら、愛とは、相手を知りたい、相手を理解したいと思うところにこそ、愛は存続するのだから…
byノブ
二人の航海の旅立ちに乾杯 ‼
また、明日、7月8日は、日本メンタルヘルス協会の銀座校で、メンタルの卒業生でもある可愛い双子魔女の出版記念公演と素晴らしい映画「うまれる」の上映会があります。
まだ、観ていない人は是非に鑑賞して下さい。
当日券もあります。
究極の自己受容。
自分を責めすぎる人に対して「あるがまま」が大切ですよ。失敗する自分も「自己受容」してくださいと僕が言うと、
「それは自分を甘やかして、堕落につながらないですか?」と、質問されます。
そうなのです。
なに一つ努力も、チャレンジもしないで「自分はスゴイ人間だ」と思っている人は、ナルシストです。
それは自分を勘違いして、甘やかしてしいることになるのかもしれません。
やはり元気があるなら、人は新しいことに挑戦して、努力したほうがいいのです。
いま、元気があるなら、と僕が言ったのは「いつも、自分は完璧でなければ」とか「絶対に成功しなければ」と自分を追い込んでいる人は、強迫的です。
そんな強迫神経症の人は、いつも、何かに責められて、追われている気分になります。
そう、「成功しない自分はダメ」と自分で自分を責めているのです。
だから、「新しいことにチャレンジことや努力することも」TPO( T(時間)P(場所)O(場合))によります。
また、何か新しいことに挑戦したからと言っても、成功しない時もあるし、自分の思うようにならないこともあります。
そうすると、完璧を目指しすぎる人ほど、「だから、自分はダメなんだ」とか「だから、チャレンジしなければヨカッた」と、自分が挑戦したことを後悔したり「自己否定」に入ってしまうこともあります。
こういう人にこそ「あるがまま」や「自己受容」が必要なのです。
何かに挑戦すると、「成功」と「失敗」は、状況によりますが、五分五分なのかもしれません。
今回が失敗したからと言っても「そんな、自分自身が、今後もすべてにおいて失敗するわけではない」し、
これで自分自身が「ダメ人間である」と結論が出たわけでもないと思うのが「あるがままの現実」を受け入れることになるのです。
また、今回は思うような結果が出なかったけれども「今のままではダメなんだ」
と、自分の問題点が、今、チャレンジしたことで、分かっただけでも大成功なのです。
さらに失敗したから、経験値が上がったので「成功に近づいている」と思える自由な発想も必要なのです。
失敗することも、成功することも、楽しめるのが自己受容なのです。
「成功しない自分は、愛せない」と言うのは、自己受容ではなく、自己否定なのです。
人はサボる時もあるし、努力する時もある。
サボる時には、サボる自分も愛せるし、前向きになれない自分もあって良いと思うのが自己受容なのです。
だから、落ち込む時は「こんなに落ち込めるほど、私は、このことに一生懸命だったのだ」人生一回こっきり、こんなに落ち込めるほど、一生懸命になれる何かに、私は出会えたのだ!
と落ち込んでいる自分を楽しめるのが、究極の前向き思考なのです。
落ち込んでいる自分をも、楽しめる究極の前向き思考が、人生を楽しむ人なのです。
落ち込む時には、落ち込みを楽しみ、前向きになる時には、前向きな自分も楽しむのが、あるがままの自分の人生なのです。
自己受容とは、どんな自分の状態も受け入れて味わい、楽しみつくすことになるのです。
誰かのパワーになるために…
先日、飛行機に乗った時のCA(キャビン アテンダント)が生徒さんでした。
僕は飛行機に乗る時には「こんにちわ!」と元気よく乗るように心がけています。それに負けない最高の笑顔で返してくれたCAがいたので、気持ち良いなぁと思っていると「衛藤先生、お久しぶりです!」と…
ANAの研修も担当したので「僕のANAでのコミュニケーション研修を受けられましたか?」とたずねるまえに、「大阪の○○○期生の○○です!ブログ楽しみに見ています」
「あ、こちらこそ、お久しぶりです」と挨拶をしました。そうです、大阪の生徒さんです。
その後は、僕の習性(習性その①、乗り物に乗ると寝るべし)で、しっかり、フライト中は、眠ってしまいました。
ベルト消灯のサインが消えたと同時に、飴玉と飛行機の絵ハガキとメッセージが入った袋を渡してくれました。
衛藤様
ご搭乗ありがとうございました!
最近、落ち込み気味でしたので、衛藤先生にお会いでき元気を頂きました!また、講座に参加させて頂く際には、よろしくお願いします‼
そうですか…^^; すいません。
寝顔では、元気は与えられないですよね。
次の日が、休みだったので、妻と二人で、大阪の伊勢丹で買い物していたら、イケメンの大阪の生徒さんに声をかけられました。
「イヤーっ。お久しぶりです。ブログで元気もらっています」と…
「ありがとう。また、ブログを頑張って書くね!」何と言う偶然の一致、シンクロニシティ!
そうですよね。
何気なく、机に向かって書いているこのブログも…机の上は、広い世界につがなっているのですね。のび太の机のタイムマシンのように。
多くの懐かしい受講生ともつながっています。
そう思うと、なんだか逆にプレシャーを感じてしまって…
でもね、僕はなるべく夜の遅くにブログを書くようにしています。
夜に誰か今、泣いている人はいないか?
誰か孤独で、狂いそうな人がいないか?と…
夜中に周囲が静まりかえって、ホッとする人もいれば、なんだか淋しくなる人もいます。
だから、僕はなるべく起きていて「誰かの心に届けよ!」と、ばかりに思っていることを書き込んでいく。
孤独は、夜の深い闇を、より深刻に、もっと暗闇に変えてしまいます。
だから、そんな孤独な時には、誰かの声や言葉にふれていたいのです…
ドイツのアウシュビッツで、脱走への見せしめで、十人の囚人が餓死室に送られることになりました。
その囚人の中に「結婚して子供がいるから死にたくない」と泣いている囚人に代わり、「自分が餓死室に行きたい」と申し出たのがコルベ神父です。
そして、何も食べられない部屋で、狂気と苦しみの中で、死んでいくはずの地獄の部屋で、突然、囚人の真ん中で讃美歌を歌い続けるコルベ神父。
その歌声は「すぐに止むだろう!」と確信していたドイツ兵の予測を裏切って、永遠のように彼は歌い続ける。
次々と、一人、ひとりと、囚人は亡くなってゆく。
ドイツ将校が不思議に思う。
「なぜ、この一番年老いた神父は死なないのかと」
やがて、ドイツ兵のほうが恐怖と自分たちの醜さを見せつけられる…
ドイツ兵は、その恐怖心のために、ついには餓死ではなく、毒殺でコルベ神父を殺害してしまう。
コルベ神父の強さと命のエネルギーは、最後の最後まで、自分の讃美歌で、「仲間たちを、恐怖ではなく、人の歌声のある中で、安心感に包まれて眠りについて欲しい!」という思いが、彼の命を、どの囚人よりも永く燃やし続けさせたのかもしれません。
コルベ神父のようには、なれないけれど、僕も少しでも、夜の孤独と暗闇の中で、ブログを書いて、誰かの心に僕の息づかいを感じてもらえたらと思っています。
もちろん、月とスッポンだけれど。
過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し
人と一緒にいることは大変です。こちらの言動にも気をつかわないといけないし、相手のチョットした言葉も気になってしまうものです。
だから、人は意識して「ひきこもり」をしなければならない時があります。
学生時代にコミュニケーションを僕に教えてくれた教授でも、講義が終わった後に、教授のプライベートの個室で独りタバコを吸うことが、何よりホッとすると語っていました。
それが、人とコミュニケーションを取るためには必要なのです。
これは大切な教えです。
教授は「ON」と「OFF」の使い分けを、学生に教えてくれていたのです。
いつも、親密な「ふれあい」を求めていた人が、完全にウツになり、誰とも、ふれあいを持たなくなる人がいます。
これなどは「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の状態です。
ですから、ツアーの旅行でも、団体で一緒に動く時と、プライベートの個人で、独りで散策する時間を作っています。
仲の良い友人でもズーッと一緒にいると、二泊三日のショートの旅行なら問題がなくても、長期に誰かと一緒にいれば、旅行から帰って来た後は、気がつかないうちに疲労していることがあります。
ひきこもってしまう人の特徴の一つに「もともとは社交的だった」と言われる人が多いのは、このような人は「人と関わらねばならない」で強迫的に頑張り過ぎて、エンジンがオーバーヒートしてしまった状態です。
心理学で交流分析という学派があります。
その中で「親密」と「社交」と「儀礼」「ひきこもり」を使い分けています。
すべての会話に熱く意見を戦わせたいと言う人は、「親密なふれあい」に強迫的(ねばならない・ベキなのだ)に求め過ぎます。
時には、
「どちらまで?」
「ちょっと、そこまで」
「仕事は、どうですか?」
「まぁまぁかな」
「暑いですね」
「本当にね。困ったものです」
このような儀礼的な会話で、適当なやり取りも時には必要な場合があります。
冠婚葬祭の電報の電文例から、何か一つ選ぶのに似ています。いつも「何か心をくだいての電文を」と思い過ぎると、心がオーバーヒートするからです。
「暑いですね」
「本当にね。困ったものです」の儀礼の軽い会話に、
「暑いとなぜ困るのですか?暑いから儲かる商売もあるじゃないですか。飲料水関係の会社だとか、その点についてどう思われますか…」と、深い会話を求め過ぎると、
相手から「あの人は、変な人だなぁ」と見られます。
こういう人は、強迫的(柔軟でない)で「いつも、意味のある深い会話がなければ嫌だ!」となり過ぎるのです。
だから「あいつは悪い奴ではないけど、なんだか、いつも熱くて面倒臭い」と言われて距離をあけられる。
これは儀礼の会話に、深い会話(親密)を求め過ぎるからです。
いつも、「人生の生きる意味とは」友情とは、愛とは、真実とは、の深い「親密な会話」ばかりだと、周囲は、やはり疲れてしまいます。
また、生活には必要不可欠かと言われれば、そうでもない「社交の会話」もあります。
「あの芸能人が誰々と付き合っているんだって」「へぇーそうなの。前はあの芸能人と付き合っていたのに」
「○○さん家の長女の、あの娘が、今度結婚するらしいよ」「あの娘なら良いお嫁さんになるよね」
このような社交の会話に対して、逆に返答が「そうなの…」と、ワンパターンの「儀式」対応ばかりなら「奴はノリが悪い」と言われます。
人間関係が上手い人は、TPOに合わせて「ひきこもり」「儀式」「社交」「親密」な会話を使い分けています。
ですから、人が一生懸命に話しかけているのに、携帯メールばかりに、引きこもって、時より関心なさそうに「そうなんだ」と目も合わせないで「儀式」で応じると、話しかけている人を不愉快にさせます。
または、自分で一人になれないで、いつも、にぎやかな集まりに出かける人がいます。
ある学生は、個室にじっとしていられなくて、隣室にTVゲームを毎回やりに行きます。
彼は、人の中にいないと不安になってしまうのです。「ひきこもり」ができないのです。
でも、自分から心を開いて話すことはなく、隣室で一人でゲームに没頭する。だから、友達から「変わり者」と評価される。
彼は自分から心を開かない。
「ごめんね。いつも君に迷惑かけて、なんだか独りになりたくなくて…」の親密な会話のスタートをしない。
誰かが会話をしてくれたら、そこに飛び込んで乗っかろうとしている。虫のいい話です。
僕は、その学生に「君は切符を買わないで、電車に乗っているようなものだね」と、正直にフィードバックしました。
人間関係のエチケットの「エチケット」の語源は「チケット(切符)」です。
自分を開きもしないで、人に関わってもらうのを待っている。
このチケット(切符)のない、間違ったコミュニケーションを「心理ゲーム」と言います。
「暗い顔する」「意味なく泣き出す」「私、生きていたって価値がないから死にたい」「どうせ私なんか…」と言われると、優しい人ほど、気になり、無視できないから、相手のチケットのないゲームに乗車させられる。
いつも、そのようなネガティブな関わりしかできなくなると、長い時間を使って大切な人間関係を失うことになります。
人は他人のことより、自分の間違ったコミュニケーションに気づかないものなのです。
一度、自分の一日の時間をどうような配分でコミュニケーションを使っているのかを考えるのも良いですね。
どちらにしても何かに、偏り過ぎると自分の心がオーバーヒートするし、自分と他人との人間関係に、エチケットのない乗車もまた、人間関係のレールを脱線させるかもしれないですね。
15分の講演会って( *`ω´)
金曜日の朝は名古屋でした。そして、土曜日の東京の体験ガイダンスセミナーを終えて、またもや名古屋に舞い戻って来ました。
今日は中京テレビ主催の「講ずるエンターテイメントKOーEN」です。毎回、テレビ局の仕事を引き受けるたびに思うのは、打ち合わせの時と、実際は違うということ。
「講演を、新たなエンターテインメントとしてテレビで放送する」という話だったので引き受けたつもりが、蓋を開けて見ると、話は変わって6人の専門家と15分だけの講演会になっていた
そして、送られて来たのは、メンタルヘルス側から提出した、いくつかの過去の講演のDVDを切り張りした、各トークの流れと、講演の想定タイム。
いわゆる「尺」と言うものです。
そして、但し書きに「各トークの所要時間を基本に計算し、それよりテンポアップした想定でお願いします」
正直なところ、それでなくても、僕の話はテンポが早いのに
それに講演には、話の抑ようや、その場に合ったムードやテンポがあるのに。
過去、何度かテレビに出演して、学んだ教訓は「彼らの思いだけでテレビは作られる」ということを新たに思い出させてくれました。
15分で伝えきれるのか「心のきび」を…
たくさんの名古屋の生徒さんに「抽選で当たってテレビ局からハガキが来ました。楽しみです!」と言われたり、メールをもらうたびに苦笑いと共に「ガンバルね!」の一言になる。
15分で、起承転結の感動と笑いを…
日本の学校みたい。
日本では、学校の都合に子供を合わさせようとする。
インディアンの教育は、その時の状況によって、教育を子供に合わせる。
彼らの教育は、子供が興味のある話を、その子に合わせて、大切な教育を(STORY)で伝える。
この子には「勇気」が必要だと思えば、勇気が、なぜ必要で、多くの仲間を守り、自分のプライドをも守れるかのストーリーを…
この子には「忍耐」が必要だと思えば、待つこと、耐えることが、どれだけの人生に実りと、たくさんの知恵を授かるかを…
その子には優しさをと思えば、優しさがもたらすストーリーを…
ストーリーの素晴らしいのは、その子の目の色と、興味によって話が変化できることです。
この子は、今、この話には興味がない。眠たそうだと思えば「とっておきの話があるんだけど…」と話題が変えられる。
講演もそうなのです。
こちらに話す予定の内容があって、話を展開するのではなく、その会場の空気を吸いながら、一緒に物語の世界に入ってゆく…結婚式のスピーチでも、講演でも、僕はその場のLIVE感を大切にしている。
とは言え、自分の講演観を言っていてもしょうがない、インディアンに学んだように、ストーリーのつむいで、15分と限られた時間を、自分らしく会場のメンバーと味わうしかない。
今日、名古屋の収録に来られる僕の仲間にお伝えします。
たくさんのお話を皆さんに、できないけれど、他に5人の演者の話もあるので一日を堪能して下さい。それに一人はメンタルヘルス心理学ゼミの東京の卒業生で、クレーム・コンサルタントの谷 圧志さんです。
著書は「怒るお客様こそ、神様です!~クレーム客をお得意様に変える30の法則」(徳間書房)
話は変わりますが、前に校長先生に「どうすれば早く子供たちが学校の始業のベルがなったら、門の所で先生達が立って『遅刻しないで走りなさい!』と言わなくても、授業前に教室の席に子供たちが着くのでしょうね。今の子供は、だらしないから…」
あまりに今の子供が「だらしない」と連呼するので、僕は、たまりかねて「そうですね。昔、女子高生が門に挟まれて、死んだ悲劇がありましたね。教えましょうか! 校長先生。子供たちが早く学校に来る方法!」
「教えてください」
「校長先生は、映画とかコンサートとか見に行かれることがありますか?」
「あまりないですなぁ」
「じゃ行かれると良い。僕、今まで見たことが無いんですよ。映画館やホールのドアの所で、関係者が立って『早く座って下さい!映画が始まるでしょ!ドアを閉めますよ!』とやっているシーンを…学校に来ない子供たちが問題ではなく、面白く、早く学校に行って、見たくなるような授業をしていない学校に問題があるんじゃないかなぁ、と思うのですよ」
それからは、その学校の校長先生に嫌われたのでしょう。その学校の講演会から、僕にオファーが来なくなりました。
でも、それを伝えたことは、決して僕は後悔はしていないから「厄介な性格やなぁ」と我ながら思っています。
でも、どうしても、子供たちだけが「だらしない」の見方は、偏りがあると今も思っています。
今回もテレビ局の姿勢について、何が問題であるか「講演とは、そもそも『今を』味わって語るもの…」と15分かけて語ってしまいそうな自分が怖いのです。
これは一種の放送事故です。
その時はきっと、僕の話は全面カットでしょうね。
もし、このブログを見ている中京テレビの人、僕の出演を中止するなら、今のうちかも…
あ、あ、言いたいことをブログに書いたらスッキリした。
あ、もう午前4時です。
たった15分の昼過ぎからの講演に「なんで朝の9時からリハーサルなんやぁ。だから、テレビは…」ブツブツ…
早よ寝よッと
新たな発見。
昨夜はブログを書いたことが、功を奏してカタルシス効果(発散)で、短い時間でしたが、深く眠ることができました。
午前中のリハーサル風景です。
リハーサルしても、僕はリハーサルと本番は違うのに…
15分から20分の中に、凝縮される集中力には、スゴいパワーがありました。
我ながら…
濃縮しているだけに、まるでコンマ何秒を競うスポーツのように、ストップ・ウオッチの秒針に、心と言葉をからませてゆく!
このストーリーが、誰かの心に届けよと!
こんな集中力のある人生を、一瞬一瞬生きることができるなら、何でも叶えれるのでは⁈ と思うほど、カイロスの時間(ブログ2012.4.13時の神様)でした。
東京校心理学ゼミ卒業生の谷くんも、やはりメンタルの心理学ゼミ卒業後、会社を退職し、今や売れっ子のクレーム・コンサルタントとして活躍中です。ここでもメンタルの卒業生は活躍をしています。
彼はYouTubeに10分バージョンで自分の研修のダイジェストを投稿し、多くの企業からオファーが殺到しているのだとか。
なるほど…メンタルを知ってもらうはずの、ガイダンス体験セミナーは、キャンセル待ちでスグに席が確保できないから、YouTubeでメンタルのダイジェスト版を投稿しても良いのかもしれません。
基礎の前編、後編の12講座を、それぞれに凝縮したダイジェストを10分バージョンくらいにしたら、メンタルの各プログラムが、どれほどに面白いかを、多くの人に知ってもらうことができますね。
蓄財の人間関係を…
蓄財と散財。
蓄財とは、その言葉通り財産を貯めること。散財は、その逆の意味です。
ただし、財産とは、お金のことだけではありません。
人間関係も大切な財産です。
人には、自分の持っていない才能がたくさんあります。その他人にある才能と自分を比較して落ち込むのは意味のないことです。
人生の時間は、限られています。
それぞれの人生の中で、得られた才能や能力を、羨ましがるよりも、自分の友人、知人という形で、ストックすることも財産になります。
知り合いや友人は、お金には変えられない蓄財です。
まさに人財なのです。
一時的に知り合っても、蓄財にならず、人間関係が長続きしない人がいます。
人は興味の対象がクルクルと変わりますから、過ぎ去ってみたら「昔の知人かな?」の感覚は、あっても大切な人にはなりません。
だから「誰々さんと知り合いなんでしょう」と言われても、それほどの知人でないと「誰々さんって??」と、曖昧な返答になってしまう。
人は忘れてしまう動物です。
だから、人間関係の蓄財にはマメさが必要なのです。
そう知人へのメンテナンスです。
ハガキを書いたり、時よりメールをいれたりと…
そして、人という蓄財を貯めるためには、心のワクを広げる必要があります。
人はそれぞれに「かくあるべき」と、いう「枠(ワク)」があります。
論理療法という心理セラピーでは、それをビリーフと言います。
論理療法は、すべての悩みはビリーフを固定させることにあると言います。
不登校の本人も、その子の家族も苦しむのは「子供は学校に行くべき」という常識の「ワク」があるからです。
「学校に行かないのは問題児である」
「不登校は、家庭に問題があるからだ」
そのワクのせいです。
もし「学校には行きたいものだけが行けばいい」
「天才たちは統計的に、学校時代は問題児だった」
「学校に行きたくないと自己主張できるのは、自分らしさがあるからだ」
と、今の社会に新しい常識があれば不登校児は悩まないのです。
恋人とのことで悩むのは、
「いつも自分のことを一番に考えるべきだ」
「休日は、一緒に過ごさねばならない」
「誕生日を忘れるのは、愛がないからだ」と、恋人に対する自分の常識に、こだわるからケンカになるのです。
だから、恋人に対する心のワクが変わればケンカにはならないのです。
「恋は盲目と言うけれど、盲目になれる人に、出会っただけでも、価値がある」
「何もない退屈な人生より、恋人と言える人がいるだけ幸せ」
「一生逢えないなら、ケンカしながらでも、逢えるだけ幸せかもしれない」
こんなワクがあると、恋人とのケンカが減るかもしれません。
僕たちの悩みの源泉は、すべての現実を、自分のワクの中に押し込めようとするところにあります。
自分は出世しなければダメ人間だ。
子供がいない夫婦は淋しい。
親は子供を愛すべきでしょ。
部下は一度言われたら理解すべき。
妻は家庭をキレイにするのが当然。
あげくに「人生とは、自分の望むような人生になるべき‼」
いくら「べき、べき」と叫んでも、この世界は自分の都合よくデザインされていません。
人は思うようにならない人生の中で、腐らないで、学び、成長するものかもしれません。
自分のワクに、こだわり過ぎると、人間関係が狭くなって蓄財ができません。
もちろん「そこまでして人間関係を広げる必要はない」という人も、いるかもしれません。
そのような人は、人間関係の蓄財が少ないのです。
若いうちは、新しい出会いが、次から次へとやって来ます…。
が、ある時期からは、意識しないと(新しい何かに挑戦など…)出会いは確実に減ってゆきます。
そうなった時にステキな出会いをストックできなかった人の、晩年は憐れです。
ましてや、自分には無い能力を持っている仲間をストックできないのは、お金を失うよりも、ムダ遣いの生き方かもしれません。